第六十九話 未来を想う香り
悠凰が生まれて、一週間が過ぎた。
王太子宮の庭では桂花が盛りを迎え、秋の柔らかな陽射しが、開け放たれた窓から寝室へ差し込んでいた。薄い帳が風に揺れるたび、甘く澄んだ花の香りが室内へ流れ込み、洗いたての寝具や温めた乳の匂いと穏やかに混ざり合う。つい先日まで二人で使っていた部屋は、たった一週間で随分と違う場所になっていた。
寝台の傍らには小さな寝床が置かれ、柔らかな布や産着が整えられている。窓際には国王から贈られた守り飾りが大切に収められ、長椅子にはリュシアンから届いたクッションがいくつか並んでいた。残りは別室へ運ばれたが、それでも十分すぎる量である。
ライレイはそのクッションへ背を預け、腕の中の息子を眺めていた。
「……ユウユウ」
呼びかけると、小さな顔がわずかに動いた。生まれたばかりの頃は眠ってばかりだったが、ここ数日で少しずつ目を開けている時間が増えている。今朝も乳を飲み終えたあと、しばらく起きていた。
そして、つい先ほど。
「……ユエ」
「はい」
「ねえ、ちょっと来て」
いつもなら嬉しそうに名前を呼ぶ夫の声が、妙に真剣だった。
ユエは読んでいた書物を閉じ、長椅子へ近づいた。
「いかがなさいましたか」
「この子の目」
「……目、でございますか」
「うん。見て」
ライレイが息子の顔を覗き込むと、ユウユウはゆっくりと瞼を持ち上げた。
それまで細く開くばかりだった目が、今日はぱっちりと開いている。まだ焦点が定まっているのかも分からない、幼く澄んだ瞳だったが、差し込む陽の下でその色だけが鮮やかに浮かび上がった。
赤かった。
黒に近いほど深く、光を受けると葡萄酒のような赤が透ける。小さな瞳の奥に宿るその色は、ライレイが何度も見つめてきた妻の瞳によく似ていた。
「……あ」
ユエが小さく声を漏らした。
ライレイは何も言わなかった。ただ、息子の顔を見つめたまま、口元がゆっくりと緩んでいく。
「……ユエ」
「はい」
「似てる」
「……そうですね」
「君に似てる」
ライレイは息を弾ませた。
「ねえ、見て。髪は俺と同じ色なのに、目は君だよ」
赤褐色の柔らかな髪に、暗赤色の瞳。まだ生まれて一週間しか経っていない、小さな顔の中に、自分と妻の面影が並んでいる。
ライレイはしばらく言葉を失っていたが、やがて堪えきれないように笑い出した。
「……ああ、もう。どうしよう」
「何がでしょう」
「可愛い」
「存じております」
「すごく可愛い」
「承知しております」
「ユエ、俺、この子の顔ずっと見ていられる」
「すでに一週間、そのようにしておられます」
「だって、見れば見るほど可愛いんだもん」
ユエは呆れたように微笑んだ。
けれど、彼女自身も息子から目を離せなかった。小さな顔立ちの中に、夫の面影がある。自分の瞳の色を持ちながら、額にかかる柔らかな髪はライレイと同じ赤褐色だった。
この子は、二人の間に生まれてきたのだ。
当たり前のことなのに、改めてその事実を見せられたような気がした。
「……殿下」
「うん?」
「お喜びですね」
「うん」
ライレイは笑った。
「すごく嬉しい」
ユウユウが小さく手を動かした。ライレイが指先を差し出すと、柔らかな指が偶然そこへ触れる。まだ何かを理解しているわけではないのだろうが、その仕草さえ、父親には愛おしくて仕方がなかった。
「……ねえ、ユエ」
「はい」
「不思議だね」
ライレイは赤子を抱いたまま、ゆっくりと妻を見上げた。
「君と俺って、全然違う人間だったのに」
ユエが首を傾げる。
「……今も違う人間にございますが」
「そうだけど」
ライレイは笑った。
「この子の中には、二人ともいるんだね」
その言葉に、ユエは静かに目を細めた。
ライレイはもう一度、息子を見つめた。小さな鼻も、丸い頬も、まだどちらに似ているのか分からない。けれど、この子が成長するにつれて、きっと今より多くの面影が現れるのだろう。
「……なんかさ」
ライレイの声が少し柔らかくなった。
「俺たちが死ぬまで、ずっと繋がっていられる気がする」
ユエが顔を上げた。
「殿下」
「もちろん、この子がいなくても君とは一緒にいるつもりだけどね」
ライレイはいつものように笑った。
「でも、君と俺の半分ずつが、一人の人間になって生きていくなんて、考えてみたらすごいことじゃない?」
ユエはしばらく答えなかった。
それから、夫の隣へ腰を下ろし、腕の中の息子を覗き込んだ。
「……そうでございますね」
赤子の瞳が、ゆっくりと瞬いた。
まるで母親の声を確かめるように、その小さな顔がわずかに動く。
「この子が、どのような人になるのか楽しみにございます」
「うん」
「わたくしたちに似ているところも、似ていないところも、きっとあるのでしょうね」
「そうだね」
ライレイは微笑んだ。
「全部、知っていきたいな」
その言葉に、ユエも頷いた。
やがてユウユウは小さくあくびをして、再び瞼を閉じた。
ライレイは名残惜しそうにその寝顔を眺めていたが、ふと思い出したように顔を上げる。
「……あ、リュシーに手紙を書かなきゃ」
「またでございますか」
「だって、目が開いたんだよ?」
「はい」
「しかも君と同じ色だったんだよ?」
「承知しております」
「こんな大事件、知らせないわけにはいかないでしょ」
ユエは小さく笑った。
どうやらスピネリアの王太子は、これからも定期的に息子の成長を報告されることになるらしい。
「……殿下」
「何?」
「まずは悠凰を寝床へお戻しになってくださいませ」
「……もう少しだけ」
「殿下」
「はい」
ライレイは素直に頷き、息子をそっと寝床へ戻した。
それから嬉しそうに執務室へ向かう夫の背を、ユエは微笑みながら見送った。
庭から流れ込む桂花の香りが、いつもより少し甘く感じられた。
*
数日後の午後、スピネリア王宮の執務室に、再びシャンからの手紙が届けられた。
リュシアンは差出人を確認すると、思わず口元を緩めた。
「……またライレイか」
前の手紙が届いてから、まだそれほど日が経っていない。何か問題でも起きたのかと一瞬考えたが、封筒の裏に添えられた小さな文字を見て、その心配はすぐに消えた。
『とても嬉しい知らせだよ』
筆跡からして、随分と機嫌がよさそうだった。
リュシアンは封を切り、便箋を広げた。
『リュシーへ。
ユウユウの目がぱっちり開くようになったよ。
それがね、赤いんだ。ユエと同じ色。
髪は俺に似ているから、とうとう二人のいいところを半分ずつ持った子になったわけだ。もちろん、俺と同じ金色でも可愛かったと思うけどね。』
リュシアンは小さく笑った。
最後の一文は、いかにもライレイらしい。
生まれたばかりの息子が可愛くて仕方がないということだけは、どの行からもよく伝わってくる。
しかし、続きを読むうちに、その笑みは少しずつ穏やかなものへ変わっていった。
『君はどう思う?
俺とユエは、生まれた場所も育ち方も全然違う。昔の俺なら、誰かとこんなふうに暮らすなんて考えもしなかったと思う。
でも今は、この子がいる。
俺の髪とユエの瞳を持って、俺たちの腕の中で眠っているんだ。
この子の中に二人の半分ずつがあると思うと、俺たちは死ぬまでずっと繋がっていられるような気がするよ。
もちろん、そんな理由がなくてもユエを愛しているけどね。
それに、この子には俺たちの知らないものをたくさん見て、俺たちとは違う人生を歩んでほしいと思っている。
その全部が、今から楽しみなんだ。』
リュシアンはそこで筆跡を眺めた。
ライレイは昔から字が美しかった。
シャンの宮廷で書を学び、軍でも政務でも筆を執ってきた男の文字は、流れるようでありながら力強く、細い線の一本にまで迷いがなかった。ときには刃物のような鋭さを感じるほど、整った筆遣いだった。
けれど、近頃届く手紙は少し違っていた。
文字そのものが変わったわけではない。相変わらず美しく、読みやすい。しかし、以前よりも線の終わりが柔らかく、少しだけ余白の取り方がゆったりしているように見える。
不思議なものだ。
筆跡にまで、人生の変化が現れるのだろうか。
リュシアンは便箋の端を指先で押さえ、続きを読んだ。
『それから、リンレイは予定通りスピネリアへ戻るよ。
ユウユウと離れるのが寂しいらしくて、毎日何度も顔を見に来ている。あの子がこんなに子供好きだったなんて知らなかったな。
帰りの荷物も増えてしまったけど、よろしく頼むね。
アデルちゃんにも、ユウユウの目が赤かったことを伝えておいて。
きっと喜んでくれると思うから。』
最後には、いつもの軽い調子で、スピネリアの秋の気候や交易の進捗を尋ねる言葉が添えられていた。
リュシアンは手紙を丁寧に畳み、机の上へ置いた。
「……随分、変わったな」
思わず呟く。
以前のライレイは、どこか自分の人生を遠くから眺めているような男だった。
戦場でも宮廷でも、次に起こることを読み、勝つために必要な手を打つ。危険な場所へ踏み込むことを恐れず、ときには自分の命さえ軽く扱っているように見えた。
その男が今、息子の瞳の色一つで手紙を書いている。
政治の話よりも先に、妻と子供の話をする。
それが、どれほど大きな変化なのか。
リュシアンは窓の外へ目を向けた。
秋の庭では、低く傾いた陽が白い石畳を照らしている。風に揺れる木々の間から、熟した果実を思わせる甘い香りがわずかに流れ込んできた。
あの男は、きっと今も笑っているのだろう。
妻の隣で、息子の顔を覗き込みながら。
「……よかったな、ライレイ」
リュシアンは小さく笑った。
それから手紙を懐へ収め、残っていた書類へ視線を戻した。
今夜は、アデルにもこの話をしよう。
彼女なら、きっと喜ぶに違いない。
*
夜、王太子夫妻の私室には、ほのかな薔薇の香りが漂っていた。
アデルが昼間、調香室で試作していた香料の残り香だった。華やかな甘さの奥に少し青みがあり、夜の静かな空気の中では、開きかけた花弁を思わせる柔らかな香りに変わっている。
リュシアンが私室へ戻ると、アデルは窓辺の長椅子で書物を読んでいた。
銀色の長い髪は背へ流され、薄い青灰色の室内着が、その白い肌をいっそう明るく見せている。膝に置かれた書物の頁を指先で押さえ、何かを考えるように眉を寄せていた。
「ただいま」
「あ、お帰りなさいませ」
アデルが顔を上げる。
リュシアンは彼女の隣へ腰を下ろし、自然な動作で肩を抱き寄せた。
「またライレイから手紙が来た」
「まあ。今度は何があったのですか?」
アデルの瞳が明るくなる。
リュシアンはその反応に少し笑った。
「ユウユウの目が開いたらしい」
「……まあ!」
「色はユエ嬢に似たそうだ。赤いらしい」
アデルは両手を合わせた。
「本当ですか! よかったですね、ライレイ殿下!」
「ああ。本人も相当喜んでいる」
「以前から、目はユエ様に似てほしいと仰っていましたものね」
嬉しそうな声だった。
アデルはすぐに小さな赤子の姿を思い浮かべた。
赤褐色の柔らかな髪。
まだ幼い頬。
その顔の中に、ユエと同じ暗赤色の瞳がある。
「……きっと、とても可愛らしいのでしょうね」
「そうだろうな」
「早くお会いしたいです」
アデルは微笑んだ。
けれど、リュシアンが手紙の続きを話し始めると、その表情が少しずつ変わっていった。
「ライレイは、二人の半分ずつが一人の子供になったことが嬉しいらしい」
「……半分ずつ」
「ああ。自分たちが死ぬまで、ずっと繋がっていられる気がするそうだ」
アデルはしばらく黙った。
窓の外では、秋の夜風が庭木を揺らしている。遠くの回廊を通る衛兵の足音がかすかに聞こえ、部屋には再び静けさが戻った。
「……素敵ですね」
ようやく、アデルが呟いた。
リュシアンは頷いた。
「ああ」
「ユエ様も、きっとお幸せなのでしょうね」
「そうだろうな」
アデルは膝の上で指先を重ねた。
ユエのことを思い出す。
初めて出会った頃から、あの人はいつも落ち着いていた。毒物の鑑定でも、王宮の事件でも、誰かの命が危険にさらされた場面でさえ、必要なことを見失わなかった。
感情を表に出さないのは、生まれ育ったレン家の教育によるものだと聞いている。
そのユエが、自分の意思でライレイを選び、子供を産んだ。
しかも、今は幸せなのだという。
アデルはその事実を、少し不思議な気持ちで受け止めていた。
女性として。
王太子妃として。
そして、一人の専門職として。
ユエが選んだ人生には、自分と重なる部分がいくつもあった。
「……殿下」
「何だ」
「一つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
リュシアンが顔を向けた。
「もちろん」
アデルはすぐには言葉を続けなかった。
何を聞こうとしているのか、自分でもまだ整理できていなかった。
ユウユウが生まれたと聞いたときは、ただ嬉しかった。ユエが無事だったことに安堵し、ライレイの喜びが手紙から伝わってきたことも、心から幸せに思えた。
けれど、今夜は少し違う。
ライレイが語ったという、二人の半分ずつが一人の命になったという言葉が、どうしても心に残っていた。
「……殿下は」
アデルは顔を上げた。
「お子様が欲しいと思われますか」
リュシアンの動きが止まった。
灰青色の瞳が、少し驚いたように彼女を見つめる。
「……子供?」
「はい」
アデルは膝の上で手を握った。
「王太子殿下には、いずれ世継ぎが必要になりますでしょう」
「……ああ」
「ですが、それとは別に」
言葉を探す。
「殿下ご自身は、どう思われるのかと」
リュシアンはしばらく彼女を見つめていた。
それから、あっさりと答えた。
「欲しいと思ってる」
アデルは目を見開いた。
「……そう、ですか」
「そんなに驚くことか?」
「いえ。その……」
自分で尋ねたことなのに、思いがけず胸が高鳴っていた。
リュシアンは少し考えるように視線を落とした。
「ただ、世継ぎが必要だからというだけではない」
「……はい」
「お前との子供なら、育ててみたいと思う」
あまりにも自然な言葉だった。
アデルは瞬きをした。
「……育てる、ですか」
「何だ」
「いえ。殿下が、そのようなことをお考えなのだと思いまして」
「俺を何だと思ってる」
「王太子殿下です」
「夫でもある」
リュシアンは当然のように答えた。
「子供が生まれたら、お前だけの子供じゃない。俺の子供でもあるだろう」
「……はい」
「なら、二人で育てるものじゃないのか」
アデルは黙った。
王族の子供には乳母がつき、養育係がつき、成長すれば教師や側近が選ばれる。母親である王太子妃でさえ、すべてを自分の手で行う必要はない。
けれど、そういう意味ではなかった。
リュシアンは、子供を産ませることではなく、子供と生きることを考えている。
それが、アデルには少し意外だった。
「……ですが」
「うん?」
「私は、宮廷調香師の仕事を続けたいです」
「知ってる」
即答だった。
「……はい」
「だから?」
「ですから、その……子供ができれば、今までと同じようには働けなくなるかもしれません」
アデルは膝の上へ視線を落とした。
調香室へ通う時間。
香料を調べ、実験し、配合を考える日々。
宮廷調香師として積み重ねてきた仕事は、彼女にとって単なる役職ではなかった。
自分が何者であるかを示す、大切な一部だった。
王太子妃になった今も、それは変わらない。
むしろ、リュシアンと結婚したことで、仕事への誇りは以前より強くなっている。王宮で起こるさまざまな出来事を香りから読み解き、人々の役に立てることが嬉しかった。
その生活が、子供を持つことで変わってしまう。
考えるだけで、少し怖かった。
「……仕事を失うのが、怖いのか」
リュシアンが静かに尋ねた。
アデルは顔を上げた。
灰青色の瞳が、まっすぐこちらを見つめている。
「……はい」
隠さずに答えた。
「そうか」
リュシアンは頷いた。
責めるでもなく、呆れるでもなかった。
「だったら、続けられる方法を考えればいい」
アデルは瞬きをした。
「……簡単に仰いますね」
「簡単だとは言ってない」
リュシアンは少し笑った。
「俺たちはもう、何度もそうしてきただろう」
その言葉に、アデルは黙った。
王太子妃になると決めたときも、宮廷調香師を辞める必要はないと言ってくれた。
公務が増えることも、調香室へ籠もる時間が減ることも、二人で話し合いながら折り合いをつけてきた。
今まで通りにはいかないことがあっても、それですべてを諦める必要はない。
「子供ができたら、今より忙しくなるだろうな」
「……はい」
「お前も俺も、今までと同じ時間の使い方はできないと思う」
「そう、ですね」
「でも、それでお前が調香師を辞めなきゃならない理由にはならない」
リュシアンは彼女の手を取った。
「俺も父親になるんだから、俺ができることはする」
アデルは握られた手を見つめた。
リュシアンの指は長く、温かかった。
毎日のように触れている手なのに、今夜は少し違って感じられる。
「……殿下」
「何だ」
「それでも、私が子供を望まなかったら?」
尋ねた途端、胸が少し苦しくなった。
こんなことを聞くべきではないのかもしれない。
王太子妃として、世継ぎを産むことが重要なのは理解している。国の未来に関わることであり、自分一人の気持ちだけで決められる問題ではない。
それでも、確かめたかった。
リュシアンはすぐには答えなかった。
彼女の手を握ったまま、少し考えている。
やがて、静かに口を開いた。
「望まないなら、無理に産む必要はない」
アデルが顔を上げた。
「……ですが、世継ぎは」
「必要だ」
リュシアンははっきり答えた。
「それは変わらない。王太子である以上、国の将来を考えなきゃならないし、いつか俺のあとを継ぐ者についても決める必要がある」
「……はい」
「でも、それは国の問題として考えるべきことだろう」
灰青色の瞳が、柔らかく細められた。
「お前の気持ちを無視していい理由にはならない」
アデルは何も言えなかった。
「俺は、子供が欲しいと思ってる」
リュシアンは続けた。
「お前と育ててみたい。どんな子になるのか知りたいし、どんなふうに笑うのかも見てみたい」
彼は少し照れたように口元を緩めた。
「ただ、それはお前と一緒だから思うことだ」
「……殿下」
「お前を失ってまで叶えたい望みじゃない」
その言葉が、静かに胸へ落ちてきた。
アデルは俯いた。
目元が少し熱くなる。
リュシアンは何も急かさなかった。
ただ、握った手を離さずにいてくれる。
しばらくして、アデルは小さく息を吐いた。
「……ありがとうございます」
「礼を言われるようなことか?」
「はい」
アデルは微笑んだ。
「私には、とても大切なお話でした」
リュシアンは彼女を見つめた。
それから、そっと身体を引き寄せる。
アデルは抵抗せず、その胸元へ額を預けた。
慣れ親しんだ香りがした。
清潔な衣服と、ほんのわずかな木の香り。それから、彼自身の肌に残る、柔らかな温もりを感じさせる匂い。
初めて出会った頃、リュシアンは強い香りを嫌い、他人が近づくことにも敏感だった。
けれど今は、こうして当たり前のように自分を抱き寄せている。
彼にとって、自分の香りが安心できるものになったのだと、アデルは知っていた。
それを思い出した途端、ふと別の考えが浮かんだ。
ユウユウは、どんな香りを覚えるのだろう。
ライレイの腕に抱かれたときの匂い。
ユエの胸で眠るときの匂い。
王太子宮の庭に咲く桂花の香りも、いつかあの子にとって故郷を思い出すものになるのだろうか。
リュシアンが、亡き母の香りを覚えていたように。
幼い頃に感じた安心は、言葉を覚える前から身体の奥へ残っていくことがある。香りはときに、忘れていた記憶を思いがけないほど鮮明に呼び起こす。
アデルは宮廷調香師として、それを何度も見てきた。
そして今、初めて考えた。
もし、自分たちに子供が生まれたら。
その子は、どんな香りを安心できるものとして覚えるのだろう。
自分の髪の匂いだろうか。
リュシアンの衣服の香りだろうか。
あるいは、二人が過ごすこの部屋の、いつも変わらない穏やかな空気だろうか。
「……アデル?」
呼ばれて顔を上げた。
「何を考えてる」
「……少し」
アデルは微笑んだ。
「香りのことを」
リュシアンが眉を上げた。
「今?」
「はい」
「……お前らしいな」
呆れたような声だったが、その口元は笑っている。
アデルは彼の胸元へもう一度顔を寄せた。
子供が欲しいのかと聞かれたら、まだ分からない。
母親になる自分を、はっきり想像できるわけでもなかった。
ただ。
もし、この人との間に子供が生まれたら。
その子が何を好きになり、どんな香りに安心し、どんな顔で笑うのか。
少しだけ、知ってみたいと思った。
それはまだ、願いと呼ぶにはあまりに小さな気持ちだった。
けれど、アデルはその思いを否定しなかった。
今夜は、答えを出さなくてもいい。
リュシアンが、自分の望みを正直に話してくれたように。
自分も、いつか自分の望みを伝えられるようになりたい。
アデルは静かに目を閉じた。
部屋に漂っていた薔薇の香りが、いつの間にか少し薄くなっている。
代わりに、すぐ近くから、何より慣れ親しんだ夫の香りがした。
今は、それだけで十分だった。
*
それから数日後、シャン王宮の正門には、スピネリアへ向かう使節団の馬車が並んでいた。
秋の朝は澄んでおり、石畳には夜露の名残がわずかに残っている。遠くの庭からは桂花の香りが漂い、風が吹くたびに淡い金色の花が地面へ散った。
リンレイは旅装に身を包み、王太子宮の前に立っていた。
淡い杏色の衣に、動きやすい外套を重ねている。長い赤褐色の髪は後ろで丁寧にまとめられ、金色の瞳は朝の光を受けて澄んでいた。
スピネリアへ赴任した頃は、まだ一人で異国へ向かうことに不安を隠せない少女だった。
けれど今は違う。
使節団の者たちへ出発前の確認を済ませ、積み荷の数や書状の保管についても自分で指示を出している。
その姿を、ライレイは少し離れたところから眺めていた。
「……すっかり立派になったね」
隣に立つユエへ小さく呟く。
「そうでございますね」
「最初にスピネリアへ送り出したときは、毎日心配だったのに」
「今もご心配なのでは?」
「……まあね」
ライレイは苦笑した。
「兄だからね」
ユエは微笑んだ。
やがて出発の支度が整うと、リンレイが二人のもとへ歩み寄ってきた。
「兄様、ユエ姉様」
「リンレイ。もう準備できた?」
「はい。すべて整いました」
そう答えたリンレイの視線が、すぐにユエの腕へ向かった。
柔らかな布に包まれたユウユウが、母親に抱かれて眠っている。
赤褐色の髪と、小さな丸い頬。
朝の光を受けた寝顔は、何度見ても飽きることがなかった。
「……ユウユウ」
リンレイの声が、たちまち柔らかくなる。
「叔母上ですよ」
そっと顔を近づける。
ユウユウが小さく身じろぎした。
「……あ」
リンレイは嬉しそうに笑った。
「今、動きました」
「うん。起きるかな」
ライレイが覗き込む。
赤子はゆっくりと瞼を開けた。
暗赤色の瞳が、朝の光を受けてかすかに輝く。
リンレイは息を呑んだ。
「……本当に、ユエ姉様にそっくり」
「でしょ?」
ライレイは満足そうに笑った。
「すごく可愛いよね」
「はい。とても」
リンレイは小さな手へ指先を近づけた。
柔らかな指が触れると、思わず頬が緩む。
けれど、その笑顔はすぐに少し寂しそうなものへ変わった。
「……次に会う頃には、もっと大きくなっているのでしょうね」
「そうだろうね」
「私のこと、覚えていてくれるでしょうか」
「どうかなあ」
ライレイは少し考えた。
「でも、また会ったらすぐ仲良くなれると思うよ」
リンレイは頷いた。
それから、ユウユウの小さな顔をもう一度見つめた。
「……ユウユウ」
声がわずかに震えた。
「叔母上は、スピネリアで頑張りますからね」
金色の瞳が潤んでいく。
「あなたのためにも、交易をもっと盛んにして、シャンを豊かな国にして……」
言葉の途中で、涙がこぼれた。
「……立派な叔母上になりますからね!」
ライレイは目を丸くした。
「……リンレイ」
妹は慌てて目元を拭った。
「申し訳ありません。出発前なのに」
「いや、いいんだけど」
ライレイは少し笑った。
「なんか、すごく張り切ってるね」
「当然です」
リンレイはきっぱり答えた。
「ユウユウが大きくなったとき、シャンがもっと豊かで、平和な国になっていてほしいですもの」
その言葉に、ライレイはしばらく黙った。
かつて、妹を守るために何でもしようと思っていた。
戦場へ出ることも、危険な政治の駆け引きに身を置くことも、彼女が安心して暮らせる未来を作るためだった。
その妹が今、自分の息子の未来を考えている。
随分と遠くまで来たものだと思った。
「……リンレイ」
「はい」
ライレイは妹の頭へ、そっと手を置いた。
「無理しなくていいからね」
リンレイが顔を上げる。
「……兄様」
「交易も外交も大切だけど、君が元気でいることの方が大事だから」
赤褐色の髪を優しく撫でる。
「困ったことがあったら、すぐに言って。辛くなったら帰ってきてもいい。君の仕事は、誰かに代わってもらうことだってできるんだから」
リンレイは何も言わなかった。
ライレイはいつものように笑った。
「いつでも帰っておいで」
その言葉に、リンレイの目からまた涙がこぼれた。
「……兄様」
「うん?」
「私は、もう子供ではありません」
「知ってるよ」
「スピネリアでも、ちゃんと仕事ができています」
「うん。知ってる」
「ですから、そんなに心配なさらなくても」
「それは無理かなあ」
ライレイは笑った。
「君がいくつになっても、俺の妹だからね」
リンレイは唇を結んだ。
それから、少しだけ笑った。
「……兄様は、変わりませんね」
「そう?」
「はい」
リンレイは兄を見上げた。
「ユウユウが生まれて、お父様になっても」
ライレイは一瞬考え、それから柔らかく笑った。
「……そっか」
彼女の頭を、もう一度撫でる。
「じゃあ、よかった」
隣でその様子を見ていたユエが、静かに声をかけた。
「リンレイ殿下」
「はい、ユエ姉様」
「どうか、お身体を大切になさってくださいませ」
ユエは腕の中の息子を少し抱き直した。
「次にお帰りになったときには、この子とたくさん遊んでやってください」
リンレイの目が大きく見開かれた。
「……はい」
涙の残る顔で、嬉しそうに微笑む。
「もちろんです」
ユエも微笑んだ。
「きっと、楽しみにしております」
その言葉に、リンレイは何度も頷いた。
やがて、使節団の一人が出発の時間を告げに来た。
リンレイは名残惜しそうにユウユウを見つめたあと、ようやく背筋を伸ばした。
「……では、行ってまいります」
「うん。気をつけて」
「はい」
ライレイはふと思い出したように、後ろの荷車を指さした。
「あ、それから、お土産よろしくね」
「……お土産?」
「うん。リュシーとアデルちゃんに」
リンレイは荷車を振り返った。
そこには、出発前に増えた木箱や布包みが、きれいに積み上げられている。
シャンの香木。
新領地で採れた薬草。
ユエがアデルのために選んだ、珍しい乾燥花や調合用の素材。
それから、ライレイがリュシアンへ贈るという茶葉や菓子。
「……兄様」
「何?」
「随分、増えましたね」
「そう?」
「はい」
「でも、リュシーもアデルちゃんも喜ぶと思うよ」
ライレイは悪びれずに笑った。
リンレイは小さく息を吐いた。
「……承知いたしました」
その返事を聞いて、ライレイは満足そうに頷いた。
「よろしくね」
リンレイはもう一度、ユウユウへ顔を近づけた。
「……ユウユウ」
小さな額へ、そっと唇を寄せる。
「また会いましょうね」
赤子は穏やかに眠っていた。
返事はなかったが、リンレイにはそれで十分だった。
馬車へ乗り込む前に、もう一度振り返る。
兄が笑っている。
その隣にはユエがいて、腕の中には小さなユウユウが眠っている。
かつて、この王宮で自分を守ってくれた兄に、新しい家族ができた。
そのことが嬉しくて、少し寂しくて、けれど何より誇らしかった。
リンレイは深く息を吸った。
秋の風には、桂花の甘い香りが含まれていた。
この香りを、きっと忘れないだろう。
「……行ってまいります!」
今度は、はっきりとした声だった。
ライレイが片手を上げる。
「いってらっしゃい」
ユエも静かに頭を下げた。
「道中のご無事をお祈りしております」
リンレイは微笑み、馬車へ乗り込んだ。
やがて車輪が動き始める。
石畳を踏む馬の蹄音が響き、使節団の列がゆっくりと正門を離れていった。
スピネリアまで、一週間の旅路が始まる。
窓から身を乗り出しかけたリンレイは、慌てて姿勢を正し、それでも最後まで手を振り続けた。
兄は、見えなくなるまでそこに立っていた。
その隣で、ユエも微笑んでいた。
そして二人の腕の中には、新しい命がある。
リンレイは馬車の座席へゆっくり腰を下ろした。
今度スピネリアへ戻ったら、アデル姉様にたくさん話したいことがある。
ユウユウがどれほど可愛いか。
兄がどれほど嬉しそうだったか。
ユエ姉様が、どれほど幸せそうに笑っていたか。
きっと、話しても話しても足りないだろう。
リンレイは窓の外へ目を向けた。
秋の陽射しを受けた街道が、遠くまで続いている。
王宮の庭から漂っていた桂花の香りは、少しずつ薄れていった。
けれど、その甘い余韻は、胸の奥にいつまでも残っていた。
それは、また帰ってきたいと思える場所の香りだった。




