第六十八話 満ちていく香り
夕方、スピネリア王宮の鷹舎に、一羽の鷹が降り立った。
秋の陽が傾き始めた空から、褐色の翼が大きく広がり、慣れた動きで止まり木へ舞い降りる。羽音に気づいた鷹匠が近づくと、鷹はおとなしく脚を差し出した。そこには、シャン王家の印が刻まれた小さな筒が括りつけられていた。
いつもなら、届いた手紙を王宮へ運ぶのはリンレイの役目だった。けれど今、彼女は出産を控えた義姉に付き添うため、故郷のシャンへ戻っている。
代わりに書状を受け取ったのは、リンレイとともにスピネリアへ派遣されていた使節団の一員だった。
「……王太子宮から?」
封印を確かめた男は、すぐに書状をリュシアンの執務室へ運ばせた。
ちょうど午後の会議を終えたところだったリュシアンは、シャンからの急使と聞いて顔を上げた。机上には交易関係の書類が積まれており、窓の外では秋の庭が夕陽に染まっている。
「リンレイ殿下からではないのか」
「はい。今回はライレイ王太子殿下からの私信にございます」
「……ライレイから?」
リュシアンはすぐに手を伸ばした。
予定日より少し早いが、そろそろだろうとは思っていた。リンレイが帰郷したのも、義姉の出産に立ち会うためである。
もしかしたら。
そんな予感を抱きながら、封を切った。
『リュシーへ。
生まれたよ。』
最初の一行を読んだ瞬間、リュシアンの口元が緩んだ。
「……そうか」
そのまま、ゆっくり続きを読む。
予定より早く生まれたこと。母子ともに健康であること。ライレイが産屋で邪魔者扱いされたこと。そして、生まれた息子に悠凰という名をつけたこと。
『俺、父親になったよ。』
最後の一文を読み終えても、しばらく手紙を閉じられなかった。
あのライレイが。
初めて出会った頃から、何を考えているのか分からない笑みを浮かべ、政治も戦も遊びの延長のようにこなしていた男が、今では妻と息子の話ばかりしている。
もっとも、その変化はユエと出会ってから少しずつ始まっていた。彼女のことになると妙に分かりやすくなるのも、今に始まったことではない。
それにしても。
「……邪魔だったのか」
小さく笑いが漏れた。
あれほど人を動かすのが上手い男が、産屋では何の役にも立たなかったらしい。しかも妻だけではなく、妹にまで追い出されている。
目に浮かぶようだった。
「殿下?」
書類を整理していた侍従が、不思議そうに顔を上げた。
「いかがなさいましたか」
「いや」
リュシアンは手紙を丁寧に畳んだ。
「友人に、息子が生まれた」
「それは、おめでとうございます」
「ああ」
返事をしながら、自然と笑みが浮かぶ。
「……よかった」
ユエも無事だった。
それが何より嬉しかった。
あの二人がどれほど多くの困難を越えてきたか、リュシアンは知っている。シャンの王位継承争いも、宮廷の陰謀も、互いの命を失いかけた夜も。
だからこそ、こうして届いた知らせがひどく眩しく感じられた。
「アデルにも伝えなければ」
リュシアンは手紙を懐へ収めた。
妻がこの知らせを聞けば、どんな顔をするだろう。
きっと、驚くだろう。
それから、笑って。
もしかしたら、泣くかもしれない。
そう思いながら、彼は残りの書類を片づけ始めた。
今夜は、なるべく早く私室へ戻ろう。
*
夜、王太子夫妻の私室には、柔らかな灯りがともっていた。
窓辺の小卓には、アデルが仕事の合間に持ち帰った香料の記録が置かれている。今夜はそれを整理するつもりだったらしいが、リュシアンが戻ってきたとき、彼女はすでに筆を置き、長椅子で茶を飲んでいた。
「お帰りなさいませ、殿下」
「ああ。ただいま」
リュシアンは彼女の隣に腰を下ろした。
いつものようにアデルが少し身体を寄せてくる。銀色の髪からは、仕事中に扱った香料の残り香がわずかに漂っていた。
「今日は早かったのですね」
「知らせがあった」
「知らせ?」
アデルが顔を上げる。
リュシアンは懐から折り畳んだ手紙を取り出した。
「ユエ嬢の出産が無事終わったようだ」
一瞬、アデルの動きが止まった。
「……え?」
「予定より少し早かったらしい。だが、母子ともに健康だそうだ」
彼女はリュシアンの顔を見つめた。
それから、手紙を見る。
もう一度、彼を見る。
「……本当ですか?」
「ああ」
「ユエ様も?」
「無事だ」
「赤ちゃんも?」
「元気な男の子だそうだ」
アデルは口元を押さえた。
何か言おうとしているのに、うまく言葉にならないらしい。大きな瞳が潤み、やがて目元が赤くなっていく。
「……よかった」
小さな声がこぼれた。
「本当に、よかった……」
リュシアンは彼女の肩へ腕を回した。
アデルはそのまま彼の胸元へ顔を寄せ、深く息を吐いた。出産予定が近づくにつれ、手紙が届くたびにユエの体調を気にしていたのだ。
薬や身体のことをよく知っているユエだからこそ、出産が決して容易なものではないと分かっていたのだろう。
「……あの方、いつも平気なお顔をなさるでしょう」
「ああ」
「きっと、痛くても怖くても、あまり仰らないのではないかと思って」
「そうかもしれないな」
「でも、よかった……」
アデルはもう一度、そう呟いた。
リュシアンは何も言わず、彼女の背をゆっくり撫でた。
しばらくして顔を上げたアデルは、ようやく手紙を受け取った。
丁寧に目を通していくうちに、涙の残る目元が少しずつ緩んでいく。
「……ライレイ殿下、邪魔だったのですか」
「ああ。本人がそう書いている」
「しかも、リンレイ殿下にまで」
「相当だったらしい」
アデルは堪えきれずに笑った。
「想像できます」
「俺もだ」
「でも、きっと嬉しくて仕方がなかったのでしょうね」
「間違いない」
手紙の最後まで読み終えると、アデルは『俺、父親になったよ』という一文を指先でそっとなぞった。
「……ライレイ殿下らしいですね」
「そうか?」
「はい。なんだか、とても」
彼女は微笑んだ。
「幸せそうです」
リュシアンも頷いた。
「ああ」
手紙には、政務の報告も外交上の挨拶もなかった。
ただ、生まれた息子がどれほど小さく、どれほど可愛いかが書かれている。
それで十分だった。
「手紙の返事を書こう」
リュシアンが言うと、アデルはすぐに身体を起こした。
「私も書きます」
「そう言うと思った」
「ユエ様へも、お祝いを申し上げたいですし。それから赤ちゃんにも」
「まだ読めないぞ」
「今は読めなくても、いつか読んでいただけるかもしれません」
真剣な顔だった。
リュシアンは小さく笑い、机へ向かった。
便箋を二枚並べ、アデルにも筆を渡す。
「何と書こうかな……」
アデルはしばらく悩んでいたが、やがて一文字ずつ丁寧に書き始めた。
その隣で、リュシアンはずいぶん短い返事を書いた。
『ライレイへ。
無事の知らせをありがとう。
ユエ嬢と悠凰の誕生を、アデルともども心から祝う。
お前が産屋で邪魔だった件については、驚いていない。
まずは二人を休ませろ。お前も寝ろ。
――リュシアン』
書き終えてから、少し考える。
そして最後にもう一行だけ加えた。
『おめでとう。父親になったな。』
その一文は、からかいでも忠告でもなかった。
友人として、ただ嬉しかった。
隣ではアデルがまだ一生懸命に筆を動かしている。
覗き込むと、ユエへの感謝や身体を労わる言葉に続いて、生まれた子供へ向けた祝福が丁寧に綴られていた。
「……長いな」
「まだ途中です」
「そうか」
「それから、次にお会いするときにはぜひ抱かせていただきたいです」
「書くのか?」
「はい」
「ユエ嬢への手紙だろう」
「ですから、お願いしているのです」
リュシアンは笑った。
アデルが何の迷いもなくそう言うのを聞いていると、まだ会ったことのない小さな子供が、急に身近に感じられる。
ライレイの息子。
ユエの息子。
そして、いつか自分たちの腕にも抱かれるかもしれない子供。
リュシアンは筆を置き、窓の外へ目を向けた。
秋の夜空には、澄んだ星が広がっている。
遠いシャンでも、同じような空が見えているだろうか。
今頃、あの男は何をしているのだろう。
どうせ、息子の寝顔でも眺めているに違いない。
*
翌朝、シャン王太子宮は、これまでになく穏やかな時間を迎えていた。
正確には、穏やかなのは生まれたばかりの王子だけであり、父親の方は朝からずっと落ち着きがなかった。
「……ユウユウ」
ライレイは寝台の傍らに置かれた小さな寝床を覗き込んだ。
柔らかな布に包まれた息子は、すやすやと眠っている。赤褐色の髪が朝の光を受けて淡く輝き、まだ布に包まれた胸元が規則正しく上下していた。
「ねえ、ユエ」
「はい」
「この子、すごく大人しくない?」
「よく眠っておりますね」
「誰に似たんだろう」
ライレイは真剣に考えた。
少なくとも、自分ではない。
赤子というものはもっとよく泣くのではないかと思っていたのだが、ユウユウは必要なとき以外、あまり声を上げなかった。腹が満たされ、布が心地よければ、それで十分らしい。
目を覚ましているときでさえ、周囲をぼんやり眺め、手足を少し動かしているだけだった。
「……ユエだな」
「何がでしょう」
「性格」
「生後間もない赤子の性格を、もう判断なさるのですか」
「だって、こんなに落ち着いてる」
ライレイは息子の頬を指先でそっと撫でた。
すると、ユウユウが顔をわずかに背けた。
「……ほら」
「何がでしょう」
「今、やれやれって顔した」
「しておりません」
「絶対したよ。俺が構うと、ちょっと面倒そうにするところなんて君にそっくり」
「殿下」
「うん?」
「わたくしは、そのような顔をしておりますか」
「してるよ。すごく可愛い」
ユエは小さく息を吐いた。
その反応を見て、ライレイはますます嬉しそうに笑った。
「ほら、今の」
「……もう結構にございます」
ユウユウが眠りながら小さく口を動かす。
ライレイはたちまちそちらへ顔を戻した。
「ユウユウ。今、母上と話してたんだよ」
もちろん返事はない。
それでも父親は上機嫌だった。
朝食も済ませ、身支度も整えたはずだったのに、執務室へ向かう気配がまったくない。
侍従が一度、遠慮がちに声をかけた。
「殿下。本日の公務でございますが」
「うん。あと少ししたら行くよ」
それから一刻。
「殿下。そろそろお時間が」
「うん、分かってる」
さらに一刻。
「殿下……」
「あとちょっと」
そして、とうとう三刻が過ぎた。
侍従は何度目かの呼びかけを諦め、静かに目を伏せた。
ライレイは息子の小さな手を握っていた。
「……今日は休もう〜、ね〜ユウユウ」
完全に仕事へ行く気がなくなっていた。
ユエは呆れたように夫を眺めたが、何も言わなかった。
普段なら、まず公務を片づけるよう促しただろう。王太子の責務は重く、出産を理由にすべてを放り出してよいものではない。
けれど、今日くらいは。
目の前の夫は、生まれたばかりの息子を眺めるだけで、今まで見たこともないほど嬉しそうにしている。
その姿をもう少し見ていたいと思った。
「……本日分のご予定は、後日へ振り替えていただきましょう」
「ユエ?」
「ただし、急ぎの案件だけは確認なさってくださいませ」
「……いいの?」
「はい」
ライレイは目を丸くした。
それから、満面の笑みを浮かべる。
「ユエ、大好き」
「存じております」
「すごく好き」
「承知しております」
「愛してる」
「……そちらも存じております」
さらりと受け流しながらも、ユエの頬はほんの少し緩んでいた。
そこへ、リンレイが顔を出した。
「兄様、ユエ姉様。おはようございます」
「おはよう、リンレイ」
「ユウユウは?」
「寝てるよ。すごく可愛い」
「存じております」
「……君までユエみたいな返事するようになったね」
「事実ですもの」
リンレイは寝床へ近づき、そっと赤子の顔を覗き込んだ。
昨日は泣きながら眺めていた甥が、今日は穏やかに眠っている。
「……本当に、小さい」
「ね。可愛いでしょ」
「はい。とても」
リンレイは頬を緩めた。
それから、何か思い出したように手を打った。
「そうでした。出産の騒ぎでお渡しできずにおりましたが、まだ贈り物がございます」
「贈り物?」
「はい。リュシアン殿下とアデル姉様からです」
ライレイが顔を上げる。
「まだあったの?」
「ええ。お二人とも、随分張り切っておられましたので」
リンレイが女官へ合図すると、大きな荷がいくつも運び込まれてきた。
布包み。
籠。
さらに、その後ろからもう一つ。
ライレイは目を瞬いた。
「……何これ」
「まず、リュシアン殿下からはこちらです」
包みを解くと、中から出てきたのは大量のクッションだった。
大小さまざまな形のものが重ねられ、さらに別の袋には、柔らかな綿がぎっしり詰められている。
「……クッション?」
「はい」
「こんなに?」
「はい」
「何で?」
リンレイは一枚の手紙を取り出した。
「『ライレイに似た場合、はしゃいで危ないかもしれない。足りない時はこれでクッションをたくさん作ってくれ』とのことです」
沈黙が落ちた。
ライレイはクッションの山を眺めた。
それから、寝床で静かに眠る息子を見る。
「……リュシー」
呟く。
「生まれたばかりの子が、そんなにはしゃぐわけないでしょ」
「将来を見越して、とのことでしょう」
「俺、そんなに落ち着きなかった?」
リンレイが何も言わずに微笑んだ。
ユエも目を伏せた。
「……二人とも、何か言ってよ」
「お気持ちはありがたいですね」
ユエが答える。
「使わせていただきましょう」
「君まで?」
「殿下に似るのでしたら、必要になるかもしれません」
ライレイは唇を尖らせた。
「ひどいなあ」
けれど、クッションの一つを手に取ると、その柔らかさを確かめるように指で押した。
丁寧に仕立てられている。生地も丈夫で、縫い目も細かい。
リュシアンらしい贈り物だった。
たぶん、本人は大真面目に考えたのだろう。
その様子を思い浮かべると、思わず笑ってしまった。
「……ありがと、リュシー」
小さく呟いたところで、リンレイが次の包みを開いた。
「そしてアデル姉様からは、こちらを」
差し出されたのは、小さな匂い袋だった。
淡い生成り色の布に、繊細な刺繍が施されている。紐の先には小さな房飾りがついており、赤子のために仕立てられたものと分かる、控えめな意匠だった。
ユエは両手でそれを受け取った。
「……香り袋、でしょうか」
「はい。ただし、中には何も入っておりません」
「何も?」
「赤ちゃんのために、あえて香料は入れなかったそうです。香りに敏感かもしれませんし、ユエ姉様のお好きなように使っていただければと」
ユエは袋の口をそっと開いた。
確かに、中は空だった。
けれど。
布を胸元へ引き寄せた途端、微かな香りがした。
すん、と鼻先を近づける。
何か一つの香料ではない。
乾いた草花、柔らかな樹脂、清潔な布に染み込んだ、ごく微かな甘さ。
幾種類もの香りが、混ざり合う寸前のところで残っている。
「……あ」
ユエは目を細めた。
覚えている。
スピネリア王宮の調香室。
無数の香料瓶が並び、開けた窓から庭の風が入り、アデルが楽しそうに香りを語っていた、あの部屋の匂いだった。
「……アデル様」
自然と名前がこぼれた。
何も入っていないはずの袋が、遠い友人のいる場所を思い出させてくれる。
ユエはもう一度、そっと香りを確かめた。
「……懐かしゅうございます」
リンレイが微笑んだ。
「アデル姉様、仕立てる間ずっと調香室へ置いておられたのです。おそらく、その香りが移ったのでしょう」
「ええ」
ユエは静かに頷いた。
「分かります」
大切そうに袋を胸元へ抱く。
ライレイがその様子を眺めていた。
「……ユエ」
「はい」
「嬉しい?」
「はい」
彼女は微笑んだ。
「とても」
その一言だけで、ライレイもまた幸せそうに笑った。
*
出産の知らせは、王宮の中へ少しずつ広がっていった。
産婆の許可を得て、祝いに訪れる人々の面会は短い時間に限られた。昼を過ぎた頃、最初に訪れたのは、第三王子ハオジュンと、その母である第三王妃ミンランだった。
「ライレイ!」
大きな声が廊下から響いた。
続いて現れたのは、大柄な身体を濃い色の衣に包んだ第三王子だった。焦げた赤色の髪、鋭い黒い瞳、右頬から顎へ走る古傷。黙って立っていれば、今にも敵陣へ斬り込んでいきそうな武人である。
その後ろから、柔らかな色の衣をまとったミンランが、にこにこと笑いながら入ってきた。
「まあまあ、本当におめでとう。ユエさんも、よく頑張ったわねえ」
「ありがとうございます、第三王妃様」
「お身体はどう? 痛いところはない? 無理をしてはいけないわよ」
「おかげさまで、順調にございます」
「それはよかった」
ミンランは安心したように頷いた。
その隣で、ハオジュンが妙に黙っている。
「……兄上?」
ライレイは首を傾げた。
「どうしたの?」
「いや」
「……ねえ、なんか目、赤くない?」
「赤くない」
「赤いよ」
「風だ」
「ここ、室内だけど」
ハオジュンは返事をしなかった。
代わりに、小さな寝床へ視線を落とす。
ユウユウは眠っていた。
赤褐色の産毛が柔らかく額にかかり、丸い頬が静かな寝息に合わせて動いている。
ハオジュンの大きな手が、宙で止まった。
「……小さいな」
「でしょ」
「こんなに小さいのか」
「そうなんだよ。俺も驚いた」
ハオジュンはじっと赤子を見つめた。
そして、ゆっくり息を吸った。
「あの戦場で……獅子よ虎よと恐れられたお前が……」
声が震えた。
「……父に……」
「ねえ、戦場の異名増やすのやめて。ほんとに恥ずかしいから」
「俺は……お前が……」
「兄上?」
「……よかったなあ」
とうとう、涙がこぼれた。
ライレイは目を丸くした。
「……泣いてる?」
「泣いてねえ!」
「泣いてるじゃん」
「うるせえ!」
ハオジュンは大きな手で乱暴に目元を拭った。
しかし、その手が離れるとまた赤くなっている。
強面の武人が、赤子の寝顔を見ただけで泣いている。
あまりにも似合わない光景だった。
ライレイはしばらく呆然としたあと、堪えきれず笑った。
「兄上、そんなに嬉しいの?」
「当たり前だろ!」
即答だった。
「お前は昔から……何でも一人で決めて、一人で片づけて……勝手に背負い込んで……」
ハオジュンは鼻をすすった。
「それが今じゃ、こんな……こんなに……」
「……兄上」
「いい家族ができたじゃねえか」
ライレイは少しだけ黙った。
それから、いつもの軽い調子で笑った。
「うん」
ユエの隣へ腰を下ろし、眠っている息子を見た。
「そうなんだ。すごくいい家族だよ」
ハオジュンはまた泣いた。
「兄上、泣きすぎ」
「うるせえ!」
「……まあまあ」
ミンランが朗らかに笑った。
「この子は昔から、嬉しいと泣くのよ。部下に子供が生まれたと聞いても泣いていたし、結婚すると聞いたときも泣いていたわ」
「母上!」
「だって本当でしょう?」
息子の抗議などまるで気にせず、ミンランはユエの傍らへ座った。
「ユエさん。出産のあとは、身体が思うより疲れているものよ。調子がよくても、しばらくはゆっくりなさいね」
「はい」
「赤ちゃんのことも、全部自分でしようとしなくていいの。乳母も女官もいるし、何より」
ミンランはライレイを見た。
「こんなに張り切っているお父様がいるんですもの」
「そうそう。俺、何でもするよ」
「ただし、お母様を疲れさせないようにね」
「……はい」
すでに何度も注意されていることだった。
ミンランは優しく笑い、ユエの手へ自分の手を重ねた。
「怖かったでしょう」
その言葉に、ユエはわずかに目を見開いた。
大丈夫かと尋ねられることはあった。
疲れていないか、痛みはないか、身体は回復しているか。
けれど、怖かったかと尋ねられたのは初めてだった。
「……多少は」
ユエは静かに答えた。
「そうよね。どれほど知識があっても、自分のこととなると別ですもの」
ミンランの声には、経験した人間だけが持つ柔らかな温かさがあった。
「よく頑張ったわね」
ユエは一瞬、返す言葉を失った。
それから、ゆっくり頭を下げる。
「……ありがとうございます」
ミンランは満足そうに頷くと、今度は赤子へ目を向けた。
「それにしても、可愛らしいこと。髪の色はライレイに似たのね」
「そうなんだよ!」
待ってましたと言わんばかりにライレイが顔を上げる。
「目はまだ分からないんだけど、俺はユエに似てほしくて」
「まあ。そうなの?」
「うん。ユエの目、綺麗でしょ」
「そうねえ。とても綺麗だわ」
「でしょ?」
ハオジュンが呆れた顔をした。
「お前、子供の話から嫁の自慢へ移るの早すぎねえか」
「だって、二人とも可愛いんだもん」
「……もん、じゃねえよ」
ミンランが楽しそうに笑った。
「いいじゃないの。奥様を大切にするのは素敵なことよ」
「母上まで……」
「あなたも早く、そういう人を見つけなさいな」
ハオジュンが固まった。
ライレイはすかさず顔を上げた。
「あ、そうだ。兄上も早く嫁もらったら?」
「……は?」
「ね。可愛いよ、子供」
「いや、子供の前に嫁だろうが」
「だから、嫁もらったらって言ったじゃん」
「簡単に言うな!」
ミンランが嬉しそうに手を合わせる。
「あら、そうよねえ。どなたかいい方はいないかしら」
「母上、やめてくれ」
「森の仕事が忙しいからって、いつまでもそんなことを言っていたら」
「仕事は関係ねえ!」
「じゃあ、お相手がいないのね」
「……っ」
ライレイは吹き出した。
「兄上、母君に完全に負けてる」
「お前が話を振ったんだろうが!」
「だって、兄上も幸せになったらいいなって」
さらりと言われて、ハオジュンは言葉に詰まった。
その間にも、ミンランは楽しそうに息子の結婚相手について考え始めている。
ユエはそんな三人を眺めながら、静かに微笑んでいた。
王宮の中で、家族がこんなふうに笑い合う光景を、彼女はあまり見たことがなかった。
昔の後宮では、誰が誰の味方なのかを考えずに言葉を交わすことなど難しかった。
けれど今、目の前にいる人々は、ただ新しい命の誕生を喜んでいる。
それが、不思議なほど嬉しかった。
*
ハオジュンとミンランが帰ったあと、王太子宮にはようやく少し静けさが戻った。
もっとも、それも長くは続かなかった。
「ライレイ。入ってもいい?」
穏やかな声とともに現れたのは、第五王子セイランだった。
黒髪を後ろで束ね、淡い青灰色の衣をまとっている。その腕には、丁寧に包まれた細長い箱が抱えられていた。
「セイラン! 来てくれたんだ」
「もちろん。おめでとう」
セイランは微笑んだ。
「無事に生まれたと聞いて、安心したよ」
「ありがとう。ユエも元気だし、ユウユウもすごく可愛いよ」
「うん。もう何度か聞いた」
「え?」
「王宮中で言っているそうじゃないか」
ライレイは一瞬考え、それから笑った。
「だって事実だし」
「だろうね」
セイランは苦笑しながら、寝床へ近づいた。
小さな赤子が眠っている。
赤褐色の髪に、柔らかな頬。閉じられた瞼はまだ少し腫れぼったく、どんな目をしているのかまでは分からない。
セイランはしばらくその顔を見つめていた。
「……可愛いね」
「でしょ?」
「うん」
セイランの微笑みが、さらに柔らかくなった。
「本当に」
ライレイは満足そうに頷いた。
「ところで、その箱は?」
「ああ。お祝いにと思って」
セイランが包みを解く。
中には、美しく装丁された書物が何冊か収められていた。シャンの歴史や古い詩、それから子供向けの昔話をまとめたものだった。
「……本?」
「少し早すぎるかなとは思ったんだけど」
「いや、嬉しいよ」
ライレイは一冊を手に取った。
丁寧に綴じられた頁には、小さな挿絵も描かれている。
「まだ文字は読めないけどね」
「当然だよ」
「でも、読み聞かせならできるか」
「うん。それに、いつか自分で読むようになるだろうから」
ライレイは書物を眺めた。
そして、ふと思いついたように顔を上げた。
「ねえ、セイラン」
「何?」
「君には、ユウユウの先生になってほしいな」
セイランが瞬きをした。
「……僕が?」
「うん」
「王太子の息子なら、立派な教師を何人でも呼べるだろう?」
「それはそうだけど」
ライレイは書物を閉じた。
「君がいいんだよ」
セイランは黙った。
「歴史でも詩でも、何でもいい。君は物事をよく知ってるし、知らないことを知らないままにしないだろう?」
「……それは」
「それに、教えるの上手そうだし」
ライレイは笑った。
「俺が教えると、どうしても勝ち方とか駆け引きとか、そういう話が多くなると思うんだよね」
「それも必要なことだと思うけど」
「うん。でも、それだけじゃ足りない」
ライレイは眠っている息子へ視線を落とした。
「世の中には、勝たなくていい場面もたくさんあるから」
その言葉に、セイランの表情が変わった。
かつてのライレイなら、あまり口にしなかった考え方だった。
勝つこと。
先を読むこと。
生き残ること。
それらを何より大切にしてきた弟が、今は子供に別の生き方を教えようとしている。
「……そうだね」
セイランは静かに頷いた。
「僕でよければ、喜んで」
「本当?」
「うん。でも、先生というより叔父として教えるくらいがいいな」
「もちろん」
ライレイは笑った。
「じゃあ、よろしくね。先生」
「……気が早いよ」
セイランも笑った。
そのやり取りを見守っていたユエへ、彼が向き直る。
「ユエ殿」
「はい」
「改めて、おめでとう」
ユエは静かに頭を下げた。
「ありがとうございます、セイラン殿下」
そこには、以前のような硬さはなかった。
かつて、セイランはレン家を疑っていた。
母の死に関わった一族として、ユエへ向ける視線にも消しきれない棘があった。真相が明らかになり、母の病と自分が贈った茶の関係を知ってからも、失われた年月を簡単に埋められるわけではなかった。
けれど、今は違う。
セイランは寝床に眠る赤子を見た。
「……不思議だね」
「何がでしょう」
「新しい命が生まれるだけで、こんなに気持ちが明るくなるなんて」
ユエは頷いた。
「わたくしも、そう思います」
セイランはしばらく迷うように視線を落とした。
「母も、きっと喜んだだろうな」
その言葉は、誰に向けたものでもないようだった。
ユエは黙って聞いていた。
「母は子供が好きだったんだ。僕が小さい頃、よく昔話を読んでくれた」
セイランは箱の中の一冊を指先で示した。
「これは、その頃によく読んでもらった話なんだ」
「……そうでしたか」
「うん」
彼は微笑んだ。
「だから、ユウユウにも読んであげたくて」
ユエは書物を見つめた。
その表紙には、小さな鳥が枝に止まっている絵が描かれている。
失われた人の記憶が、こうして新しい命へ手渡されていく。
かつては恐ろしいほど複雑だった王宮の人間関係が、今は少し違う形になろうとしている。
「……セイラン殿下」
「うん?」
「大切な思い出を、お分けくださりありがとうございます」
ユエは深く頭を下げた。
「悠凰がもう少し大きくなりましたら、ぜひ、殿下のお声で読んでやってくださいませ」
セイランは一瞬、驚いたように目を見開いた。
それから、柔らかく笑った。
「……うん。そうさせてもらうよ」
ほんの短い会話だった。
けれど、ユエにはそれで十分だった。
以前の彼なら、母の思い出を自分へ語ることはなかっただろう。
今、その話を聞かせてもらえたことが嬉しかった。
「それにしても」
セイランがふと表情を変えた。
「ライレイ、さっきからずっとユウユウを見てるけど、公務は?」
「……うん?」
「公務」
「今日は休み」
「誰が決めたの?」
「俺」
セイランは無言になった。
ユエも静かに目を伏せる。
「……王太子って、そんなに自由だった?」
「今日くらい、いいでしょ」
「まあ……今日くらいなら」
セイランはため息をついた。
「でも、明日はちゃんと仕事をしてね」
「分かってるよ」
「本当に?」
「うん」
ライレイは息子の頬を撫でた。
「ユウユウが離してくれたらね」
「……まだ何も掴んでいないけど?」
「心を掴まれてる」
セイランはとうとう額を押さえた。
ユエは小さく笑った。
*
セイランが帰ったあと、今度こそ静かになるかと思われた王太子宮に、また新しい客が訪れた。
「王太子殿下。レン家当主がお見えにございます」
「……え?」
ライレイが顔を上げた。
「ユエのお父上?」
「はい。お祝いの品をお持ちとのことで」
「そう。じゃあ、通して」
ほどなくして現れたのは、黒髪にわずかな白いものが混じる、細身の男だった。深い赤色の瞳には娘とよく似た冷静さがあり、背筋を伸ばして歩く姿にも一分の隙がない。
ただ、今日は一人ではなかった。
後ろに、何人もの使用人を引き連れている。
しかも全員が、大きな籠や木箱を抱えていた。
「……お父上?」
「王太子殿下。このたびはご嫡男のご誕生、誠におめでとうございます」
いつも通りの低く落ち着いた声だった。
深々と礼をし、それからユエへ視線を向ける。
「ユエ。身体は」
「順調に回復しております、父上」
「そうか」
当主は頷いた。
それから、少し間を置く。
「……よくやった」
ユエが瞬きをした。
「……ありがとうございます」
父親から労いの言葉をかけられるのは、珍しいことだった。
その間にも、使用人たちは次々と荷物を運び込んでいる。
大きな籠が三つ。
木箱が二つ。
さらに、乾燥させた薬草の束がいくつも。
部屋の一角が、瞬く間に薬舗の倉庫のようになった。
「……お父上」
ライレイが首を傾げた。
「これは?」
「祝いの品にございます」
「……薬草?」
「はい」
「全部?」
「はい」
当主は真顔だった。
「産後の養生に用いるもの、滋養を補うもの、身体を温めるもの、傷の手当てに用いるもの。必要となる可能性のあるものを、一通り揃えました」
「……一通り?」
「はい」
ライレイは積み上がった籠を見た。
どう考えても、一通りという量ではない。
「これ、薬舗が一軒開けるんじゃない?」
「不足がございましたか」
「いや、逆」
ライレイは思わず笑った。
「すごく多い」
「……そうですか」
当主は少し黙った。
そして、珍しく視線を泳がせた。
「何を贈ればよいのか、分かりませんでしたので」
ライレイの笑みが止まった。
「……え?」
「祝いの品として、何が適切なのか判断がつきませんでした。衣服や装飾品は王宮に十分ございますでしょうし、玩具については知識がございません。ならば、せめて身体を健やかに保つためのものをと」
当主は淡々と説明した。
「結果、少々増えました」
「……少々」
ライレイは唇を噛んだ。
笑ってはいけない。
この人は、本気なのだ。
王の命が危機に瀕したときでさえ表情一つ変えず、冷静に毒の性質を見極めた男が、孫の誕生をどう祝えばいいのか分からず、薬草を山ほど持ってきた。
それだけで、十分すぎるほど気持ちが伝わってきた。
「……ありがとうございます、お父上」
ライレイは柔らかく笑った。
「ユエのこと、心配してくださったんですね」
「……当然です」
当主は短く答えた。
それから、ようやく寝床へ目を向ける。
ユウユウは静かに眠っていた。
小さな額に、柔らかな赤褐色の髪がかかっている。
当主はしばらく動かなかった。
「……これが」
「はい」
ユエが微笑む。
「悠凰にございます」
「……そうか」
当主が一歩近づいた。
そして、立ち止まる。
さらに一歩近づき、また止まった。
どうやら、どこまで近づいてよいものか分からないらしい。
「お父上、もっと近くで見てもいいですよ」
ライレイが言うと、当主はわずかに頷いた。
小さな寝床を覗き込む。
深い赤色の瞳が、眠る赤子をじっと見つめた。
「……小さいな」
「そうなんですよ」
「……呼吸は正常か」
「はい。産婆も医官も確認しております」
「体温は」
「問題ございません」
「乳は」
「よく飲んでおります」
ユエが一つずつ答える。
当主はようやく安心したように息を吐いた。
「……そうか」
それから、また黙った。
赤子が小さく身じろぎする。
当主の指先が、ぴくりと動いた。
「……動いたな」
「動きますよ。生きてますから」
ライレイが笑う。
「……そうだな」
当主は頷いた。
しかし、そこから離れようとしない。
ユエは父親の横顔を見つめた。
自分とよく似た、感情の読みにくい顔。
幼い頃から何度も見てきたその表情が、今はほんの少しだけ違って見えた。
「……父上」
「何だ」
「抱いてみられますか」
当主が振り返った。
「……私が?」
「はい」
「いや」
即答だった。
「赤子の扱いには慣れておらん」
「わたくしも、この子が生まれた日が初めてでした」
「お前は母親だ」
「父上は祖父でいらっしゃいます」
当主が黙った。
ライレイは、とうとう笑いを堪えきれなくなった。
「ユエ、それ俺も言われた」
「存じております」
「親子だねえ」
ユエは小さく微笑んだ。
当主はしばらく迷ったあと、ようやく両手を差し出した。
ライレイが産婆に教わった通りに支え方を伝え、慎重に赤子を渡す。
当主の腕の中へ、ユウユウが収まった。
「…………」
動かない。
まるで、極めて危険な薬品を預かったかのような緊張ぶりだった。
「……お父上?」
「静かに」
「はい?」
「今、呼吸をしている」
「……そりゃ、しますよ」
当主は返事をしなかった。
ただ、小さな寝顔を見つめ続けている。
やがて、ユウユウの指が、当主の衣をかすかに掴んだ。
その瞬間。
「……おお」
ほんの小さな声が漏れた。
ユエが目を見開いた。
父親の口元が、わずかに緩んでいた。
ライレイも気づいたらしい。
「……お父上」
「何でしょう」
「嬉しいんですね」
当主はすぐには答えなかった。
しばらく腕の中を見つめ、それから静かに頷いた。
「……ああ」
たった一言だった。
けれど、ユエにはそれで十分だった。
当主はもう一度、眠る赤子へ目を落とした。
「……健やかに育て」
低く、静かな声だった。
「それが一番だ」
ユエはそっと微笑んだ。
父親がこれほど不器用に、けれど素直に喜びを示してくれたことが嬉しかった。
「……ありがとうございます、父上」
当主は頷いた。
そして、思い出したように付け加えた。
「薬草は、なくなればまた届けさせる」
「……お父上」
ライレイが苦笑する。
「まず、今ある分を使わせてください」
「承知いたしました」
どこまでも真面目な返事だった。
ユエは、とうとう声を立てて笑った。
*
レン家当主が帰ったあと、しばらくして、今度は宰相が訪れた。
王宮の重臣が直接祝いに現れたと聞き、ライレイは少し意外そうに顔を上げた。
「宰相? どうしたの」
「王太子殿下。このたびは、誠におめでとうございます」
「ありがとう」
「本日は、陛下の御名代として参りました」
宰相が合図すると、従者が美しい漆塗りの箱を運び込んできた。
深い赤色の蓋には、金糸のように細かな線で王家の紋章が描かれている。
「こちらは国王陛下からの贈り物です」
箱の中には、柔らかな絹で仕立てられた産着と、小さな金の守り飾りが収められていた。
守り飾りには、王家に伝わる吉祥の紋様が細かく刻まれている。
「……父上から?」
「はい」
ライレイは守り飾りを手に取った。
小さな金細工だった。
まだ赤子には早いだろうが、いつか身につけられるようにと考えて用意されたものらしい。
「へえ……綺麗だね」
「陛下も、たいそうお喜びでいらっしゃいます」
「そう?」
「はい。出産の知らせをお届けしたところ、すぐにこちらを持たせるよう仰せになりました」
宰相はそこで、少し言いにくそうに咳払いをした。
「それから、伝言を預かっております」
「伝言?」
「はい」
宰相は一度姿勢を正した。
「『早く孫を抱かせてほしい』とのことでございます」
ライレイは瞬きをした。
「……え?」
「陛下からのお言葉にございます」
「……父上が?」
「はい」
数秒の沈黙が落ちた。
それから、ライレイが吹き出した。
「……あはは! 父上、そんなこと言ったの?」
「はい」
「ずいぶん気が早いなあ」
ライレイは笑いながら、寝床の方を見た。
ユウユウは、相変わらず穏やかに眠っている。
「まあ、気持ちは分かるけど」
宰相の口元が、かすかに緩んだ。
「実は、陛下ご自身がこちらへお越しになると仰せになりまして」
「……え?」
「医官から、まずはご自身の回復を優先なさるよう強く諫められました」
「……父上」
ライレイは額を押さえた。
まだ身体が十分に回復していないというのに、何を考えているのだろう。
「それで?」
「しばらくお考えになったのち、せめて贈り物だけでもと」
「……そう」
ライレイは金の守り飾りを見つめた。
父が倒れたあの日のことを、思い出す。
いつ失ってもおかしくなかった命だった。
今も完全に回復したわけではない。
けれど、こうして孫の誕生を喜び、早く抱きたいと願ってくれている。
そのことが、何より嬉しかった。
「……宰相」
「はい」
「父上に伝えて」
ライレイは柔らかく笑った。
「ユウユウも、じいじに会うのを楽しみにしてるって」
宰相が一瞬、目を見開いた。
「……じいじ、でございますか」
「うん」
「陛下へ、そのように?」
「そう。そのまま」
ライレイは楽しそうに頷いた。
「あと、まずはちゃんと身体を治してねって。ユウユウが大きくなるまで、元気でいてもらわないと困るから」
宰相は静かに頭を下げた。
「……必ず、お伝えいたします」
その声は、少しだけ柔らかかった。
長い間、王宮の争いや王位継承を見てきた宰相にとっても、今日の知らせは特別なものだったのだろう。
王家に新しい命が生まれた。
それは政治的な意味を持つ出来事でもある。
けれど今、この部屋で語られているのは、ただ祖父が孫に会いたがっているという、ごく普通の家族の話だった。
ライレイは贈り物の箱を閉じ、寝床へ視線を戻した。
「……ユウユウ」
そっと呼びかける。
「君、もう大人気だねえ」
赤子は眠ったままだった。
ユエが微笑む。
「皆様に、お祝いしていただいておりますね」
「うん」
ライレイは頷いた。
「……嬉しいね」
その一言に、ユエも静かに頷いた。
*
短い面会が続き、夕方になる頃には、王太子宮の一室が贈り物でいっぱいになっていた。
ハオジュンからは丈夫な木馬と、森の職人に作らせた小さな玩具。ミンランからは柔らかな産着や寝具。セイランからは美しく装丁された書物。レン家当主が持ってきた大量の薬草は、女官たちが種類と用途を確認し、別室へ運び込んでいる。さらに国王から贈られた絹の産着と金の守り飾りは、ライレイの希望で寝室の飾り棚へ大切に収められた。
他の王族や家臣から届いた祝いの品も次々と加わり、部屋には大小さまざまな箱や籠が積み上がっていた。
そして、ひときわ場所を取っているのが、リュシアンからの大量のクッションである。
「……すごいね」
ライレイは部屋を見渡した。
「これ、全部ユウユウの?」
「はい」
リンレイが頷いた。
「王太子殿下のご長男ですから、お祝いも多くなります」
「いや、それは分かってるけど」
ライレイはクッションの山を眺めた。
「リュシー、ちょっと多すぎない?」
「兄様」
「何?」
「それは先ほどもおっしゃいました」
「だって多いんだもん」
リンレイは小さく笑った。
それから、袖を軽く整える。
「今日はこれの片づけだね」
なぜか、妙に張り切っていた。
「兄様とユエ姉様はユウユウを見ていてください。こちらはわたくしが」
「リンレイ、大丈夫?」
「もちろんです」
「結構な量だよ?」
「存じております。ですから、まず贈り主ごとに分けます。寝具は別室へ、書物は書庫へ。衣類は洗い直してから収納いたします。それからクッションは……」
リンレイは少し考えた。
「……とりあえず、数を数えましょう」
「全部?」
「はい」
「大変そうだね」
「兄様は手を出さないでください」
きっぱり言われた。
ライレイは肩を落とした。
「……また邪魔?」
「はい」
ユエが小さく笑った。
その声を聞いて、ライレイはすぐに顔を上げる。
「ユエ、笑った?」
「少々」
「可愛い」
「殿下」
「何?」
「ユウユウが起きます」
「……はい」
王太子は素直に声を落とした。
リンレイはその様子を眺め、楽しそうに笑いながら女官たちへ指示を出し始めた。
かつては兄に守られていた少女が、今ではその兄の宮を取り仕切っている。
部屋の隅では、ユエが息子を抱き、ライレイがその顔を覗き込んでいた。
窓からは、秋の夕陽が差し込んでくる。
桂花の甘い香りが、柔らかな布の匂いと混じっていた。
贈り物でいっぱいになった部屋には、誰かの祝福がいくつも重なっているようだった。
*
その夜、ユエは小さな泣き声で目を覚ました。
まだ夜も深い。
窓の外には月が浮かび、薄い帳の向こうで庭木が静かに揺れている。
寝台の傍らに置かれた寝床から、ユウユウが小さく声を上げていた。
ユエは身体を起こそうとした。
けれど、その前に隣の気配が動いた。
「……ユウユウ?」
ライレイだった。
眠っていたはずなのに、泣き声が聞こえた途端、ほとんど反射のように目を覚ましている。
「どうしたの? お腹すいた?」
柔らかな声だった。
昼間、部下へ命令を出すときの声音とはまるで違う。
ユエが起き上がると、ライレイはすぐに寝床から息子を抱き上げた。
「おはよう、ユウユウ。……いや、まだ夜か」
自分で言って、小さく笑っている。
赤子は泣いていた。
けれど、その声を聞いている父親は、なぜか嬉しそうだった。
「元気だねえ」
ライレイは慎重に頭を支えながら、ユウユウを抱き寄せた。
赤褐色の髪をそっと撫でる。
「どうしたのかな。父上がいるよ」
赤子が手足を動かした。
「……あ、動いた」
たちまち、さらに嬉しそうになる。
「ユエ、見た?」
「はい」
「元気だね」
「はい」
「可愛いね」
「……はい」
ユエは笑った。
まただ。
泣いても嬉しそう。
眠っていても嬉しそう。
指が動けば喜び、口を開けば感動し、寝息を立てれば安心したように笑う。
この人は、一体いつまでこんな調子なのだろう。
おそらく、ずっとだ。
そんな予感がした。
ライレイが夜中の物音に敏いのは、戦場で過ごした年月のせいかもしれなかった。わずかな気配で目を覚まし、暗闇の中でもすぐに状況を確かめる。
けれど、今はその習慣がまったく別のことに使われている。
敵の襲撃に備えるためではなく、息子の泣き声を聞き逃さないために。
「ユエ、まだ休んでていいよ」
ライレイが囁いた。
「もう少し抱いてるから」
「……殿下」
「うん?」
「お腹がすいているのだと思います」
「あ、そっか」
ライレイは素直に頷き、赤子をそっとユエへ渡した。
その手つきは、まだ少しぎこちない。
けれど、昨日よりは随分慣れていた。
ユエは息子を受け取り、胸元へ抱き寄せた。
小さな口が乳を探し、やがて泣き声が静かになる。
ライレイはその様子を、隣でじっと見守っていた。
ユエはふと、以前の自分を思い出した。
レン家に生まれた娘として、幼い頃から多くのことを教えられてきた。
薬草の見分け方。
毒の性質。
人の身体に何が起きているかを見抜く方法。
そして、自分の感情を表へ出さないこと。
喜びも、悲しみも、恐れも、判断を鈍らせるものだと教えられた。
任務に私情を挟まない。
必要とあれば人を欺き、必要とあれば切り捨てる。
自分がどう感じるかではなく、何をすべきかを考える。
そうして生きてきた。
それが間違いだったとは思わない。
あの家の仕事が、誰かの命を救ってきたことも知っている。
けれど、自分の望みを尋ねられたことは、ほとんどなかったように思う。
望みがなかったわけではない。
ただ、望む前に役割が決まっていた。
そんな人生だった。
だからこそ、今、腕の中で乳を飲んでいる小さな命が、少し不思議に思えた。
この子を産むことは、誰かに命じられたわけではない。
レン家のためでも、王家のためでもなかった。
もちろん、王太子の子を産むということには大きな意味がある。世継ぎとしての立場も、生まれた瞬間から背負わされる責任も、ユエは理解している。
それでも。
この子が欲しいと思った。
ライレイと生きていきたいと思った。
彼との間に生まれる命を、この腕で抱きたいと願った。
誰かに望まれたからではなく、自分がそうしたかった。
今さらながら、それは自分にとって初めてに近い選択だったのかもしれないと思う。
「……ユエ?」
呼ばれて顔を上げた。
ライレイが少し心配そうに覗き込んでいる。
「どうしたの? 痛い?」
「いいえ」
「疲れた?」
「少々」
「じゃあ、飲み終わったら俺が抱くよ」
その返事があまりにも自然だった。
夜中に起きることも、赤子の世話をすることも、ライレイにとっては特別な義務ではないらしい。
ただ、自分の子供だから。
愛する妻が疲れているから。
それだけで、当たり前のように手を伸ばしてくれる。
ユエは少しだけ視線を落とした。
出産は、自分の身体に起きたことだった。
痛みも、疲労も、命を産み落とす怖さも、誰かが代わってくれるものではなかった。
けれど、終わってからは違う。
泣き声がすれば、隣で一緒に目を覚ます人がいる。
眠れない夜も、一人ではない。
この人は、必ず起きてくれる。
それが、どれほど心強いことなのだろう。
「……殿下」
「うん?」
「ありがとうございます」
ライレイは瞬きをした。
「何が?」
「こうして、一緒にいてくださることです」
彼は少し不思議そうな顔をした。
「当たり前でしょ」
「……そう、でしょうか」
「うん」
ライレイは笑った。
「俺たちの子だよ」
それから、ユエの肩へそっと手を添えた。
「君だけに頑張らせるつもりなんてないよ」
ユエは何も言えなくなった。
胸の奥が、ゆっくり温かくなっていく。
かつて、自分にこうした言葉を向ける人が現れるとは思わなかった。
守ることも、支えることも、自分の役目だった。
誰かに守られることを望むのは、弱さだと思っていた。
けれど今、その考えは少しずつ変わっている。
守られることと、弱いことは違う。
誰かに頼ることと、自分の力を失うことも違う。
自分は今も薬師であり、レン家の娘であり、これから王太子妃として果たすべき役割もある。
そのどれかを捨てたわけではない。
ただ、その中に新しく、妻であることと、母であることが加わった。
そして、そのどれもが、自分の意思で選び取ったものだった。
やがて、ユウユウが乳を飲み終えた。
ライレイはすぐに手を伸ばした。
「おいで」
ユエが慎重に赤子を渡すと、彼は慣れない手つきながらも、しっかり抱き上げた。
ユウユウが小さく身じろぎする。
「……あ、また動いた」
嬉しそうな声がする。
「ユエ、見た?」
「はい」
「今、俺の方を向いた」
「偶然かと」
「でも、向いたよ」
「……はい」
ユエは微笑んだ。
たぶん、これから何度も同じ会話をするのだろう。
息子が少し動くたびに喜ぶ夫を見て、自分は冷静に答える。
けれど、本当は。
自分も、同じくらい嬉しい。
小さな手が動くこと。
柔らかな頬が膨らむこと。
眠りながら、時折口元を緩めること。
そのすべてが愛おしかった。
産んでよかった。
心から、そう思った。
ユエは寝台へ身体を預け、息子を抱くライレイの横顔を見つめた。
赤褐色の髪が月明かりに淡く照らされている。金色の瞳は驚くほど柔らかく、今は腕の中の小さな命だけを見つめていた。
その横顔を、ユエはもう何度も見ている。
けれど、見るたびに違う幸せがある。
「……殿下」
「何?」
「幸せですか」
ライレイは顔を上げた。
少し驚いたように瞬き、それから、ふっと笑った。
「……うん」
赤子を抱く腕へ、ほんの少し力を込める。
「すごく幸せ」
ユエも微笑んだ。
「……わたくしもです」
「知ってる」
「……存じておられましたか」
「うん」
ライレイは柔らかく笑った。
「君、最近すごくいい顔するから」
ユエは目を伏せた。
頬が少し熱くなる。
そんな自分に、まだ慣れていなかった。
ライレイは息子を寝床へ戻すと、ユエの隣へ腰を下ろした。そっと肩を抱き寄せ、その額へ唇を寄せる。
「お疲れ様、ユエ」
「……ありがとうございます」
「明日も、よろしくね」
ユエは顔を上げた。
「明日も、でございますか」
「うん」
ライレイは寝床へ視線を向けた。
「明日も、その次も。ずっと」
その言葉に、ユエは静かに頷いた。
何も特別なことはなかった。
ただ、夫と子供がいる夜だった。
赤子が泣けば、二人で起きる。
腹が満たされれば、また眠る。
小さな寝息を確かめながら、隣の温もりに身を預ける。
そんな日々が、これから続いていく。
ユエは目を閉じた。
枕元には、昼間リンレイから受け取った匂い袋が置かれている。
まだ何も入っていない、小さな袋。
そこからは、遠いスピネリアの調香室を思わせる香りが、ごく微かに漂っていた。
その香りに、清潔な布の匂いと、赤子の温かな乳の匂いが重なる。
今まで知らなかった、柔らかな香りだった。
ユエはそっと息を吸った。
自分の望みを、声にしてよかった。
この人を好きになってよかった。
この子を産んでよかった。
何より。
この二人が幸せなら、自分も幸せだった。
隣では、ライレイがようやく静かな寝息を立て始めている。
その向こうで、ユウユウも眠っていた。
ユエは二人を見つめ、そっと微笑んだ。
「……おやすみなさいませ」
小さく呟く。
返事はなかった。
けれど、それでよかった。
今は、二人とも眠っていてほしい。
自分も、もう少ししたら眠ろう。
そして明日、また目を覚ましたら。
きっと、同じように幸せなのだろう。
秋の夜が、静かに更けていく。
王太子宮の小さな寝床には、新しい命の温かな寝息が満ちていた。




