第六十一話 宿る香り
王都へ戻った頃には、すっかり日が暮れていた。
昼間の青さを失った空には薄い月が浮かび、王宮の軒下には灯りが一つずつ入り始めている。長い馬車旅を終えたアデルとリュシアンがライレイの宮へ戻ると、正面の石段で待っていた赤褐色の髪が、二人を見つけてひらりと手を上げた。
「おかえり、リュシー、アデルちゃん」
「ただいま戻りました! 海、とても素晴らしかったです」
馬車を降りたばかりだというのに、アデルの声は疲れより興奮の方が勝っている。ライレイはそんな彼女を見て笑ったものの、近づいてくるなり少し鼻を動かした。
「二人とも潮風の匂いがするね。髪もすごいことになってる」
言われて、アデルは自分の銀髪へ手を伸ばした。海辺で散々風に吹かれたうえ、帰りの馬車でも完全には整えきれなかったせいで、毛先があちこち絡んでいる。
「……本当ですね」
「まず湯浴みしてきなよ。話はそのあとでいいから」
「悪いな。そうさせてもらおう」
リュシアンも自分の髪を掻き上げた。普段は隙なく整えている黒髪も、今日は潮と風を含んで少し硬くなっている。
「ユエ様は?」
「中にいるよ。今日はずっと父上のところとレン家の人たちのところを行ったり来たりしてたから、さすがに疲れたって」
「では、あとでゆっくりお話ししたいです」
「うん。アデルちゃんが海の話を始めたら長そうだし、先に綺麗になってきて」
「そんなに長くは」
「瓶に閉じ込めたいとか言ったでしょ」
アデルが黙る。
リュシアンが横で吹き出した。
「言った」
「やっぱり」
「なぜ分かるのですか」
「アデルちゃんだから」
何とも納得のいかない理由だったが、否定材料も見つからなかった。
*
温かな湯で潮と砂を落とし、髪まで丁寧に洗ってもらうと、身体がようやく旅から戻ってきたような気がした。
「すっきりしました。ありがとうございます」
湯浴みを終えたアデルが居間へ戻ると、すでに食卓には遅い夕餉が並べられていた。魚の蒸し物や青菜、鶏の澄んだ汁物など、長い移動のあとでも食べやすいものばかりである。
「何から何まで、ありがたいです」
アデルが席へ着きながら言うと、ライレイは向かいで肩を竦めた。
「今回は事件なしって言ったのにね。このくらいは当然だよ」
「今回も、では?」
リュシアンが横から訂正する。
「細かいなあ」
「新婚旅行先で国王暗殺未遂に巻き込まれた側だからな」
「それは本当にごめん」
軽い口調ながら、そこだけは素直だった。
ユエもすでに席についており、いつもの落ち着いた表情で茶を口にしている。昨夜のような張りつめたところはなく、アデルはそれを見るだけで少し安堵した。
料理が一通り行き渡ったところで、リュシアンが本題を切り出した。
「で、どうなった?」
「第二と第六?」
「ああ」
ライレイは箸を止め、少し考えた。
「正式な裁きはこれからだけど、よくて島流しじゃない?」
「随分軽いな」
「第二王妃の嘆願があるだろうし、父上も息子を殺したくはないだろうからね。王を殺しかけた以上、無罪なんてことにはならないけど」
ライレイの声には、昨日までの冷たさはなかった。かといって兄たちを庇う響きもない。罪は罪として裁き、その先をどうするかは感情だけでは決めない。その境目を、自分なりに引こうとしているようだった。
「ユエの実家には、口止め料と慰謝料とが支払われると思う」
「口止め料って言うのか、それ」
「表向きは名誉回復に伴う補償金とか、そういう綺麗な名前がつくんじゃない?」
ユエが平然と答える。
「いただけるものは、ありがたく」
「強いな」
「名誉だけでは薬材は買えませんので」
「それはそうだ」
リュシアンまで納得した。
「それから俺は、権限が増えた」
ライレイが何でもないことのように付け加える。
「仕事が増えたってことだな」
「そういうこと。ハオジュン兄上には禁軍、セイランには宰相補佐を打診するつもり。俺は父上から政務をかなり引き継いで、後宮制度の改革を進める」
そこまで言って、急に箸を置いた。
「……いつになったらユエと結婚できるんだろう」
「そこか」
「大事でしょ」
「でもお前、婚前で手を出してるじゃないか」
リュシアンが呆れた声で呟いた。
ライレイは一瞬きょとんとしてから、当然のように答える。
「それはちゃんと避妊してるよ。ね、ユエ」
ユエが茶器を置いた。
「何のことでしょう?」
「え?」
ライレイが止まった。
「避妊」
「ですから、何のことでしょう」
「……俺、薬渡さなかった?」
「いただいておりません」
「え?」
今度の声は一段高かった。
リュシアンが眉を寄せ、アデルもユエを見る。
「いや、最初の時に。俺、ちゃんと用意して……あれ?」
「いただいておりませんね」
「待って」
「わたくしは、薬がないのであればお止めくださいと申し上げましたのに」
「……え?」
ライレイの金色の瞳が、完全に行き場を失った。
「でも俺、渡したつもりで……いや、あれ? いつ? 薬どこ行った?」
珍しく、本気で混乱している。
ユエはその様子を眺めながら、いつもと変わらない顔で魚の身をほぐしていた。
「リュシー」
「何だ」
「どうしよう、俺、混乱してる」
「俺たちの方が混乱してるぞ」
「だよね?」
「こっちに同意を求めるな」
リュシアンが額へ手を当てる。
アデルはしばらく三人を見比べていたが、突然何かに気づいたように顔を上げた。
「と、とにかくです!」
思った以上に大きな声が出た。
三人が一斉にこちらを見る。
「ユエ様は、明日、宮廷医に診ていただくべきです!」
「そ、そうだ。さすがアデルちゃんだ」
「なぜ殿下が一番動揺しておられるのですか」
「だって」
ライレイはユエを見た。
その視線が、ほんの僅かに彼女の腹部へ落ちる。
「……あり得る?」
「可能性であれば、否定はいたしません」
あまりにも冷静な答えだった。
ライレイの顔から、今度こそ完全に余裕が消えた。
*
翌朝。
ユエが宮廷医の診察を受けている間、ライレイは隣室を何度往復したのか分からない。
「座れ」
窓際で腕を組んでいたリュシアンが、とうとう言った。
「座っても結果変わらないでしょ」
「歩いても変わらない」
「でもじっとしてられない」
「昨日まで軟禁部屋で一日寝てた男とは思えないな」
「あれとは状況が違うよ」
ライレイは椅子へ座りかけ、やはり立った。
「……なあ」
「何だ」
「そもそも、どんな頻度でしてたらそんなに焦ることになるんだ?」
リュシアンが尋ねると、ライレイの足が止まった。
「……ほぼ毎日?」
「……」
「何、その顔」
「いや」
リュシアンは少し遠くを見る。
「それは焦るな」
「でしょ?」
「同意したくないがな」
「新婚のリュシーに言われたくない」
「俺たちは避妊について確認してる」
「俺もしてるつもりだったんだよ!」
「つもり、だろ」
「今一番刺さる言葉やめて」
ライレイは今度こそ椅子へ腰を下ろし、両手で顔を覆った。
「父上に何て言おう」
「まず結果を聞いてから考えろ」
「王族で婚前に子供ってどうなの?」
「お前が王太子だろ。自分で判断しろ」
「こういう時だけ突き放すのやめて」
「国の制度変えるって昨日言ってた男が何を言ってるんだ」
「制度と自分のことは別なんだよ」
「一緒だ」
その時、奥の扉が開いた。
ライレイが勢いよく立ち上がる。
先に出てきたのはアデルだった。
「アデル」
リュシアンがすぐに違和感へ気づいた。
目元が赤い。
「どうした? 何があった?」
急いで近づくと、アデルは口を開いたものの、声になるまでに少し時間がかかった。
「……事件です」
「事件?」
リュシアンの顔が一瞬で引き締まる。
ライレイも動きを止めた。
アデルは両手を胸元で握りしめたまま、とうとう堪えきれず涙を零した。
「ユエ様が、ご懐妊です!」
「……」
「大事件です〜!」
最後はほとんど泣き声だった。
「アデル、落ち着け」
「だって、お子が、お腹に……ユエ様が……」
「分かった。嬉しいのか心配なのかどっちだ」
「分かりません!」
「そうか」
とりあえず慰めるしかない。
リュシアンは泣く妻の肩を抱き、背をゆっくり撫でた。
その後ろから、ユエが姿を現した。
いつも通り背筋を伸ばしているものの、よく見れば表情は普段より柔らかい。
ライレイは数歩進み、それから止まった。
「ユエ」
「はい」
「……本当に?」
「宮廷医の見立てでは」
「本当に、いる?」
「そのようでございますね」
「俺の」
ユエの眉が僅かに上がる。
「殿下」
「あ、違う、そういう意味じゃなくて。俺たちの、子?」
「他にどのような意味が」
「ない。ないけど」
ライレイは笑いかけ、今度は泣きそうな顔になり、それを誤魔化すように片手で口元を覆った。
「……そっか」
「はい」
「そっかあ」
二度目は、噛み締めるような声だった。
「ユエ」
「はい」
「嬉しい?」
その問いに、ユエは少しだけ目を細めた。
「殿下はいかがですか」
「俺?」
「はい」
「……すごく嬉しい」
即答ではなかった。
驚きも、不安も、混乱も、まだ全部残っている。そのうえで選び直したような言葉だった。
「怖いくらい嬉しい」
「では、わたくしも」
それだけ答えた。
ライレイの顔が、ゆっくりとほどける。
いつもの人懐こい笑顔とは少し違った。何か大切なものを初めて両手で受け取った人のように、慎重で、それでも隠しきれない喜びが滲んでいる。
「触っていい?」
「まだ何も分かりませんよ」
「それでも」
ユエが小さく息を吐く。
「ご随意に」
ライレイは恐る恐る手を伸ばしたものの、腹部へ触れる直前でまた止まった。
「……やっぱり怖い」
「先ほどまで戦場で何人斬ったという話をなさっていた方とは思えませんね」
「これは違うよ」
ユエが、ほんの少し笑った。
*
その夜、アデルはひどく厳しい眼差しをしていた。
「今日は私がユエ様と寝ます」
「え?」
ライレイが固まる。
「ライレイ殿下には渡せません」
「そんな。俺、そんなに信用ないの?」
「いいえ」
アデルは首を振った。
「信用しているからです。ユエ様へのお気持ちを」
「それなら一緒に寝てもいいじゃん」
「労って差し上げてください」
「労るよ! ちゃんと!」
「慣れるべきです」
「……っくう」
何か図星のものがあったらしい。
ライレイは胸元を押さえ、苦しそうな顔をした。
「リュシアン様は、ライレイ殿下と寝てください」
「俺だけ被害者だ」
それまで黙って聞いていたリュシアンが即座に言った。
「一晩だけです」
「俺、新婚旅行中なんだけど」
「私も王太子妃でございます。友人の王太子妃候補と、そのお腹のお子を守る責務がございます」
「急に公務にするな」
「アデル様に守っていただけるのも、悪うございませんね」
ユエが穏やかに言う。
宮廷医の診察を終えてから、彼女はどこか柔らかかった。大きく笑うわけでも、喜びを声にするわけでもない。それでも、いつもの冷ややかな赤い瞳の奥に、静かな温度が宿っている。
「さあ、ユエ様。今日は安静にして眠りましょう。お嫌でなければ、カモミールのお茶をお入れします」
「ぜひ」
ユエは素直にアデルの方へ歩き出し、途中で一度だけ振り返った。
「殿下」
「何?」
「反省会をしてくださいね」
「……何を?」
「全部です」
「範囲広くない?」
返事はなかった。
二人の女性はそのまま寝室へ消えていく。
扉が閉まると、男二人だけが残された。
しばらく沈黙が続いた。
「……寝るか」
リュシアンが言う。
「まだ眠れない」
「俺は眠い」
「友人が人生最大級に混乱してるのに?」
「昨日剣の相手もした」
「冷たいなあ」
「寝台は別だからな」
「そこ?」
*
結局、すぐ眠れるはずもなく、二人は寝室に置かれた小卓を挟んで座っていた。ライレイは湯上がりの髪を適当に拭いただけで、珍しく何度も同じところを指で弄っている。
「王族で、婚前に子供ってどうなの?」
「さっきも聞いたな」
「答えもらってない」
「お前が婚姻を急げばいい」
「そんな簡単?」
「王太子だろ」
「政治的にはね。でも」
ライレイは少し黙り、珍しく困ったような顔をした。
「父親とか、分かんない」
リュシアンが目を向ける。
「父上みたいになりたいわけでもないし、昔の父上を否定したいわけでもない。でも俺、父親が何するものなのか、よく分かんない」
「なら、自分の理想をそのまま作ればいいだろ」
「理想?」
「ああ。それだけの権限もある」
昨日、国王から譲られた権限。変えようとしている後宮制度。生まれる前から母親の立場によって子供同士を競わせてきた国の形。そのすべてを、ライレイ自身がこれから変えていける。
「お前、自分の子に何をしてやりたい?」
そう問われると、ライレイはしばらく真剣な顔で考えた。
やがて、ぱっと顔を上げる。
「まず宮殿を建てるかな」
「……まず?」
「うん。今の宮でも悪くないけど、子供が走り回るならもっと広い方がいいでしょ。庭もいる」
「王太子宮がすでに十分広いだろ」
「でもユエに似たら工房と薬草を欲しがるから、それも作らないと」
「まだ性別も分からないぞ」
「関係ないよ。薬師になりたいかもしれないし」
ライレイはもう止まらない。
「工房は宮の中にあると匂いが籠もるから、庭の端に別棟かな。薬草園も近くにいるよね。レン家から珍しい薬草を分けてもらって、温度管理が必要なもの用に硝子の温室も――」
「待て」
「何?」
「話が早い」
「早い?」
「昨日まで存在すら知らなかった子供のために、もう建築計画が始まってる」
「でも必要になるでしょ」
「少なくとも明日ではない」
「じゃあ、もし俺に似たら」
「まだ続くのか」
「絶対やんちゃするから……」
ライレイは腕を組んで本気で考え込んだ。
「馬は何頭かいる。修練場もある。弓場もあるし……あれ、森一つ買っておいた方がいい?」
「何でそうなる」
「木登りとかしたいかもしれない」
「王宮にも木はある」
「足りないよ。子供って森走りたいでしょ」
「お前だけじゃないのか、それ」
「俺は走ったよ」
「だから基準にするな」
「でもハオジュン兄上に頼んだら、安全な森選んでくれそう」
「買う前提になってるぞ」
リュシアンはしばらく友人の顔を眺め、それから静かに理解した。
こいつ、子供のことになるとアホになるんだな。
戦場では相手の癖を数手で読み、政治では兄たちの動きを先回りし、昨日まで後宮制度そのものを作り替えようとしていた男が、まだ姿も見えない子供のために森を一つ買おうとしている。
「あと、海にも連れていく」
「今思いついたな」
「アデルちゃんが楽しそうだったんでしょ? なら子供も絶対楽しい」
「理屈が雑だな」
「スピネリアにも行く。アデルちゃんに生まれた時の香りを作ってもらって、リンレイにも抱っこしてもらう。ハオジュン兄上には森を案内してもらって、セイランには勉強教えてもらって――」
「お前の兄弟まで勝手に予定に組み込むな」
「みんな喜ぶよ」
「まあ、それは否定しない」
そこでライレイはふっと口を閉じた。
数秒考えたあと、今度はさっきまでとは少し違う真剣な顔になる。
「あと、ユエのことももっと大事にしなきゃ」
「今でも十分だろ」
「足りない」
即答だった。
「まず宮に工房は必須でしょ。今までユエは泊まりに来るだけだったから、自分の仕事はレン家へ戻らないとできなかった。でも子供が生まれたら、毎回移動なんてさせられない」
「なるほど」
「薬草園もユエの使いやすい配置にしないと。寝室から工房まで遠いのも嫌だな。体調悪い時に歩かせたくないし、子供が小さい間はすぐ戻れる方がいい」
先ほどまでの森一つという話より、急に具体的だった。
「書庫もいる。ユエ、薬学書すごく持ってるから。あと日当たりのいい場所が好きじゃない薬草もあるし、逆に陽が必要なのもある。水場は工房の近くにした方がいい。あいつ、薬を煮出したり洗ったりするから」
リュシアンは何も言わず聞いていた。
「あと食事も変えないと。ユエ、仕事してると食べるの忘れるんだよ。妊娠中はそれ駄目でしょ。専属で誰かつけた方がいいかな。でも知らない人ずっといるの、ユエ嫌がりそうだな……レン家から慣れてる侍女を一人借りるとか」
口にする内容は次々と出てくる。
どの場所を好み、何を不便に感じ、何なら嫌がり、何なら受け入れるのか。
考える時間などほとんど必要としていない。
それだけ普段からユエを見ていたのだろう。
「お前、本当によく分かってるんだな」
リュシアンが言うと、ライレイが不思議そうに顔を上げた。
「何が?」
「ユエ嬢のこと」
「婚約者なんだから普通でしょ」
その返事まで迷いがない。
リュシアンは少しだけ笑った。
「そうだな」
「……あ」
ライレイが急に何かを思いついた。
「明日から、ユエの住む場所を作らないと」
「明日から?」
「うん」
「だから建物はそんなすぐ建たない」
「違うよ。部屋」
ライレイは自分の寝室の方を見る。
「今までは泊まるだけだったから、ユエの物ってほとんど置いてない。でももう『泊まりに来る』じゃなくて、ここに住むんでしょ」
その言葉に、リュシアンは少しだけ目を細めた。
「まだ婚礼前だぞ」
「子供できたんだから、そんなこと言ってる場合じゃないじゃん。正式な部屋を用意して、衣装も薬も本も全部持ってきてもらう。俺の部屋だけじゃ足りないなら隣も繋げる」
「ユエ嬢に先に聞け」
「あ」
「そこはまだ訓練中だな」
「……聞く」
「そうしろ」
「でも多分、工房は欲しいって言う」
「そこは俺もそう思う」
少し沈黙が落ちたあと、リュシアンが思い出したように言った。
「レン家にも言わないとな」
ライレイの動きが止まった。
「……そうだった」
「忘れてたのか」
「忘れてた」
「一番最初に必要だろ」
「父親に挨拶?」
「すでに婚約してるから、妊娠の報告だな」
ライレイの顔がまた青くなる。
「怒られるかな」
「どうだろうな」
「レン家当主、昨日父上を解毒した時も顔変わらなかったよね」
「そうだな」
「あの人が怒ったらどうなると思う?」
「俺に聞くな」
「毒?」
「やめろ」
「いや、でも娘を婚前に妊娠させた王太子って、かなり殺したい存在じゃない?」
「自覚はあるんだな」
「あるよ!」
頭を抱えたあと、それでもライレイはすぐ顔を上げた。
「まあ、怒られてもいいや」
「いいのか」
「うん。殴られるくらいなら」
「王太子だぞ」
「ユエの父親でもあるからね」
金色の瞳から、先ほどまでの慌てた色が少し消える。
「ちゃんと話す。俺がユエと結婚したいことも、子供が嬉しいことも、絶対幸せにするってことも」
「後半だけは言い切るな」
「何で?」
「絶対なんてものはない」
「じゃあ」
ライレイは少し考え、言い直した。
「幸せにするために、できること全部する」
「それならいい」
「まず宮殿」
「そこへ戻るな」
「森も」
「買うな」
「まだ駄目?」
「少なくとも本人に聞け」
「分かった」
返事だけは素直だった。
リュシアンは呆れながらも、笑いを堪えられなかった。
父親が何をするものなのか分からないと言っていた男は、ほんの数分で、まだ生まれてもいない子供のために宮殿と工房と薬草園と森まで用意しようとしている。
おそらくこの先、必要なものより不要なものの方が大量に増えるのだろう。
「お前、相当な親馬鹿になるぞ」
「そう?」
「間違いなく」
ライレイは少し考えて、それから満面の笑みを浮かべた。
「別にいいじゃん。幸せなら」
その顔を見れば、もう何を言っても無駄だと分かった。
*
一方、隣の寝室では、香草の穏やかな湯気が漂っていた。
アデルが用意したカモミールの茶を飲み終え、二人は広い寝台へ並んで横になっている。灯りは一つだけ残してあり、柔らかな橙色が薄い天蓋を照らしていた。
ユエは仰向けになり、片手を自分の腹部へ置いている。
見た目には何も変わらない。
それでも、その手の下にはもう一つの命があるのだと思うと、アデルは隣にいる自分まで妙に緊張した。
「ユエ様」
「はい」
しばらく迷ってから、アデルは身体を少しだけ彼女の方へ向けた。
「一つ、伺ってもよろしいでしょうか」
「どうぞ」
「……望まれてのお子ですか?」
口にするまで、かなり勇気がいった。
喜ばしいことだからこそ、勝手に喜んではいけない気がした。ユエが望んでいたのか、困っているのか、それは本人にしか分からない。
ユエはすぐには答えなかった。
天蓋を見上げたまま、静かに言う。
「わたくしは薬師でございますから、避妊薬くらい自分でいつでも準備できましたよ」
アデルは瞬きをした。
「……そうですよね。私も、それは思っておりました」
「殿下は気づいておられませんが」
「はい」
「おそらく、今後もしばらく気づかれないでしょう」
ユエの口元が、ごく僅かに緩む。
アデルはそこでようやく理解した。
これは事故ではなかった。
少なくともユエにとっては。
「ライレイ殿下には……」
「秘密でございます」
ユエは静かに言った。
それから、自分の腹部に置いた手へ視線を落とす。
「殿下は、そろそろ幸せになるべきだと思うのです」
いつものユエなら、「幸せ」などという曖昧な言葉をこんなふうに口にしないような気がした。
「戦場で戦った。政治で戦った。妹君を守り、国を守り、誰かを守ることばかり考えてきた方です。それでも、ご自分への褒美を欲しがるような人ではありません」
アデルは黙って聞いていた。
「欲しいものがあっても、国に必要かどうかを先に考えるのです。休みたい時にも仕事をし、誰かに甘えたい時には冗談にして笑う。自分のことは、いつも後回しにする」
ユエの赤い瞳が柔らかく細められる。
「ですから」
腹部を撫でる手つきは、ひどく慎重だった。
「強制的に幸せになっていただきます」
アデルは目を丸くした。
あまりにもユエらしい言い方だった。
「……強制的に」
「はい」
「それをライレイ殿下が聞いたら、とても喜ばれると思いますけれど」
「だから申し上げません」
「なぜです?」
「調子に乗られます」
アデルは堪えきれず笑った。
笑った拍子に、昼間散々泣いたせいでまだ少し腫れている目元が痛む。
「でも」
ユエが続ける。
「殿下が喜んでくださって、安心いたしました」
そこだけは、少し小さな声だった。
アデルはようやく気づいた。
冷静に見えていたユエも、怖くなかったわけではないのだ。
自分一人では決められない未来を選んだのだから、ライレイがどんな顔をするのか、本当はずっと待っていたのかもしれない。
「とても、喜んでいらっしゃいました」
「ええ」
「お父様になることが分からない、と今頃悩んでいそうです」
「容易に想像できますね」
二人で小さく笑った。
アデルはそっと手を伸ばし、ユエの手のすぐ隣へ自分の手を置いた。触れていいか分からなかったので、腹部そのものには触れない。
「二人だけの秘密ですね」
ユエがこちらを見る。
「守っていただけますか」
アデルはしっかりと頷いた。
「もちろんです」
ライレイとユエの間にあるものは、言葉にするには少し複雑だった。
戦場で生き残るために強くなった人と、誰かを生かすために毒まで学んだ人。どちらも感情より先に必要なことを選ぶように見えて、その実、互いのことになると驚くほど不器用で深い。
まだ目には見えない小さな命は、そんな二人が初めて自分たちのために選んだ未来なのかもしれない。
窓の外では、春の夜風が若葉を揺らしていた。
香草茶の甘く柔らかな香りが寝室に残り、その奥でユエは静かに目を閉じる。
「おやすみなさいませ、アデル様」
「おやすみなさい、ユエ様」
アデルも目を閉じた。
明日になれば、また政治も、婚礼も、制度改革も動き始めるだろう。
けれど今夜だけは、そのどれよりも先に、まだ誰にも姿の見えない小さな命がここにいる。
秘密を守るように、二人は同じ寝台で静かに眠りについた。




