第六十三話 持ち帰る香り
次の日、とうとうスピネリアへ帰る朝が来た。
アデルが目を覚ました時、窓の外はまだ夜と朝の境目にあり、閉めきらなかった帳の隙間から淡い青の光が細く差し込んでいた。昨夜消した香炉の残り香と、洗いたての寝具の清潔な匂いが混じる静かな寝室を眺めながら、アデルはすぐには起き上がらず、柔らかな掛布の中でしばらく旅の終わりを受け止めていた。
今日、この部屋を出る。そう考えただけで、胸の奥にほんの少し寂しさが生まれる。
ここへ来たばかりの頃には、そんなふうに感じるとは思っていなかった。シャンの王宮はあくまで旅先で、数日を過ごせばスピネリアへ帰る場所にすぎないはずだったのに、今では天蓋の細かな刺繍も、朝になると庭から聞こえてくる鳥の声も、廊下を歩く侍女たちの足音さえ、どこか馴染み深い。
アデルは掛布の中でゆっくり身体を返した。隣にはリュシアンがいる。
眠っている間に黒髪は少し乱れ、普段ならきちんと額から流れている前髪が一筋だけ頬へ落ちていた。灰青色の瞳を閉じていると、人前で王太子として立っている時よりいくらか幼く見える。この顔も、旅の間によく見るようになった。朝起きた時、疲れて長椅子へ身体を預けた時、夜遅くまで話したあと眠気に負けた時。スピネリアにいた頃には、同じ王宮に暮らしていても知らなかった表情ばかりだった。
アデルはそっと手を伸ばし、頬へ落ちた黒髪を指先で払う。その瞬間、灰青色の瞳がゆっくり開いた。
「……起きていたのか?」
「今、起きました」
「そうか」
まだ眠気の残る低い声だった。リュシアンは一度だけ瞬きをすると、アデルの腰へ腕を回し、もう一度眠るつもりでいるかのように自分の胸元へ引き寄せた。
「リュシアン様」
「まだ早い」
「今日は帰る日ですよ」
「だから、まだ早い」
言葉の意味がよく分からず、アデルは胸元へ頬を寄せたまま少し笑った。
「帰りたくないのですか?」
「そういうわけじゃない」
リュシアンは目を閉じたまま、銀髪へ頬を寄せる。
「もう少し、こうしていたいだけ」
夫婦になってから、この人はこういうことを随分素直に口にするようになった。アデルも抵抗せず、その腕の中へ身体を預けた。窓の外から聞こえる鳥の声と、すぐ近くにある心音だけが耳に届く。
「色々ありましたね」
「ありすぎたな」
「新婚旅行でしたのに」
「シャンに着いてすぐ、あれだけ色々起きるとは思わなかった」
「ライレイ殿下とユエ様のお部屋でお酒をいただいて、翌日には国王陛下が倒れて……」
「ライレイとユエ嬢が軟禁されて」
「事件を解決したと思ったら、海へ連れていっていただいて」
「最後にユエ嬢が懐妊した」
「最後だけ急に幸せですね」
リュシアンが喉の奥で笑い、アデルもつられて笑った。
一つずつ思い返せば、随分と濃い数日だった。危険な目にも遭ったし、怖い思いもした。王家の争いを目の当たりにし、ライレイの過去を知り、リュシアンが政治の場では自分の知らない顔を見せることも知った。その一方で、海を初めて見て、友人たちと食卓を囲み、夜には同じ寝台でこれからのことを話した。どれか一つだけを取り出して、この旅だったとは言えない。
「楽しかったです」
アデルがそう言うと、腰へ回された腕が僅かに強くなる。
「ああ」
「事件もございましたけれど」
「あれは楽しくない」
「もちろんです」
「軟禁までされた友人を助けるのも、新婚旅行の予定には入ってなかった」
「普通は入りませんね」
「じゃあ、何がそんなに楽しかったんだ」
問われて、アデルは少し考えたものの、すぐに答えは一つではないのだと気づいた。
「全部、でしょうか」
「事件まで入ってるぞ」
「そうではなくて」
アデルは顔を上げた。朝の淡い光の中、灰青色の瞳がすぐ近くからこちらを見ている。
「リュシアン様と一緒だったことです」
一瞬、彼の目が僅かに見開かれた。
「初めて見る景色も、知らない香りも、海も。それから怖かった時も、困った時も。あとで思い出す時には、全部リュシアン様がいらっしゃると思います」
口にしながら、自分でも腑に落ちた。シャンで出会った香りはいくつもある。沈香、伽羅、薬草、春の庭、潮風。それらのどれを思い出しても、きっと香りだけでは終わらない。その隣には必ず、この人がいる。
「だから、きっと一生忘れないと思います」
リュシアンはしばらく何も言わず、ただアデルの顔を見つめていた。やがて頬へ手を添え、その指先で銀髪を耳へ掛ける。
「俺も」
短い答えだった。
「多分、忘れない」
「多分なのですか?」
「絶対って言うと、お前が細かいことまで覚えてろって言いそうだから」
「申しません」
「本当に?」
「……香りについては、少しお願いするかもしれません」
「ほら」
笑いながら、額へ口づけが落ちる。アデルは目を閉じ、その温度を受け止めた。
「帰るの、少し寂しいですね」
「そうだな」
「でも、スピネリアにも帰りたいです」
「ああ」
リュシアンは銀髪をゆっくり梳きながら、静かな声で言った。
「帰る場所が一緒なのは、いいな」
アデルは瞬きをした。実家へ帰るのでもない。王宮へ戻るのでもない。二人で、同じところへ帰る。旅へ出る前には、あまり意識していなかったことだった。
「はい」
もう一度、夫の胸元へ頬を寄せる。
「それは、とてもいいですね」
*
荷造りは前日のうちにほとんど終わっていた。
侍女たちが最後の確認をしている間、アデルは自分の小さな旅行鞄を開き、持ってきた時より明らかに増えた中身を一つずつ確かめていった。シャンで手に入れた香料や薬草の乾燥標本、香木の欠片、思いつくたび書き込んだ紙束。その一番上に、小さな布で包んだものがある。
開けば、海辺で拾った白い貝殻が現れた。
「それ、持って帰るのか?」
後ろから覗き込んだリュシアンが尋ねる。
「もちろんです」
「ただの貝だろ」
「初めて見た海で拾った貝です」
「そう言われると、捨てろとは言えないな」
「捨てる予定はございません」
アデルは慎重に布を巻き直した。
「これを見るたびに、海を思い出せます」
「匂いはもうしないぞ」
「ですから、香りは帰ってから作ります」
「やっぱり作るのか」
「はい」
迷いのない返事に、リュシアンが笑う。
「何て名前にする?」
「まだ決めておりません」
「潮風じゃないのか」
「それでは、そのまますぎます」
「難しいな、調香師は」
「名前も作品の一部ですので」
鞄を閉じながら、アデルは少し笑った。この旅で得たものは、到底そこへ収まる量ではない。
*
最後の朝餉には、ライレイとユエも揃っていた。
昨日一日を費やしてようやく少しは落ち着いたのか、ライレイは今朝、自分の料理にもきちんと箸をつけている。ユエが茶器へ手を伸ばすたび反射的にそちらを見る癖は治っていないものの、少なくとも急須を奪い取ることも、魚を勝手に引き寄せることもなくなっていた。ただし、冷静になったのは表面だけらしい。
「寒くない?」
「問題ございません」
「椅子、硬くない?」
「昨日と同じでございます」
「魚の骨は?」
「自分で取れます」
「分かってる。聞いただけ」
そう言いながら、金色の瞳はしっかりユエの皿を追っている。彼女が小骨を取り除いて一口食べると、なぜかライレイの方が安心したように口元を緩めた。昨日よりは抑えている。しかし幸福感まで抑える気はまったくないらしい。
「昨日よりは冷静ですね」
アデルが小声で言うと、隣のリュシアンも朝餉を食べながら友人を一瞥した。
「多少はな」
「何の話?」
「お前の話だ」
「俺、今日は普通でしょ?」
「ユエ嬢が一口食べるたび笑ってる男が?」
ライレイは一瞬黙り、隣を見る。ユエもこちらを見ていた。視線が合った途端、また嬉しそうに笑う。
「だって嬉しいんだから仕方ないじゃん」
「開き直ったな」
「昨日からずっとだよ」
ユエの赤い瞳が柔らかく細められる。ライレイが自分の幸福を隠す気など最初からないことが、彼女にももう分かっているのだろう。呆れたような仕草をしながらも、その表情はどこか満たされていた。
「今日帰っちゃうんだね」
ふと、ライレイの声に寂しさが混じった。
「はい」
「延ばさない?」
「延ばさない」
リュシアンが即答する。
「まだ何も言ってないよ」
「顔に書いてある」
「それ、最近よく言うよね」
「お前が分かりやすいからだ」
アデルは笑いながら茶器を置いた。
「また参ります」
「本当?」
「もちろんです」
「じゃあ、その時はもっと平和にするから」
「ぜひお願いいたします」
「本当に頼む」
リュシアンまで重ねると、ライレイは少し肩を落とした。
「二人とも信用ないなあ」
「実績の問題だ」
「俺のせいじゃない事件も多かったんだけど」
「大半がお前の周囲で起きた」
「それは否定できない」
そこでライレイは、何かを思いついたように顔を上げた。
「そうだ、リュシー」
「今度は何だ」
「帰る前に、お腹の子に名前つけていってよ」
リュシアンの箸が止まった。
「……俺が?」
「うん」
「シャン語で?」
「そう」
「重大じゃないか」
軽い頼み事のように言う内容ではない。リュシアンが眉を寄せると、ライレイは笑うのをやめ、今度は真っ直ぐ友人を見た。
「だからだよ。この子が生まれる前に、俺の大事な友人から一つもらっておきたい」
灰青色の瞳が僅かに揺れる。向かいでは、ユエも何も言わずリュシアンを見ていた。
「俺でいいのか?」
「リュシーがいい」
迷いのない答えだった。
リュシアンはしばらく黙り、それから小さく息を吐く。
「……分かった。出発まで考えておく」
「本当?」
「ああ」
ライレイの表情がまた一気に明るくなる。
「楽しみにしてる」
「期待を上げるな」
「もう上がってる」
「面倒だな」
口ではそう言ったものの、リュシアンは食事へ戻ってからも時折考えるように目を伏せていた。その横顔を見ながら、アデルは少しだけ微笑んだ。
*
出立の前に、二人は国王の寝所へ挨拶に向かった。
ジンレイはまだ完全には床を離れられないものの、昨日よりさらに顔色を取り戻しており、背へ重ねた枕に身を預けながら二人を迎えた。
「世話になったな」
リュシアンが礼をすると、国王は僅かに口元を緩めた。
「こちらの台詞だ。客人に王暗殺未遂まで解かせる国など、そう多くはあるまい」
「二度目は遠慮したい」
「朕もだ」
アデルも深く頭を下げる。
「貴重な経験を、たくさんさせていただきました」
「そなたは随分楽しそうだな」
「はい」
「普通は暗殺事件の後に言う言葉ではない」
「事件以外は、でございます」
国王が喉の奥で笑う。
「また来るといい。次はもう少し静かな時にな」
「ぜひ」
その言葉だけは、心からそう願った。
*
王宮の正門には、帰国のための馬車が並んでいた。
春の空は高く晴れ、磨かれた馬具が朝の光を反射している。従者たちは荷の最終確認に追われ、石畳には蹄の乾いた音が響いていた。見送りには、ライレイとユエも来ている。
ライレイは王太子らしい正装に身を包んでいたが、ユエの隣に立つ姿には以前のような張りつめたものがなく、時折そちらへ目をやるたび、金色の瞳が勝手に柔らかくなる。
「リュシー」
馬車へ乗り込む直前、ライレイが呼び止めた。
リュシアンは足を止めると、少しだけ気まずそうに視線を逸らした。
「考えた」
ライレイの表情が一気に明るくなる。
「お、聞きたい」
アデルもユエも自然と近くへ寄った。リュシアンは一度だけ咳払いをし、照れを隠すように少し顎を上げる。
「王族に生まれる以上、しがらみから完全に自由ではいられないだろ。国のこと、家のこと、血筋のこと。本人が望まなくても背負うものは必ずある。だから、その中でも心だけは自由であれるように」
灰青色の瞳が、ユエの腹部へ一瞬だけ向く。
「『悠凰』――ユウホウ、でどうだろうか」
しばらく、誰も声を出さなかった。春風が吹き、アデルの銀髪とユエの黒髪を柔らかく揺らす。
「ユウホウ」
ライレイが、名の響きを確かめるようにゆっくり繰り返した。やがて金色の瞳が、これ以上ないほど嬉しそうに細められる。
「いいね。すごくいい」
その声は思ったより静かで、だからこそ喜びが深く伝わった。
ユエも腹部へそっと手を添えた。
「ユウホウ……」
赤い瞳が柔らかく緩む。
「美しい名でございますね」
そう言われると、リュシアンの耳が僅かに赤くなる。
「……あまり褒めるな」
「照れてる?」
「照れてない」
「耳赤いよ」
「風だ」
ライレイが楽しそうに笑う。その笑顔を見ているうちに、リュシアンも諦めたように口元を緩めた。
「ありがとう、リュシー。この子への、一番最初の贈り物だね」
リュシアンは少しだけ目を見開いた。生まれる前から、宮殿だの森だのと途方もないものを用意されそうになっている子供である。その中で、自分の贈った名前が最初だと言われると、不思議な重みが胸に残った。
「俺でよかったのか?」
「だから、リュシーがよかったんだって」
ライレイは笑い、それからユエの腹部へ視線を落とす。
「じゃあ、幼い頃はユウユウって呼ぼうかな」
「もう愛称まで決めるのですか」
ユエが呆れたように言う。
「いいでしょ。ユウユウ」
「まだ生まれてもおりません」
「だから今から呼ぶ」
「聞こえませんよ」
「聞こえるかもしれない」
「殿下」
「はい」
叱られたような返事をしながらも、ライレイの顔から笑みは消えない。ユエもとうとう堪えきれないように笑った。
その二人を眺めながら、リュシアンは呆れたように小さく息を吐く。それでも灰青色の瞳は穏やかで、アデルには、先輩と呼ばれたことも、名前を託されたことも、そして何より友人がここまで幸せそうでいることも、きっと全部嬉しいのだと分かった。
「リュシー」
「何だ」
「次来る時、お土産よろしく」
「今名前をつけたばかりだぞ」
「ユウユウ用」
「気が早い」
「アデルちゃんも」
「はい」
「生まれたら香り作って」
アデルは一瞬だけ、ユエの腹部を見る。まだ何も見えない場所に、新しい命がいる。自分の未来については、今もまだ答えが出ていない。それでも、この子が生まれる日を楽しみに思う気持ちだけは確かだった。
「もちろんです」
そう答えると、ライレイは満足そうに頷いた。
やがて彼はリュシアンへ片手を差し出す。
「色々ありがと」
「今さらだな」
「こういうのは最後に言う方がそれっぽいでしょ」
「もっと普段から言え」
「善処する」
握った手を離す前に、二人はほんの一瞬だけ互いを見た。
「またな、リュシー」
「ああ。また」
それだけで十分だった。
アデルもユエの前へ進む。
「ユエ様」
「はい」
何を言おうか考えていたはずなのに、いざ顔を見ると言葉が詰まった。たった数日の間に、薬のこと、香りのこと、ライレイのこと、そしてまだ生まれていないユウホウのことまで、随分たくさんの話をした。
アデルが言葉を探していると、ユエの方が先に一歩近づいた。
「アデル様。お礼の品としては、ささやかではありますが、これを」
差し出されたのは、濃い色のしっかりとした布で作られた細長い包みだった。
「私に、ですか?」
「はい。わたくしが愛用している工具たちです」
留め紐を解いて布を広げると、その内側には細かな仕切りが縫いつけられ、大小の小刀、刃先の異なる鋏、細身のピンセット、先端の曲がったピック、薄い金属のヘラなど、採集にも調香にも使えそうな道具が端正に並んでいた。
どれも小ぶりでありながら作りは堅牢で、柄には指が滑らないよう細かな彫りが施されている。その根元には磨かれた翡翠が一粒ずつ嵌め込まれ、朝の光を受けて深い緑に艶めいた。布の端を巻き込んでいけば、その道具一式は巻物のような細い形へ収まり、旅先でも邪魔にならないよう作られている。
アデルのアレキサンドライトの瞳が、みるみる輝いた。
「なんて素敵なのでしょう! とても嬉しいです!」
先ほどまで別れを惜しんでいた人とは思えないほど、声が弾む。一本のピンセットをそっと抜き、先端を光へ透かしたかと思えば、今度は小刀の握りを確かめる。仕事道具を前にした時のアデル特有の、子供のように純粋な興奮が顔いっぱいに表れていた。
ユエはそんな彼女を見て、満足そうに目元を緩める。
「レン家の専属工房に作ってもらいました。使用感はなかなかです」
「なかなか、どころではございません。刃も薄いですし、このピンセットなら花弁も傷めず摘めそうです。それに、こちらのヘラは樹脂を扱う時にも……」
「アデル」
後ろからリュシアンが呼ぶ。
「はい」
「馬車、出るぞ」
「あ」
一瞬、本気で忘れていたらしい。ユエが小さく笑った。
「お気に召したようで何よりでございます」
「大切に使います」
アデルは道具を一本ずつ元の位置へ戻し、布を丁寧に巻き直した。胸元へ抱えたその包みは、もうただの工具ではなく、シャンで得た大切な思い出の一つになっている。
「ありがとうございます、ユエ様」
「こちらこそ。アデル様には随分助けていただきましたから」
アデルは包みを抱いたまま少し迷い、それから空いた腕を広げた。
「……抱きしめても?」
ユエが一瞬だけ目を見開き、すぐに静かに頷いた。
「ぜひ」
互いの身体へ負担をかけないよう、そっと抱き合う。長い黒髪から、微かな薬草と清潔な香油の匂いがした。
「また、お会いできますよね」
「もちろんでございます」
「次にお会いする時には」
離れたアデルの視線が、無意識にユエの腹部へ向く。ユエも気づいたらしく、そっと片手を添えた。
「どうなっているでしょうね」
「楽しみにしております」
「わたくしも」
「どうか、お元気で」
「アデル様も」
そのすぐ横では、ライレイが妙に感動した顔で二人を眺めていた。
「いいね、こういうの」
「殿下」
「何?」
「泣いておられます?」
「泣いてない」
「目が赤いです」
「風」
「風はほとんどございませんが」
「じゃあ春だから」
「意味が分かりません」
アデルが笑い、リュシアンも肩を揺らした。最後まで、彼ららしかった。
*
馬車がゆっくり動き出した。
窓から見える王宮が少しずつ遠ざかっていき、ライレイは最後まで大きく手を振っていた。その隣で、ユエは片手を腹部へ添えたまま、もう一方の手を静かに上げている。やがて二人の姿は小さくなり、王宮の門も街並みの向こうへ消えていった。
アデルはしばらく窓の外を見ていた。
「寂しいか?」
隣から声がする。
「少し」
「俺も」
意外な答えに振り返ると、リュシアンは窓の外へ視線を向けたまま、僅かに笑っていた。
「ライレイに会うと疲れるけどな」
「とても楽しそうでいらっしゃいました」
「まあな」
「先輩とも呼んでいただきましたし」
「それはもういい」
「ユウホウ様のお名前もつけられましたし」
「それも何度も言うな」
「嬉しかったのですよね?」
リュシアンは少し黙った。やがて、諦めたように小さく息を吐く。
「……まあな」
アデルは笑った。
「とてもよいお名前でした」
「お前まで言うのか」
「本当にそう思います」
それ以上からかうと、本気で照れそうだったのでやめておいた。
馬車は王都を離れ、春の街道へ入っていく。これからまた、いくつもの町を越え、山を越え、スピネリアへ帰る。
アデルは座席へ身体を預け、リュシアンの肩へそっと頭を乗せた。膝の上には、ユエから贈られた道具巻きが大切に置かれている。
「帰ったら、何をしましょう」
「仕事」
「現実的ですね」
「溜まってるだろ」
「そうでした」
「でも、その前に一日は休む」
「珍しいですね」
「新婚旅行から帰った翌日くらい、休んでもいいだろ」
「賛成です」
しばらくして、アデルはふと思い出した。
「リュシアン様」
「何だ」
「帰りましたら、海の香りを作ります」
「やっぱりそれか」
「はい」
「なら俺にも嗅がせて」
「もちろんです」
アデルは笑った。
鞄の中には、白い貝殻が一つ。荷の中には、シャンで集めた香料や記録がいくつもあり、膝の上にはユエから贈られた翡翠の工具がある。けれど、本当に持ち帰るものはそれだけではない。
初めて二人で見た海。怖かった夜。笑った朝。ライレイの隠しきれない幸福。ユエの穏やかな微笑み。まだ見ぬユウホウという新しい未来。そして、これから同じ場所へ帰る夫の温度。
馬車の窓から入り込む春の風には、もうシャンの王宮の香りはほとんど残っていなかった。それでもアデルは、この旅で得たものをきっと一生忘れないと思った。
香りが消えても、記憶は残る。いつかユエから贈られた小刀を手に取った時も、白い貝殻を見つけた時も、ユウホウという名を呼ぶ日が来た時も、きっとこの数日のことを思い出す。
そうして持ち帰った記憶は、いつの日かまた別の香りとなって、自分たちの未来へ重なっていくのだろう。




