第六十六話 ただいまの香り
スピネリア王宮の庭園では、夏の間に咲き誇っていた花々が少しずつ姿を消し、代わりに秋の香草が穏やかな香りを漂わせるようになっていた。朝夕の空気はすっかり涼しくなり、開け放していた回廊の窓も、近頃では昼の暖かな時間にだけ開かれることが多い。
秋。
香りの国スピネリアでは、この季節になると新しい香水の発表が増える。夏の軽やかな柑橘や花の香りから、樹脂や香木を使った深みのある調合へと流行が移り、王都の商館には各地から届いた香料が所狭しと並べられていた。
シャン国の駐在使節であるリンレイも、その影響で忙しい日々を送っていた。
春香祭をきっかけに広まったシャン産の白檀は、今ではスピネリアの工房でも珍しいものではなくなり、さらに新領地から届く香木や薬草を扱う商人も増えている。取引量が増えれば、それに伴って確認すべき書類も増える。輸送日程、価格、関税、品質証明。最近では、シャンの薬材を使った新しい商品開発について相談されることも珍しくなかった。
十五歳でスピネリアへ渡ってきた頃には、外交の仕事など何一つ分からなかった。
今でも分からないことは多い。
けれど、少なくとも何を確認すればよいのかくらいは、自分で判断できるようになってきた。
そんなリンレイが、その日の午後、珍しくリュシアンの執務室を訪ねていた。
「リンレイ殿下? どうしたんだ、わざわざ」
机へ向かっていたリュシアンが顔を上げた。濃紺の執務着に身を包み、艶のある黒髪をきちんと整えた姿は、いつも通りの王太子殿下である。灰青色の瞳が、入室したリンレイを見て少しだけ柔らかくなった。
普段、リンレイがこの部屋へ来るのは、交易に関する重要な報告か、シャン王家から正式な書状が届いた時くらいだった。
「本日は、私的なお願いがございまして」
「私的な?」
「はい」
リンレイは淡い杏色の衣の裾を整えると、丁寧に一礼した。肩へ流した赤褐色の髪が、秋の陽を受けて柔らかく輝く。
「兄夫婦の出産に立ち会いたく、ご相談に参りました」
「ああ」
リュシアンが納得したように頷いた。
「そういえば、そんな時期だな」
「はい。先日、兄様からご連絡がございました。ユエ様もお変わりなく、出産の準備が進んでいるそうです」
「それはよかった」
リュシアンは机上の予定表へ視線を落とした。
「いつ頃を考えてる?」
「できれば、近日中に出発したいと考えております。出産までには帰国したいので」
「滞在は?」
「ひと月ほど、お時間をいただければと」
リンレイは少し緊張していた。
シャンの王女として、そしてスピネリアへ常駐する駐在使節として、長期間職務を離れることが簡単ではないのは理解している。すでに進んでいる交易協議もあり、秋には新しい商談の予定も入っていた。
けれど、どうしても帰りたかった。
兄に会いたい。
ユエにも会いたい。
そして、これから生まれてくる子供を、できることなら一番近くで迎えたかった。
リュシアンはしばらく予定表を眺めていたが、やがて何でもないことのように頷いた。
「家族として当然のことだ。調整しよう」
「……よろしいのですか?」
「もちろん。そもそも、リンレイ殿下がスピネリアへ来てから、まとまった休暇なんてほとんど取っていないだろう」
「ですが、まだ途中の案件もございます」
「それは引き継げばいい。急ぎのものは出発前に片づけて、残りは外務官に任せよう。必要ならこちらでも対応する」
リュシアンは羽根ペンを取り、予定表の一角へ印をつけた。
「ひと月後には戻る予定として、その間の連絡体制を整えておけば問題ない」
「ありがとうございます!」
思わず声が弾んだ。
リンレイが深く頭を下げると、リュシアンは少し笑った。
「そんなに畏まらなくていい。ライレイだって、妹に会いたいだろうしな」
「……はい」
その言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなる。
兄様も、会いたいと思ってくださっているだろうか。
そう考えてから、リンレイは自分で少しおかしくなった。
会いたいに決まっている。
今まで何度も届いた手紙には、仕事の報告よりも、自分の体調や暮らしを案じる言葉の方が多かったのだから。
「ああ、それから」
リュシアンが思い出したように顔を上げた。
「ライレイたちへの土産も持たせるから、預かってくれ」
「もちろんです。お気遣いありがとうございます」
「アデルにも声をかけておくよ。きっと何か用意したがるだろうし」
「ふふ。アデル姉様なら、そうでしょうね」
リンレイは思わず笑った。
アデルがユエの懐妊を知った時、どれほど大騒ぎしたのかは、すでに何度も聞かされている。もっとも、その話を聞かされた時には、自分も負けないくらい大騒ぎしてしまったのだが。
「ライレイには、ちゃんと休ませるように言っておいて」
「承知いたしました」
「特にユエ殿のことになると、あいつは少しおかしくなるからな」
「……少し、でしょうか?」
リュシアンの手が止まった。
二人はしばらく顔を見合わせた。
「……かなり、かな」
「はい」
リンレイは真顔で頷いた。
「私もそう思います」
*
それから数日間、リンレイは帰国の準備に追われた。
まずは先ひと月分の予定をすべて確認し、急ぎの案件と帰国後でも間に合うものを振り分ける。交易に関する書類は担当する外務官と商務官へ引き継ぎ、判断が必要な案件については、どこまでを現地の裁量で進めてよいか明文化した。
次に、伝書鷹の管理である。
シャンから連れてきた鷹たちは、すでにスピネリアの気候にも慣れ、両国の連絡を支える大切な存在になっていた。鷹舎の管理を任せている者と一緒に、一羽ずつ健康状態を確かめ、使用予定と休養期間を記録していく。
「こちらの二羽は、しばらく休ませてください。先月は往復が多かったので」
「承知いたしました」
「それから、この子は少し食欲が落ちていましたね。今朝はいかがでしたか?」
「いつも通り食べております。羽の状態も問題ございません」
「よかった」
リンレイは止まり木へ手を伸ばし、赤褐色の羽を持つ一羽の胸元をそっと撫でた。鷹は慣れた様子で首を傾け、金色の瞳をじっと見返してくる。
「私がいない間も、よろしくお願いいたしますね」
王女が鷹へ話しかける姿にも、今では周囲の者たちはすっかり慣れていた。
初めてスピネリアへ来た頃には、伝書鷹を使うこと自体が珍しがられたものだ。今では外務官たちも鷹の扱いを覚え、急ぎの文を送る時には、こちらへ相談が来るようになっている。
自分がいなくても仕事が回る。
以前なら少し寂しく感じたかもしれない。
けれど今は、それが嬉しかった。
最後に、兄へ短い手紙を書いた。
『兄様。
リュシアン殿下よりお許しをいただきましたので、近日中に帰国いたします。ユエ様とお子様のご様子を、私も直接拝見したく存じます。
ひと月ほど滞在する予定です。
お二人にお会いできることを、楽しみにしております。
リンレイ』
書き終えてから、少し考える。
それから、最後に一文だけ付け加えた。
『なお、帰国しましたら、兄様にはいくつかお尋ねしたいことがございます』
よし。
これでいい。
手紙を細く巻き、鷹の脚へ結びつける。窓の外では、秋の高い空が青く澄み渡っていた。
「お願いね」
放たれた鷹が大きく翼を広げ、東の山脈へ向かって飛んでいく。
その姿を見送りながら、リンレイは小さく息を吐いた。
もうすぐ。
もうすぐ、兄様に会える。
*
出発の日。
王宮の正門前には、シャンへ向かう馬車が用意されていた。
秋の朝は思いのほか冷たく、リンレイは淡い杏色の衣の上から薄手の外套を羽織っていた。旅に必要な荷物はすでに積み終え、リュシアンから預かった贈り物も、揺れで傷まないよう丁寧に収められている。
「道中、お気をつけて」
見送りに来たアデルが微笑んだ。
腰近くまで伸びる銀髪を低い位置でまとめ、淡い灰青色の仕事着の上から外套を重ねている。朝の光を受けた瞳は新緑色に見え、その表情はいつも通り穏やかだった。
「ありがとうございます、アデル姉様」
「ユエ様にも、どうぞよろしくお伝えください。それから、お身体を大切になさるようにと」
「はい」
「お子様がお生まれになったら、ぜひお知らせくださいね」
「もちろんです」
「それから、こちらも」
アデルが小さな包みを差し出した。
「ユエ様への贈り物です。ご出産後、落ち着かれた頃にでもお渡しください」
「何でしょう?」
「香り袋なのですが、香料は入れておりません」
「……香り袋なのに?」
リンレイが目を丸くすると、アデルは楽しそうに笑った。
「今は香りを楽しむより、お身体を休めることが大切でしょう。後からお好きな香料を入れていただけるよう、袋だけ仕立てていただきました」
「なるほど」
いかにもアデルらしい贈り物だった。
調香師である彼女が、あえて香りを入れない。
その心遣いが、リンレイには嬉しかった。
「必ずお渡しいたします」
「ありがとうございます」
リュシアンも隣で頷く。
「向こうへ着いたら、無事の知らせを頼む」
「はい」
「帰りの日程は、状況を見て決めていいから。何かあれば鷹で知らせてくれ」
「承知いたしました」
リンレイは二人へ丁寧に一礼した。
「では、行ってまいります」
「ああ。行ってらっしゃい」
「よい旅を、リンレイ様」
馬車へ乗り込む。
扉が閉まり、車輪がゆっくりと動き始めた。
窓から見える白い石造りの王宮が、少しずつ遠ざかっていく。
初めてこの国へ来た日には、何もかもが大きく、立派で、知らないものばかりだった。
今では、あの回廊の先に何があるのか、どの庭園にどんな花が咲くのか、どの部屋で誰が働いているのかまで分かる。
いつの間にか、スピネリアにも自分の居場所ができていた。
リンレイは窓の外へ目を向けたまま、そっと微笑んだ。
*
シャンの秋は、思っていたより涼しかった。
山脈を越え、故郷の領内へ入った頃には、風の匂いがすっかり変わっていた。乾き始めた草。収穫を終えた畑の土。遠くで焚かれている薪と、街道沿いの家々から漂う香木の煙。人々が衣へ移した焚香の残り香まで、スピネリアとはどこか違っている。
懐かしい。
リンレイは馬車の窓を少し開け、冷たい風を胸いっぱいに吸い込んだ。
故郷の匂いだった。
スピネリアへ旅立った日のことを、今でもよく覚えている。知らない国。知らない言葉や習慣。兄がいない場所で、本当に自分一人でやっていけるのだろうかと、何度も考えた。
あの頃は、馬車の窓から見える景色が変わるたびに不安になったものだ。
けれど今は違う。
帰る場所も、戻る場所も分かっている。
自分が何をしに行き、何を持ち帰るのかも。
何より、スピネリアで過ごした日々が、自分の中に確かな自信を残してくれていた。
あんなに不安だったのに。
今は、こんなにも堂々と帰ってこられる。
王都へ入る頃には、陽も随分と傾いていた。
見慣れた赤い瓦屋根が連なり、街角には秋の果実や乾燥させた薬草が並んでいる。市場の賑わいも、行き交う人々の衣装も、何もかもが懐かしかった。
王宮の門が見えてくる。
高い城壁。
朱塗りの門柱。
金の飾りを施した屋根。
馬車がゆっくりと門をくぐった時、リンレイは思わず背筋を伸ばした。
ただいま戻りました。
声には出さなかったけれど、胸の中では何度も繰り返していた。
*
シャン王宮へ到着して最初に向かったのは、国王ジンレイのもとだった。
他国へ派遣された王女として、帰国の報告をする必要がある。
謁見の間には、秋の柔らかな陽が差し込んでいた。磨き込まれた床へ長い影が落ち、奥の高座には国王が座っている。以前と変わらぬ威厳を保ちながらも、その姿を見たリンレイは、ほんの少し違和感を覚えた。
……お痩せになった?
父の頬が、記憶にあるより少しこけて見えた。
衣の袖から覗く手首も、以前より細いような気がする。
けれど、長旅のあとで自分の記憶が曖昧になっているだけかもしれない。
「第四王女リンレイ、スピネリアより帰国いたしました」
深く頭を下げる。
「ご苦労であった」
国王の声は、以前と変わらず落ち着いていた。
「向こうでの暮らしはどうだ」
「おかげさまで、滞りなく務めております。香料交易も順調に進んでおり、今後は薬材の取引についても拡大が見込まれております」
「そうか」
ジンレイは静かに頷いた。
「ライレイからも報告は受けている。よく働いているそうだな」
「ありがとうございます」
「スピネリアの王太子にも、礼を伝えねばならぬな」
「リュシアン殿下には、今回の帰省につきましても大変ご配慮をいただきました」
「うむ」
そこで一度、国王が小さく咳払いをした。
傍らの侍従がすぐに茶を差し出す。
リンレイは思わず顔を上げた。
「父上、お身体の具合がよろしくないのですか?」
「……少し疲れが残っているだけだ」
国王は何でもないことのように答えた。
「歳を取れば、昔のようにはいかぬ」
「そうでございますか……」
まだ完全には納得できなかったが、これ以上尋ねるのも憚られた。
リンレイが再び頭を下げると、国王は少しだけ表情を和らげた。
「ライレイのところへ行くのであろう」
「はい」
「ユエも喜ぶだろう。あれも、もうすぐ母親になる」
「楽しみにしております」
その答えに、国王は静かに頷いた。
「ならば、早く行ってやるとよい」
「ありがとうございます。失礼いたします」
リンレイはもう一度深く頭を下げ、謁見の間をあとにした。
扉が閉まってからも、父の少しやつれた姿が頭から離れなかった。
大丈夫だろうか。
けれど、兄様もいらっしゃる。
何かあれば、きっと兄が対処してくださるはずだ。
そう思い直し、リンレイは王太子宮へ向かって歩き出した。
*
兄の宮へ続く回廊は、以前と少し雰囲気が変わっていた。
庭には秋の花が植えられ、通路の一角には新しい長椅子が置かれている。中庭を見渡せる場所には、まだ小さな木々が植えられたばかりらしく、柔らかな土の匂いが残っていた。
そういえば、兄様はお子様のために宮を整えると仰っていた。
春に届いた手紙には、新しい住居を建てるだの、薬草園を広げるだの、随分と大きな話が書かれていたものだ。
実際には、今の宮を少しずつ整えることにしたのだろう。
それでも、以前より明らかに暮らしやすそうになっている。
侍女に案内されながら、リンレイは胸の高鳴りを抑えきれなかった。
もうすぐ。
もうすぐ、兄様に会える。
「こちらにいらっしゃいます」
侍女が奥の居間を示した。
扉は少しだけ開いている。
リンレイは思わず足を速めた。
「兄様、リンレイです。ただいま戻りまし……」
言葉が止まった。
目の前には、信じられない光景が広がっていた。
窓辺の長椅子に座るユエ。
その前に膝をつき、彼女の大きく膨らんだ腹部へ耳を当てている兄。
赤褐色の髪が柔らかな衣へ触れ、いつもは鋭く輝く金色の瞳が、今は穏やかに伏せられている。
ライレイは、幸せそうに微笑んでいた。
あんな顔。
リンレイは息を止めた。
兄が笑う姿なら、何度も見てきた。
人懐こい笑顔も、いたずらを思いついた時の顔も、勝負に勝って得意そうに笑う姿も。幼い頃、自分を安心させるために見せてくれた優しい笑顔だって、数えきれないほど覚えている。
けれど。
こんな顔は、初めてだった。
誰かを守ろうと身構えるでもなく、何かを手に入れようとするでもなく、ただ目の前にある幸福を静かに受け取っている顔。
「……兄様」
小さく呼ぶ。
ライレイが顔を上げた。
「あれ、リンレイ?」
金色の瞳がぱっと輝いた。
「おかえり! もう着いたんだね」
立ち上がりかけた兄を見た瞬間、リンレイの視界が滲んだ。
「……兄様の」
「ん?」
「兄様の、こんなお顔……初めて見ました」
声が震える。
気づいた時には、頬を涙が伝っていた。
「えっ?」
ライレイが目を丸くする。
「ちょっと、リンレイ? どうしたの、帰って早々」
慌てて立ち上がり、妹のもとへ歩み寄る。
「何かあった? 道中で嫌なことでも?」
「違います……」
「じゃあ、どうしたの?」
兄の手が、そっと頭へ触れた。
懐かしい手だった。
幼い頃、泣いている自分を何度も慰めてくれた手。
怖い夢を見た夜も、後宮で嫌なことがあった日も、兄はいつもこうして頭を撫でてくれた。
その手が、今は少し違って感じられる。
優しい。
けれど、その優しさが自分一人だけへ向いているわけではないことが、何より嬉しかった。
「……安心したのです」
「安心?」
リンレイが頷くと、長椅子に座っていたユエが静かに口を開いた。
「リンレイ殿下は、ライレイ様のご様子をご覧になって安心されたのではございませんか」
その声は、以前よりずっと柔らかく聞こえた。
黒髪をゆるくまとめ、淡い色の衣をまとったユエは、相変わらず凛とした美しさを持っている。伏し目がちな暗赤色の瞳も、整った顔立ちも、以前と変わらない。
けれど、その眼差しには穏やかな温かさがあった。
これが、母になるということなのだろうか。
それとも。
兄に愛され、兄を愛しているからだろうか。
リンレイには、まだよく分からなかった。
ただ、ユエが幸せそうに見えることが嬉しかった。
「……はい」
リンレイは涙を拭いながら頷いた。
「兄様が、あんなに幸せそうにしていらっしゃるので……」
「そっか」
ライレイは少し驚いたように目を瞬かせ、それからふっと笑った。
「ありがとね」
もう一度、妹の頭を撫でる。
「あれ。少し背も伸びたかな?」
「……そうでしょうか」
「うん。前より目線が近い気がする」
「兄様が少し屈んでいらっしゃるからでは?」
「それもあるか」
ライレイが笑う。
その笑い方も、以前と少し違っていた。
兄も、父になろうとしているのだ。
リンレイはそう思い、もう一度だけ目元を押さえた。
*
少し遅い午餐は、三人で取ることになった。
王太子宮の小さな食堂には、秋の陽射しが柔らかく差し込んでいる。窓の外では黄色く色づき始めた葉が風に揺れ、庭のどこかで焚かれている白檀の香りが、かすかに室内へ届いていた。
食卓には蒸した魚や青菜、温かな汁物、秋の果実が並んでいる。
ユエのために、料理はどれも消化しやすく、香辛料を控えたものにしてあるらしい。
「出産予定日は、一週間後でございますよ」
ユエが茶器を置きながら話した。
「一週間……」
リンレイは思わず彼女の腹部へ視線を向けた。
薄い衣の下には、はっきりと大きな膨らみがある。
春にアデルから話を聞いた時には、まだ実感がなかった。兄が父親になると言われても、どこか遠い未来のことのように感じていたのだ。
けれど今は違う。
もう、すぐそこにいる。
「お身体は大丈夫ですか?」
「今のところは、何も問題ございません」
「よかった……」
「宮廷医からも順調と聞いてるよ」
ライレイが嬉しそうに付け加えた。
「ただ、いつ始まるかは分からないからね。しばらく遠出はしないようにしてる」
「兄様も?」
「もちろん」
即答だった。
「今の俺がユエから離れられるわけないでしょ」
「お仕事は?」
「ちゃんとしてるよ。ここへ持ってきて」
「王太子殿下の執務室へ私が参ることもございます」
ユエが補足する。
「最近は、わたくしの方が殿下をお呼びすることも多くなりました」
「えっ、どうして?」
リンレイが尋ねると、ユエは少しだけ目を伏せた。
「少々、過保護でいらっしゃいますので」
「……なるほど」
想像できた。
非常によく想像できた。
「だって、心配でしょ」
ライレイは悪びれもせず答えた。
「転んだら危ないし、重いもの持つのもよくないし、階段だって」
「殿下」
「ん?」
「昨日も申し上げましたが、歩くことまで禁止されては困ります」
「分かってるよ」
「本当に?」
「……なるべく」
ユエが静かに息を吐く。
リンレイは思わず笑ってしまった。
この二人が夫婦になったのだ。
不思議な組み合わせだと思っていたけれど、こうして並んでいると、驚くほど自然に見える。
「あっ、そうでした」
リンレイは思い出したように顔を上げた。
「お二人と、これから生まれるお子様へ、リュシアン殿下より贈り物を預かっております」
「えっ、本当?」
「はい。アデル姉様からも」
「さすがリュシーだ。気が利くなあ」
ライレイが嬉しそうに笑う。
「アデルちゃんにもお礼しないとね。何かな、楽しみだな」
「ですが」
リンレイは姿勢を正した。
「これをお渡しする前に、兄様を怒っておかなければなりません」
「……へ?」
ライレイの笑顔が止まった。
ユエが静かに茶器を置く。
「兄様」
「……はい」
「まず、婚前交渉についてです」
「ぶっ」
ライレイが茶を吹きかけた。
慌てて口元を拭う。
「ちょっと待って。何でそこから?」
「大切なことです」
「いや、大切だけどさ」
「結婚前から、ユエ様へお手を出していらしたそうですね」
「……うん」
「それも、随分早い段階から」
「……そうだね」
「なぜですか?」
ライレイは一度、ユエを見た。
ユエは何も言わずに茶を飲んでいる。
助けるつもりはないらしい。
「……好きだったから?」
「理由になっておりません」
「ええ……」
「好きになったら、すぐにそういうことをなさるのですか?」
「いや、誰にでもってわけじゃないよ」
「では、なぜユエ様には?」
「……好きだったから」
「同じお答えです!」
リンレイが声を上げる。
ライレイは困ったように笑った。
「だって、本当にそうなんだもん」
「もう!」
リンレイは一度深く息を吸い、次の質問へ移った。
「それから、毎日のように迫っていらしたというのは本当ですか?」
「…………」
ライレイの動きが止まった。
「誰から聞いたの、それ」
「アデル姉様です」
「……リュシー」
なぜかリュシアンの名が出た。
「リュシアン殿下に責任転嫁なさらないでください」
「いや、あいつ絶対面白がってたでしょ」
「兄様」
「……はい」
「本当なのですか?」
ライレイは少し考えた。
それから、観念したように頷く。
「……まあ、ほぼ毎日?」
「ほぼ毎日!?」
「だって、ユエが可愛くて」
「兄様!」
「はい!」
反射的に背筋を伸ばす。
ユエが静かに頷いた。
「事実にございます」
「ユエ様!?」
「ただし、わたくし自身も了承しておりましたので、その点は誤解のなきようお願いいたします」
「……そうなのですか?」
「はい」
あまりにも冷静な答えだった。
リンレイは一瞬言葉に詰まったものの、すぐに気を取り直した。
「では、避妊のお話はどうなのですか?」
「…………」
ライレイが天井を仰いだ。
「そこまで聞いてるの?」
「はい」
「全部?」
「全部です」
「……アデルちゃん」
今度はアデルの名を恨めしそうに呟く。
「私には、よく分からないこともございましたので、詳しく教えていただきました」
「……なるほど」
ライレイは両手で顔を覆った。
「兄様」
「はい」
「きちんと準備しているおつもりだったのでしょう?」
「……うん」
「なのに、実際には?」
「……できてませんでした」
「ユエ様がお止めになったのに?」
「……はい」
リンレイが深く息を吐いた。
「兄様!」
「ごめんなさい!」
とうとうライレイが謝った。
ユエは二人のやり取りを眺めながら、静かに茶を飲んでいる。
「なお、わたくしも殿下の説明をそのまま信用せず、確認すべきでございました」
「ユエ様はご自分を責める必要ございません!」
「責めているわけではございません。事実を申し上げているだけにございます」
「そういう問題では……」
リンレイは額を押さえた。
兄に怒るつもりだったのに、いつの間にかユエにまで説明されている。
しかも、どちらも妙に正直なのだから始末が悪い。
「それから」
「……まだある?」
ライレイが恐る恐る尋ねた。
「ございます」
「そっかあ……」
「ユエ様にしたいたずらとは、何ですか?」
「…………」
ライレイが、今度こそ完全に黙った。
ユエの暗赤色の瞳が、わずかに細くなる。
「殿下」
「うん?」
「どのことでございましょう」
「……どれかな」
リンレイが目を見開いた。
「どのこと、とは!?」
「ええと……」
ライレイはしばらく考え込んだ。
「色々あるから」
「色々!?」
「いや、ユエがあんまり表情変えないからさ。どうしたら驚くかなって、つい」
「……兄様」
「でも、最近は結構笑ってくれるんだよ」
「そういうお話ではありません!」
「あとね、照れた顔がすごく可愛い」
「兄様!!」
とうとうリンレイが立ち上がった。
ライレイが慌てて両手を上げる。
「分かった、分かったから! 座って!」
「兄様は、ユエ様を何だと思っていらっしゃるのですか!」
「大好きな奥さん」
即答だった。
「…………」
リンレイが止まる。
ユエが茶器を置いた。
「事実にございます」
「ユエ様まで!」
ライレイが笑い始めた。
とうとう堪えきれなくなったらしい。
「ごめん、ごめん。でも本当にそうなんだよ」
そう言いながら、隣のユエへ視線を向ける。
金色の瞳が柔らかく細められた。
「好きだから、つい構いたくなるし、可愛い顔も見たくなる。困らせたいわけじゃないんだけどね」
「困らせてはおられますよ」
ユエが静かに指摘した。
「……そう?」
「はい」
「ごめん」
「ですが」
ユエは少しだけ口元を緩めた。
「嫌いではございません」
ライレイの顔が、目に見えて明るくなる。
「ほら!」
「ほら、ではありません!」
リンレイはとうとう笑ってしまった。
怒るつもりだった。
本当に、色々と文句を言ってやるつもりだった。
けれど目の前の二人があまりにも幸せそうで、これ以上真面目な顔をしていられなくなった。
「……もう」
椅子へ座り直し、深く息を吐く。
「兄様は、本当に……」
「うん?」
「……昔から、好きなものには一直線なのですね」
ライレイが少しだけ目を瞬かせた。
それから、ふっと笑う。
「そうかもね」
ユエはそんな夫を横目で見ていたが、やがて静かに頷いた。
「その点につきましては、わたくしも異論ございません」
三人の間に、柔らかな笑いが広がった。
*
夜。
ライレイとユエの寝室には、秋の涼しい風が流れ込んでいた。
大きな窓の向こうには月が浮かび、庭園で焚かれていた香木の残り香が、薄い帳の隙間からかすかに届いている。
湯浴みを終えたユエは、ゆったりとした寝間着に身を包み、寝台の上へ腰を下ろしていた。長い黒髪はほどかれ、白い寝具の上へ柔らかく広がっている。以前より随分大きくなった腹部へ、彼女は自然と片手を添えていた。
ライレイはその隣に座っていた。
昼間、妹から散々叱られた男とは思えないほど静かだった。
「……ねえ、ユエ」
「はい」
「本当に、あと一週間なんだね」
「予定では」
「……うん」
ライレイは彼女の腹部へ目を向けた。
そこに子供がいることは、もう疑いようがない。
少し前まで、手を添えても何も分からなかった。
けれど今は違う。
時折、はっきりと動く。
小さな命が、確かにここで生きている。
「……まだ、変な感じがする」
「何がでございましょう」
「父親になるってこと」
ライレイは少し笑った。
「頭では分かってるんだよ。子供が生まれる。俺たちの子で、きっと可愛くて、いっぱい泣いて、いっぱい笑って」
「はい」
「でも、実感があるかって聞かれると……」
そこで言葉を止めた。
ユエが、そっと彼の手を取る。
「こちらへ」
「ん?」
「触れてみてください」
導かれるまま、腹部へ手を添える。
温かい。
その温かさを確かめるように指先を動かした時、手のひらの下で小さな動きがあった。
「……あ」
ライレイが目を見開く。
「動いた」
「はい」
「今、動いたよね?」
「動きましたね」
ユエが微笑んだ。
その顔を見た瞬間、ライレイの胸がいっぱいになった。
何度も触れている。
もう珍しいことではない。
それでも、そのたびに嬉しくなる。
「……すごいなあ」
ぽつりと呟いた。
「本当に、ここにいるんだね」
「はい」
「俺たちの子が」
「ええ」
ユエの声は、穏やかだった。
ライレイはそのまま彼女の腹部へ顔を寄せ、そっと頬を当てた。
「……もうすぐ会えるね」
小さく語りかける。
「父上だよ。分かるかな」
「まだ分からないかと」
「ユエ、そこはもうちょっと夢を持たせて」
「声は聞こえているかもしれませんよ」
「本当?」
「その可能性はございます」
ライレイが嬉しそうに笑う。
「じゃあ、いっぱい話しかけておかないと」
「すでに十分お話しなさっていると思いますが」
「まだ足りないよ」
そう言って、もう一度腹部へ口づけた。
ユエの指が、そっと彼の赤褐色の髪へ触れる。
普段なら、こんなふうに自分から夫の髪を撫でることなど少ない。けれど今夜は、自然と手が伸びた。
「……殿下」
「ん?」
「わたくしも、まだ実感がございません」
ライレイが顔を上げる。
暗赤色の瞳が、静かにこちらを見つめていた。
「この子がここにいることは分かっております。毎日動いておりますし、身体も随分変わりました。ですが」
ユエは一度、言葉を切った。
「実際に生まれて、顔を見て、抱き上げるまでは、どのような気持ちになるのか分からないのです」
「……そうだよね」
「はい」
ライレイはゆっくり身体を起こし、彼女の隣へ腰を下ろした。
「怖い?」
ユエは少し考えた。
「……少し」
その答えに、ライレイは何も言わなかった。
代わりに、彼女の肩を抱き寄せる。
ユエも自然に身体を預けた。
「俺も怖いよ」
「殿下も?」
「うん」
金色の瞳が、月明かりを受けて柔らかく揺れる。
「こんなに大切なものが増えて、どうしたらいいのか分かんないくらい」
「……」
「今まではさ。自分がどうにかなっても、まあ何とかなるって思ってたんだよね」
軽い口調だった。
けれど、その言葉には遠い過去の影があった。
勝つこと。
生き残ること。
妹を守ること。
そのために、随分長い間、色々なものを切り捨ててきた。
けれど今は違う。
「ユエがいて、子供がいて、リンレイも元気で。こういうの、ずっと続いてほしいなって思うんだ」
ユエが静かに顔を上げた。
「続きますよ」
「……うん?」
「続けるのでございます」
あまりにも彼女らしい答えだった。
ライレイは一瞬きょとんとしてから、声を立てて笑った。
「そっか」
「はい」
「じゃあ、頑張らないとね」
「ご無理はなさらず」
「ユエに言われたくないなあ」
そう言いながら、ライレイは彼女の額へ口づけた。
続いて頬へ、そして唇へ。
触れるだけの穏やかな口づけを交わすと、ユエの白い頬へ薄く赤みが差した。
「……可愛い」
ライレイが小さく笑う。
「またそれですか」
「だって可愛いんだもん」
「リンレイ殿下に叱られたばかりでは?」
「好きなものは仕方ないでしょ」
「……そうでございますね」
ユエは少しだけ目を伏せた。
それから、自分から夫の胸元へ頬を寄せた。
ライレイの腕が、自然とその背へ回る。
「……殿下」
「うん?」
「今夜は、このままで」
ライレイの表情が、ふっと柔らかくなった。
「もちろん」
大きくなった腹部を圧迫しないよう、身体の位置を少し整える。それから彼女の肩へ柔らかな掛布をかけ、冷たい夜気が直接当たらないようにした。
ユエが小さく笑う。
「随分とお慣れになりましたね」
「毎日やってるから」
「そうでした」
「これからも毎日やるよ」
ライレイは彼女の黒髪へ指を通し、ゆっくりと梳いた。
「ユエ」
「はい」
「ありがとう」
ユエが顔を上げる。
「何がでございましょう」
「俺と一緒にいてくれて」
いつもの軽口ではなかった。
真っ直ぐで、飾り気のない声だった。
ユエはしばらく彼を見つめていたが、やがて静かに微笑んだ。
「……こちらこそ」
それだけ答えて、夫の胸元へ顔を埋める。
ライレイは目を細め、彼女をそっと抱きしめた。
窓の外では、秋の風が庭の木々を揺らしている。
もうすぐ。
もうすぐ、家族が増える。
その実感はまだ曖昧だったけれど、今ここにある温かさだけは、確かなものだった。
*
その頃、リンレイは久しぶりに自分の宮へ戻っていた。
長い間使われていなかったはずの部屋は、隅々まで綺麗に整えられている。寝具も新しくされ、卓上には秋の花が飾られていた。香炉には火が入っていないものの、衣装棚や帳に染みついた白檀の淡い香りが、部屋全体へ静かに残っている。
懐かしい。
けれど、少し不思議だった。
寝台へ腰を下ろす。
スピネリアのものとは造りが違う。
向こうでは厚い羽毛の寝具と高い天蓋にすっかり慣れていたが、シャンの寝台はもう少し低く、身体を支える感触も異なっている。枕の硬さも、掛布の重みも、何もかもが懐かしかった。
リンレイはそっと横になり、天井を見上げた。
スピネリアへ渡ったばかりの頃を思い出す。
あの時は、何もかもが違っていた。
寝台も。
食事も。
部屋の香りも。
夜になると、知らない場所にいるのだという実感ばかりが強くなり、なかなか眠れなかったものだ。
けれど今は、逆だった。
故郷の寝台なのに、少しだけ落ち着かない。
リンレイは小さく笑った。
「……変なの」
誰に聞かせるでもなく呟く。
帰省。
そう呼べるようになったこと自体が、何だか不思議だった。
以前は、ここが自分の暮らす場所だった。
兄がいて、侍女たちがいて、時折父へ挨拶をして。王族として与えられた生活を送りながら、兄が戻ってくるのを待っていた。
兄以外に、自分を心から迎えてくれる人などいないと思っていた。
それでも、兄がいてくれれば十分だった。
けれど今は。
ユエがいる。
そして、もうすぐ子供が生まれる。
自分にも、家族が増えるのだ。
リンレイは寝台の上で身体を横向きにし、窓の外へ目を向けた。
秋の月が、庭の木々を淡く照らしている。
昼間見た兄の顔が、何度も思い浮かんだ。
ユエのお腹へ耳を当てていた時の、あの幸せそうな顔。
あんなふうに笑う兄を、初めて見た。
兄様は、あんなに人を愛せたのだな。
少し前まで、自分にとって兄は何でもできる人だった。
強くて、賢くて、誰よりも頼りになる人。
どんな時でも笑っていて、困ったことがあればすぐに何とかしてくれる人。
けれど、その兄が今日、まるで子供のように嬉しそうな顔をしていた。
何かに勝ったからではない。
何かを手に入れたからでもない。
ただ、愛する人がそばにいて、その人のお腹に自分の子供がいる。
それだけで、あんなにも幸せそうに笑っていた。
リンレイはそっと目を閉じた。
自分にも、いつかそんな人ができるのだろうか。
兄のように、誰かを大切に思って。
その人が笑っているだけで嬉しくなって。
同じ場所へ帰りたいと思うような。
そんな人が。
……まだ、想像もつかない。
けれど、以前のように遠い世界の話だとも思わなくなっていた。
スピネリアには、アデル姉様がいる。
リュシアン殿下も、メリル殿下も、仕事をともにする人々も。
シャンには、兄様とユエ様がいる。
そして、もうすぐ生まれてくる小さな家族。
自分が帰りたいと思う場所が、一つではなくなった。
迎えてくれる人が、少しずつ増えていく。
それが、こんなにも嬉しいことだったなんて。
リンレイは掛布を胸元まで引き上げ、ゆっくりと息を吐いた。
白檀の香りが、懐かしく鼻先をかすめる。
故郷の匂い。
幼い頃から知っている、安心する香り。
けれど今夜は、そこにほんの少しだけ新しい温かさが混じっているような気がした。
「……ただいま、兄様」
小さく呟く。
明日も、きっと兄はユエのそばで幸せそうに笑っているのだろう。
そう思うと、自然と頬が緩んだ。
リンレイは目を閉じた。
久しぶりの故郷の夜は、驚くほど穏やかだった。




