第六十四話 夏へ帰る香り
スピネリアへ戻る山道を下り始めた頃、アデルは馬車の窓から吹き込む風に、これまでとは違う季節の匂いを感じた。シャンの山々を越える間は、針葉樹の樹脂や湿った苔の匂いが冷たい空気に混じっていたのに、標高が下がるにつれて風は柔らかく、少しずつ重たくなっている。陽光を受けた草の青さ、温められた土、遠くの畑から漂う花々の甘さ。窓枠へ手を添えたアデルの銀髪が、湿り気を帯びた風にさらりと揺れた。
「……夏の匂いがします」
向かいの座席で書簡を読んでいたリュシアンが、灰青色の瞳を上げた。
「もう六月だからな」
「そうでした。シャンへ向かった頃は、まだ春だったのに」
「三週間も留守にしていたんだ。季節くらい変わるだろ」
「三週間……」
改めて口にしてみると、不思議な長さだった。シャンで過ごした日々は、振り返ればあっという間だったようにも思えるし、初めて海を見た日などは、もうずっと昔の出来事のようにも感じられる。アデルは膝の上に置いた小さな鞄へ視線を落とした。中には白い貝殻と、ユエから贈られた翡翠の工具を収めている。どちらも旅立つ前には持っていなかったものだ。
「寂しくなった?」
リュシアンが書簡を畳みながら尋ねる。
「少し。でも、帰ってきたのだと思うと嬉しくもあります」
「俺も。向こうは楽しかったけど、やっぱり自分の国は落ち着く」
「香りも違いますものね」
「そうだな。シャンは焚香が多かったけど、こっちは香水をつけている人間が多い」
「リュシアン様には、どちらが過ごしやすかったですか?」
「場所による。あっちは香炉の煙が強い部屋もあったし、こっちは人が集まると大変だ」
そう言いながら、リュシアンはアデルの隣へ移動してきた。広い座席には十分な余裕があるのに、わざわざ肩が触れる距離へ腰を下ろす。
「ただ、今はこれでいい」
「……何がですか?」
「アデルが隣にいるなら、多少暑くても構わない」
あまりにも自然な言い方だったので、アデルは一瞬、どう返せばよいのか分からなかった。夫の横顔を見上げると、整った黒髪の下で薄い唇がわずかに笑っている。灰青色の瞳は涼しげなのに、その視線だけは妙に甘い。
「……暑い時は、暑いとおっしゃってくださいね」
「心配するところ、そこ?」
「体調管理は大切です」
「はいはい」
リュシアンが楽しそうに笑う。以前なら人前で見せることのなかった柔らかな表情を、今ではアデルが一日に何度も目にする。それもまた、この一年で変わったことの一つだった。
山道を抜け、スピネリアの王都が見え始める頃には、馬車の窓から差し込む陽射しもすっかり夏のものになっていた。白い石壁の街並みには明るい光が降り注ぎ、街路樹の葉は濃い緑色をしている。王宮へ続く通りでは、道行く婦人たちの薄手の衣装から薔薇や橙花の香水が漂い、そこへ焼き菓子の甘い匂いと馬車の革具の匂いが重なっていた。
香りの国、スピネリア。
久しぶりに嗅ぐ王都の空気は少々賑やかで、それでもアデルには懐かしく感じられた。
*
王宮へ到着して旅装を解いた後、二人は早速、持ち帰った土産を配ることにした。最初に向かったのは、スピネリアに駐在するシャンの使節として暮らしているリンレイのもとだった。
案内された客間には、淡い白檀の香りが漂っていた。シャンから運ばせたという低い飾り棚には青磁の花器が置かれ、窓辺には故郷の意匠を取り入れた薄絹の帳が揺れている。スピネリアの王宮の一室でありながら、そこだけはシャンの宮殿を思わせる静けさがあった。
「アデル様! 王太子殿下! おかえりなさいませ!」
出迎えたリンレイは、淡い杏色の衣をまとっていた。艶やかな赤褐色の長い髪を金の髪飾りでまとめ、少女らしい輪郭を持つ顔に、澄んだ金色の吊り目がよく映えている。二人の姿を認めた瞬間、その瞳が嬉しそうに輝いた。
「ただいま戻りました、リンレイ様」
「お二人とも、お元気そうで何よりです。シャンはいかがでしたか?」
「とても楽しかったです。ライレイ殿下にも、ユエ様にも大変お世話になりました」
「兄様は、王太子殿下にご迷惑をおかけしませんでしたか?」
「まあ、いつも通りだったな」
リュシアンが答えると、リンレイは少しだけ眉を下げた。
「……それは、おかけしたのですね」
「いや、今回は色々と助けられたよ。ちゃんと感謝してる」
「まあ」
リンレイの表情が明るくなる。兄のことになると、彼女は本当に分かりやすい。アデルはその様子に微笑みながら、侍女が運んできた包みを受け取った。
「こちら、シャンで求めたお茶です。リンレイ様にも懐かしいお味かと思いまして」
深緑色の布に包まれた茶葉の缶を差し出すと、リンレイは両手で大切そうに受け取った。封を少し開けただけで、乾いた茶葉の香ばしさと、ほのかな花の甘さが立ち上る。
「ああ、この香り……! 私、このお茶が好きなのです。兄様と一緒に飲んだこともあります」
「それはよかったです」
「ありがとうございます、アデル様。大切にいただきます」
「それから、こっちは俺から」
リュシアンが差し出した細長い木箱の中には、上質な筆と墨が収められていた。筆の軸には繊細な彫刻が施され、墨は黒い艶を帯びている。
「ライレイが使っているものと同じ種類だそうだ。本人に聞いたから間違いない」
「兄様と同じ……?」
リンレイの金色の瞳が、今度は驚きで大きく見開かれた。少女は筆を一本持ち上げ、細かな穂先を確かめるように眺める。
「兄様のお手紙は、とても綺麗な文字なのです。私も同じものを使ったら、あんなふうに書けるでしょうか」
「筆だけでどうにかなるなら、俺もあいつに習いたいくらいだけどな」
「王太子殿下のお文字もお綺麗です」
「気を遣わなくていい」
「本当です!」
真剣に言い返すリンレイを見て、アデルは思わず笑った。
そんな和やかな時間がしばらく続いた後、リュシアンがふと思い出したように口を開いた。
「そういえばリンレイ、最近ライレイから手紙は来てる?」
「はい。先週もいただきました。公務がお忙しいようですが、お元気だそうです」
「へえ。じゃあ、特に変わったことは書いてなかった?」
「変わったこと、ですか?」
「いや、あいつが何か隠してないかと思って」
アデルの手が止まった。
「……リュシアン様」
「何?」
夫は涼しい顔をしている。
とても嫌な予感がした。
「兄様が、何かを……?」
リンレイの金色の瞳が細くなる。兄妹でよく似たその目つきに、アデルはシャンで何度も見たライレイの笑顔を思い出してしまった。
「気になるなら、鷹を飛ばして聞いてみたらどうだ?」
「そういたします!」
「早いな」
「兄様が私に隠し事をなさるなんて、よほどのことですもの!」
リンレイはきっぱりと言い切った。どうやら今日中に書状をしたためるつもりらしい。リュシアンは満足げに頷いているが、隣のアデルは笑顔のまま、夫の袖をそっと引いた。
「……リュシアン様」
「うん?」
「後でライレイ殿下に叱られませんか?」
「何で?」
「……いえ」
アデルはそれ以上言わなかった。
こうなってしまった以上、すべてはシャンにいるライレイ次第である。
*
次に訪ねたライオネルは、ちょうど歴史の講義を終えたところだった。開かれたままの書物と数枚の地図が机に広がり、少年は兄夫婦の姿を見るなり、椅子から立ち上がって嬉しそうに笑った。
「兄上、アデル姉上! おかえりなさい!」
「ただいま。留守番、ご苦労だったな」
「僕は何もしていませんよ。それより、シャンのお話を聞かせてください!」
落ち着いた口調の中にも、好奇心が隠しきれていない。アデルがシャンの菓子を差し出すと、ライオネルは目を輝かせ、さらにリュシアンが持ち帰った盤上遊戯を見せると、すっかり夢中になってしまった。
「これ、シャンではよく遊ばれているんですか?」
「ああ。ライレイに教わったけど、なかなか面白かったぞ」
「兄上は勝てたんですか?」
「……勝てたこともある」
歯切れの悪い答えに、アデルは口元を押さえた。
「ライレイ殿下は、とてもお強かったですね」
「余計なことを言わなくていい」
ライオネルが楽しそうに笑う。盤面には異国の文字で役割が記され、駒には細かな紋様が刻まれていた。少年は早速駒を並べ始め、シャンの歴史や軍略との関わりを尋ねてくる。どうやら土産以上に、その背景にある文化の方が気になるらしい。
「続きはまた今度な。まだ配るものが残ってる」
「分かりました。今度、対局してくださいね」
「いいぞ。兄として負けるわけにはいかないからな」
「ライレイ殿下には負けたのに?」
「お前、誰に似たんだ?」
リュシアンが呆れたように額へ手を当てる。その隣でアデルが笑うと、ライオネルもまた、少し得意げに目を細めた。
*
最後に向かったのは、メリルの私室だった。
夏の日差しが差し込む回廊には、磨かれた石床の涼しさと、庭園から届く若葉の匂いが満ちている。窓の外では白い小花が風に揺れ、遠くで噴水の水音が聞こえていた。
「メリルはいるかな」
「お土産、喜んでいただけるとよいですね」
アデルが包みを持ち直すと、リュシアンは妹の部屋の扉を軽く叩いた。
「メリル、俺だ。帰ってきたぞ」
少しの沈黙。
その後、部屋の奥から慌ただしい物音がした。
「お、お兄様!?」
「いるなら入るぞ」
「待って! ちょっと待って!」
リュシアンの手が止まった。
アデルも瞬きをする。
何かが倒れたような音がして、続いて小さな足音が聞こえた。やがて扉がほんの少しだけ開き、隙間からメリルが顔を覗かせた。
「……おかえりなさい、お兄様。アデル」
いつもなら真っ先に飛び出してきそうな妹が、今日は妙におとなしい。長い亜麻色の髪は綺麗に梳かれていたものの、こめかみのあたりでわずかに乱れ、白い頬にははっきりと赤みが差している。淡い色の衣装も普段より柔らかな印象で、襟元には小さな真珠の飾りが光っていた。
「……どうした?」
「何が?」
「何でそんなに扉を開けないんだ」
「別に! ちょっと、部屋が散らかっているだけよ」
「お前が?」
リュシアンの眉が上がる。
メリルは身だしなみに無頓着なわけではないが、少々部屋が散らかっている程度で兄を締め出すような性格でもない。
アデルが何かを言おうとした、その時だった。
「メリル殿下、お客様でしょうか」
部屋の奥から、落ち着いた男性の声が聞こえた。
メリルの肩がびくりと跳ねる。
次の瞬間、扉の奥から背の高い男が現れた。
「王太子殿下、妃殿下。ご無事の帰還、何よりでございます。おかえりなさいませ」
短く整えられた黒髪に、淡い灰色の瞳。肩から胸にかけての鍛えられた体つきは騎士らしいものの、今日のユリウス・フェルナーは、いつもの騎士服ではなく、深い紺色の礼服をまとっていた。襟元と袖口には控えめな銀糸の刺繍が施され、近づくとベルガモットの明るい香りに、乾いた檜とわずかなミントの清涼感が重なっている。以前、アデルがお見合いのために調合した香りだった。
「……ユリウス?」
リュシアンが瞬きをした。
「はい」
「何でここにいる」
「メリル殿下にお会いしたく、参りました」
あまりにも堂々と言い切ったので、リュシアンは一瞬返す言葉を失った。メリルはその隣で、耳まで赤くなっている。
「……そうか。それで、何をしていた?」
「先ほどまで、婚礼の打ち合わせをしておりました。式次第や招待客について、それから婚礼後の生活についてもお話ししております」
「ユリウス!」
メリルが慌てて振り返った。
「全部説明しなくていいの!」
「ですが、ご質問でしたので」
「そういうことじゃなくて!」
アデルは二人を交互に見た。半分しか開かない扉、赤い頬をしたメリル、礼服姿の婚約者。奥の卓上には二人分の茶器が見え、窓辺に飾られた小さな白い花からは、甘く清楚な香りが漂っている。
「ああ、デート中でしたか。これは大変失礼いたしました」
「アデル!」
メリルの顔がますます赤くなる。
「違うわ!」
「違うのですか?」
「違わなくはないけど!」
「では、合っておりますね」
「そういう言い方をしないで!」
隣でリュシアンが、まだ納得のいかない顔をしている。
「……お前、礼服でデートするのか」
「本日は公務後、そのまま伺いましたので」
「着替える時間くらいあっただろ」
「ございましたが、少しでも長くメリル殿下と過ごしたかったものですから」
ユリウスはごく普通のことを説明するように答えた。
メリルの指先が、扉の縁をぎゅっと掴む。
「……ユリウス」
「はい」
「そういうこと、普通に言わないで」
「事実でございますので」
「事実でも!」
「それに、婚礼まではまだ時間がございます。こうして二人で過ごせる時間は、大切にしたいと考えております」
淡い灰色の瞳が、まっすぐメリルへ向けられた。
「本日も、お顔を拝見できて安心いたしました」
「…………っ!」
とうとうメリルが両手で顔を覆った。
アデルは、あらまあ、と口元を緩める。
以前のユリウスなら、こんな言葉を人前で口にすることなど考えられなかっただろう。彼は昔から誠実で、職務に忠実で、感情を言葉にすることにはひどく不器用だった。けれど、メリルの気持ちを知り、自分の想いを認めてからは、その誠実さがまっすぐ彼女へ向かうようになったらしい。
もっとも、受け止める側には相応の覚悟が必要そうだった。
「……リュシアン様」
アデルはそっと夫の袖を引いた。
「お邪魔ですね」
「……そうだな」
二人が辞去しようとしたところで、ユリウスがふと思い出したように口を開いた。
「そういえば、殿下。婚礼後の住居につきまして、一点ご相談がございます」
「今?」
「はい。メリル殿下は今のお部屋を気に入っておられますので、可能であれば引き続き使用させていただきたいと考えております」
「別に構わないが。正式なことは父上と相談してくれ」
「ありがとうございます」
ユリウスが丁寧に一礼した。
「自分もこちらで暮らせるのであれば、何よりです。このお部屋でしたら、朝目覚めた時もメリル殿下のお顔を一番近くで拝見できますので」
「ユリウス!!」
メリルの声が回廊へ響き渡った。
ユリウスは不思議そうに首を傾げる。
「何でしょう」
「もう! 何も言わないで!」
「……承知しました」
素直に口を閉じたものの、その薄い唇には、ごくわずかな笑みが浮かんでいた。
アデルは気づいてしまった。
この人、分かって言っているのかもしれない。
ユリウスは決して口先だけで人を喜ばせようとする男ではない。彼の言葉は、おそらくすべて本心だ。けれど、その本心を口にするとメリルがどんな反応をするのか、今では少しばかり楽しんでいるのではないだろうか。
「では、私たちは失礼いたしますね」
「ええ! そうして!」
メリルが即答した。
アデルは持ってきた土産の包みを侍女へ託し、まだ何か言いたそうなリュシアンの腕を引いた。
「行きますよ」
「……ああ」
二人が回廊を歩き始めると、背後からユリウスの落ち着いた声が聞こえた。
「メリル。お茶の続きをいただいても?」
「……あなた、絶対わざとでしょう」
「何のことでしょう」
返事は実に穏やかだった。
扉が閉まると、リュシアンはしばらく無言で歩いていた。やがて、どうにも腑に落ちないといった表情で呟く。
「……あいつ、あんな男だったか?」
「恋をすると、人は変わるものですね」
「そうかな」
「リュシアン様も、随分変わられましたよ」
「俺?」
「はい。以前は、あんなに笑っていらっしゃいませんでしたもの」
アデルが微笑むと、リュシアンは少し考えた後、ごく自然に彼女の腰へ手を回した。
「じゃあ、帰ったら俺も妻と二人きりになりたいんだけど」
「……っ!」
今度はアデルの頬が熱くなった。
「リュシアン様!」
「事実だから」
「そういうところまで真似なさらないでください!」
灰青色の瞳が楽しそうに細められる。すっかり機嫌をよくした夫を横目に、アデルは小さく息を吐いた。
どうやら、恋をして変わったのはユリウスだけではないらしい。
*
すべての土産を配り終え、二人が私室へ戻った頃には、午後の日差しが少しずつ傾き始めていた。窓の外では夏の雲がゆっくりと流れ、庭園の噴水から運ばれてくる涼しい空気が、薄い帳を穏やかに揺らしている。
アデルは旅装から軽い室内着へ着替え、長い銀髪を緩く編んで肩へ流した。リュシアンも堅苦しい上着を脱ぎ、薄手のシャツに着替えている。こうして向かい合って座っていると、ほんの少し前まで二人で異国の宮殿に滞在していたことが嘘のようだった。
侍女が運んできたのは、よく冷やした夏用の香草茶だった。ペパーミントとレモンバームを合わせた淡い金色の茶には、爽やかな青葉の香りと、レモンを思わせる柔らかな酸味がある。薄い硝子の杯を持ち上げると、指先にひんやりとした感触が伝わった。
「……ああ、これだ」
リュシアンが一口飲み、満足そうに息を吐いた。
「やっぱり夏は、こういうのがいいな」
「暑さで疲れた身体にもよいですね。ミントを強くしすぎていないので、香りも穏やかです」
「アデルが調整したんだろ?」
「はい。昨年の夏に作ったものを、少しだけ改良しました」
「分かる。前より飲みやすい」
「まあ、覚えていてくださったのですか?」
「そりゃ覚えてるよ。アデルが作ったものなんだから」
リュシアンは当然のように答えた。
アデルは杯へ視線を落とし、思わず頬を緩める。こういう時、夫は自分がどれほど嬉しいことを言っているのか、あまり分かっていないらしい。
卓上には、留守中に届いた書類と、明日以降の予定を記した帳面が置かれていた。王太子としての公務も、宮廷調香師としての仕事も、三週間分となれば少なくない。アデルは日程を確認しながら、急ぎの案件と、少し時間をかけてもよいものを頭の中で整理していく。
「新しい香料の納入もありますし、夏の宮廷用香水の調整も必要ですね。シャンでいただいた資料も、早いうちにまとめたいです」
「明後日からな」
リュシアンがすかさず言った。
「……明後日?」
「明日は休むって約束しただろ。帰国した翌日くらい、ちゃんと休暇にする」
「そうでした」
「忘れてた?」
「少しだけ」
「少し?」
疑わしそうな目を向けられ、アデルは硝子の杯を両手で包んだ。
「……でも、香料の整理くらいでしたら」
「駄目」
「試香だけでも」
「仕事をしない」
「……海の香りの試作も?」
その言葉に、リュシアンの表情が少しだけ変わった。
アデルがシャンから持ち帰った白い貝殻。初めて二人で眺めた海。潮の匂いと、波に濡れた砂の感触。あの旅の記憶を香りにしたいという話を、彼も覚えていたのだろう。
「……それは気になる」
「でしょう?」
「でも、明日は休みだ」
「残念です」
「どうせ少しは調香室に行くだろ、お前」
見透かされていた。
アデルは思わず笑ってしまう。
「本当に、少しだけです。旅の間に思いついたことを忘れないように、記録を整理したくて」
「分かった。ただし、仕事の書類には手をつけないこと」
「承知いたしました」
リュシアンがようやく納得したように頷き、卓上の帳面を閉じた。アデルの手から羽根ペンを取り上げると、そのまま彼女の隣へ腰を下ろす。
「今日はもう終わり」
「まだ日が高いですよ」
「だからいいんだろ。せっかく早く帰ってきたんだから」
伸ばされた腕に引き寄せられ、アデルは夫の肩へ身体を預けた。洗いたてのシャツからは、清潔な布と、彼自身の穏やかな肌の匂いがする。外を吹く風には夏の草花の香りが混じり、卓上では飲みかけの香草茶が涼やかな余韻を残していた。
「……帰ってきましたね」
「ああ」
「三週間、長いようで短かったです」
「俺は、もう少し二人で旅をしていてもよかったけどな」
「公務が待っておりますよ」
「知ってる」
リュシアンは苦笑し、それからアデルの銀髪へ軽く口づけた。
「でも、帰ってくる場所があるのも悪くない」
「はい」
アデルは目を細めた。
異国で出会った香りも、持ち帰った思い出も、これからの仕事も大切だ。けれど、そのすべてを抱えて戻ってこられる場所があり、隣には同じ時間を過ごした人がいる。
それが、今は何より嬉しかった。
六月のスピネリア。
二人が帰る場所には、もう夏が来ていた。
*
翌日の昼過ぎ。
宮廷調香室の窓は大きく開け放たれ、初夏の風が白い薄布のカーテンを揺らしていた。棚に並ぶ硝子瓶は陽光を受けて淡く輝き、作業机にはシャンから持ち帰った香料と記録帳が広げられている。白檀、乾燥させた花弁、珍しい薬草。それぞれの香りを確かめるたびに、アデルの脳裏には異国の景色が鮮やかに蘇った。
今日は休暇である。
もちろん、正式な仕事はしていない。ただ、旅先で得た香りの記憶を忘れないうちに、少しだけ整理しているだけだ。
アデルは銀髪を低い位置でまとめ、袖を短くした仕事着の上から白い前掛けをつけていた。乳鉢の中に少量の乾燥した香草を入れ、香りを確かめようと手を伸ばした、その時だった。
調香室の扉が、勢いよく開いた。
「アデル様!!」
「はいっ!?」
思わず顔を上げたアデルの前に、リンレイが立っていた。
艶やかな赤褐色の髪が少し乱れ、金色の瞳はいつになく大きく見開かれている。昨日と同じように美しく整えられた衣装をまとってはいるものの、王女らしい落ち着きはどこかへ消えていた。白い頬は興奮で赤く染まり、息もわずかに弾んでいる。
「リンレイ様? どうなさいました?」
「兄様から!」
「……はい?」
「兄様から、お返事が来ました!」
リンレイが一通の書状を高々と掲げた。
深い朱色の封蝋には、見慣れたシャン王家の紋章が押されている。近づくと、紙に移った白檀の微かな香りが漂った。以前、リンレイが兄の香りとして懐かしんでいたものと、よく似ている。
「……もう、ですか?」
「昨日、急いで鷹を飛ばしたのです! 兄様もすぐにお返事をくださったようで!」
そうだった。
昨日、リュシアンが余計なことを言ったのだった。
『ライレイが何か隠してないか、聞いてみたらどうだ?』
あの言葉を思い出した瞬間、アデルの胸に嫌な予感が広がった。
「そ、それで、ライレイ殿下は何と……?」
「これです! 読んでください!」
差し出された書状を、アデルは恐る恐る受け取った。
滑らかな紙面には、少し崩した、それでいて美しい文字が並んでいる。ライレイらしい筆跡だった。書き出しは、驚くほど軽い。
『リンレイへ。
隠していたつもりはないんだけどね。聞かれたから、ちゃんと答えておくよ。
ユエと結婚することになりました。
それから、秋には父親になります。
つまり、リンレイも叔母上になるわけだね。おめでとう。
詳しくはリュシーとアデルちゃんに聞いて。二人とも全部知ってるから。
兄より』
「…………」
アデルはゆっくりと顔を上げた。
リンレイが、じっとこちらを見ている。
「アデル様」
「……はい」
「私、叔母になるそうです」
「はい」
「兄様が、お父様になるそうです」
「はい」
「ユエ様が、お義姉様になるそうです」
「はい」
「…………」
「…………」
「どうして教えてくださらなかったのですか!!」
「申し訳ございません!!」
アデルは反射的に頭を下げた。
完全に巻き込まれた。
いや、知っていたのだから無関係とは言えないのだが、少なくとも昨日、自分はリュシアンを止めようとしたはずである。それにしても、ライレイはどうしてこういう時に限って、これほど素直に返事を書くのだろう。普段なら相手を散々からかってから本題へ入る男が、妹に対しては驚くほど簡潔だった。
しかも、最後の一文。
『二人とも全部知ってるから』
明らかにこちらへ説明を丸投げしている。
「だって、昨日はお元気でしたかとお聞きしたら、お元気でしたって!」
「お元気なのは本当です!」
「お元気どころのお話ではありません!」
「おっしゃる通りです!」
リンレイは書状を胸へ抱きしめた。大きな金色の瞳には、怒りとも困惑ともつかない光が浮かんでいる。けれど、その唇の端は、少しずつ緩み始めていた。
「……赤ちゃん」
ぽつりと呟く。
「兄様の、赤ちゃん……」
先ほどまでの勢いが嘘のように、その声は小さく、柔らかかった。
アデルはそっと微笑んだ。
「はい。ライレイ殿下も、ユエ様も、とても喜んでいらっしゃいましたよ」
「……本当に?」
「ええ。それはもう、大変な喜びようで。まだお生まれになってもいないのに、お部屋のことや、これからの暮らしのことまで考えていらっしゃいました」
「……兄様が?」
「はい。お子様のお名前のお話もなさっていました」
リンレイが大きく瞬きをした。
「もう、お名前まで?」
「ええ。まだ決まったわけではございませんが、とても素敵なお名前でしたよ」
「…………」
少女はゆっくりと両手で顔を覆った。
「……想像できます」
「私もです」
「絶対、ものすごく甘やかします」
「間違いありません」
「ユエ様、大変ですね」
「おそらく」
二人は顔を見合わせ、同時に笑った。
リンレイの笑顔は、ライレイによく似ていた。大きく吊り上がった金色の瞳が細められると、幼さの残る顔立ちにも、あの兄と同じ華やかな表情が浮かぶ。ただ、今の彼女には、どこか泣き出しそうなほどの喜びがあった。
「……兄様、ずっとお忙しかったのです」
リンレイは書状の文字を指先でなぞりながら、静かに続けた。
「私が小さい頃から、いつも何かを考えていらして。お仕事のことも、国のことも、私たちのことも……。だから、兄様ご自身が幸せそうにしていらっしゃると、それだけで嬉しいのです」
アデルは黙って頷いた。
シャンで見たライレイの姿が思い浮かぶ。ユエへ向けた柔らかな眼差し。まだ平らな腹部へ、そっと手を添える仕草。そして、これから生まれてくる子供の名前を、嬉しそうに繰り返していた声。
「本当に、お幸せそうでしたよ」
「……そうですか」
リンレイが目を伏せる。
長い睫毛が頬へ淡い影を落とし、その表情は、年齢より少しだけ大人びて見えた。
「……嬉しいです」
静かな声だった。
「兄様に、ご家族が増えるのですね」
「そうですね」
「私にも」
「はい」
リンレイは書状を丁寧に折り畳み、胸元へしまった。白檀の香りが、薄い布の間へそっと消えていく。
その仕草を見守っていたアデルは、ようやく胸を撫で下ろした。
よかった。
驚かせてしまったけれど、何とか喜んでいただけたらしい。
そう思った、次の瞬間だった。
「ところで、アデル様」
「はい」
「王太子殿下は、どうしてご存じだったのですか?」
「……ご一緒におりましたので」
「いつから?」
「ええと……」
「最初から?」
「……はい」
リンレイの金色の瞳が、すうっと細くなった。
「なるほど」
非常に嫌な予感がした。
「王太子殿下にも、お礼を申し上げなければなりませんね」
「……お礼、ですか?」
「ええ」
にっこり。
それはもう、見事な笑顔だった。
「大切なことを教えてくださった、お礼です」
アデルは一瞬、言葉に迷った。
けれど、すぐに考えを改めた。
昨日、余計なことを言ったのは自分ではない。
そもそも、あの場で鷹を飛ばすよう勧めたのもリュシアンである。ならば、この結果については本人にも相応の責任を取っていただくべきだろう。
「……王太子殿下でしたら、執務室にいらっしゃると思います」
「ありがとうございます!」
リンレイは晴れやかな笑顔で一礼すると、来た時と同じ勢いで調香室を出ていった。長い赤褐色の髪が背中で揺れ、扉の向こうへ消えていく。
静寂が戻った。
開け放たれた窓から夏の風が吹き込み、試香紙が一枚、さらりと音を立てる。
アデルはしばらく扉を見つめていたが、やがて何事もなかったように作業机へ向き直った。
乳鉢の中には、シャンから持ち帰った香草。
隣には、旅先で書き留めた香りの記録。
そして、窓辺には海で拾った小さな白い貝殻。
アデルはそれを指先で軽く撫で、羽根ペンを取った。
今日は休暇である。
王太子殿下の執務室から、何か聞こえてきたとしても。
きっと、気のせいだろう。




