第六十五話 騎士団の夏
六月のスピネリア王宮には、早くも夏の気配が満ち始めていた。朝のうちは涼しかった石造りの回廊も、昼を過ぎれば陽を吸ってじんわりと温まり、庭園では薔薇の盛りが終わるのと入れ替わるように、ラベンダーや夏の香草が勢いを増している。風が吹けば、陽に温められた草の青い匂いに花々の甘さが混じり、開け放した窓から王宮の奥まで流れ込んできた。
その日の午前中、アデル・スピネリアは宮廷調香室で、昨年の調合記録を開いていた。
白い前掛けを重ねた淡い灰青色の仕事着は、夏に向けて袖を少し短くしてある。腰近くまで伸びる銀髪は低い位置できっちりとまとめられ、窓から差し込む陽光を受けて淡く輝いていた。細い指先で頁をめくりながら、アデルは昨年の夏に記した処方と納入記録を一つずつ確かめていく。
「……もう、一年近く経つのですね」
思わず呟いた。
昨年の夏、王室騎士団から依頼を受けて調合した二種類の香料。肌へ使うものにはペパーミントを少量加え、汗を洗い流した後に使える穏やかな清涼感を持たせた。もう一種類は装具や外套の手入れに用いるもので、レモングラスとユーカリを組み合わせ、不快な臭いを抑えるとともに、屋外での虫除けにも役立つよう工夫したものだった。
当時はまだ正式な王太子妃ではなく、宮廷調香師として依頼を受け、騎士たちの意見を聞きながら試作を重ねた。あれから一年も経たないうちに結婚し、異国を旅し、とうとう王太子妃としてこの調香室へ戻ってきたのだから、振り返れば随分と忙しい時間を過ごしたものである。
もっとも、結婚したからといって仕事の内容が変わるわけではない。
「今年も使っていただけるかしら」
納入数は記録に残っているが、実際の使用量や使い心地までは分からない。昨夏の配備後に寄せられた報告は好意的だったものの、季節を通して使った感想を聞くのは今回が初めてだった。
アデルは記録帳を閉じると、昨年の試作品と同じ処方で作った小瓶を二つ、小さな革鞄へ収めた。せっかくなら、今年の分を調合する前に現場の声を聞いておきたい。
王室騎士団の訓練場を訪れるのは、久しぶりだった。
*
王宮の西側に広がる訓練場では、朝から剣の打ち合う音が響いていた。整地された地面は陽射しを受けて白く乾き、騎士たちが踏み込むたびに細かな土埃が舞い上がる。風に乗って届くのは、鉄と革、乾いた土、それから汗の匂い。香りをまとうことが礼儀とされるスピネリアにあっても、ここだけは人間が身体を動かしていることを隠そうとしない、率直な空気に満ちていた。
「アデル?」
聞き慣れた声に振り向くと、訓練場に隣接する建物からリュシアンが出てくるところだった。
濃紺の執務着に白い襟元、肩から胸元へ控えめに施された銀糸の刺繍。艶のある黒髪はいつものように整えられ、切れ長の灰青色の瞳には公務中らしい鋭さが残っている。それでもアデルを見つけた途端、薄い唇の端が柔らかく上がった。
「リュシアン様も、こちらにいらしたのですね」
「今年度の騎士団予算を確認しに来たんだ。新しい王族警護部隊も動き始めたし、必要なものが増えてないか聞いておこうと思って」
「まあ。私も昨年納めた夏用香料の使用状況を伺いに参りました」
「ちょうどいいな。香料費のことも確認したかったんだ」
リュシアンはアデルの持つ革鞄へ視線を落とし、当然のように片手を差し出した。
「持とうか」
「ありがとうございます。でも、軽いですから」
「そう?」
「はい。香料瓶が二つと、記録帳だけです」
「じゃあ、手だけ」
そう言って、空いている方の手を取られた。
アデルが目を瞬かせると、リュシアンは何食わぬ顔で歩き出そうとしている。
「……リュシアン様。ここは騎士団の訓練場です」
「知ってる」
「皆様が見ていらっしゃいますよ」
「夫婦で歩いているだけだろ」
確かに、その通りではある。
結婚してからというもの、リュシアンはこういうところでまったく遠慮がなくなった。以前なら王太子としての立場を多少は意識していたはずなのに、今では妻と手を繋ぐことを特別な行為とも思っていないらしい。
アデルは少しだけ頬を緩め、繋がれた手をそのままにした。
騎士団の詰所へ着くと、第一部隊の隊長アルベルト・クロイツと、副隊長のマルセル・デュランが出迎えた。
金髪を短く整えたアルベルトは、相変わらず隙のない立ち姿をしている。日に焼けた顔に浮かぶ表情は真面目そのものだったが、リュシアンとアデルが並んで現れると、わずかに目元を和らげた。
「王太子殿下、妃殿下。本日はお運びいただき、ありがとうございます」
「急に悪かったな。例の予算の件、現場の話を聞きたい」
「承知しております。資料はこちらへ」
アルベルトが卓上へ帳簿を広げると、リュシアンは早速その内容へ目を通し始めた。アデルも持参した記録帳を開き、昨年の納入数と今年の希望数量を照らし合わせる。
「それで、昨年の香料はいかがでしたか?」
アデルが尋ねると、アルベルトはすぐに頷いた。
「大変好評でした。夏の警護勤務では、特に肌用のものが役立ちました。香りが強く残りすぎないので、王族の方々に随行する際にも支障がありません」
「それは何よりです。刺激が強くならないよう調整した甲斐がございました」
「装具用も評判がよかったですよ。革手袋や外套を手入れした後に使うと、随分違いました」
横から口を挟んだマルセルは、昨年と変わらない人懐っこい笑みを浮かべていた。柔らかな茶髪が額へ少しかかり、黒い瞳は何か面白いことを思いついたように輝いている。
「いやあ、アデル様のおかげで、昨年の夏は快適でした。これで婚約者でもできれば完璧だったんですけどねえ」
「……まだできてないのか」
リュシアンが書類から顔を上げずに尋ねた。
「殿下、そこは触れないでください」
「去年も同じことを言ってただろ」
「今年こそはと思っております」
「毎年言うつもりか?」
「縁起でもないことをおっしゃらないでくださいよ」
アデルは思わず笑ってしまった。昨年も確か、よく似た話を聞いた気がする。どうやらマルセルの結婚への意欲だけは、季節が巡っても衰えることがないらしい。
「では、今年も香料は必要ですね」
「もちろんです!」
「婚約者ができるかどうかは、香料では保証できませんけれど」
「そこは宮廷調香師のお力で、何とか」
「無理なものは無理です」
真顔で答えると、アルベルトが小さく咳払いをした。口元を隠しているものの、どうやら笑っている。
その後は実務的な話になった。昨年の使用記録では、肌用の香料は夏の盛りに消費が集中し、装具用は屋外警護を担当する隊員ほど使用量が多かった。毎日の手入れに使うため、香りの強さよりも扱いやすさが評価されたらしい。
「今年は新設の王族警護部隊にも配備したいと考えております」
アルベルトの言葉に、リュシアンが頷いた。
「俺もそう思っていた。ユリウスの部隊は王宮内外を行き来することが多いからな。ただし、必要以上に数を増やすつもりはない。実際の使用量から見積もってくれ」
「承知いたしました」
「アデル、製造費はどのくらい変わりそう?」
「昨年と同じ処方でしたら、原料費に大きな変動はございません。ただ、配備先が増えるのであれば、容器の数と製造工程を確認する必要がございます」
「じゃあ、数量が決まったら一緒に計算しよう」
「はい。承知いたしました」
こうして仕事の話をしていると、リュシアンが自分の夫であることを時々忘れそうになる。彼は王太子として必要な数字を確かめ、アデルは宮廷調香師として技術的な見通しを伝える。意見が合えばそのまま進め、疑問があれば遠慮なく問い返す。
以前から仕事の場では何度も協力してきたが、夫婦になってからもそれが変わらないことを、アデルは少し嬉しく思っていた。
最後に今年も昨年と同じ処方を基本とし、実績に合わせて配備量を調整する方針が決まった。アデルは記録帳を閉じ、安堵したように息を吐く。
「今年も皆様のお役に立てそうで、安心いたしました」
「こちらこそ。妃殿下にはいつも助けられております」
アルベルトが丁寧に頭を下げる。
その横で、マルセルが思い出したように顔を上げた。
「そういえば、今ちょうどユリウスのところが合同訓練をしていますよ」
「ユリウスが?」
リュシアンの眉がわずかに上がる。
「はい。王族警護部隊と第一部隊の合同訓練です。メリル殿下も参加されています」
「……あいつ、今日も来てるのか」
「はい。朝から」
リュシアンが額へ手を当てた。
アデルはその横顔を見て、そっと微笑む。
「せっかくですから、少し拝見してまいりませんか?」
「そうだな。あいつの様子も気になるし」
「お兄様ですね」
「……何?」
「いいえ、何でもございません」
アデルが笑うと、リュシアンは少し不満そうに眉を寄せたものの、何も言わずに立ち上がった。
*
訓練場へ戻ると、ちょうど一組の手合わせが始まるところだった。
中央に立っていたのは、亜麻色の髪を高く結び上げたメリルだった。訓練用の細身の剣を手に、年上の騎士と向かい合っている。軽い訓練着の上から革製の胸当てをつけ、足元も動きやすい短靴で固めていた。普段のドレス姿からは想像できないほど身軽な装いだが、すらりと伸びた背筋と凛とした横顔には、王女としての気品がそのまま残っている。
「始め!」
合図とともに剣が動いた。
メリルは相手の一撃を正面から受け止めず、半歩身体を開いて流した。足の運びは軽く、無駄がない。相手が距離を詰めれば素早く退き、次の瞬間には自分から踏み込む。剣先の動きだけではなく、相手の肩や腰の向きまで見ているのだろう。灰青色の瞳は鋭く、集中した表情には少しの迷いもなかった。
「……強くなったな」
リュシアンが低く呟く。
その声には、隠しきれない誇らしさがあった。
「本当に。見事なものですね」
「昔から、兄弟と同じように何でもやりたがる子だったんだ。剣も勉強も、負けるのが嫌でさ」
「メリル様らしいですね」
「自分だけ女だからって、ずっと気にしてたんだよ。誰かに守られるだけなのが、よほど嫌だったらしい」
アデルはもう一度、訓練場のメリルへ目を向けた。
王女として育てられた少女が、兄弟と同じように剣を学び、政治を学び、自分の力で何かを成し遂げたいと願ってきた。その努力がどれほどのものだったのか、今の剣さばきを見れば十分に伝わってくる。
だからこそ、彼女は強い。
そしてきっと、強くあろうとし続けてきたのだろう。
やがてメリルが相手の剣を弾き、素早く踏み込んだ。訓練用の切っ先が騎士の胸元で止まり、見守っていた者たちから歓声が上がる。
「そこまで!」
メリルは剣を下ろし、深く息を吐いた。額には細かな汗が浮かび、頬も運動の熱で薄く赤らんでいる。それでもその表情は晴れやかで、勝利を誇るというより、思う存分身体を動かした満足感に満ちていた。
「ありがとうございました」
「こちらこそ。相変わらず見事なお手並みでございます」
騎士が一礼すると、メリルも笑って応じる。
その時、訓練場の端から一人の男が歩み寄ってきた。
ユリウス・フェルナーだった。
短く整えられた黒髪と、落ち着いた淡い灰色の瞳。濃紺の騎士服を着た長身は、周囲の騎士たちの中でもひときわ姿勢がよく、鍛えられた肩から腰へ落ちる線には余計な力みがない。新設された王族警護部隊の隊長となった今も、その穏やかな佇まいは以前とほとんど変わらなかった。
ただし、メリルを見る目だけは少し違う。
「お疲れさまでした、メリル」
「ありがとう。今日は少し調子がよかったみたい」
「最後の踏み込みが見事でした。相手の重心が移るのを、よく見ていらっしゃいましたね」
「分かった?」
「もちろんです」
淡い灰色の瞳が柔らかく細められる。
メリルも嬉しそうに微笑み、剣を預けようとしたところで、まとめていた亜麻色の髪が肩へ落ちてきた。激しい動きのせいで、髪紐が緩んでしまったらしい。
「あら……」
メリルが手を伸ばすより早く、ユリウスがその髪紐へ視線を向けた。
「ほどけてしまいましたね」
「ええ。結び直さないと」
「私がいたしましょう」
メリルは一度、瞬きをした。
「……あなたが?」
「はい」
「髪なんて結べるの?」
「紐を扱うことには慣れておりますので」
その答えに、メリルが小さく笑った。
「馬具と同じにしないでちょうだい」
「心得ております」
ユリウスはごく真面目に頷き、彼女の手から髪紐を受け取った。メリルも特に抵抗することなく、その場でくるりと背を向ける。
アデルは思わず、隣のリュシアンを見上げた。
以前のメリルなら、人前でこんな世話を焼かれれば、もっと落ち着かない様子を見せていたはずだ。けれど今は、ユリウスが自分の髪に触れることを、少し恥ずかしそうにしながらも自然に受け入れている。
ユリウスはほどけた髪を丁寧に指で梳き、首の後ろで一つに束ね始めた。剣を握れば迷いなく振るわれる大きな手が、細い亜麻色の髪を扱う時には驚くほど慎重になる。乱れた毛束を整え、耳の後ろへ落ちた髪をそっと寄せていく仕草は、見ているこちらまで気恥ずかしくなるほど優しかった。
「メリル」
「……何?」
彼女の髪を整えながら、ユリウスが静かに口を開いた。
「私は、あなたがお強いことを知っています」
メリルの表情が、わずかに変わった。
「剣を学び、政治を学び、誰よりも努力してこられたことも。強くあろうとなさるあなたを、私はずっと尊敬しておりました」
「……」
「これからも、どうかそのままでいてください。あなたが剣を持つことも、ご自分の意見を貫くことも、私は嬉しく思います」
ユリウスは髪紐を結び終えると、手の中に残った一房を優しく肩の後ろへ流した。
「ただ、私の前でまで、いつも強くあろうとなさらなくてもよいのです」
メリルは何も言わなかった。
結い上げられた髪の下で、白い耳がほんのりと赤くなっている。
「あなたがご自分でできることも、私にさせてください。私は、あなたを大切にしたいのです」
その言葉を聞いて、メリルが少しだけ顔を伏せた。
兄弟と同じように強くありたいと願い、自分の力で何でもできるようになろうとしてきた王女。誰かに手を貸されれば、自分が弱いと思われているようで、素直に受け取れなかったのかもしれない。
けれど、ユリウスは違う。
彼はメリルが強いことを知っている。剣の腕も、努力を惜しまない性格も、負けず嫌いなところも、誰より近くで見てきた。
そのうえで、彼女を甘やかしたいと言っているのだ。
結び終えた髪を確かめるように、ユリウスが指先でそっと撫でる。そして、亜麻色の髪の下に現れた白いうなじへ身を屈め、静かに唇を落とした。
メリルの肩が小さく揺れる。
「……汗、かいているわ」
それだけだった。
以前のように大きな声を上げることも、慌てて振り返ることもしない。ただ、頬を赤くしたまま、小さな声でそう告げる。
ユリウスは彼女の首筋から顔を離すと、穏やかに微笑んだ。
「以前、あなたが仰ったでしょう。汗は頑張った香りだと」
「……覚えていたのね」
「もちろんです」
ユリウスは結び直した髪をもう一度整え、最後に彼女の肩へ手を置いた。
「今日もお疲れさまでした」
メリルはゆっくりと振り返った。
灰青色の瞳が、すぐ近くにあるユリウスの顔を見上げる。いつもなら照れ隠しに何か言い返すところなのだろう。けれど今は、少し恥ずかしそうに微笑んだだけだった。
「……ありがとう、ユリウス」
そして、肩に置かれた彼の手へ、自分の手をそっと重ねた。
その様子を見ていたアデルの頬が、自然と緩む。
「……素敵ですね」
「…………」
隣から返事がない。
不思議に思って顔を上げると、リュシアンが何とも言えない表情で二人を見つめていた。
「リュシアン様?」
「……今、あいつ、メリルの首に口づけしなかった?」
「はい。とても仲睦まじいですね」
「……そうだな」
リュシアンは腕を組み、しばらく考え込んだ。
灰青色の瞳が細くなり、形のよい眉がゆっくりと寄っていく。王太子として難しい案件を検討する時とは、明らかに違う種類の真剣さだった。
「……ちょっと、ユリウスに話がある」
そう言って歩き出す夫を見送りながら、アデルは小さく息を吐いた。
どうやら、王太子殿下ではなく、お兄様の方が顔を出したらしい。
*
ユリウスが呼び出されたのは、訓練場に隣接する小さな控え室だった。
メリルは湯浴みと着替えのため、すでに王女用の休憩室へ向かっている。アデルは窓辺の椅子へ腰掛け、二人の男のやり取りを見守ることにした。
「ユリウス」
「はい、殿下」
ユリウスはいつも通り、背筋を伸ばして立っている。
その落ち着き払った様子を見て、リュシアンが一度だけ眉間を押さえた。
「……お前、メリルと上手くいってるんだよな」
「はい。おかげさまで」
「それはいいんだ。俺も嬉しいし、あいつが幸せそうなのは分かってる」
「ありがとうございます」
「ただな」
リュシアンは言葉を選ぶように、少し間を置いた。
「……婚礼までは、節度を守ってくれるんだろうな」
アデルは思わず夫を見た。
ユリウスは一度だけ瞬きをしたものの、すぐにその意味を理解したらしい。表情を変えず、静かに頷いた。
「もちろんでございます」
「……本当だな?」
「はい。メリルを大切にすることと、先を急ぐことは別だと考えております」
あまりにも落ち着いた返答だった。
リュシアンも、その言葉には少し安心したらしい。腕を解き、ようやく肩の力を抜いた。
「そうか。ならいいんだ」
「ご心配をおかけして申し訳ございません」
「いや、お前を信用してないわけじゃない。分かってるだろ」
「承知しております」
ユリウスは少しだけ表情を和らげた。
「ただ、婚約者として甘やかすことは、今後も続けたいと考えております」
「……甘やかす?」
「はい」
「どの程度?」
「できる限り」
即答だった。
リュシアンが再び黙り込む。
アデルはとうとう、口元を押さえた。
「……お前、あんな男だったか?」
「どのような意味でしょう」
「いや、前はもっと……」
リュシアンは言葉を探し、結局諦めたように息を吐いた。
「……まあ、いい。メリルを頼む」
「はい。大切にいたします」
ユリウスは深く一礼した。
そのまま控え室を出ていく背中を見送ってから、リュシアンは近くの椅子へ腰を下ろした。
「……本当に変わったな、あいつ」
「そうですね」
「前はあんなこと、絶対しなかっただろ」
「恋をすると、人は変わるものですから」
アデルが微笑むと、リュシアンは少し考え、隣の椅子へ視線を向けた。
「俺も?」
「はい。随分と」
「例えば?」
「以前より、よく笑われるようになりました。それから、ずっと甘え上手になられたと思います」
「……俺が?」
「ええ」
アデルは楽しそうに頷いた。
「調香室へいらっしゃる回数は、以前から多かったですけれど」
「それは仕事」
「そうでしたか?」
「……半分くらいは」
「ふふ」
リュシアンが苦笑し、アデルの手を取る。
「じゃあ、残りの半分は今から取り返していい?」
「何をですか?」
「夫婦の時間」
そう言って、手の甲へ軽く口づける。
アデルが目を瞬かせると、リュシアンは灰青色の瞳を楽しそうに細めた。
「……リュシアン様」
「何?」
「先ほど、ユリウス様へ節度のお話をなさっていましたよね」
「したな」
「ご自分のことは?」
「俺たちは結婚してる」
迷いのない返答だった。
アデルは思わず笑ってしまった。
「……とても便利な言葉ですね」
「便利じゃない。事実だ」
リュシアンは満足そうに微笑むと、繋いだ手を離さないまま立ち上がった。
妹の婚約者にはあれほど心配性になるのに、自分の妻には遠慮がない。けれど、そんな夫の分かりやすさを、アデルは少しも嫌だとは思わなかった。
*
訓練を終えたメリルが中庭へ出てきた頃には、午後の陽射しも少し和らいでいた。
湯浴みを済ませ、汗の染みた訓練着から淡い水色のガウンへ着替えている。柔らかな布地は夏の風を受けて軽やかに揺れ、腰の細い帯には銀糸の刺繍が施されていた。洗い立ての亜麻色の髪はいつもより艶やかで、後ろで緩く束ねられた毛先が肩甲骨のあたりへ流れている。
髪には、ほのかな白い花の香油が使われていた。
ユリウスは中庭の木陰にある長椅子で、彼女を待っていた。こちらも勤務を終え、騎士服の上着を脱いで、白いシャツに軽い夏用の上着を羽織っている。短い黒髪はまだ少し湿っていたが、きちんと整えられた襟元と背筋の伸びた立ち姿は、仕事中とほとんど変わらない。
「お待たせ」
メリルが声をかけると、ユリウスは立ち上がり、穏やかに微笑んだ。
「お疲れは取れましたか」
「ええ。さっぱりしたわ」
「それは何よりです」
ユリウスは侍女に用意させていた冷たい果実水を差し出し、メリルが腰を下ろすのを待ってから隣へ座った。
薄い硝子の杯には、小さく切った柑橘の果実と数枚のミントの葉が浮かんでいる。口をつけると、瑞々しい酸味の後にほんのりとした甘さが広がり、運動で火照っていた身体へ涼しさが染み込んでいくようだった。
「……美味しい」
「昨年、妃殿下が夏用に考案なさった飲み物を参考にしていただきました」
「アデルが?」
「はい。今日は随分暑かったので」
メリルは杯を両手で包み、目を細めた。
木陰へ入る風は涼しく、庭園の向こうでは噴水が穏やかな水音を立てている。少し前まで剣を打ち合わせていたのが嘘のように、静かな午後だった。
しばらく二人で庭を眺めていたが、やがてメリルがそっとユリウスの腕へ触れた。
「……ねえ、ユリウス」
「はい」
「さっきのことだけれど」
ユリウスが顔を向ける。
メリルは杯へ視線を落としたまま、小さく微笑んだ。
「あなた、私の髪を結ぶの、随分上手だったわね」
「ありがとうございます」
「いつ練習したの?」
「昨夜、少しだけ」
メリルが顔を上げた。
「……練習したの?」
「はい。侍女に結び方を教わりました」
「どうして?」
「以前から、あなたの髪を整えて差し上げたいと思っておりましたので」
あまりにも当然のように言うものだから、メリルは返事を忘れてしまった。
剣の稽古も、政治の勉強も、必要だと思えば自分で努力してきた。何かをできるようになることは、自分の役割だと考えていた。
けれど、目の前の男は違う。
自分の髪を結ぶために、わざわざ練習までしてきたのだ。
「……あなたって、本当に」
呆れたように呟くと、ユリウスが少し首を傾げる。
「何でしょう」
「……何でもないわ」
メリルは杯を卓上へ置き、今度は自分からユリウスの腕へ身体を寄せた。
少しだけ肩が触れる。
ユリウスは何も言わず、その距離を受け入れた。
木々の間を抜ける風が、洗い立ての髪をさらりと揺らす。白い花の香油がほのかに漂い、ユリウスの上着に残るベルガモットと乾いた檜の香りへ柔らかく重なった。
「……もう、汗はかいていないわ」
メリルが小さな声で言った。
ユリウスは一瞬だけ彼女を見つめ、それからゆっくりと微笑んだ。
「最初から気にしておりませんよ」
「……知ってる」
メリルは顔を上げなかった。
ただ、彼の腕に自分の腕を絡める。
ユリウスは空いている手で彼女の髪を撫で、額へそっと口づけた。
「今日は少し、甘えてくださるのですね」
「……たまには、いいでしょう」
「毎日でも構いません」
「……そう」
メリルは小さく笑い、今度は遠慮なく彼の肩へ頭を預けた。
ユリウスはその身体を優しく抱き寄せる。自分よりずっと細い肩が腕の中へ収まり、普段は剣を握っている手が、今日は何も持たずに彼女の背を支えていた。
「ユリウス」
「はい」
「……また、髪を結んでくれる?」
淡い灰色の瞳が、柔らかく細められる。
「喜んで」
メリルは満足そうに目を閉じた。
自分でできることは、これからも自分でするだろう。剣を持つことも、政治を学ぶことも、やめるつもりはない。
けれど、この人にしてもらいたいことが、少しくらいあってもいい。
そう思えた午後だった。
*
その日の夕方、王太子夫妻の私室には、夏の涼しい風が流れ込んでいた。
窓辺に置かれた硝子の器には、庭園から摘んだばかりの小さな白い花が活けられている。強い香りを持つ花ではないものの、近づくと蜜を思わせる淡い甘さがあり、開け放した窓から届く若葉の匂いと混じって、室内へ静かな夏の気配を運んでいた。
アデルは仕事着から軽い室内着へ着替え、長い銀髪を緩く編んで肩へ流していた。卓上には今日の聞き取り記録と、明日確認する予定の原料価格表が置かれている。
羽根ペンを手に取りかけたところで、背後から声がした。
「アデル」
「はい?」
「仕事、まだあるの?」
振り返ると、リュシアンが上着を脱ぎながらこちらを見ていた。
白いシャツの襟元を少し緩め、艶のある黒髪も朝ほどきっちりとは整っていない。灰青色の瞳には公務中の鋭さがなく、代わりに、妻を見つけた時だけ浮かぶ柔らかな光が宿っている。
「今日の記録を少し整理しようかと思いまして」
「明日でもいいだろ」
「ですが、忘れないうちに」
「じゃあ、明日の朝一番にしよう」
リュシアンはアデルの隣へやってくると、机上の記録帳をそっと閉じた。
「今日はもう十分働いたよ」
「リュシアン様も同じでしょう?」
「だから、二人で休む」
そう言って差し出された手を、アデルは少し笑って取った。
リュシアンに導かれて長椅子へ腰を下ろすと、すぐに冷えた果実水が手渡される。卓上には、小さく切った果物と、香草を練り込んだ焼き菓子まで用意されていた。
「まあ。いつの間に」
「さっき頼んでおいた」
「随分と準備がよろしいのですね」
「今日はアデルを甘やかすって決めたから」
あまりにも真面目な顔で言うので、アデルは思わず笑ってしまった。
「……もしかして、ユリウス様に張り合っていらっしゃいます?」
「違うよ」
「本当ですか?」
「俺の方が先に結婚してるんだから、張り合う必要ないだろ」
「……やはり少し張り合っていらっしゃいますね」
リュシアンは答えず、楽しそうに笑った。
それからアデルの背後へ回り、編んでいた銀髪へ手を伸ばす。
「ほどくよ」
「はい」
結び目が解かれ、長い銀髪が肩から背へさらりと流れ落ちた。陽の傾いた窓辺では、淡い銀色の中に青紫の陰が生まれ、細い毛先が夕暮れの光を受けて柔らかく輝いている。
リュシアンは指先で髪を梳きながら、ゆっくりと首筋をほぐし始めた。
「……肩、随分凝ってるな」
「今日は記録帳を持って歩いておりましたから」
「ずっと抱えてたもんな」
「軽いですのに」
「重さの問題じゃないだろ」
大きな手が肩から首へ移動し、凝り固まった筋肉を優しくほぐしていく。強すぎず、かといって頼りなくもない絶妙な力加減に、アデルは思わず気持ちよさそうに目を閉じた。
「……上手になられましたね」
「毎日やってるからな」
「ふふ。本当に、いつもありがとうございます」
「どういたしまして」
リュシアンは満足そうに微笑み、銀髪の間へ顔を寄せた。
花でも香油でもない、アデル自身の淡い香りがする。
初めて出会った頃、彼はこの香りに何度も救われた。強すぎる香水や薫香に疲れ、誰もがまとう香りを苦痛に感じていた自分が、唯一安心して近づける女性だった。
今では、その女性が自分の妻になっている。
しかも、こうして無防備に身体を預けてくれる。
「……アデル」
「はい?」
「今日、メリルを見て思ったんだけど」
「何でしょう」
「あいつ、昔から何でも自分でやろうとしてたんだよな」
アデルはゆっくりと目を開けた。
「そうでしたね」
「俺やライオネルと同じことができないと、すぐ悔しがってさ。剣の稽古も、最初は木剣を持つだけで大変だったのに、絶対やめなかった」
リュシアンは少し懐かしそうに笑う。
「髪を結んでやろうとした時も、よく怒られたよ」
「まあ。リュシアン様が?」
「ああ。小さい頃は俺が結んでやることもあったんだけど、下手だって文句を言われてな」
「ふふ。想像できます」
「ユリウスの方が上手だったみたいだ」
その言い方に、アデルは思わず振り返った。
リュシアンの横顔には、少し寂しそうな、それでいて嬉しそうな、何とも複雑な笑みが浮かんでいる。
「……少し、寂しくなりましたか?」
「まあな。あいつも、もう大人なんだなって」
アデルはそっとリュシアンの手へ自分の手を重ねた。
「メリル様は、ずっとお強い方だったのですね」
「そうだな」
「でも、今日はとても幸せそうでした。ユリウス様に髪を結んでいただいている時も、少しも嫌がっていらっしゃいませんでしたもの」
「ああ。あんな顔、初めて見たかもしれない」
リュシアンが静かに頷く。
それから、ふと思いついたようにアデルを見た。
「そういえば、お前も最初は何でも一人でやろうとしてたな」
「……そうでしょうか?」
「そうだよ。仕事のことも、困ってることも、なかなか言わなかった」
「宮廷調香師になったばかりでしたから。ご迷惑をおかけしたくなかったのです」
「今は?」
アデルは少し考えてから、柔らかく微笑んだ。
「今は、頼れる方がいらっしゃいますから」
リュシアンの表情が、ふっと緩む。
「それはよかった」
「ええ。とても幸せです」
その答えに満足したらしく、リュシアンはアデルを抱き寄せ、長椅子の背へ身体を預けた。
アデルも自然に彼の胸元へ寄りかかる。
薄いシャツ越しに伝わる体温と、落ち着いた鼓動。洗い立ての布に残る石鹸の香りの奥には、よく知っているリュシアン自身の穏やかな肌の匂いがある。
結婚してから、こうして過ごす時間が増えた。
何か特別なことがあるわけではない。ただ、仕事を終えて同じ部屋へ戻り、同じ飲み物を口にし、その日の出来事を話す。以前なら想像もしなかったほど自然に、二人の暮らしは重なっていた。
「……それにしても」
アデルがぽつりと呟く。
「何?」
「今日のユリウス様は、随分積極的でいらっしゃいましたね」
「……あいつなあ」
リュシアンが少し眉を寄せた。
「まさか訓練場で首に口づけするとは思わなかった」
「ふふ。リュシアン様も、私にはよくなさいますよ」
「俺たちは夫婦だろ」
「また、そのお言葉ですか」
「事実だから」
リュシアンは悪びれもせず答え、アデルの頬へ口づけた。
続いて額へ、こめかみへ。最後に髪の間へ顔を埋めると、満足そうに息を吐く。
「……やっぱり、これが一番落ち着く」
「相変わらずですね」
「今さらだろ」
「そうですね」
アデルはくすくす笑いながら、リュシアンの首へ腕を回した。
灰青色の瞳が、すぐ近くで柔らかく細められる。
「……今日は随分、甘えてくれるな」
「リュシアン様が甘やかしてくださるとおっしゃいましたので」
「うん。いくらでも」
そう言って、リュシアンはアデルの腰へ腕を回し、ゆっくりと唇を重ねた。
触れ合うだけの穏やかな口づけを何度か繰り返すうち、アデルの頬にも柔らかな赤みが差していく。けれど彼女はもう、以前のように戸惑って身を引いたりはしなかった。夫の肩へ手を添え、時には自分から顔を寄せる。
リュシアンはそのたびに嬉しそうに微笑み、少しだけ抱く腕へ力を込めた。
「……リュシアン様」
「うん?」
「今日のリュシアン様は、いつも以上に甘いですね」
「ユリウスを見てたら、俺もアデルを甘やかしたくなった」
「やはり張り合っていらしたのですね」
「違うって。俺はいつでも甘やかしたいんだよ」
アデルが声を立てて笑う。
リュシアンもつられるように笑い、今度は彼女の額へゆっくりと口づけた。
「……明日も仕事、頑張れそう?」
「はい。十分に休ませていただきましたので」
「それはよかった。じゃあ、明日も帰ったら甘やかす」
「毎日ですか?」
「もちろん」
リュシアンは当然のように答えた。
アデルは少しだけ目を細め、夫の胸元へ頬を寄せる。
「……では、私も毎日、リュシアン様を甘やかして差し上げますね」
「それは楽しみだな」
夕暮れの光が、二人を柔らかく包み込んでいた。
窓の外では、夏の風が庭園の草花を揺らしている。ペパーミントの涼しさも、レモングラスの鮮やかさも、騎士たちが汗を流していた訓練場の匂いも、今はもう遠い。
けれど、今日出会ったいくつもの香りと、その中にあった人々の笑顔は、きっとしばらく忘れないだろう。
強くありたいと願う王女も、その強さを愛する騎士も。
誰より妹を心配する兄も、妻を甘やかすことに夢中な夫も。
皆、それぞれの形で、大切な人を愛している。
アデルはリュシアンの腕の中で、そっと目を閉じた。
王宮に、夏が来た。
今年もきっと、賑やかで、少し甘い季節になるのだろう。




