第六十二話 育む香り
次の日、朝からライレイは少しおかしかった。
正確には、昨日までの彼と同じように見える瞬間もあるのに、ふとした拍子にどうしようもなく嬉しそうな顔をする。
朝餉の席についた時もそうだった。赤褐色の髪はいつも通り無造作に整えられ、王太子らしい衣装もきちんと着ている。けれど席についてからというもの、金色の瞳が何度も無意識にユエへ向かっていた。
本人も気づいていないらしい。ユエが茶器を取れば見る。料理へ箸を伸ばせば見る。ほんの少し身体を動かしただけでも、そちらへ目が行き、気づくたびに口元が緩む。見ているこちらが恥ずかしくなるくらい、幸せが隠せていなかった。
アデルがそんな様子を眺めていると、ライレイは不意にユエの前に置かれた蒸し魚を引き寄せた。
「殿下?」
「ちょっと待って」
箸を入れ、白身を崩さないよう慎重に開いていく。
「何をなさっているのですか」
「骨取ってる」
「見れば分かります」
ユエの赤い瞳が僅かに細くなる。
「自分でできます」
「知ってるよ」
「でしたら」
「でも刺さったら危ないでしょ」
「昨日までは普通にいただいておりましたが」
「昨日までは二人じゃなかったから」
あまりにも自然に返され、ユエが一瞬黙った。ライレイはその意味に気づいているのかいないのか、最後の細い骨まで取り除くと、満足そうに皿を戻した。
「はい」
「……ありがとうございます」
「うん」
礼を言われただけなのに、ライレイの顔がまた緩んだ。本当に分かりやすい。
次は茶だった。
「ユエ、お茶飲む?」
「いただきます」
「俺入れる」
「侍女が」
「俺が入れたい」
さっそく急須へ手を伸ばし、いつもより慎重に湯を注ぐ。蒸らしている間にも果物の皿をユエの近くへ寄せ、汁物の器を覗き込み、さらには椅子へ当たる風まで気にし始めた。
「寒くない?」
「問題ございません」
「窓閉めようか」
「そこまででは」
「汁物熱い?」
「普通です」
「果物」
「後ほど」
「じゃあ」
「殿下」
ユエの声が少し低くなると、ライレイの動きがぴたりと止まった。
「はい」
「ご自分のお食事をなさってください」
言われて自分の前を見ると、ほとんど手をつけていない料理は、すでに湯気を失いかけている。
「あ」
向かいに座るリュシアンが、淡々と言った。
「子供が生まれる前に、お前が餓死するぞ」
「それは困る」
「まず自分が生きろ」
「はい」
素直に箸を取った。ただし数口食べたところで、またユエを見る。今度は何もせず、ただ嬉しそうに笑った。
ユエがそれに気づく。
「何でしょう」
「何でもない」
「では、なぜ笑っておられるのですか」
「嬉しいから」
迷いのない返事だった。
ユエは一瞬だけ目を見開き、それから視線を茶器へ落とした。長い黒髪が頬へかかり、表情の半分を隠す。それでも、その口元が柔らかくほどけているのは分かった。
アデルはその様子を見て、自分まで胸の奥が暖かくなるのを感じた。隣ではリュシアンも、ほんの少し笑っている。
アデルは声を潜めた。
「リュシアン様。昨夜はどうでした?」
「すごくアホになってた」
「なんと……」
「宮殿を建てるとか、森を買うとか言ってた」
「森を?」
「子供が木登りしたくなるかもしれないらしい」
アデルは改めてライレイを見る。本人は今、普通に食事をしている。ただし数口ごとにユエを見ている。
「……まだ混乱していらっしゃるのですね」
「混乱というか」
リュシアンは友人の顔を見た。
「浮かれてるんだろ」
「聞こえてるよ」
ライレイが振り向いた。
「否定できるか?」
「できない」
即答だった。
「すごく幸せだから」
それを聞いたユエが、またほんの少し笑う。昨日までなら、こんな幸福を真正面から言葉にされれば、何か一つ冷静な返しをしたはずだ。今日は何も言わず、ただその笑顔を受け取っていた。そのことが、ライレイをさらに幸せにしているようだった。
*
朝餉が終わる頃には、ライレイも少し落ち着いていた。国王から譲られる政務について話し始めれば、そこはやはり王太子だった。
「ハオジュン兄上には禁軍の指揮権を正式に打診する。セイランには宰相補佐。父上の政務は段階的に俺が引き継いで――」
声も表情も落ち着いている。アデルは少し安心した。子供のことさえ考えなければ、ちゃんと冷静なのだ。
ところが、話の途中でライレイの視線がユエへ移った。ほんの一瞬、そして何かを思い出したように金色の瞳が輝く。
「……あ」
リュシアンが嫌そうな顔をした。
「今度は何だ」
「リュシー」
「嫌だ」
「まだ何も言ってないよ」
「顔で分かる」
「ユエの部屋作るの手伝って」
「今?」
「今」
「政務は」
「あとでやる」
「順番が逆だ」
「でもユエの部屋は今日から必要でしょ」
ライレイはそこで一度言葉を切り、さっきまでの勢いが少しだけ落ちる。
「昨日までは泊まりに来るだけだったから」
ユエを一度見る。
「でも、これからは違う」
声が柔らかくなった。
「ここが、ユエの帰ってくる場所になるんだから」
その言葉だけは、浮かれて出たものではなかった。ユエが静かに彼を見て、ライレイも見返す。しばらく、二人の間だけ時間が止まったようだった。
「……ですので、本人の意見もお聞きくださいませ」
ユエが言う。
「もちろん」
返事は即座だった。けれど数秒後には、またリュシアンへ向き直る。
「で、手伝って」
「俺、新婚旅行中なんだけど」
「先輩でしょ!」
「何の」
「妻と暮らす部屋を作った先輩」
リュシアンの表情が変わった。
「……先輩?」
「そう。結婚して、一緒に暮らしてる。俺より先」
悪くない響きだった。これまで散々、新婚だ、妻に甘い、女慣れしていないとからかわれてきた。友人より明確に一歩先へいる分野など、そう多くはない。
灰青色の瞳に、僅かな得意げな色が浮かぶ。
「仕方ないな」
リュシアンが立ち上がった。
「手伝ってやる」
「リュシアン様?」
アデルが疑わしそうに夫を見る。
「何だ」
「今、少し嬉しそうでは」
「気のせいだ」
「先輩と呼ばれて」
「気のせいだ」
「早く行こう、先輩」
「分かったから急かすな」
口では面倒そうにしながら、足取りは案外軽い。ライレイが幸せそうなのが、リュシアンにも嬉しいのだろう。それを知っているからこそ、アデルはそれ以上からかわなかった。
「私たちは、お庭でお茶にいたしましょうか」
ユエへ声を掛ける。
「そういたしましょう」
「埃も舞いそうですし」
「殿下方には、好きなだけ夢を広げていただきましょう」
ユエの口元に、穏やかな笑みが浮かんだ。
*
ユエのために選ばれたのは、ライレイの寝室に隣接する一室だった。東と南に窓があり、春の陽が柔らかく差し込んでいる。広さにも余裕があり、窓の向こうには庭と小さな水路が見えた。
リュシアンは室内へ入ると、まず窓の位置と床の状態を確認した。
「悪くないな」
「でしょ?」
「寝室はここでいい。ただし、全部を寝る場所にする必要はない」
ライレイはすぐに頷く。
「衣装棚と、書架。ユエ、本かなり持ってるから」
「化粧台もいるだろ」
「使うかな」
「そこは本人に聞け」
「はい、先輩」
「それを便利な返事に使うな」
そう言いつつ、リュシアンの口元は少し緩んでいる。
「長椅子も欲しい」
「何で」
「ユエ、本読みながら寝る時あるから」
「寝台へ行かせろ」
「行かないんだよ」
「なら、硬すぎるものはやめろ。アデルも調香室で寝落ちして、翌朝腰が痛いと言う時がある」
ライレイが感心したように顔を上げる。
「経験談だ」
「先輩だからな」
「すごいな、先輩」
「もっと敬え」
二人で部屋を歩く。何を置くか、何を置かないか。ライレイの案は時々極端だったが、ユエのことに関してだけは妙に具体的だった。
「工房は庭の向こうに別棟」
「近すぎると匂いが籠もるな」
「だから少し離す。でも遠いと移動が大変」
「間に薬草園か」
「そう。水場も工房のそばにする」
「よく考えてるな」
「ユエが使うからね」
ライレイは当たり前のように言った。
「日当たりが強すぎる薬草は嫌がるし、逆に陽が必要なのもある。書庫は湿気避けたいし、仕事中は食事忘れるから、工房と居間の動線も短い方がいい」
リュシアンは友人の横顔を見る。浮かれてはいる。だが、その浮かれ方の中に、ずっとユエを見てきた時間が透けていた。
「お前、本当にユエ嬢のことよく分かってるんだな」
ライレイが不思議そうに瞬きをする。
「婚約者なんだから普通でしょ」
迷いも照れもない。リュシアンは少し笑った。
「そうだな」
それから、もう一度部屋を見回す。
「でも、本人の好みはちゃんと聞け」
「分かってる」
一拍。
「……たぶん」
「分かってないな」
「半分くらい」
「駄目だ」
ライレイが笑う。
「やっぱり先輩厳しいなあ」
「先輩だからな」
その言葉を返した自分がおかしくなり、リュシアンも笑った。友人がここまで幸せそうなのは、悪くない。むしろ、見ているこちらまで少し気分が軽くなる。それだけのことを、わざわざ口にするつもりはなかった。
*
庭では、アデルとユエが春の花に囲まれて茶を飲んでいた。白い花をつけた低木の向こうで若葉が揺れ、柔らかな陽射しがユエの黒髪へ青みのある艶を落としている。昨日まで彼女の周囲にあった張りつめたものはすっかり薄れ、赤い瞳も今日は穏やかだった。
「お身体はいかがですか?」
アデルは朝から何度目か分からない質問をした。
「何も変わりません」
「本当に?」
「はい」
「気分がお悪くなったりは」
「今のところございません」
「眠気は?」
「昨夜はよく眠れました」
「お腹は?」
「アデル様」
ユエがとうとう笑った。
「今朝だけで、殿下と同じことを三度ほど聞かれております」
「……すみません」
「いえ」
ユエは茶器へ手を伸ばし、少し目を細める。
「お気遣いはありがたく」
そのもう一方の手が、ごく自然に腹部へ添えられている。
アデルはその仕草を見るたび、胸の奥が不思議な感覚に満たされた。嬉しい。心からそう思う。ユエが望み、ライレイがあれほど喜んでいるのだから、その幸福ができるだけ長く続けばいいとも思う。
けれど同時に、自分のこととなると、まだよく分からなかった。昨日リュシアンから子供の話をされて、嫌だとは思わなかった。むしろ嬉しかった。それでも、ユエのように腹部へ手を置く自分の姿を想像しようとすると、輪郭がぼやける。憧れなのか、望みなのか。まだ、そこまでは分からない。だからこそ、今はユエの話を聞きたかった。
「ユエ様は、お子様をどのように育てたいですか?」
ユエはすぐには答えず、庭を横切る蝶へ視線を向け、少し考える。
「自由に、でしょうか」
「自由に?」
「はい。王家に生まれる以上、完全な自由など望めないでしょう。それでも、王族だから、レン家の子だからという理由だけで道を決めたくはありません」
「薬師にしたい、とは思われませんか?」
「本人が望めば」
ユエは静かに茶器を置いた。
「薬も、毒も、身体のことも教えます。知らなければ守れないものがございますから。ただ、それを家業として選ぶかどうかは本人が決めればよろしいかと」
「毒も教えるのですね」
「危険だからこそ、でございます」
赤い瞳が真っ直ぐにアデルを見る。
「隠しても、王家に生まれる子はいずれ知ります。それなら、恐れさせるより、何が危険で、どう扱えば人を守れるのかを正しく教えた方がよろしいでしょう」
いかにもユエらしい考えだった。アデルはゆっくり頷く。
「ライレイ殿下に似たら、剣もお得意になりそうです」
「それは少々心配ですね」
「心配なのですか?」
「木に登り、馬で走り、屋根から飛び降りそうです」
アデルは思わず想像した。赤褐色の髪をした小さな子供が、高いところから笑いながら飛び降りる姿。
「……ありそうです」
「でしょう?」
「昨日、森を一つ買うと仰っていたそうですよ」
ユエの動きが止まる。
「森を?」
「お子様が走り回るために」
一瞬、呆れたように目を伏せ、それからふっと笑った。
「……殿下らしいですね」
「止められますか?」
「不要なら止めます」
「必要なら?」
「買っていただきます」
「そこはいただくのですね」
「使えるものを断る理由はございませんので」
アデルは笑った。ユエもつられるように、いつもよりはっきりと笑う。その表情には、今までアデルが見たことのない柔らかさがあった。
「嬉しいのですね」
思わず口にすると、ユエの笑みが少しだけ止まった。
「……何がでしょう」
「ライレイ殿下が、あんなに幸せそうなのが」
しばらく沈黙があった。ユエは庭の向こうへ目を向ける。
「はい」
静かな返事だった。
「殿下は、自分の幸福を後回しになさる方ですから」
腹部へ添えた手が、ほんの少し動く。
「今朝から、驚くほど分かりやすく喜んでおられますでしょう」
「はい」
「それを見ると」
赤い瞳が柔らかく細められる。
「選んでよかったと思います」
アデルは、それ以上何も聞かなかった。ただ、一緒に微笑んだ。自分にはまだ分からない。けれど、目の前にいる友人の幸福が嬉しいことだけは、はっきり分かる。
*
午餐の頃には、ユエの部屋は大まかな配置まで決まっていた。新しい家具はまだないが、不要なものは運び出され、書架や衣装棚の位置には印がついている。
アデルは席につく前に、ライレイへ念を押した。
「ライレイ殿下」
「はい」
「ユエ様をお願いしますね」
「もちろん」
「絶対安静ですからね!」
「はい!」
あまりにも勢いよく答えるので、ユエが横から冷静に言った。
「そこまでの指示は宮廷医からいただいておりません」
「念のためです」
「俺も念のため賛成」
「殿下まで」
ライレイはユエの椅子を引き、彼女が座るまで待ってから自分も腰を下ろした。
料理が運ばれる。魚を見る。手が伸びる。
「殿下」
声だけで止まった。
「……骨取るだけ」
「今日は自分でできます」
一瞬、残念そうな顔をした。
「はい」
素直に手を引く。けれどユエが自分で小骨を一つ取り除くのを見ている顔が、妙に真剣だった。
「見ないでください」
「見てないよ」
「見ております」
「心配なだけ」
「食べられます」
「知ってる」
分かっているのに見てしまうらしい。やがてユエが一口食べると、なぜかライレイの方が安心したように笑った。
リュシアンが小声で呟く。
「本当に幸せそうだな」
今度はからかう調子ではなかった。
アデルも頷く。
「はい」
その声を聞いたライレイが振り向く。
「何?」
「何でもない」
「絶対何か言ってた」
「友人が幸せそうでよかったと言っていただけだ」
リュシアンがさらりと答えると、ライレイが一瞬黙った。
「……リュシー」
「何だ」
「そういうこと急に言うのずるくない?」
ライレイは少し照れたように笑った。ユエもその横顔を見る。その眼差しには、静かな喜びがあった。
*
午餐のあと、ライレイはユエを整え始めた部屋へ案内した。午後の光が広い床へ長く差し込んでいる。
「まだ何もないけど」
「十分変わっておりますね」
「書架はここ。衣装棚はこっち。窓際に長椅子。工房は庭の向こう」
そこまで説明すると、ライレイは一度止まった。
「……どう?」
「何がでしょう」
「勝手に決めすぎてない?」
ユエが少し目を見開く。
「珍しく慎重でいらっしゃいますね」
「リュシーに怒られた」
「なるほど」
「書架、壁一面でいい?」
「半分で結構です」
「半分?」
「増えたら足せばよろしいでしょう」
「それもそうだね」
今日は素直である。
「工房は?」
「庭の先でしたら使いやすそうです」
その瞬間、ライレイの表情がぱっと明るくなった。
「でしょ! 水場もすぐ横にして、薬草園を間に」
「そちらは大変よろしいと思います」
「よかった」
褒められただけで、これでもかというほど嬉しそうに笑う。ユエはその顔を見つめた。ライレイが未来の話をするたび、表情が明るくなる。子供の話をすれば、金色の瞳まで輝く。自分のための部屋を考えている時ですら、まるで本人が贈り物をもらっているように楽しそうだった。
「昨日から、随分考えてくださったのですね」
「うん」
「ありがとうございます」
その一言で、今度は勢いが止まった。少し照れたように視線を逸らす。
「……どういたしまして」
赤褐色の髪の間から覗く耳が少し赤い。
「あと、子供のことも考えた」
「伺いましょう」
「まず宮殿を」
「不要です」
「まだ言い終わってない」
「不要です」
ライレイは笑った。
「じゃあ宮殿はいったん保留」
「永久に保留でも構いません」
「森は?」
「不要です」
「即答だなあ」
「続けますか?」
「続ける」
少しだけ考え、今度は声を落ち着けた。
「いっぱい抱っこする」
「はい」
「馬にも乗せる」
「年齢を見て」
「海も見せる。スピネリアにも連れていく。アデルちゃんに香水を作ってもらって、リンレイにも抱っこしてもらう。兄上たちにも遊んでもらう」
話すたび、未来の景色が増えていく。それが嬉しくて仕方がないらしい。
「王になりたいなら、その時考えればいい。薬師でも、商人でも、学者でもいい。剣が好きなら教えるし、嫌ならやらなくていい」
ユエは黙って聞いていた。
「何か一つでも、自分で好きだって思えるものを見つけてくれたらいいかな」
「とてもよろしいと思います」
「本当?」
「はい」
ライレイの目元がまた緩む。
「あと、ユエのことももっと大事にする」
「今さらでしょうか」
「もっと、って意味」
「どの程度でしょう」
「何でも」
言いかけて止まる。
「……できること全部」
ユエの眉が僅かに上がる。
「言い直されましたね」
「リュシーに怒られた」
「先輩から学んでいらっしゃるのですね」
「そこまで話聞いてた?」
「アデル様から少々」
「恥ずかしいなあ」
そう言いつつ、顔は嬉しそうだった。
「仕事して食べるの忘れたら持っていく。疲れてたら休ませる。夜遅くまで工房にいたら迎えに行く」
「殿下も仕事をなさってください」
「終わらせてから行く」
「でしたら」
ユエの赤い瞳が、静かに細くなる。
「楽しみにしております」
ライレイはしばらく、その顔を見つめていた。やがて、今までで一番穏やかな笑みを浮かべる。
「……ユエ」
「何でしょう」
「俺、今すごく幸せ」
「はい」
「分かる?」
「嫌というほど」
ユエはそう答えたものの、声は柔らかかった。
「でも」
少しだけ間を置く。
「悪くございません」
ライレイが笑う。その幸福が、部屋いっぱいに広がったようだった。
*
その夜、アデルとリュシアンは二人だけで同じ寝台へ入った。湯浴みを終えたアデルの銀髪が、白い寝具の上へ柔らかく広がっている。灯りは落としてあり、窓の向こうでは春の夜風が若葉を揺らしていた。
リュシアンは隣で、銀髪の一房をゆっくり指に絡める。
「今日は、大変でしたね」
「平和だったけどな」
「平和なのに大変でした」
「主にライレイが」
リュシアンが笑った。けれどその笑いには、昨日までとは違う穏やかさがある。
「嬉しそうでしたね」
「ああ」
「リュシアン様も」
灰青色の瞳がこちらを見る。
「俺?」
「はい。先輩と呼ばれて」
「それは」
「嬉しかったでしょう」
「……少し」
珍しく認めた。アデルが笑う。
「それだけですか?」
リュシアンは少し黙った。
「友人があんなに幸せそうなら、悪い気はしない」
それ以上は言わない。けれど、ライレイが混乱しながら未来を語るたび、何度も笑っていた。部屋作りにも結局最後まで付き合った。そのこと自体が答えだった。
「よかったですね」
「ああ」
アデルはしばらく黙っていた。昼間、ユエと交わした会話を思い返す。腹部へ添えられた手。静かに未来を語る声。そして、ライレイの幸せそうな顔を見て「選んでよかった」と言ったユエ。どれも美しかった。羨ましい、とまではまだ思わない。同じようになりたい、ともはっきり思えない。ただ、その幸福が眩しい。
「今日、ユエ様と子供をどう育てたいかというお話をしました」
「何て?」
「自由に育てたいと。王族だから、レン家だからと最初から道を決めたくないそうです。でも、自分を守れるよう、薬や毒についてはきちんと教えると」
「ユエ嬢らしいな」
「はい」
アデルは掛布の上へ視線を落とした。
「私、嬉しいんです」
「何が」
「ユエ様がお子を授かったことも。ライレイ殿下があんなに喜んでいることも」
そこで一度、言葉を切る。
「でも」
リュシアンは続きを急かさなかった。
「自分はどうなのか、と聞かれると、まだ分かりません」
「子供が欲しいか?」
「はい」
正直に言った。
「昨日、海でリュシアン様が未来のお話をしてくださった時は嬉しかったです。嫌ではありませんでした。でも、今日ユエ様を見て、自分も同じようになりたいかと考えたら……まだ、よく分からなくて」
言葉にした途端、少しだけ胸が軽くなった。
「おかしいでしょうか」
「別に」
即答だった。アデルが顔を上げる。
「まだ分からないなら、それでいいだろ」
「でも」
「結婚したからって、すぐ子供が欲しくならなきゃいけないわけじゃない」
リュシアンの声は穏やかだった。
「昨日俺が言ったのも、今すぐって意味じゃない」
「はい」
「俺は、いつかそういう未来が来たらいいと思った。それだけだ」
アデルは静かに聞く。
「お前がまだ分からないなら、分かるまで考えればいい」
「待ってくださいますか?」
「何を」
「私が分かるまで」
リュシアンの灰青色の瞳が少し細くなる。
「夫だからな」
それだけだった。何でもないことのように言われて、アデルは胸の奥がほどけるのを感じた。
「ありがとうございます」
「礼を言うことでもない」
リュシアンは銀髪をすくい、そのままアデルを腕の中へ寄せる。
「ただ」
「はい」
「もし、いつか欲しいと思ったら」
「思ったら?」
「その時は教えて」
「なぜですか」
「俺も一緒に喜びたい」
アデルは目を瞬いた。それから、ゆっくり笑った。
「はい」
今はまだ、自分の答えはない。それでもいいのだと思えた。ユエにはユエの幸福があり、ライレイには、それを身体いっぱいで喜ぶ幸福がある。リュシアンには、そんな友人を見て嬉しく思いながら、自分の妻の歩幅を待つ優しさがある。そしてアデルには、まだ分からない未来を、分からないまま大切に考える時間がある。
窓の外では、春の夜風が若葉を揺らしていた。まだ名前も形もない未来には、もちろん香りなどない。けれどアデルは、それを急いで瓶へ閉じ込める必要はないのだと思った。
いつか本当にその日が来た時、自分が何を感じ、どんな香りとして覚えるのか。今はまだ、知らなくてよかった。




