第七十話 もしもの香り
リンレイがスピネリアへ戻ってきてから、数日が過ぎた。
シャンから持ち帰られた贈り物は、王宮のあちこちへ届けられていた。香木や茶葉、珍しい薬草に乾燥花。それから、ライレイが選んだという菓子の箱まで、使節団の荷は帰国のときより随分と増えていたらしい。
けれど、アデルにとって何より嬉しかったのは、リンレイが聞かせてくれる故郷の話だった。
生まれたばかりのユウユウのこと。産後も落ち着いた様子だったユエのこと。そして、息子の顔を眺めているだけで一日を終えそうになっていたライレイのこと。
話を聞くたびにアデルは笑い、ときには感動して目元を潤ませた。特に、ユウユウが目を開けたときの話は何度聞いても嬉しく、リンレイが身振りを交えて説明してくれるたびに、まだ見ぬ赤子の顔が少しずつ鮮明になっていくようだった。
赤褐色の柔らかな髪と、ユエに似た暗赤色の瞳。
ライレイとユエの間に生まれた、小さな男の子。
その姿を想像するのは、何とも楽しかった。
そして近頃、アデルは自分でも不思議に思うことがあった。
ユウユウの話を聞いていると、いつの間にか、別の誰かのことを考えてしまうのである。
まだ生まれてもいない、それどころか存在するかどうかさえ決まっていない、誰かのことを。
*
秋の庭園は、夏とはまるで違う香りに満ちていた。
盛夏の頃には強く香っていた花々が少しずつ姿を消し、代わりに遅咲きの薔薇や、乾いた葉の匂いが目立つようになっている。石畳には朝露が残り、噴水の周囲では湿った苔が柔らかな土の香りを漂わせていた。晴れた日の陽射しはまだ温かいが、風が吹くと頬に触れる空気はひんやりとしている。
アデルは薄い青緑色の外套を羽織り、噴水の傍らを歩いていた。
今日は王妃から依頼された秋の装花について、庭師と打ち合わせをする予定だった。来月の小規模な茶会に使う花を選び、室内へ持ち込んだ際の香りの強さを確かめる。リュシアンが同席する予定はないものの、王妃の茶会には香りに敏感な客もいるため、花の種類と配置には注意が必要だった。
ひと通り庭師と話を終えたあと、アデルは噴水の縁に腰を下ろした。
白い石の中央から細い水が立ち上り、浅い水盤へ落ちるたびに穏やかな音を立てている。水面には薄い金色の葉が浮かび、その隙間を秋の陽光が揺れていた。
アデルは手帳へ花の名前を書き留めながら、ふと噴水の向こうへ目を向けた。
そこには、庭園へ続く緩やかな小道がある。両側には低く刈り込まれた植え込みが並び、その先には小さな東屋が見えていた。
何度もリュシアンと歩いた道だった。
王太子妃になった今も、彼は時間が空けばこうして庭園へ誘ってくれる。時には公務の合間に迎えに来て、ほんの少し散歩をするだけで執務室へ戻っていくこともあった。
もし。
その道を、二人ではなく三人で歩いていたら。
アデルの筆が止まった。
噴水の向こうに、小さな人影を思い浮かべる。
黒髪の男の子。
まだ背丈は自分の腰にも届かず、歩幅が小さいため、父親の長い脚には到底ついていけない。
そんな子供が、リュシアンの手を握って歩いている。
想像の中のリュシアンは、いつもよりずっとゆっくり歩いていた。
長い脚を持て余すように歩幅を縮め、隣の小さな顔を見下ろしている。子供は父親と同じ灰青色の瞳で前を見つめ、何か気に入らないことがあるのか、少しだけ眉を寄せていた。
……似ている。
とても似ている。
アデルは思わず口元を緩めた。
小さなリュシアン。
そう考えると、何だか可愛らしくて仕方がない。
きっと、香りには敏感なのだろう。
花壇の前を通ると眉を寄せ、「この花は匂いが強い」と不満を漏らすかもしれない。けれど、珍しい植物には興味を示し、自分が説明を始めると真剣に耳を傾けてくれるのではないか。
あるいは、リュシアンよりずっと活発な子供かもしれない。
綺麗に整えられた庭園の小道を走り回り、噴水の水へ手を伸ばして、父親に止められる。
そのときリュシアンは、どんな顔をするのだろう。
きっと、少しだけ眉を寄せる。
けれど、怒鳴ったりはしない。
危ないから駄目だと説明して、それでも納得しない子供を抱き上げるのだ。
そして、父親に抱かれた小さな子供は、こちらへ手を伸ばすかもしれない。
『母上、抱っこ』
……。
アデルは手帳で口元を隠した。
可愛い。
困ったことに、想像だけで随分と可愛い。
「……何をしてる」
背後から声がした。
アデルは驚いて振り返った。
そこに立っていたのは、想像の中で小さな子供を抱き上げていた本人だった。
リュシアンは濃紺の上着に黒い長靴を合わせ、肩から薄い外套を掛けていた。艶のある黒髪は秋の風に少し乱れ、灰青色の瞳が不思議そうにアデルを見つめている。
「殿下! いらしていたのですか」
「ああ。庭師から、ここにいると聞いた」
リュシアンは彼女の隣へ腰を下ろした。
「花の確認は終わったのか」
「はい。来月の茶会については、おおむね決まりました」
「そうか」
頷きながら、彼はアデルの顔を覗き込んだ。
「それより、お前は何を笑っていたんだ」
「……笑っておりましたか?」
「かなり」
アデルは思わず手帳を閉じた。
「少し、面白いことを考えておりまして」
「何を?」
「……秘密です」
リュシアンの眉が上がった。
「秘密?」
「はい」
「俺に?」
「殿下にも」
彼は少し考えるようにアデルを見つめた。
それから、何とも不服そうな顔になる。
「……気になるな」
「大したことではありません」
「大したことじゃないなら教えろ」
「ですが、秘密ですので」
「随分楽しそうな秘密だな」
リュシアンは呆れたように息を吐いた。
その表情を見た瞬間、アデルの頭の中に、先ほど想像した小さな男の子が重なった。
同じように眉を寄せ、口元を少し尖らせている。
……やはり、似ている。
アデルはとうとう笑ってしまった。
「おい」
「申し訳ありません」
「絶対に俺のことだろ」
「……どうして分かるのですか?」
「その顔を見れば分かる」
リュシアンが眉を寄せる。
アデルはますます笑いを堪えられなくなった。
困った。
もし本当にこの人に似た子供が生まれたら、毎日のように笑ってしまうかもしれない。
しかも本人は、何がそんなに面白いのか理解できず、不満そうな顔をするのだろう。
その様子まで簡単に想像できてしまう。
「……アデル」
「はい」
「お前、今日ちょっとおかしいぞ」
「そうでしょうか」
「そうだ」
リュシアンは彼女の手を取った。
「まあ、楽しそうだからいいが」
そう言って、立ち上がる。
「少し歩こう。執務室へ戻る前に、温室を見たい」
「温室ですか?」
「ああ。先日、お前が新しい植物を育て始めたと言っていただろう」
アデルの瞳が明るくなった。
「覚えていてくださったのですね」
「聞いたからな」
「でしたら、ぜひご覧ください。ちょうど葉が増えてきたところなのです」
彼女は立ち上がり、リュシアンの手を握り返した。
そのまま二人で噴水の脇を歩き始める。
秋の陽射しが石畳へ柔らかな影を落とし、風が吹くたびに遅咲きの薔薇がかすかに香った。
アデルは隣を歩く夫を見上げた。
長い脚に合わせて、彼は自然と歩幅を緩めている。
それに気づいた途端、また少し笑いたくなった。
もし、ここに小さな子供がいたら。
リュシアンはきっと、もっとゆっくり歩いてくれるのだろう。
そんな未来を想像することが、どうしてこれほど楽しいのか。
アデル自身にも、まだよく分からなかった。
*
温室の中は、外の庭園よりも少し暖かかった。
高い硝子窓から秋の陽射しが差し込み、大小さまざまな鉢植えが棚の上へ並んでいる。湿った土と若い葉の青い香りに、柑橘の皮を思わせる爽やかな匂いが混じっていた。奥の棚では香草の鉢がいくつも育てられ、細い葉の間に小さな花が咲いている。
アデルはその一角へリュシアンを案内した。
「こちらです。先月、シャンから届いた種を植えてみたのですが、無事に芽が出ました」
指し示した鉢には、まだ背丈の低い植物が育っていた。丸みのある葉が左右へ広がり、茎の先には新しい芽がいくつも覗いている。
「ずいぶん小さいな」
「まだ若い株ですから。ここからどのように育つのか、楽しみなのです」
「香料になるのか?」
「可能性はあります。ただ、今のところは薬草としての利用例が多いようですね」
アデルは丁寧に説明しながら、葉の表面へ視線を落とした。
まだ分からないことが多い植物だった。
どの程度成長するのか。花はいつ咲くのか。葉を乾燥させたとき、香りはどのように変わるのか。
何一つ確かな答えがないからこそ、育ててみたくなる。
アデルにとって、未知の植物ほど魅力的なものはなかった。
「……殿下」
「何だ」
「この葉の香り、確かめてみますか?」
リュシアンは少し警戒したように眉を寄せた。
「強いのか」
「いえ。今のところは穏やかです」
「今のところ?」
「育つにつれて変わる可能性がありますので」
「……お前、楽しそうだな」
「はい」
アデルは素直に頷いた。
「だって、まだ分からないことばかりなのですもの」
リュシアンは呆れたように笑った。
「分からないことが嬉しいのか」
「もちろんです」
アデルは鉢の中の小さな葉を見つめた。
「分からないことは、これから知ることができるということでしょう?」
その声は、我ながら少し弾んでいた。
リュシアンはそんな妻をしばらく眺めていたが、やがて柔らかく目を細めた。
「……そうだな」
彼は葉へ顔を近づけ、慎重に香りを確かめた。
「少し青いな。あと、後から甘さが来る」
「そうなのです!」
アデルは嬉しくなった。
「私も同じように感じました。ただ、乾燥させるとどの成分が残るのかは、まだ確認できていなくて」
そこからしばらく、二人は新しい植物について話し込んだ。
リュシアンは香りの感じ方を率直に伝え、アデルはその言葉を手帳へ書き留める。初めて出会った頃から繰り返してきた、二人にとってはすっかり馴染みのある時間だった。
やがてリュシアンが執務へ戻ると、アデルは温室に残り、ほかの植物の様子を確認し始めた。
棚の奥では、ローズマリーの細い葉が青々と茂っている。その隣には小さな柑橘の木があり、艶のある濃緑色の葉の間から、まだ青い実が覗いていた。
アデルは指先で葉に触れ、そこに残った香りを確かめた。
そのとき、ふと先ほどの庭園での想像が蘇ってきた。
もし、自分に似た子供がいたら。
今度は、銀色の髪をした小さな女の子を思い浮かべる。
光の加減で色合いが変わる緑色の瞳。
柔らかな銀髪を後ろで結び、母親の隣で植物を覗き込んでいる。
その子は、どんなことに興味を持つのだろう。
自分と同じように香りが好きなら、調香室へ連れていくたびに質問攻めにされるかもしれない。
『お母様、これは何の香り?』
『こちらはローズマリーですよ』
『じゃあ、これは?』
『こちらはラベンダーです』
『これは?』
『それは先ほども説明しましたよ』
……楽しそうだ。
アデルは思わず頬を緩めた。
まだ幼い子供と一緒に香料を確かめる。
自分が知っていることを教え、その子が初めて香りを嗅いだときの反応を見る。
それは、きっと素敵な時間だろう。
けれど、そこで別の可能性に思い至った。
もし、その子が香りに興味を持たなかったら?
リュシアンに似て、強い香りを嫌う子供かもしれない。
あるいは、どちらにも似ず、花よりも土や虫が好きになるかもしれない。
銀髪を綺麗に結んでも、温室へ入るなり走り出してしまう。
そして、小さな手に何かを握りしめ、嬉しそうにこちらへ駆け寄ってくるのだ。
『お母様、見て!』
『まあ、何を見つけたのですか?』
差し出された手の中には、大きな甲虫。
……。
アデルは想像の中で固まった。
昆虫そのものが嫌いなわけではない。植物を育てていれば、虫と接する機会もある。けれど、突然目の前へ大きな甲虫を差し出されれば、さすがに驚くと思う。
しかも、当の本人は得意げなのだ。
きっと、褒めてほしいのだろう。
……どうしましょう。
アデルは真剣に考えた。
その子が大切に思っているものなら、自分も興味を持ってみたい。
ただ、調香室へ甲虫を持ち込むのは困る。
香料瓶の中へ落とされたら大変なことになる。
そこまで考えて、アデルはふと笑った。
まったく、何を心配しているのだろう。
まだ存在しない子供に、香料瓶の扱いを注意しようとしている。
しかも、その子が本当に虫を好きになるかどうかさえ分からない。
アデルは温室の棚へ手をつき、小さく息を吐いた。
不思議なものだ。
自分とリュシアンの間に生まれる子供なのだから、どちらかに似たところはあるのだろう。
髪の色。
瞳の色。
顔立ちや、声の響き。
もしかしたら、香りの感じ方にも似たところが現れるかもしれない。
けれど、それだけではない。
性格も、好みも、興味を持つものも、二人のどちらからも予想できない可能性がある。
自分が花を好きだからといって、その子も花を好きになるとは限らない。
リュシアンが静かな場所を好むからといって、その子も同じように過ごしたがるとは限らない。
まったく別の何かを好きになるかもしれない。
そして、その何かを知るには。
実際に、その子と会ってみなければ分からない。
アデルはゆっくりと瞬きをした。
……面白い。
想像していたより、ずっと面白い。
知らない香料を初めて手に取ったときのように、胸の奥がわくわくしていた。
それも、今までの研究とは少し違う。
調べても、書物を読んでも、答えは見つからない。
その子が何を好きになるのかは、その子自身にしか分からないのだ。
アデルは手元の手帳を開いた。
そして、植物の観察記録が並んだ頁の隅へ、小さく書き留めた。
『子供の性質は、どこまで両親に似るのだろう?』
筆を止める。
しばらく考えたあと、その下へもう一行を加えた。
『似ていないところは、どのように生まれるのだろう?』
アデルは書き終えた文字を眺めた。
……知りたい。
そう思ったところで、ふと我に返った。
「……あら?」
これは、植物の観察記録だったはずでは?
アデルは手帳を見下ろした。
ローズマリーの葉の形。
柑橘の成長速度。
シャンから届いた薬草の香り。
その中に突然現れた、子供の性質についての疑問。
どう考えても、研究対象が違う。
「……これは、別にしなければ」
アデルは真剣な顔で頷いた。
そして、その日の午後。
調香室の机には、新しい手帳が一冊増えることになった。
*
その手帳は、最初こそごく簡単な覚え書きだった。
表紙には何も書かず、最初の頁へ小さく『私的な観察』と記しただけである。
ところが、一度考え始めると、次から次へと疑問が浮かんできた。
リュシアンの髪は艶のある黒色で、自分の髪は銀色。瞳は灰青色と、光によって緑から赤みを帯びて見えるアレキサンドライトの色。
顔立ちは、どちらかというとリュシアンの方が端正で、表情の変化は少ない。自分は比較的よく笑う方だと思うが、仕事中は無表情になっているとメリーに言われたことがある。
性格については、少し難しかった。
リュシアンは合理的で、決断が早い。
けれど、一度決めたことを簡単には変えない。
自分は好奇心が強く、気になったことは調べずにいられない。
そして、リュシアンからは何度も頑固だと言われている。
アデルは手帳を開き、しばらく考え込んだ。
……つまり。
どちらに似ても、かなり頑固な子供になる可能性がある。
これは、少々心配だった。
しかも、リュシアンに似て嗅覚が過敏だった場合、香りの強い場所を嫌がるかもしれない。自分に似て香りへ興味を持てば、調香室から離れなくなる可能性もある。
両方の特徴を持っていたら、どうなるのだろう。
強い香りは苦手なのに、香料そのものには興味がある。
……それは、随分と難しい子供になりそうだ。
アデルは真剣に眉を寄せた。
もちろん、親の特徴がそのまま受け継がれるとは限らない。香りの感じ方には生まれつきの違いもあるだろうが、育った環境や経験によって変わる部分も多いはずだ。
だから、これはあくまで仮説である。
そう自分へ言い聞かせながらも、筆は止まらなかった。
次の頁には、子供が何に興味を持つかについて書き始めた。
植物。
書物。
馬。
音楽。
剣術。
料理。
考えてみれば、この世には自分がまだよく知らないものが山ほどある。
その子が、自分の知らない何かを好きになったら。
きっと、教えてもらうのだろう。
子供から教わることもあるのかもしれない。
そう思うと、何とも楽しそうだった。
「……アデル様?」
背後から声がした。
アデルは顔を上げた。
調香室の扉のところに、メリーが立っていた。手には新しい香料瓶を載せた盆を持っている。
「どうしました?」
「いえ。先ほどから、随分楽しそうにしておいででしたので」
「……そうですか?」
「はい。ずっと微笑んでいらっしゃいました」
アデルは手帳へ目を落とした。
確かに、少し頬が緩んでいたかもしれない。
「新しい研究ですか?」
メリーが尋ねる。
アデルは一瞬、返事に詰まった。
研究と言えば研究なのだが、香料とはまったく関係がない。
しかも、あまり人に見せるような内容でもない。
「……いえ。少し、考え事を」
「そうでしたか」
メリーは深く追及しなかった。
けれど、盆を机へ置くとき、開かれた手帳へちらりと視線を落とした。
アデルは反射的に手帳を閉じた。
「……アデル様?」
「何でもありません!」
思ったより大きな声が出てしまった。
メリーは目を瞬いたあと、ゆっくり微笑んだ。
「……承知いたしました」
その表情には、何かを察したような気配があった。
アデルは少し頬を赤くしながら、机の隅へ手帳を移した。
どうやら、この手帳はもう少し慎重に扱った方がよさそうだ。
そう思ったのに。
その日の夕方、早速問題が起こった。
*
リュシアンが調香室を訪れたのは、午後の執務が一段落した頃だった。
窓から差し込む陽射しはすでに傾き、作業机の上に並んだ硝子瓶へ淡い金色の光を落としている。室内には乾燥させた花弁や樹脂の香りが漂い、その奥に、磨かれた木製の棚の匂いが混じっていた。
普段なら、この時間にはアデルが作業机に向かっている。
けれど、今日は姿が見えなかった。
「……アデル?」
リュシアンは室内を見渡した。
作業机には開いた記録帳が置かれ、いくつかの香料瓶が整然と並んでいる。使いかけの筆や細い紙片も見えたが、本人はいない。
奥の保管室だろうか。
そう考えたとき、開いていた窓から風が吹き込んだ。
机の上の紙が、ふわりと浮く。
「……あ」
リュシアンは反射的に手を伸ばした。
数枚の記録用紙が床へ落ち、そのうちの一枚が彼の足元へ滑ってくる。
屈んで拾い上げると、そこには見慣れたアデルの文字が並んでいた。
ただし、内容は見慣れたものではなかった。
『仮説:リュシアンとアデルの子供に現れる特徴』
「…………」
リュシアンは動きを止めた。
もう一度、最初の一行を見る。
自分の名前。
アデルの名前。
そして、子供。
「……何だ、これ」
思わず声が漏れた。
紙の下には、二人の特徴が項目ごとに整理されている。
髪の色。
瞳の色。
香りの感じ方。
性格。
興味を持ちそうなもの。
リュシアンは眉を寄せた。
どうやら、アデルは二人の間に生まれるかもしれない子供について、何かを調べているらしい。
いや。
調べているというより、考えているのだろう。
その下には、さらに細かな書き込みがあった。
『父親に似た場合:判断が早い。頑固。香りに敏感。』
『母親に似た場合:好奇心旺盛。頑固。未知のものへ強い興味。』
リュシアンの眉が、ゆっくり上がった。
「……どっちも頑固なのか」
思わず呟いた。
否定はできない。
その下へ視線が移る。
『両親に似た場合:極めて頑固になる可能性。』
「…………」
リュシアンはしばらく黙った。
それから、堪えきれずに笑った。
何を真剣に考えているのかと思えば。
アデルらしい。
あまりにも、アデルらしい。
そのとき、保管室の扉が開いた。
「あ、殿下。いらしていたのですね」
アデルが小さな瓶を手に現れた。
銀色の髪を後ろで緩くまとめ、袖を短く整えた仕事着を身につけている。緑色の瞳はいつも通り澄んでいたが、リュシアンの手元にある紙を見た瞬間、その表情が固まった。
「……あっ」
リュシアンはゆっくり顔を上げた。
「アデル」
「……はい」
「これは何だ」
彼が紙を示す。
アデルは瞬きをした。
それから、一歩近づいた。
「……それは」
「俺とお前の特徴が並んでいるんだが」
「……はい」
「子供の研究か?」
「研究というほどではありません!」
アデルは慌てて答えた。
「ただの仮説です!」
リュシアンは紙へ視線を戻した。
「……仮説」
「はい」
「ずいぶん細かいな」
「気になりましたので」
アデルは少し頬を赤くした。
自分でも、なぜここまで書き込んでしまったのか分からない。
ただ、考え始めると疑問が次々に浮かんできて、どうしても書き留めずにはいられなかったのだ。
リュシアンはもう一度、紙を眺めた。
「……『父親に似た場合、母親を独占しようとする傾向』?」
アデルは固まった。
「……殿下」
「何だ」
「そこは読まなくても」
「俺のことだろ」
「……そうですが」
リュシアンは眉を寄せた。
「俺をどういう人間だと思ってる」
「……事実を記録しただけです」
「事実?」
「はい」
アデルは真顔で頷いた。
「殿下は、私がほかのことへ夢中になっていると、少し拗ねられるでしょう」
「……拗ねてない」
「本当ですか?」
「……多少、気にはなる」
「では、可能性として考慮する必要があります」
リュシアンは額を押さえた。
「お前、俺を研究対象にしてたのか」
「以前から観察はしております」
「……以前から?」
「はい。殿下の嗅覚については、初めてお会いした頃から」
「そっちか」
リュシアンは小さく息を吐いた。
アデルは不思議そうに首を傾げる。
「何をお考えになったのですか?」
「何でもない」
その返事に、今度はアデルが眉を寄せた。
「……怪しいですね」
「お前に言われたくない」
リュシアンは拾った紙を机へ戻した。
それから、机の隅に置かれた新しい手帳へ目を向ける。
「もしかして、これも?」
アデルは反射的に手帳を抱えた。
「……これは私的なものです!」
「何も言ってないだろ」
「殿下のお顔が、何か言いたそうでした」
「そりゃ気になるだろ」
彼は少し笑った。
「俺との子供について、何を書いてるのか」
アデルは言葉に詰まった。
そう言われると、確かに少し恥ずかしい。
自分でもまだ、何を望んでいるのか分からないのに。
それでも、毎日のように子供のことを想像してしまう。
しかも、その想像を手帳へ書き留めている。
……まるで、研究だ。
アデルは抱えていた手帳へ目を落とした。
「……その」
「うん」
「笑わないでくださいね」
リュシアンの表情が少し柔らかくなった。
「約束はできないな」
「殿下!」
「だって、今の時点でも面白い」
アデルは頬を膨らませた。
リュシアンは笑いながら、彼女の隣へ腰を下ろした。
「でも、馬鹿にしてるわけじゃない」
灰青色の瞳が、まっすぐこちらを見る。
「何を考えてたのか、聞いてもいいか?」
アデルは少し迷った。
それから、ゆっくりと手帳を開いた。
「……もし、私たちの間に子供が生まれたら」
声にすると、何だか急に胸が高鳴った。
「どちらに似るのか、気になったんです」
リュシアンは頷いた。
「なるほど」
「髪や瞳の色もそうですが、性格や好みも、どの程度似るものなのかと思いまして」
アデルは手帳の頁をめくった。
そこには、庭園や温室で考えたことが、細かな文字で書き留められている。
「殿下に似ていたら、香りに敏感な子かもしれません。私に似たら、植物や香料に興味を持つかもしれません」
「……うん」
「でも、まったく違うものを好きになる可能性もありますよね」
「あるだろうな」
「そうなると、どんな子になるのか、全然分からなくて」
アデルは少し笑った。
「考え始めたら、止まらなくなってしまったんです」
リュシアンは手帳を眺めた。
小さな文字が几帳面に並んでいる。
その内容は、いつもの香料の研究記録とほとんど変わらないほど真剣だった。
「……お前らしいな」
「そうでしょうか」
「ああ」
リュシアンは笑った。
「普通は、こんなに細かく書かないと思うぞ」
「……そうなのですか?」
「少なくとも、俺は書かない」
アデルは少し考えた。
それから、当然のように頷く。
「殿下は、まず実際に確かめてから考える方ですものね」
「……いや」
リュシアンは一瞬、返事に詰まった。
その言葉が思いのほか具体的だったからだ。
アデルは気づかず、手帳の頁をめくっている。
「それに、どちらにも似ていない可能性もあります。そう考えると、ますます分からなくなって」
「……アデル」
「はい?」
「お前、今すごく楽しそうだな」
アデルは瞬きをした。
言われてみれば、確かにそうだった。
子供について考えることは、最初は少し怖かった。
王太子妃としての役割。
宮廷調香師の仕事。
今まで積み重ねてきた生活が変わってしまうかもしれないという不安。
それらは今も、完全に消えたわけではない。
けれど近頃、考えているのはそれだけではなかった。
庭園を歩けば、小さな足音を想像する。
噴水の傍らでは、父親に抱き上げられる子供の姿を思い浮かべる。
温室では、自分の知らないものを好きになるかもしれない子供について考える。
そして、そのどれもが楽しかった。
「……はい」
アデルはゆっくり頷いた。
「とても」
リュシアンの瞳が、少し柔らかくなった。
アデルは開いた手帳へ目を落とした。
そこには、まだ何も分からない未来について、たくさんの疑問が並んでいる。
「……もし私たちの子供がいたら、どんな子になるのでしょう」
自然と、そんな言葉がこぼれた。
リュシアンはすぐには答えなかった。
しばらく彼女を見つめてから、静かに言う。
「……分からないな」
「はい」
アデルは微笑んだ。
「全然、分からないんです」
その声は、不思議なほど明るかった。
「だから、考えるだけで面白くて」
リュシアンは口元を緩めた。
妻が未知の香料を前にしたときと、同じ顔をしている。
何を知ることができるのか。
これから何が起きるのか。
それを想像するだけで、胸が高鳴っているのだ。
けれど、今度の興味の対象は香料でも植物でもなかった。
二人の間に生まれるかもしれない、まだ会ったことのない誰かだった。
「……そうだな」
リュシアンは手帳へ視線を落とした。
「じゃあ、俺も考えてみるか」
アデルが顔を上げる。
「……殿下も?」
「ああ」
彼は少し考えた。
「俺に似たら、寝起きは悪いだろうな」
アデルは思わず笑った。
「確かに、殿下は朝がお苦手ですものね」
「お前に似たら?」
「……朝から調香室へ行きたがるかもしれません」
「両方だったら?」
アデルは真剣に考えた。
「……寝起きが悪いのに、調香室には行きたがる子でしょうか」
リュシアンは眉を寄せた。
「面倒くさいな」
「殿下に似ていますね」
「お前にも似てるだろ」
アデルは笑った。
リュシアンも堪えきれずに口元を緩めた。
「じゃあ、頑固なのは?」
「どちらに似ても、でしょうね」
「……そこは否定できないな」
アデルは頷いた。
「はい。少々心配です」
「お前が言うか」
「殿下も同じでしょう?」
「……まあな」
二人は顔を見合わせた。
それから、どちらともなく笑い出した。
夕陽の差し込む調香室に、穏やかな笑い声が響いた。
アデルは手帳へ目を落とした。
さっきまで一人で考えていたことを、今はリュシアンと一緒に話している。
それだけで、想像の中の子供が少しだけ近くなったような気がした。
「……殿下」
「何だ」
「もし、その子が香りを嫌いだったら、どうしましょう」
リュシアンは少し考えた。
「別に、いいんじゃないか」
「……そうでしょうか」
「ああ」
彼は当然のように答えた。
「俺だって、昔は香りが苦手だった」
アデルは顔を上げた。
灰青色の瞳が、少し遠くを見るように細められている。
「強い香りがすると、頭が痛くなった。人が多い場所も、花をたくさん飾った部屋も、できれば避けたかった」
「……はい」
「でも、母上の香りは好きだった」
その言葉に、アデルの胸が少し温かくなった。
亡き王妃の記憶。
あの日、リュシアンが思い出した、幼い頃の安心できる香り。
それが、二人の物語の始まりでもあった。
「……そうでしたね」
「だから、もし俺に似ていたとしても」
リュシアンはアデルを見た。
「その子が安心できるものを、一緒に探してやればいいだろ」
アデルはしばらく黙った。
それから、ゆっくり頷いた。
「……はい」
何だか、胸の奥が静かに満たされていくようだった。
まだ生まれてもいない子供の話をしているのに、リュシアンはもう、その子が困ったときのことを考えている。
無理に香りを好きにさせるのではなく、その子に合うものを探す。
自分たちの好みを押しつけるのではなく、何を好きになるのか、一緒に知っていく。
それは、とても素敵なことのように思えた。
「……殿下」
「うん?」
「もし、私に似て香りが大好きな子だったら?」
「調香室へ入り浸るだろうな」
「はい」
「その場合、俺の居場所がなくなるかもしれない」
アデルは目を瞬いた。
「……どうしてですか?」
「お前と子供が、二人でずっと香料の話をしてるんだろ」
「……そうですね」
「俺が入っていく隙がない」
アデルは思わず笑った。
「そんなことはありません」
「本当か?」
「もちろんです」
彼女は少し考えた。
「殿下にも、香りを確かめていただきます」
「……結局、仕事か」
「家族で研究です」
リュシアンはとうとう笑い出した。
「……お前、子供ができても変わらなそうだな」
「変わりませんよ」
アデルは当然のように答えた。
「私は、宮廷調香師ですから」
その言葉に、リュシアンは少しだけ目を細めた。
彼女が仕事を愛していることを、誰よりよく知っている。
だからこそ、その仕事を手放さずに、別の未来を考え始めたことが嬉しかった。
「……そうだな」
リュシアンはそっと手を伸ばし、アデルの銀髪へ触れた。
「お前は、それでいい」
アデルは顔を上げた。
夕陽を受けた灰青色の瞳が、いつもより柔らかく見えた。
「……殿下」
「何だ」
「また、考えたことをお話ししてもよろしいでしょうか」
「もちろん」
リュシアンは笑った。
「ただし、俺を勝手に頑固な父親にするなよ」
「……仮説ですので」
「そこは否定しないのか」
アデルは小さく笑った。
リュシアンも呆れたように息を吐きながら、彼女の肩を抱き寄せる。
その腕の中に収まると、清潔な衣服と、かすかな木の香りがした。
慣れ親しんだ、安心できる匂いだった。
アデルはふと考えた。
もし、二人の子供がいたら。
この香りを、好きになってくれるだろうか。
リュシアンが抱き上げたとき、その腕の中を安心できる場所だと思ってくれるだろうか。
自分が仕事を終えて帰ったとき、小さな足音を立てて迎えに来てくれるだろうか。
想像すると、また胸が弾んだ。
まだ、はっきりとした望みではない。
けれど、以前のような不安ばかりではなくなっていた。
むしろ、今は。
知らない未来を考えることが、楽しくて仕方がなかった。
「……アデル」
「はい」
「また笑ってる」
リュシアンが囁いた。
アデルは顔を上げた。
「……そうですか?」
「ああ」
彼は少し笑った。
「今度は何を考えた?」
アデルはしばらく迷った。
それから、そっと彼の胸元へ額を預けた。
「……秘密です」
リュシアンは一瞬黙った。
そして、呆れたように笑った。
「またか」
「はい」
「いつか教えてくれ」
アデルは頷いた。
「……いつか」
窓の外では、秋の陽がゆっくりと沈み始めていた。
調香室には乾燥させた花弁や香木の匂いが漂い、開け放たれた窓からは冷たい夕風が流れ込んでくる。
アデルは夫の腕の中で、静かに目を閉じた。
まだ知らない未来がある。
まだ出会っていない誰かがいるかもしれない。
その子が何を好きになり、どんな顔で笑い、どんな香りを安心できるものとして覚えるのか。
今は、何一つ分からない。
けれど、その分からなさが、こんなにも胸を弾ませるものだとは思わなかった。
アデルは小さく微笑んだ。
いつか、答えを知る日が来るのだろうか。
そのとき、自分はどんな顔をしているのだろう。
きっと、今と同じように。
新しい香りを初めて確かめるときのような、少し期待に満ちた顔をしているのかもしれない。
そして、その隣には。
きっと、リュシアンがいる。
そう思うと、未来は少しも怖くなかった。




