第六十七話 はじめましての香り
陣痛は予定日よりも早く来た。
それも、ライレイがようやく「父親になる」という事実に慣れ始めた矢先のことである。
秋の陽射しが穏やかに差し込む午後だった。庭では桂花が咲き始め、開け放した窓から甘い香りが流れ込んでくる。執務を早めに切り上げたライレイは、長椅子で書物を読んでいるユエの隣に座り、すっかり丸くなった腹へ手を当てていた。
「ユウユウ、聞こえる? 父上だよ」
「殿下。先ほどから三度目にございます」
「何度呼んだっていいだろう。俺の息子なんだから」
「まだお生まれになっておりません」
「生まれる前から親子だよ」
もっともらしく言って腹を撫でると、内側から小さな反応が返ってきた。
「ほら。分かってる」
「偶然かと」
「ユエはもう少し夫のことを信じてもいいと思うなあ」
そう言いながら笑ったところで、ユエの指が書物の上で止まった。
「……殿下」
「うん?」
「少し、お腹が痛みます」
ライレイは彼女の顔を見た。
「痛い?」
「はい」
「どのくらい?」
「まだ、それほどでは」
「それほどって、どのくらい?」
問い返したところで、ユエが目を伏せた。呼吸を整えるようにゆっくり息を吐き、腹へ手を添える。
その様子を見て、ライレイの背筋が伸びた。
「……え?」
予定日までは、まだ四日ある。
産屋の支度は整っている。産婆も医官も控えているし、必要なものは揃えてある。何度も確認した。ユエの身体に負担をかけないよう、仕事も減らした。本人には減らしすぎだと叱られたが、とにかく準備は万全のはずだった。
万全だったのに。
「え、今?」
「おそらく」
「おそらく?」
「陣痛かと存じます」
「……陣痛?」
「はい」
「今、来たの?」
「先ほどから、そのように申し上げております」
ユエの声は普段と変わらず落ち着いていた。
ライレイは立ち上がった。
「誰か! 産婆を呼んで! 医官も! あと湯! いや、湯はまだ早い? とにかく――」
「殿下」
「そうだ、リンレイ。リンレイを呼ばなくちゃ。帰ってきたばかりなのに、間に合わなかったらどうしようって言ってたから」
「殿下」
「産屋まで歩ける? 俺が運ぼうか。抱えて行った方が――」
「殿下」
「何?」
「まず、手を離していただけますか」
言われて初めて、ユエが立ち上がろうとしているのに、自分がその両手を握りしめていることに気づいた。
「あ、ごめん」
慌てて手を離す。
ユエは長椅子からゆっくり腰を上げた。ライレイがすぐさま肩を支えようとすると、今度は彼女の進む方向を塞いでしまった。
「こっち、段差があるから」
「存じております」
「足元、気をつけて」
「はい」
「やっぱり抱えようか?」
「殿下、邪魔です」
「……はい」
王太子は素直に道を開けた。
そこへ、知らせを受けた産婆と女官たちが駆け込んでくる。ほどなくして、数日前にスピネリアから帰郷したばかりのリンレイも現れ、状況を確認すると、すぐに女官へ指示を出し始めた。
「温めた布は産屋へ。お湯は運びすぎないでください。廊下に人を集めないように。それから、ユエ姉様の履き物を」
「リンレイ」
「兄様、お呼びですか」
「俺は何をすればいい?」
「産婆がついておりますから、ご安心くださいませ」
「いや、安心はしてる。してるけど、何か手伝いたいんだよ」
「では、少しお待ちください」
リンレイはユエの腕を取って歩幅を合わせ、産屋へ向かった。ライレイもついて行く。
必要なものはないかと周囲を見回し、女官が抱えた布の束に手を伸ばした。
「それ、俺が持つよ」
「兄様、そちらはまだ運びません」
「じゃあ、こっち?」
「それは使用済みのものを入れる籠です」
「……ああ」
女官が湯桶を運んでくる。
「それなら俺が」
「兄様、邪魔です」
妹にまで言われた。
しかも、ユエとまったく同じ調子だった。
「……リンレイ」
「はい」
「俺、さっきから邪魔しかしてない?」
「はい」
即答だった。
ライレイは唇を結んだ。
ひどい。
この妹は、もう少し兄を労わってもいいと思う。
「兄様には、産屋の外でお待ちいただくのが一番助かります」
「でも、ユエが」
「ユエ姉様には、わたくしたちがついております」
リンレイがきっぱり言い切る。
いつの間に、こんなに頼もしくなったのだろう。
スピネリアへ送り出した頃は、まだ異国で一人やっていけるか心配だった妹が、今では女官たちを動かし、産婆と相談し、兄に的確な指示まで出している。
成長したことは喜ばしい。
喜ばしいのだが。
「俺、王太子なんだけどなあ……」
「存じております。ですから、王太子殿下らしく落ち着いてお待ちください」
それができれば苦労はない。
ユエが振り返った。
痛みの合間なのだろう。少し汗ばんだ額に黒髪が張りついているが、暗赤色の瞳はまっすぐライレイを見つめていた。
「殿下」
「ユエ。大丈夫?」
「はい。大丈夫にございます」
「本当に?」
「ええ。ですから、どうかご心配なさらず」
彼女はいつものように、ほんの少しだけ微笑んだ。
「お待ちくださいませ」
その言葉を最後に、産屋の扉が閉められた。
ライレイはしばらく、その扉を見つめていた。
何もできない。
あれほど多くのことを、できると思って生きてきたのに。
戦場では、敵の動きを読み、兵を配置し、わずかな遅れが命取りになる場面でも判断を下してきた。宮廷では、互いに腹を探り合う王族たちを相手に、先を見越して手を打ってきた。命を狙われたときでさえ、何をすべきか分からなくなることはなかった。
なのに、今はどうだ。
扉一枚向こうにいる妻の痛みを代わることもできず、手を握ってやることさえ邪魔になる。
「……参ったな」
ライレイは廊下の椅子に腰を下ろした。
すぐに立ち上がった。
座っていられなかった。
扉の前を三歩歩き、引き返す。壁際に寄ってみる。窓から庭を眺めてみる。桂花の香りがしたが、今は少しも心が落ち着かない。
また扉を見る。
中から女官の声が聞こえた。
何を言っているのかまでは分からない。
ライレイは思わず一歩近づき、すぐに足を止めた。
入れば、また邪魔だと言われる。
きっとユエにも、リンレイにも。
「……俺って、こんなに役立たずだったっけ」
誰にともなく呟いてみたが、返事はなかった。
戦場なら、敵が見える。
政治なら、相手の思惑を読める。
けれど今、ライレイにできることは、妻と子の無事を願うことだけだった。
その頼りなさに、初めて胸の底から恐ろしくなった。
どうか、無事で。
ユエも。
あの子も。
何もいらないから。
そう願いながら、ライレイはまた廊下を歩き始めた。
*
数時間が過ぎた。
どのくらい待ったのか、途中からよく分からなくなっていた。
日が傾き、窓から差し込む光が金色から薄い橙へ変わる。何度か女官が出入りするたびにライレイは顔を上げ、そのたびに「まだでございます」と告げられた。
産屋の中から、時折ユエの声が聞こえた。
普段なら聞くことのない、苦しげな声だった。
そのたびに胸が締めつけられ、足が勝手に扉へ向かいかける。
けれど、入ったところで何もできない。
ライレイは何度も拳を握り、開いた。
やがて、室内がふっと静かになった。
先ほどまで続いていた声が途切れ、代わりに産婆の短い指示が聞こえた。
ライレイは息を止めた。
そして。
「――おぎゃあっ!」
高く、細い声が響いた。
聞き慣れない音だった。
小さな声なのに、不思議なくらいはっきりと廊下まで届いた。
ライレイは動けなかった。
もう一度、声がした。
今度は少し長く、何かを訴えるような泣き声だった。
「……あ」
生まれた。
そのことを理解するまでに、少し時間がかかった。
ようやく扉が開き、産婆が顔を出した。
「王太子殿下。おめでとうございます。お健やかな若君にございます」
「ユエは?」
祝辞より先に言葉が出た。
「妃殿下もご無事にございます。大変お疲れではありますが、母子ともにお健やかでいらっしゃいます」
「……そう」
ライレイは息を吐いた。
胸の内側に何時間も詰まっていたものが、ようやく少しほどけた気がした。
「入ってもいい?」
「どうぞ」
返事を聞くなり、ライレイは産屋へ入った。
温めた湯と清潔な布、薬草の匂いが混じっていた。普段の寝室とは違う空気の中で、ユエが寝台に横たわっている。ほどけた黒髪が枕に広がり、額には汗が残っていた。
「ユエ」
ライレイが駆け寄ると、彼女はゆっくり目を開けた。
「……殿下」
「大丈夫? 苦しくない? どこか痛む?」
「少々、疲れました」
「そうだよね。そうだよね、疲れたよね」
「ですが、ご安心ください」
ユエはいつもの落ち着いた声で言った。
「無事に、お生まれになりました」
その傍らに、小さな包みがあった。
柔らかな布にくるまれた赤子が、目を閉じて眠っている。
ライレイはそちらを見た。
そして、言葉を失った。
小さい。
あまりにも小さい。
頭も、頬も、布の端から覗く指先も、何もかもが想像していたよりずっと小さかった。生まれたばかりの肌は赤みを帯び、薄く開いた唇が呼吸に合わせて動いている。
こんなに小さなものが、さっきまでユエの腹の中にいたのか。
この子が。
自分たちの子供なのか。
「……ユウユウ?」
思わず呼んでみた。
赤子は答えなかった。
ただ、小さな口を開け、あくびのような仕草をした。
それだけで、胸の奥がひどく熱くなった。
「殿下」
ユエが声をかける。
「抱いてあげてください」
「……え」
「この子を」
ライレイは自分の両手を見た。
抱く。
この、小さな子を。
手を伸ばしかけて、止めた。
「俺が?」
「はい」
「いや、でも……」
「産婆が支えてくださいますので、大丈夫にございます」
「そうじゃなくて」
指先が動かなかった。
赤子はあまりにも無防備だった。
こんなに小さな手で、何かを掴めるのだろうか。こんなに細い首で、頭を支えられるのだろうか。少し力を入れただけで、壊れてしまいそうだった。
それだけではない。
ライレイは、もう一度自分の手を見つめた。
剣を握ってきた手だった。
幾度も人を殺した手だった。
戦場で敵を討ち、命令を下し、生き延びるために他人の命を奪ってきた。必要なことだったと、今でも思っている。後悔だけで片づけられる人生ではなかったし、あの時の自分が別の道を選べたとも思わない。
それでも。
こんなにも柔らかく、何も知らない命に触れるには、あまりに多くの血を知っている気がした。
「……俺が抱いても、いいのかな」
声は、自分でも驚くほど小さかった。
ユエがライレイを見た。
彼女は、彼が何を考えているのかを聞かなかった。
ただ静かに、赤子の頬へ指先を添えた。
「殿下」
「うん」
「お父様ですよ」
ライレイは顔を上げた。
「この子の、お父様にございます」
それは、ごく当たり前のことを確かめる声だった。
けれど、ライレイには十分だった。
過去に何をしてきたかではなく、今、この子にとって自分が何者なのか。
ユエはそれを、迷いなく教えてくれた。
「……そうだね」
ライレイはもう一度、赤子を見た。
「そうだった」
産婆に教えられながら、慎重に両腕を差し出す。
頭を支え、身体を受け止める。
恐ろしいほど軽かった。
けれど、確かに重みがあった。
小さな身体から温もりが伝わってくる。
赤子がもぞりと動き、布の隙間から握りしめた手を覗かせた。その指が、ライレイの指先に触れる。
「……あ」
思わず声が漏れた。
こんなに小さな指なのに、触れられた場所だけが不思議なほど鮮明だった。
ライレイは赤子を見つめた。
小さな額。丸い頬。頭には、産毛のように柔らかな赤褐色の髪が生えていた。その色だけは、どうやら自分に似ているらしい。
「……髪の毛は俺似かな」
ライレイは思わず笑った。そっと顔を近づけ、まだ固く閉じられた瞼を覗き込む。
「目はユエに似てほしいな」
あの美しい暗赤色の瞳を思い浮かべる。もちろん、自分と同じ金色でも可愛いに決まっている。けれど、愛する妻に似た瞳で見上げられたら、きっとたまらないだろう。
「どちらに似ても、殿下はお喜びになるのでしょうね」
ユエが微笑んだ。
「うん。間違いないね」
ライレイは小さな寝顔へ視線を戻した。
この子がどんな顔で笑うのか、どんな声で自分を呼ぶのか。まだ何ひとつ分からない。
ただ、この子がここにいる。
自分の腕の中で、息をしている。
それだけで、胸がいっぱいになった。
「……はじめまして」
ライレイは笑った。
思いがけず、頬が緩んでいた。
「父上だよ」
赤子は眠ったままだった。
「君のこと、ずっと待ってた」
声を落とすと、腕の中の温もりがいっそう愛おしく感じられた。
「ユウユウ」
もう一度、名前を呼ぶ。
「幸せにするから」
一言ずつ、噛みしめるように言った。
「君も、母上も。俺が、幸せにするからね」
気づけば、ひどく幸せな顔で笑っていた。
これまでにも、嬉しいことはあった。勝利も、栄誉も、思い通りに事が運んだ瞬間も、数えきれないほどあった。
けれど、そのどれとも違う。
何かを手に入れた喜びではなかった。
守りたいものが、今ここにある。
ただそれだけで、こんなにも満たされるのだと、初めて知った。
「……兄様」
振り返ると、寝台の反対側にリンレイが立っていた。
金色の瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれている。
「リンレイ」
「よかった……本当に、よかったです」
妹は両手で口元を覆い、何度も頷いていた。
「ユエ姉様も、赤ちゃんも……ご無事で……」
「うん」
ライレイは笑った。
「ありがとう。帰ってきてくれて」
「……はい」
「間に合ってよかったね」
「はい……!」
リンレイが涙を拭う。
けれど、拭っても拭っても次の涙がこぼれてきた。
「兄様まで、そのようなお顔をなさって」
「どんな顔?」
「……ものすごく、幸せそうです」
「そう?」
「はい」
ライレイは腕の中を見下ろした。
小さな寝顔があった。
「……そっか」
笑みが、どうしても消えなかった。
「そうだろうね」
ユエが静かに微笑んだ。
その顔があまりにも優しくて、ライレイはまた胸がいっぱいになった。
*
それからのライレイは、少々おかしかった。
いや、本人にその自覚はなかった。
ただ、世の中にこれほど可愛いものが存在するとは知らなかったのである。
「……ユエ」
「はい」
「見た?」
「何をでしょう」
「今、口が動いた」
「はい」
「可愛くない?」
「可愛らしいですね」
「だよね」
ライレイは満足そうに頷いた。
それから少しして、また呼ぶ。
「ユエ」
「はい」
「指が動いた」
「はい」
「すごくない?」
「動くかと存じます」
「でも、こんなに小さい指なのに?」
「小さくとも、指にございますので」
「……なるほど」
妻の説明には一理あった。
だが、それで感動が減るわけではない。
生まれたばかりの息子は、まだほとんど眠っていた。時折顔をしかめ、口をもぐもぐと動かし、泣いては乳を飲み、また眠る。
それだけだった。
それだけなのに、どうしてこんなに目が離せないのだろう。
ライレイは寝台の傍らに椅子を寄せ、赤子を眺め続けた。
ユエは出産の疲れが残っており、産婆からも十分な休息を取るよう言われている。ライレイとしては、一日中寝ていてほしいくらいだった。
「ユエ、喉は渇かない?」
「先ほどお水をいただきました」
「もう一杯飲む?」
「まだ結構にございます」
「何か食べる?」
「少し前にいただきました」
「寒くない?」
「適温にございます」
「暑くは?」
「適温にございます」
「枕、高くない?」
「殿下」
「うん?」
「わたくしは、怪我人ではございません」
「分かってるよ。分かってるけど、出産したばかりだろう?」
「はい」
「だから、何でも言って。俺、何でもするから」
「では、一つお願いがございます」
「何?」
「少し、お休みになってください」
ライレイは瞬きをした。
「俺?」
「はい。昨夜から、ほとんどお休みになっておりませんでしょう」
「平気だよ」
「そうは見えません」
「いや、本当に。眠くないんだ」
実際、少しも眠くなかった。
目を閉じるのが惜しいくらいだった。
ユエが静かに息を吐く。
「殿下が倒れられては、わたくしが困ります」
「……ユエが?」
「はい」
ライレイは考えた。
妻に困られるのは嫌だった。
「じゃあ、少しだけ」
「お願いいたします」
素直に頷いたものの、寝台へ戻る前にもう一度息子を覗き込む。
「……ユエ」
「はい」
「寝顔、可愛いね」
「先ほどもおっしゃいました」
「そうだった?」
「七度目にございます」
「数えてたの?」
「はい」
ライレイは少し笑った。
「じゃあ、八度目も言っておこうかな。可愛い」
「……御意にございます」
ユエも、とうとう小さく笑った。
その笑顔を見た瞬間、ライレイはまた動けなくなった。
困った。
息子が可愛い。
妻も可愛い。
どちらを見ても可愛い。
どうすればいいのだろう。
こんなに可愛いものばかり、一度に与えられても困る。
「ユエ」
「はい」
「俺、どうしよう」
「何がでしょう」
「幸せすぎる」
ユエが目を細めた。
「……それは、何よりにございます」
そう言って微笑む彼女を見て、ライレイはとうとう寝台へ戻るのをやめた。
椅子に座り直し、ユエの手を取る。
「本当に、お疲れ様」
今度は、ふざけずに言った。
「ありがとう、ユエ」
彼女の手には、まだ少し力が入りにくそうだった。
出産の間、どれほど苦しかったのだろう。自分が廊下でうろうろしている間に、彼女は一人の命をこの世へ送り出したのだ。
「君はすごいね」
「……殿下」
「俺、何もできなかった」
「そんなことはございません」
「いや、本当に何もできなかったよ。二人に邪魔だって言われたし」
「事実にございます」
「そこは否定してほしかったなあ」
ライレイが苦笑すると、ユエもかすかに口元を緩めた。
「ですが」
「うん?」
「外でお待ちくださっていると、分かっておりましたので」
ユエは握られた手を、ほんの少し握り返した。
「心強うございました」
ライレイは黙った。
しばらくして、彼女の指先に唇を寄せる。
「……そっか」
「はい」
「じゃあ、次はもう少し落ち着いて待てるようにするよ」
「次、でございますか」
「……あ」
先走った。
ユエが静かに見つめてくる。
ライレイはすぐに笑顔を作った。
「今のは忘れて。とにかく、今は君の身体が一番だから」
「承知いたしました」
「しばらくは何もしなくていいよ。仕事も、人付き合いも。必要なものがあったら全部俺が用意する。君は寝て、食べて、ユウユウと一緒にいてくれれば」
「殿下」
「何?」
「それでは、殿下のお仕事が進みません」
「仕事は進めるよ。寝ている間に」
「いつお休みになるおつもりですか」
「……適宜?」
「先ほどのお約束をお忘れですか」
ユエの声が少し低くなった。
ライレイは素直に頷いた。
「はい。休みます」
どうやら妻の方が、一枚上手らしい。
いや、昔からそうだったかもしれない。
そこへ、赤子が小さく声を上げた。
ライレイは反射的に振り返る。
「ユウユウ?」
眠っていた息子が、顔をくしゃりとさせた。
次の瞬間、泣き始める。
「どうしたの? お腹すいた? 寒い? 暑い? 苦しい?」
「殿下」
「何?」
「まず、落ち着いてください」
言われた。
今日、何度目だろう。
産婆が近づき、赤子の様子を確かめる。やがて乳を欲しがっているらしいと分かり、ユエが身体を起こした。
ライレイはすぐに枕を整え、背に当てる布を受け取り、今度こそ邪魔にならないよう慎重に手を貸した。
ユエが息子を抱き寄せる。
小さな口が乳を探し、やがて静かになった。
「……ああ」
ライレイはその光景を見つめた。
胸の奥が、また熱くなる。
ユエの腕の中で、息子が懸命に生きている。
母親になった妻は、少し疲れた顔で、それでもひどく優しく笑っていた。
ライレイは彼女の髪をそっと撫でた。
「……可愛いね」
ユエが顔を上げる。
「何度目でしょう」
「分かんない」
「もう数えきれません」
「俺も」
ライレイは笑った。
「でも、たぶん一生言うよ」
ユエは呆れたように、けれど幸せそうに目を細めた。
*
その夜、ライレイは何度も目を覚ました。
いや、正確には、ほとんど眠れていなかった。
理由は単純である。
息子が、そこにいるからだ。
寝台の傍らに置かれた小さな寝床で、ユウユウが眠っている。時折身じろぎし、口を動かし、また静かになる。
そのたびにライレイは目を開け、息をしていることを確かめた。
ユエは隣で眠っていた。
疲れが深いのだろう。普段よりもずっと静かな寝息を立てている。
ライレイは妻の顔を眺めた。
それから、息子を見る。
また妻を見る。
……夢ではない。
何度確かめても、二人はそこにいた。
ライレイは、そっと寝台から起き上がった。
窓の外では、月が庭を照らしている。桂花の香りを含んだ夜風が、薄い帳をかすかに揺らしていた。
思えば、ユエの妊娠が分かってから、ずっと奇妙な気持ちを抱えていた。
嬉しかった。
心から嬉しかった。
毎日のように腹へ話しかけ、子供の名前を考え、服を選び、寝床を用意した。
生まれたら何を教えよう。どこへ連れて行こう。どんなふうに笑う子になるのだろう。
考えるだけで、胸が弾んだ。
けれど、その幸福があまりに大きくて、どこか現実味がなかった。
いつか期限が来るのではないかと、思っていた。
産まれるまでの、ほんの短い夢なのではないか。
何もかもがうまくいくはずはないと、どこかで身構えていた。
ライレイは長い間、失わないために戦ってきた。
王宮で生き延びること。
大切な人を守ること。
自分の選んだ未来を、誰にも奪わせないこと。
幸せになるためというより、幸せを壊されないために動いてきた気がする。
だから、こんなにも静かな夜が、自分に訪れるとは思っていなかった。
妻が眠っている。
息子が眠っている。
明日になれば、二人はまた目を覚ます。
息子は泣くだろう。
ユエはきっと、そんな彼を落ち着いて抱き上げる。
自分はまた慌てて、余計なことをして叱られるかもしれない。
そして、明後日も。
その次の日も。
こういう日々が続いていく。
「……そっか」
ライレイは小さく呟いた。
今日で終わりではないのだ。
待ち望んだ幸福の頂点に立ったのではなく、今日から始まる毎日の入り口にいる。
息子の初めての笑顔も。
初めての言葉も。
自分の足で歩く日も。
今はまだ、何ひとつ知らない。
知っていけるのだ。
これから、少しずつ。
そう思った途端、喉の奥が熱くなった。
ライレイは寝床の傍らに膝をつき、眠っている息子の顔を覗き込んだ。
「……ユウユウ」
小さな寝息が返ってくる。
「生まれてきてくれて、ありがとう」
そっと指を差し出すと、眠ったままの手が偶然そこに触れた。
ライレイはしばらく動かなかった。
いつか、この手は大きくなる。
自分の指を握り返す力も、今よりずっと強くなるだろう。
そうして、いつか自分の手を離して歩いていく。
そのときまで、どれほどたくさんの朝と夜があるのだろう。
考えると、楽しみで仕方なかった。
「……あ」
そこで、ひとつ思い出した。
「リュシーに、手紙を書かなくちゃ」
思わず声が出た。
ユエが身じろぎしたので、慌てて口を閉じる。
妻が再び穏やかな寝息を立て始めたのを確かめてから、ライレイは静かに部屋を出た。
執務室に入り、灯りをともす。
机の上には、昼間まで確認していた書類が残っていた。普段なら真っ先に片づけるところだが、今夜はどうでもよかった。
新しい便箋を引き寄せ、筆を取る。
最初の一行は、すぐに決まった。
『リュシーへ。
生まれたよ。』
ライレイはそれを眺めた。
たった一行なのに、また笑ってしまう。
『予定より少し早かったけど、母子ともに元気だ。
ユエはよく頑張ってくれた。俺は何もできなくて、二人に邪魔だと叱られた。リンレイにまで言われたんだから、相当だったんだと思う。』
そこで少し笑った。
リュシアンの顔が浮かぶ。
きっと呆れるだろう。
もしかしたら、少し嬉しそうな顔もするかもしれない。
『それから、君が考えてくれた名前をつけた。
悠凰。ユウホウ。
普段はユウユウって呼ぶつもりだ。』
筆を止める。
その名を初めて聞いたときから、いい名前だと思っていた。
今は、腕の中に抱いた小さな命によく似合う名前だと思う。
『信じられないくらい小さくて、信じられないくらい可愛い。
目が開いたら君にも見せたいな。
アデルちゃんにも伝えておいて。
ユエも、きっと喜ぶ。』
そこで、ふと考えた。
自分は今まで、何度もリュシアンへ手紙を書いてきた。
政治の話も、交易の話も、どうでもいい冗談も。
からかうためだけに筆を取ったことさえある。
けれど、こんな知らせを送る日が来るとは思わなかった。
ライレイは少し考えてから、最後に一文を書き加えた。
『俺、父親になったよ。』
たったそれだけだった。
けれど、今伝えたいことは、その一言にすべて収まっている気がした。
封をして、鷹に託す筒へ収める。
鷹舎へ向かう頃には、東の空がわずかに白み始めていた。
鳥たちはまだ静かだったが、ライレイの気配に気づいた一羽が首を巡らせる。リンレイがスピネリアとの往復に使っている、よく訓練された伝書鷹だった。
「おはよう」
ライレイは鷹の足に筒を結びつけた。
「ちょっと大事な手紙なんだ。頼んだよ」
鷹はじっとこちらを見ている。
「向こうに着いたら、リンレイの使いの者に渡してね」
鷹匠が最終確認を済ませる。
ライレイは高い窓を開けた。
秋の朝の空気が流れ込んでくる。
東の空は淡い青へ変わり始めていた。
「……行っておいで」
鷹が翼を広げる。
力強く羽ばたき、朝の空へ飛び立った。
ライレイはその姿が見えなくなるまで、窓辺に立っていた。
スピネリアまで、どれほどかかるだろう。
手紙を受け取ったリュシアンは、どんな顔をするだろう。
きっと「おめでとう」と、少し照れくさそうに言うのだろう。
アデルなら、もっと分かりやすく喜んでくれるかもしれない。
そう考えながら、ライレイは踵を返した。
帰ろう。
妻と息子が待つ部屋へ。
今日もきっと、ユエに何度か叱られるのだろう。
息子は泣いて、眠って、また泣くだろう。
自分はそのたびに大騒ぎするかもしれない。
それでも構わなかった。
そんな毎日が、これから始まる。
ライレイは自然と緩む口元を隠しもせず、朝の光が差し込む回廊を歩いた。
部屋へ戻れば、きっとあの小さな寝息が聞こえる。
その隣には、愛する妻がいる。
昨日までは知らなかった日常が、今日からは自分の帰る場所になる。
廊下の向こうから、かすかに赤子の泣き声が聞こえた。
「……あ、起きた」
ライレイは足を速めた。
戦場へ向かうときよりも、ずっと急いで。
そして、ずっと幸せな顔で。




