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第七十一話 新しい命の香り

 冬のスピネリア王宮は、薄い雪に覆われていた。

 白い石造りの回廊には冷たい空気が満ち、庭園の噴水もこの季節ばかりは水を止められている。夏には華やかな薔薇が咲き誇っていた花壇も、今は低く刈り込まれた常緑樹が整然と並ぶばかりだったが、温室には相変わらず青々とした植物が育ち、硝子窓の向こうには春を待つ小さな蕾がいくつも膨らんでいた。

 そんな冬のある日、リュシアンとアデルは、結婚して一年を迎えた。

 王宮ではささやかな祝いの席が設けられたものの、二人が望んだのは、できるだけ普段と変わらない一日だった。昼には国王夫妻へ挨拶を済ませ、午後はそれぞれの仕事を片づけ、夜になってから王太子夫妻の私室で二人きりの食事を楽しむことにした。

 暖炉には静かな火がともり、食卓にはアデルの好きな白身魚の料理と、リュシアンが気に入っている香草入りの温かな煮込みが並んでいる。燭台の炎が銀器に柔らかな光を落とし、窓の外では細かな雪が音もなく降り続いていた。

「……もう一年なのですね」

 アデルは葡萄酒を口に含みながら、しみじみと呟いた。

 薄い青紫色の室内着に身を包み、銀色の長い髪を緩く背へ流している。結婚したばかりの頃にはまだ少し緊張の残っていたこの部屋も、今ではどこより落ち着く場所になっていた。

「早かったか?」

 向かいに座るリュシアンが尋ねる。

 濃紺の上着を脱ぎ、襟元を緩めた彼は、昼間よりも幾分柔らかな表情をしていた。艶のある黒髪が額にかかり、灰青色の瞳には暖炉の火が小さく映り込んでいる。

「はい。もっとも、いろいろなことがありすぎて、まだ一年なのかとも思います」

「それは同感だ」

 リュシアンは苦笑した。

 結婚してからも、二人の周囲には随分と多くの出来事があった。外交の仕事に宮廷の事件、シャンへの旅、そしてライレイたちを巻き込んだ王位継承争い。平穏な日々ばかりではなかったが、振り返ってみれば、どの出来事も二人で乗り越えてきたものだった。

「俺としては、もう少し穏やかな一年を予定していたんだが」

「殿下はそう仰りながら、何か起きると必ず首を突っ込まれます」

「お前ほどじゃない」

「私は仕事ですので」

「俺も仕事だ」

 二人は顔を見合わせ、同時に笑った。

 アデルは食卓の中央に置かれた小さな花器へ目を向けた。飾られているのは白い冬薔薇で、香りはごく控えめな品種だった。リュシアンが心地よく過ごせるようにと選んだ花だが、近頃の彼は、アデルが選んだ香りならば多少強くても嫌がらなくなっている。

 その変化もまた、この一年に積み重ねてきたものの一つだった。

「……殿下」

「何だ」

「私、結婚してよかったです」

 リュシアンが顔を上げた。

 アデルは少し照れたように微笑んだ。

「宮廷調香師の仕事を続けながら、こうして殿下と一緒に暮らせていることが、とても嬉しいのです」

 リュシアンはしばらく妻を見つめていたが、やがて口元を緩めた。

「俺もだ」

 短い返事だったが、その声には迷いがなかった。

「お前と結婚してよかった」

 アデルは頬を赤くした。

 何度も愛情を伝えられているはずなのに、こうして改めて言われると、どうしても胸が高鳴ってしまう。

 それからしばらく、二人は昔の出来事を思い出しながら食事を続けた。初めて出会った夜のことを持ち出せば、リュシアンは少し気まずそうに眉を寄せ、アデルは今でも忘れていないとばかりに、あの香りに媚薬効果はなかったのだと念を押した。

 やがて食事を終え、暖炉の傍らの長椅子へ移る頃には、窓の外の雪も随分と深くなっていた。

 リュシアンはアデルを隣へ招き、肩を抱き寄せた。

 温かな部屋の中で、彼の身体からは清潔な布と、わずかな木の香りがした。何度も眠る前に嗅いできた、今ではすっかり馴染みのある匂いだった。

「……それで」

 リュシアンが口を開く。

「今日は何か、俺に話したいことがあるんじゃないか?」

 アデルは目を瞬いた。

「……どうして分かるのですか?」

「夕食の間、何度か言いかけてただろ」

 さすがに、よく見ている。

 アデルは少しだけ姿勢を正した。

「……実は」

「ああ」

「以前お話しした、子供のことなのですが」

 リュシアンの表情が変わった。

 驚きというより、何かを確かめるような眼差しだった。

 アデルは膝の上で指先を重ね、ゆっくり言葉を選んだ。

「私、あれからもずっと考えていたんです。もし私たちの間に子供が生まれたら、どんな子になるのだろうと」

「……ああ」

「殿下に似るところも、私に似るところも、どちらにも似ていないところもあるのでしょうね」

 アデルは微笑んだ。

「考えていると、何だか楽しくて。まだ知らないことが、こんなにたくさんあるのだと思うと、もっと知りたくなるんです」

 リュシアンは黙って聞いていた。

 あの秋の日、調香室で見つけた手帳を思い出す。自分たちの髪や瞳の色、香りの感じ方、性格の違いまで細かく書き留めていた、アデルらしい研究記録。

 あれからも、彼女はときどき子供のことを話すようになっていた。

 庭園を歩けば、いつか小さな子供と散歩をするかもしれないと笑い、温室へ行けば、その子が植物を好きになるとは限らないのだと真剣に考える。そんな妻の姿を、リュシアンは微笑ましく眺めていた。

「……それで?」

 彼が静かに促す。

 アデルは顔を上げた。

「私、殿下との子供に会ってみたいです」

 その言葉は、思っていたよりも自然に口から出た。

 ずっと胸の中で形を変えていた気持ちが、ようやく一つの願いになったようだった。

「どんな子になるのか、実際に知りたいんです。もちろん、私たちの都合のよい子になるとは限りませんし、きっと大変なこともあるのでしょうけれど」

 アデルは少し笑った。

「それでも、一緒に育ててみたいと思いました」

 リュシアンは何も言わなかった。

 ただ、灰青色の瞳を大きく開いて、彼女を見つめている。

「……殿下?」

 アデルが首を傾げると、彼はようやく小さく息を吐いた。

「……そうか」

 それから、ゆっくり微笑んだ。

「俺も、会ってみたい」

 アデルの胸が温かくなった。

 リュシアンは彼女の手を取り、指を絡める。

「じゃあ、二人で考えよう。お前の身体のことも、仕事のこともある。急ぐ必要はないし、無理をするつもりもない」

「……はい」

「子供は欲しい。でも、お前と過ごす時間が、今の俺には一番大事だからな」

 アデルは微笑んだ。

「私もです」

 しばらく二人で手を繋いでいたが、アデルはふと思い出したように顔を上げた。

「そうでした。実は、少し調べてみたことがあるんです」

 リュシアンの眉が上がった。

「……調べた?」

「はい」

「何を」

「子供を授かるために、どのようなことを心がければよいのかを」

 アデルは真剣だった。

「宮廷医に伺うことも考えたのですが、まずは書物を確認しておこうと思いまして」

「……なるほど」

「食事や休息の取り方なども、今から見直しておいた方がよいかもしれません」

 リュシアンは妻の顔を見つめた。

 そして、少し嫌な予感を覚えた。

「……アデル」

「はい」

「まさか、また手帳を作ったのか」

 アデルは目を輝かせた。

「よくお分かりになりましたね!」

 リュシアンは額を押さえた。

 やはり。

「……見せてみろ」

「はい」

 アデルは嬉しそうに長椅子の脇へ置いていた小さな手帳を取り出した。

 そこには、食事や睡眠、体調についての覚え書きが几帳面に並び、さらに今後の生活で気をつけたいことが細かく書き込まれていた。

 リュシアンは最初こそ真面目に目を通していたが、ある項目で筆を止めた。

「……『夫婦の時間を確保する』?」

「はい」

「……予定表に入れるのか?」

「それも一つの方法かと」

 リュシアンはゆっくり顔を上げた。

「……アデル」

「はい」

「俺たちの寝室まで、公務の予定にする気か?」

 アデルが瞬きをした。

「……いけませんか?」

「いけなくはないが」

 リュシアンは一度口を閉じた。

 どう説明したものだろう。

 この妻は、未知の事柄を前にすると、まず調べ、記録し、計画を立てようとする。宮廷調香師としては非常に優秀な資質だが、夫としては少々困ることもある。

「……俺は、予定に入っていない時間の方が好きだな」

「そうなのですか?」

「ああ」

 リュシアンは手帳を閉じ、アデルの手へ戻した。

「せっかく結婚してるんだから、もう少し気楽に考えてもいいだろ」

 アデルはしばらく考えた。

 それから、ゆっくり頷いた。

「……そうですね」

 確かに、子供を授かることばかり考えて、二人で過ごす時間を義務のようにしてしまうのは違う気がした。

 リュシアンと一緒にいたいから、こうして結婚したのだ。

 そのことを忘れたくはない。

「では、計画表は一度見直します」

「……計画表自体は残すんだな」

「体調の記録には便利ですから」

 リュシアンは笑った。

「そうか」

 そして、アデルの腰へ腕を回す。

「じゃあ、今夜は?」

 耳元で囁かれた声に、アデルは顔を上げた。

「……今夜、ですか?」

「ああ。結婚記念日だろ」

 灰青色の瞳が、悪戯っぽく細められた。

「予定には入ってなかったか?」

 アデルは一瞬考え、それから頬を赤くした。

「……殿下」

「何だ」

「そういうお尋ねの仕方は、ずるいと思います」

「そうか?」

「はい」

 リュシアンは笑った。

 アデルはしばらく彼を睨むように見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。

「……今夜は」

「ああ」

「予定を変更しても、構いません」

 リュシアンが目を瞬いた。

 それから、堪えきれないように笑い出した。

「……予定変更、か」

「殿下!」

「いや、悪い」

 笑いながら、彼はアデルを抱き寄せた。

「じゃあ、そうさせてもらう」

 銀色の髪へ唇が触れる。

 アデルは少し照れながらも、その胸元へ顔を寄せた。

 暖炉の火が柔らかく揺れ、窓の外では雪が静かに降り続いている。

 子供を授かるかどうかは、まだ分からない。

 いつになるかも分からないし、望んだ通りになるとも限らない。

 けれど今夜から、二人は少しだけ新しい未来へ向かって歩き始めた。

 無理なく、焦らず、自分たちのペースで。

 その約束は、何より二人らしいものに思えた。

*

 それからの冬は、穏やかに過ぎていった。

 アデルは相変わらず調香室へ通い、リュシアンも執務に追われる日々を送っていた。公務や研究で忙しい日もあれば、早めに仕事を終えて二人で夕食を取れる日もある。何かが大きく変わったわけではなかったが、以前より少しだけ、互いの時間を大切にするようになった気がした。

 もちろん、アデルの研究者としての好奇心が消えたわけではない。

 むしろ、子供を授かることについて調べ始めたことで、今まで意識していなかった身体の仕組みや生活習慣にも興味を持つようになっていた。

 ただし、リュシアンからは何度も、調べすぎないようにと注意されている。

「……殿下」

「何だ」

「こちらの書物には、夫婦の生活について興味深い記述が」

「今、夕食中だぞ」

「ですが」

「あとで聞く」

「……はい」

 そんなやり取りが、何度か繰り返された。

 ある夜などは、アデルが寝台の上で書物を読み始めたため、リュシアンがとうとうそれを取り上げてしまった。

「殿下、まだ途中です」

「知ってる」

「大切なところなのですが」

「俺との時間より?」

 アデルは口を閉じた。

 リュシアンは少し得意げに笑った。

「……ずるいです」

「お前が仕事みたいに考えるからだ」

「研究ではありません」

「じゃあ、書物は明日にしろ」

 そう言って、彼はアデルの額へ口づけた。

 結局、その夜は書物の続きを読むことができなかった。

 けれど、アデルは少しも不満ではなかった。

 冬の終わりが近づく頃には、二人の間に新しい習慣がいくつか生まれていた。

 仕事を終えたら、できるだけ一緒に夕食を取ること。

 休日には庭園や温室を散歩すること。

 そして、子供については、焦らずに待つこと。

 リュシアンはときどき、アデルが何か考え込んでいると、その顔を覗き込んだ。

「……また子供のことか?」

「いいえ。新しい香料のことです」

「そうか」

「……少しだけ、子供のことも考えておりました」

 そう答えると、彼は笑って頭を撫でてくれた。

 子供が欲しい。

 その願いは確かにあった。

 けれど、今の二人の生活も、同じくらい大切だった。

 アデルはそれを、冬の間に少しずつ理解していった。

*

 春は、思いがけない香りとともに訪れた。

 王宮の庭では若い葉が芽吹き、温室の硝子窓には柔らかな陽射しが差し込んでいた。冬の間に眠っていた植物が次々と新芽を伸ばし、調香室にも新しい香料が運び込まれる季節である。

 アデルはその日、チュベローズの香りを確認していた。

 白く厚みのある花弁を持つこの花は、夜になると濃厚で官能的な香りを放つ。甘さの奥に温かな乳を思わせる柔らかさと、わずかに青い植物の気配を含み、少量でも強い存在感を示す香料だった。

 調香師としては非常に興味深い素材であり、アデルも以前から何度も扱ってきた。

 ところが。

「……あら?」

 香料瓶の栓を抜いた瞬間、胸の奥に奇妙な不快感が広がった。

 普段なら心地よく感じるはずの濃厚な甘さが、今日はひどく重く感じられる。花弁の柔らかさよりも、熟れすぎた果実のような甘さばかりが鼻に残り、思わず顔を背けてしまった。

 アデルは慌てて瓶に栓をした。

「……おかしいですね」

 昨日までは問題なく扱っていた香料である。

 保管状態に問題があったのだろうか。

 アデルは瓶を光へかざし、色や濁りを確認した。見たところ異常はない。容器も密閉されており、香料そのものが変質した様子はなかった。

 念のため別の瓶を取り出し、ごく少量だけ香りを確かめてみる。

 しかし、結果は同じだった。

 甘さが強すぎる。

 胸の奥がむかつき、喉のあたりに何かが込み上げてくるような感覚があった。

「……変ですね」

 アデルは瓶を置き、窓を開けた。

 春の柔らかな風が室内へ流れ込み、濃い花の香りを少しずつ薄めていく。新芽の青い匂いと湿った土の香りを感じると、ようやく胸の不快感が和らいだ。

 そこで、ふと気づく。

 最近、朝食のときにも似たようなことがあった。

 普段なら気にならない温かな乳の匂いが、妙に強く感じられたのである。体調が悪いのかと思ったが、その後は特に問題もなく、仕事も普段通りにこなしていた。

 疲れているのだろうか。

 それとも、季節の変わり目だから?

 アデルはしばらく考えた。

 そして、ある可能性が頭をよぎった。

「…………」

 机の上に置いた手帳へ視線を落とす。

 冬の間、何度も書き込んできた体調の記録。

 最後に確認した日付。

 最近の食欲の変化。

 思い当たることを一つずつ確かめていくうちに、胸の奥がゆっくりと高鳴り始めた。

 ……もしかして。

 アデルは手帳を閉じた。

 まだ分からない。

 香りの感じ方が変わっただけで、何かを判断することはできない。体調不良の可能性もあるし、単なる一時的な変化かもしれない。

 けれど。

 もし、そうだとしたら。

 アデルはもう一度、窓の外へ目を向けた。

 春の庭園には若葉が揺れ、遠くで鳥が鳴いている。

 胸の奥に生まれた小さな期待を、まだどう扱えばよいのか分からなかった。

 しばらく迷ったあと、アデルは机の上の香料瓶を片づけ、メリーを呼んだ。

「メリー。少し、宮廷医のところへ行ってまいります」

「……お身体の具合が?」

「大したことではないと思うのですが、念のため」

 メリーは心配そうに顔を曇らせた。

「お付き添いいたします」

「ありがとうございます」

 アデルは微笑んだ。

 この時点では、まだ自分でも何が起きているのか分かっていなかった。

 ただ、いつもより少しだけ、心臓が速く動いているような気がした。

*

 宮廷医の診察室には、乾燥した薬草の穏やかな香りが漂っていた。

 白い壁に囲まれた室内には、薬瓶や書物が整然と並び、窓辺には春の陽射しが柔らかく差し込んでいる。アデルは椅子へ腰を下ろし、これまでの体調の変化を一つずつ説明した。

 チュベローズの香りが強く感じられること。

 最近、食べ物の匂いにも少し敏感になっていること。

 そして、月の巡りがいつもより遅れていること。

 宮廷医は静かに頷きながら話を聞き、いくつか質問を重ねたあと、慎重に診察を進めた。

 アデルはその間、妙に落ち着いていた。

 普段なら新しい香料の鑑定をするときのように、目の前で何が確認されているのかを理解しようとしてしまう。宮廷医が何か尋ねるたびに、できるだけ正確に答え、体調の変化についても日付を添えて説明した。

 けれど、診察が終わりに近づく頃には、さすがに少し緊張していた。

 宮廷医は記録を閉じ、穏やかに微笑んだ。

「……王太子妃殿下」

「はい」

「おめでとうございます」

 アデルは瞬きをした。

 宮廷医は続けた。

「ご懐妊と考えてよろしいでしょう」

 その言葉が耳へ届いた瞬間、アデルはしばらく動けなくなった。

「……懐妊」

「はい。まだごく初期ですので、今後も慎重に経過を見ていく必要がございますが、現時点では大きな問題は認められません」

 アデルは静かに頷いた。

「……そうですか」

 宮廷医は今後の診察について説明し、身体を冷やさないこと、無理をせず休息を取ることなどを伝えた。香料についても、体調が変化している間は強いものを無理に扱わないよう勧められた。

 アデルは一つずつ真剣に聞き、必要なことを手帳へ書き留めた。

 その様子は、いつもの宮廷調香師そのものだった。

 しかし、診察を終えて部屋を出たあと。

 廊下の窓から春の陽射しが差し込んでくるのを見て、アデルはふと足を止めた。

 ……子供が。

 自分の中に。

 いるのだろうか。

 まだ何の変化も見えない。

 身体つきも普段と同じで、歩くことも、話すことも、いつも通りにできる。

 それなのに、今この瞬間、自分の中では新しい命が育ち始めているという。

 アデルはそっと腹部へ手を添えた。

 当然ながら、何も感じなかった。

 温かな布の感触と、その下にある自分の身体の柔らかさだけが伝わってくる。

 ……不思議。

 とても不思議だった。

 嬉しい。

 確かに嬉しいのに、どうしても実感が湧かなかった。

 知らない香料を初めて手にしたときのような高揚感とも違う。胸が大きく跳ねるわけでも、涙が溢れてくるわけでもない。

 ただ、静かな驚きが身体の奥へ広がっている。

「……アデル様」

 傍らにいたメリーが、そっと声をかけた。

「おめでとうございます」

 アデルは顔を上げた。

 メリーの目元が少し赤くなっている。

「……ありがとうございます」

 微笑んで答えると、メリーはとうとう涙をこぼした。

「本当に……おめでとうございます」

「メリー」

「……申し訳ありません。嬉しくて」

 アデルは少し驚いたあと、柔らかく笑った。

「私も嬉しいです」

 そう口にしてから、もう一度考える。

 嬉しい。

 その気持ちは確かだった。

 けれど、今はまだ、どう喜べばよいのかも分からない。

「……ただ」

 アデルは小さく息を吐いた。

「何だか、まだ実感がなくて」

 メリーは涙を拭いながら微笑んだ。

「それでよろしいのではありませんか」

「……そうでしょうか」

「はい。これから少しずつ、実感なさるのでしょう」

 アデルは静かに頷いた。

 そうかもしれない。

 これまで知らなかったことを、少しずつ知っていく。

 それなら、きっと自分にもできる。

 アデルは窓の外へ目を向けた。

 春の庭園では、小さな白い花が風に揺れている。

 その光景を眺めながら、ふとリュシアンの顔が浮かんだ。

 ……殿下に、お伝えしなければ。

 そう思った途端、胸が少しだけ高鳴った。

*

 その日の夕方、リュシアンはいつも通り執務室で書類を確認していた。

 窓の外では春の陽が傾き、机の上に置かれた書類へ細長い影を落としている。午後の会議が長引いたため、今日は少し遅くなるかもしれないと思っていたところだった。

「殿下」

 扉の外から、アデルの声がした。

 リュシアンは顔を上げた。

「入れ」

 扉が開き、アデルが姿を現した。

 淡い青色の仕事着に、銀色の髪を後ろでまとめている。普段と変わらない姿だったが、手には一冊の手帳が抱えられていた。

「……どうした。仕事の相談か?」

「いえ。ご報告がございます」

 リュシアンは筆を置いた。

「報告?」

「はい」

 アデルは机の前へ進み、姿勢を正した。

 その様子は、宮廷調香師として新しい研究結果を伝えるときとほとんど同じだった。

「本日、宮廷医の診察を受けてまいりました」

 リュシアンの眉が動いた。

「……体調が悪いのか?」

「少し、香りの感じ方に変化がありまして」

「香り?」

「はい。チュベローズが、普段より強く感じられたのです」

 リュシアンは一瞬考えた。

「……香料が変質したのか?」

「いいえ。別の瓶でも同様でしたので、私自身の嗅覚に変化が起きている可能性を考えました」

 アデルは手帳を開いた。

「そこで、最近の体調を確認し、宮廷医に相談したところ」

 少し間を置く。

「懐妊しているとの診断を受けました」

「…………」

 リュシアンは動きを止めた。

 アデルはその反応に気づかず、続きを説明する。

「まだごく初期とのことで、今後も慎重に経過を確認する必要がございますが、現時点では大きな問題はないそうです。次回の診察についても日程を調整していただきました」

「…………」

「それから、香料の取り扱いについても、しばらくは強いものを避けるよう勧められております。調香室での作業内容は、私の方で見直すつもりです」

 アデルは手帳を閉じた。

「以上、ご報告でございます」

 沈黙が落ちた。

 リュシアンは、しばらく何も言わなかった。

 灰青色の瞳が大きく開かれ、まっすぐアデルを見つめている。

「……殿下?」

 アデルが首を傾げた。

「何か、ご不明な点がございましたか?」

 リュシアンはようやく瞬きをした。

「……いや」

 それから、ゆっくり息を吐く。

「……そうか」

 アデルは頷いた。

「はい」

「……子供が」

「はい」

「……できたのか」

 リュシアンはもう一度、同じ言葉を確かめるように呟いた。

 アデルは静かに微笑んだ。

「そう、みたいです」

 リュシアンは椅子から立ち上がった。

 けれど、すぐには近づかなかった。

 どうやら、今のアデルがどのような気持ちでいるのかを確かめようとしているらしい。

「……嬉しいか?」

 静かな声だった。

 アデルは少し考えた。

「はい」

 そして、正直に答えた。

「ただ、まだ実感がなくて」

 リュシアンの表情が柔らかくなった。

「……そうか」

 彼はゆっくり近づき、アデルの手を取った。

「まだ時期も早い。焦らずにいこう」

「……はい」

「身体のことも、仕事のことも、無理をしなくていい。困ったことがあれば、その都度考えればいいだろ」

 アデルは微笑んだ。

「ありがとうございます」

 リュシアンは頷いた。

 その返事は、驚くほど落ち着いていた。

 アデルは少し安心した。

 自分でもまだ実感が湧かないのに、周囲から大げさに喜ばれると、何となく置いていかれるような気がしてしまう。

 けれど、リュシアンはいつも通りだった。

 焦らなくていいと伝え、手を握ってくれる。

 それが何よりありがたかった。

「……殿下」

「何だ」

「私、これから少しずつ、いろいろなことを知っていくのでしょうね」

「ああ」

「身体のことも、子供のことも」

 アデルはそっと腹部へ手を添えた。

「まだ何も分かりませんけれど、楽しみです」

 リュシアンはその手元を見つめた。

 それから、もう一度柔らかく微笑んだ。

「……俺もだ」

 アデルは嬉しそうに笑った。

 リュシアンは彼女を抱き寄せたかった。

 今すぐ腕の中へ閉じ込めて、何度でも礼を言いたかった。

 けれど、アデルがあまりに落ち着いているため、どうも自分だけ大騒ぎするのは違う気がした。

 だから、ただ手を握った。

 それでも、胸の奥では何かが大きく弾んでいた。

 子供ができた。

 アデルとの子供が。

 あの秋の日、調香室で二人して想像した、まだ会ったことのない誰かが。

 本当に、彼女の中で育ち始めている。

 嬉しい。

 どうしようもなく嬉しかった。

 しかし、まだ喜びを外へ出すには早い。

 今は、アデルを安心させることが先だ。

 リュシアンはゆっくり息を吐き、ようやく口を開いた。

「……今日はもう、仕事を終わりにしよう」

「ですが、殿下の書類が」

「明日でいい」

「……本当ですか?」

「ああ」

 リュシアンは微笑んだ。

「一緒に帰ろう」

 アデルは少し驚いたあと、嬉しそうに頷いた。

「……はい」

 その夜、二人はいつもより少し早く私室へ戻った。

 アデルは夕食のあと、身体を冷やさないようにとメリーに用意された温かな飲み物を口にし、リュシアンの隣で静かに過ごした。

 特別なことは何もしなかった。

 ただ、いつものように話し、笑い、眠る前には少しだけ手を繋いだ。

 アデルはその穏やかさに安心し、やがて夫の隣で眠りについた。

 けれど。

 リュシアンの方は、なかなか眠れなかった。

 隣ではアデルが静かな寝息を立てている。銀色の髪が枕の上へ広がり、白い頬には暖炉の火の名残が柔らかく映っていた。

 リュシアンはそっと顔を向けた。

 妻は眠っている。

 腹部の膨らみは、まだまったく分からない。

 それでも、そこには新しい命がいるのだという。

 彼は静かに息を吸った。

 嬉しい。

 嬉しくて仕方がない。

 胸の奥に広がる感情を、どう扱えばいいのか分からなかった。

 ライレイが息子の誕生を知らせてきたとき、随分と浮かれているものだと思った。

 その気持ちが、今なら少し分かる。

 いや。

 分かるどころではない。

 今すぐ誰かに話したい。

 母上にも、父上にも、メリルにも。

 遠いシャンのライレイにも知らせたい。

 あの男なら、きっと大喜びするだろう。

 ……ただし。

 リュシアンは隣で眠るアデルを見た。

 まだ時期が早い。

 アデル自身も実感がないと言っていた。

 今は二人だけで大切にしておく方がいい。

 そう思いながらも、口元が勝手に緩んでしまう。

「……まいったな」

 小さく呟いた。

 こんなに嬉しいとは思わなかった。

 彼はそっとアデルの手を握った。

 その温もりが、いつもよりずっと愛おしく感じられた。

「……ありがとう」

 眠る妻へ、小さく囁く。

 アデルは返事をしなかった。

 けれど、指先がほんの少し動き、リュシアンの手を握り返した。

 彼は静かに笑った。

 明日になったら、またいつも通りの朝が来る。

 アデルは調香室へ行きたがるだろうし、自分も執務室で書類と向き合うことになる。

 けれど、今日からは少しだけ違う。

 二人の未来に、新しい命が加わった。

 そのことが、ただ嬉しかった。

*

 春が過ぎ、夏が訪れた。

 アデルの懐妊は、その後も順調に経過した。

 初めの頃こそ、香りに敏感になる日があり、食事の好みも少し変わったが、宮廷医の助言に従って無理を避けるうちに、体調は次第に落ち着いていった。

 もちろん、宮廷調香師の仕事を辞めたわけではない。

 ただ、強い香料を長時間扱う作業や、身体へ負担のかかる仕事はほかの者へ任せるようになった。調合そのものをすべて手放すのではなく、研究計画の立案や香料の評価、調香室の運営など、できる仕事を続けている。

 その調整には、リュシアンも積極的に関わった。

 もっとも、最初の頃は少々過保護になりすぎた。

「……殿下」

「何だ」

「私は、調香室へ行きたいのですが」

「今日は休んでいた方がいいんじゃないか」

「宮廷医からは、無理をしなければ問題ないと伺っております」

「……そうか」

「はい」

「じゃあ、俺も行く」

 アデルは目を瞬いた。

「……なぜですか?」

「心配だから」

「殿下には公務がございますでしょう」

「午後からだ」

「午前中にもございます」

「……少しなら」

「殿下」

 リュシアンは口を閉じた。

 アデルは静かに微笑んだ。

「お気持ちは嬉しいのですが、私も自分の身体のことは考えております」

「……分かってる」

「でしたら、どうぞお仕事へ」

 リュシアンは少し不満そうな顔をした。

 けれど、最後には素直に頷いた。

「……何かあったら、すぐ呼べよ」

「はい」

「本当に」

「承知しております」

 アデルは笑った。

 そのやり取りを見ていたメリーも、少しだけ口元を緩めていた。

 やがて夏が深まり、アデルの腹部が少しずつ丸みを帯び始めると、リュシアンの様子にも変化が現れた。

 仕事を終えて私室へ戻ると、彼は自然と妻の隣へ腰を下ろし、何かを確かめるように腹部へ視線を落とすようになったのである。

 初めて子供の動きを感じたのは、夏の終わりに近い夜だった。

 アデルが長椅子で書物を読んでいると、腹部の奥で小さな動きを感じた。

 最初は気のせいかと思った。

 けれど、しばらくすると、また同じような感覚があった。

「……殿下」

 隣で書類を読んでいたリュシアンが顔を上げる。

「どうした」

「……動きました」

 リュシアンの表情が変わった。

「……何が?」

 アデルは自分の腹部へ手を添えた。

「赤ちゃんです」

「…………」

 リュシアンは書類を置いた。

 それから、ゆっくり彼女へ近づく。

「……触ってもいいか」

「もちろんです」

 アデルは微笑み、彼の手を取って自分の腹部へ添えた。

 リュシアンは息を潜めた。

 しばらく何も起こらなかった。

 けれど、やがて。

 手のひらの下で、ほんの小さな動きがあった。

「……っ」

 リュシアンの目が大きく開かれた。

「……動いた」

「はい」

「今、確かに」

「はい」

 アデルは嬉しそうに笑った。

 リュシアンは何も言わなかった。

 ただ、手のひらを添えたまま、じっとその場所を見つめている。

 それまで、子供がいると聞いても、どこか実感の湧かなかった部分があったのかもしれない。

 けれど今、確かに動いた。

 自分の手の下で、小さな命が生きている。

「……すごいな」

 リュシアンは小さく呟いた。

 アデルも頷いた。

「……本当に」

 二人はしばらく、そのままでいた。

 やがてリュシアンが顔を上げ、アデルを見つめた。

「……嬉しいな」

 その声は、驚くほど柔らかかった。

 アデルも微笑んだ。

「はい」

 何かを知ることが、これほど嬉しいものだとは思わなかった。

 もちろん、これまでも新しい香料を発見したときや、長く研究していた調合が完成したときには、胸が躍るほど嬉しかった。

 けれど、今の喜びは少し違う。

 研究の成果ではない。

 自分たちの中に生まれた命が、確かに育っている。

 そのことを、二人で感じられたのが嬉しかった。

「……殿下」

「何だ」

「この子、どんな子になるのでしょうね」

 リュシアンは少し笑った。

「まだ考えてるのか」

「もちろんです」

 アデルは微笑んだ。

「だって、少しずつ分かってきたことが増えているんですもの」

 リュシアンは呆れたように息を吐いた。

 けれど、その表情はどこまでも優しかった。

「……そうだな」

 彼はもう一度、そっと腹部へ手を添えた。

「早く会いたいな」

 アデルは静かに頷いた。

「……はい」

 その夜、二人はいつもより少しだけ長く、まだ見ぬ子供のことを話した。

 髪の色。

 瞳の色。

 好きになるもの。

 どんな声で笑うのか。

 どちらに似ていても、似ていなくても構わない。

 ただ、元気に生まれてきてほしい。

 そう願う気持ちだけは、二人とも同じだった。

*

 秋になると、王宮には少しずつ出産の準備が整えられていった。

 アデルの腹部は随分と大きくなり、歩く速度も以前よりゆっくりになった。長時間立ち続けることは避けるようになったが、それでも体調のよい日には温室を訪れ、植物の様子を確かめることを楽しみにしていた。

 メリルもリンレイも、以前にも増して頻繁に彼女のもとを訪れるようになった。

 メリルは柔らかな産着や小さな寝具を選び、リンレイはシャンで使われている赤子の道具や、ユウユウの近況を聞かせてくれる。メリーは日々の体調を細かく気にかけながら、アデルが無理をしないよう、仕事と休息の時間を調整していた。

 ある午後、三人がそろって私室を訪れたときのことだった。

「……アデル姉様」

 リンレイが真剣な顔で口を開いた。

「ユウユウが、最近とても元気なのです」

「まあ、そうなのですか」

「はい。兄様からの手紙によりますと、寝返りをするようになってから、少しも目が離せないそうで」

 アデルは嬉しそうに笑った。

「きっと、可愛らしいのでしょうね」

「それはもう!」

 リンレイは目を輝かせた。

「兄様は相変わらず、何かあるたびに手紙をくださいます。先日は、ユウユウが初めて自分で寝返りをしたと、三枚も書いておられました」

 メリルが吹き出した。

「三枚も?」

「はい」

「随分と詳しい報告なのね」

「ええ。途中から、ほとんど兄様の喜びを書いたものになっておりました」

 アデルは笑った。

 その様子を見て、メリルが少し悪戯っぽく微笑む。

「……でも、こちらの王太子殿下も負けていないと思うわ」

 アデルが首を傾げた。

「……殿下が、ですか?」

「ええ」

 メリルは楽しそうに頷いた。

「この間、お兄様が産室の準備について宮廷医と話していたのだけれど、随分細かいことまで確認していたそうよ」

「……まあ」

「寝具の位置から、窓の開け方、部屋に置く花の種類まで」

 アデルは目を瞬いた。

 確かに、リュシアンは最近、出産の準備についてよく尋ねてくる。

 けれど、そこまで細かく確認しているとは知らなかった。

「……それは」

 アデルは少し考えた。

「香りの問題があるからではないでしょうか」

「もちろん、それもあるでしょうけれど」

 メリルは笑った。

「お兄様、とにかく心配なのよ」

 リンレイも頷いた。

「ライレイ兄様も、出産前はそのようなご様子でした」

 アデルは思わず笑った。

「……そうなのですか」

「はい。出産の日には、さらに大変なことになりましたけれど」

 その言葉に、メリルが興味深そうに身を乗り出した。

「どうなったの?」

「兄様は産屋から追い出されました」

 メリルが声を立てて笑った。

「まあ!」

「ユエ姉様にも、私にも、邪魔だと言われまして」

 リンレイは少し申し訳なさそうに笑った。

 アデルも堪えきれずに笑ってしまった。

 想像できる。

 ライレイが心配で落ち着かず、あれこれ世話を焼こうとして、かえって周囲の邪魔になる様子が。

 けれど。

 ふと、リュシアンの顔が浮かんだ。

 あの人も、いざ出産となれば同じようになるのだろうか。

 普段は冷静で、何が起きても落ち着いて判断する王太子殿下。

 けれど、自分のことになると、少しだけ冷静さを失うことがある。

 しかも最近は、子供のこととなると、以前よりさらに心配性になっている気がした。

 ……まさか。

 アデルは少し考えたあと、小さく笑った。

「……殿下なら、大丈夫だと思います」

 メリルとリンレイが顔を見合わせた。

 それから、二人とも何とも言えない表情になった。

「……そうかしら」

「……どうでしょう」

 メリーだけが、静かに微笑んでいた。

*

 そして、冬が訪れた。

 王宮の庭園には再び冷たい風が吹き、朝には石畳の端へ薄い霜が降りるようになった。温室の中では冬越しの植物が静かに育ち、調香室には乾燥させた香草や、温かな樹脂の香りが漂っている。

 アデルの出産予定日は、もう目前に迫っていた。

 宮廷医の診察でも、母子ともに順調だと確認されている。ここまで大きな問題もなく過ごせたことに、アデルは心から安堵していた。

 けれど、いよいよその日が近づくにつれ、さすがに少し緊張するようになった。

 未知のものを知りたい。

 実際に体験してみたい。

 その気持ちは、今も変わらない。

 しかし、出産ばかりは、書物を読んで理解しただけではどうにもならないことがあるのだろう。

 自分の身体に何が起きるのか。

 どれほどの痛みがあるのか。

 どのように始まり、どのように終わるのか。

 分からないことは、まだたくさんあった。

 ある夜、アデルは寝台の上で、そっと腹部へ手を添えた。

 隣ではリュシアンが書物を読んでいる。

 暖炉には穏やかな火がともり、窓の外には冷たい月が浮かんでいた。

「……殿下」

「何だ」

「少し、緊張しております」

 リュシアンは書物を閉じた。

「……出産のことか」

「はい」

 アデルは微笑んだ。

「楽しみなのですけれど、やはり怖さもありますね」

 リュシアンはしばらく彼女を見つめていた。

 それから、そっと手を伸ばし、アデルの腹部へ触れた。

 そこには、もうはっきりとした命の存在があった。

 ときどき動き、時には大きく身体を伸ばしているような感覚さえある。

「……俺も怖い」

 リュシアンが静かに言った。

 アデルは目を瞬いた。

「……殿下も、ですか」

「ああ」

 彼は小さく笑った。

「お前も、この子も、無事でいてほしいからな」

 アデルはしばらく黙った。

 それから、そっとリュシアンの手へ自分の手を重ねた。

「……私もです」

 灰青色の瞳が、柔らかく細められる。

「一緒に乗り越えよう」

 その言葉に、アデルは頷いた。

「……はい」

 リュシアンは彼女の額へ口づけた。

 清潔な衣服と、かすかな木の香りが近づく。

 今まで何度も安心させてくれた匂いだった。

 アデルは目を閉じた。

 未知の出来事を前にしているのに、不思議と少し落ち着いた。

 この人が隣にいる。

 それだけで、何とかなるような気がした。

*

 出産が始まったのは、よく晴れた冬の朝だった。

 窓の外には薄い霜が降り、庭園の木々が冷たい陽射しを受けて静かに輝いていた。アデルは朝食を終えたあと、いつものように長椅子で書物を読んでいたが、腹部にいつもとは違う張りを感じ、そっと頁を閉じた。

 最初は、少し休めば落ち着くだろうと思った。

 けれど、しばらくするとまた同じ感覚が訪れた。

 アデルはゆっくり呼吸を整え、時計へ目を向けた。

 そのあとも、一定の間隔で痛みがやってくる。

 ……これは。

 アデルはしばらく考えた。

 そして、静かにメリーを呼んだ。

「……メリー」

「はい、アデル様」

「どうやら、始まったようです」

 メリーの表情が変わった。

「……陣痛でございますか?」

「おそらく」

 アデルは微笑んだ。

「宮廷医を呼んでいただけますか」

「もちろんでございます!」

 メリーはすぐに動いた。

 ほどなくして宮廷医と産婆が到着し、アデルの状態を確認した。出産が始まっていると分かると、王太子宮は静かな緊張に包まれた。

 用意されていた産室へ移り、必要な道具が整えられる。女官たちは手際よく動き、温かな湯や清潔な布が運び込まれていった。

 アデルは寝台へ腰を下ろし、ゆっくり息を吐いた。

 まだ痛みはそれほど強くない。

 けれど、これから何が起きるのかを考えると、胸が少し高鳴った。

 やがて、メリルとリンレイも駆けつけてきた。

「アデル!」

 最初に部屋へ入ってきたメリルは、いつもの明るい表情を少し緊張させていた。

「大丈夫? 痛みは?」

「まだ、何とか」

 アデルは微笑んだ。

 メリルはその手を握った。

「何か必要なことがあったら、すぐ言ってね」

「ありがとうございます」

 続いてリンレイが近づいてきた。

「アデル姉様」

 金色の瞳には心配と期待が入り混じっていた。

「私もお手伝いいたします。ユエ姉様の出産のときにも、少しだけお側におりましたので」

「……頼もしいですね」

 アデルは笑った。

 リンレイも微笑んだ。

「はい。どうぞ、何でもお申しつけください」

 メリーはその間にも、アデルの身体を支え、額へ浮かんだ汗を柔らかな布で拭っていた。

 幼い頃から自分を知っている侍女が、こうして隣にいてくれる。

 それだけで、随分と安心できた。

 アデルは三人を見つめた。

 メリル。

 リンレイ。

 メリー。

 いつの間にか、自分の周囲には、こんなにも多くの人がいてくれるようになっていた。

 宮廷調香師として初めて王宮へ出仕した頃には、想像もしなかった光景だった。

 けれど今、彼女たちは自分のために集まり、手を握り、声をかけてくれている。

 アデルは静かに微笑んだ。

「……ありがとうございます」

 メリルが首を傾げた。

「何が?」

「皆様がいてくださることが、嬉しくて」

 メリルは一瞬目を見開き、それから柔らかく笑った。

「当たり前でしょう」

 リンレイも頷いた。

「私たち、家族ですもの」

 メリーは静かに頭を下げた。

「いつでも、お側におります」

 アデルはゆっくり頷いた。

 胸の奥が温かくなる。

 痛みは少しずつ強くなっていたが、不思議と怖さばかりではなかった。

 もうすぐ、会える。

 ずっと想像してきた、まだ知らない誰かに。

 そのことが、何より楽しみだった。

*

 一方その頃。

 王太子宮の廊下では、別の意味で騒ぎが起きていた。

「……アデルは?」

 リュシアンが尋ねた。

 報告を受けて執務室から駆けつけたばかりだった。

 濃紺の執務着のまま、黒髪はいつもより少し乱れ、灰青色の瞳には隠しきれない緊張が浮かんでいる。

「妃殿下は、現在産室にてお休みいただいております」

 侍従が答える。

「医官は?」

「すでに診察を終え、産婆も付き添っております」

「……そうか」

 リュシアンは頷いた。

 それから、扉へ目を向ける。

「俺も入る」

 侍従が一瞬ためらった。

「……殿下」

「何だ」

「今は、妃殿下のお身体を最優先にとのことで」

「分かってる」

 リュシアンは扉へ近づいた。

「だから、側にいたい」

 その言葉に、侍従は少し困ったように目を伏せた。

 ちょうどそのとき、産室の扉が開いた。

 中からメリーが現れる。

「殿下」

「アデルは?」

「現在、順調に進んでおります」

「……そうか」

「ただ、まだお時間がかかるかと」

 リュシアンは頷いた。

 それから、少し考える。

「……何かできることは?」

「必要なものは、すでに揃っております」

「湯は?」

「用意しております」

「布は?」

「十分にございます」

「医官は?」

「お側におります」

 リュシアンは黙った。

 それから、再び扉へ目を向ける。

「……俺は」

 言いかけたところで、奥からアデルの声がした。

「……殿下?」

 リュシアンが顔を上げた。

「アデル!」

 すぐに扉へ近づこうとする。

 けれど、メリーが慌てて一歩前へ出た。

「殿下、どうかお待ちください」

「……何だ」

「今は、妃殿下が落ち着いてお過ごしになれるように」

「分かってる」

「ですから」

 そのとき、再びアデルの声が聞こえた。

「……殿下」

「いるぞ!」

 リュシアンは即座に答えた。

「ここにいる!」

 産室の中で、少しだけ笑い声が上がった。

 それから、アデルの声が続く。

「……ありがとうございます」

 リュシアンは息を詰めた。

「……ああ」

 その返事を聞いたあと、アデルは少し間を置いた。

 そして、いつものような落ち着いた声で言った。

「……ですが、殿下」

「何だ」

「どうか、少し静かにしていただけますか」

「…………」

 廊下が静まり返った。

 メリーが口元を押さえる。

 奥ではメリルが笑いを堪えている気配がした。

 リンレイの声も聞こえる。

「……兄様と同じですね」

 リュシアンは額を押さえた。

 あの男。

 ライレイが息子の出産のとき、産屋で邪魔者扱いされたという話を思い出す。

 あのときは、随分と情けないものだと思った。

 自分なら、もう少し冷静に対応できるはずだと。

 そう思っていた。

 けれど今。

 扉の向こうでアデルが痛みに耐えていると考えるだけで、何もせずに待つことができない。

 何か手伝いたい。

 少しでも楽にしてやりたい。

 できることなら、痛みの半分でも引き受けたい。

 けれど、自分には何もできない。

 その事実が、こんなにも落ち着かないものだとは思わなかった。

「……殿下」

 メリーが静かに声をかけた。

「どうか、こちらでお待ちくださいませ」

 リュシアンはしばらく黙った。

 それから、深く息を吐いた。

「……分かった」

 ようやく扉から離れ、廊下の長椅子へ腰を下ろす。

 けれど、視線はずっと産室の扉へ向けられていた。

 その様子を見た侍従が、そっと温かな茶を差し出す。

「殿下。少し、お休みになられては」

「……ああ」

 リュシアンは茶杯を受け取った。

 しかし、口をつけることなく扉を見つめ続けている。

 しばらくして、産室の中からアデルの声が聞こえた。

 痛みに耐える、少し苦しそうな声だった。

 リュシアンの身体が反射的に動く。

「……アデル!」

 立ち上がりかけたところで、メリーが扉の隙間から顔を出した。

「殿下」

「……何だ」

「大丈夫でございます」

 いつもより少しだけ強い声だった。

「どうか、お任せくださいませ」

 リュシアンは動きを止めた。

 そして、ゆっくり腰を下ろした。

「……分かった」

 小さく答える。

 廊下には、再び静けさが戻った。

 窓の外では冬の陽射しが白い石壁を照らし、冷たい風が庭木を揺らしている。遠くの温室には、春を待つ植物が静かに育っているのだろう。

 リュシアンは目を閉じた。

 アデルが初めて自分に子供の話をした夜を思い出す。

 どんな子になるのだろうと、楽しそうに笑っていた。

 まだ何も分からないからこそ、知りたいのだと。

 その言葉が、今は胸の奥へ深く残っている。

 もうすぐ、会える。

 ずっと想像してきた、まだ知らない誰かに。

 けれど、今はそれ以上に。

 アデルが無事でいてほしかった。

 リュシアンは両手を組み、静かに息を吐いた。

 今まで、どれほど多くの困難を乗り越えてきただろう。

 政治の争いも、外交の危機も、命を脅かす事件も。

 そのたびに、何をすべきかを考え、できる限りの手を尽くしてきた。

 けれど、今は違う。

 自分にできることは、ただ待つことだけだった。

 扉の向こうでは、アデルが新しい命を迎えようとしている。

 リュシアンは静かに目を開けた。

 そして、もう一度、産室の扉を見つめた。

 その向こうから、またアデルの声が聞こえた。

 彼は立ち上がりたい衝動を必死に抑えながら、そっと息を吸った。

「……頑張れ、アデル」

 誰にも聞こえないほど小さな声だった。

 けれど、その言葉には、これまでの人生で抱いたどんな願いよりも強い思いが込められていた。

 冬の朝は、まだ始まったばかりだった。


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