第六十話 潮風の香り
翌朝、アデルとリュシアンが朝餉の席についたのは、いつもよりずっと遅い時間だった。昨夜は眠りにつくのも遅かったうえ、前日は朝から王宮中を走り回っていたのだから、今日は誰からも早朝の呼び出しがないというだけで、それ自体が贅沢に思える。
春も深まりつつあるシャンの朝は、スピネリアよりも少し柔らかい。開けた窓から入り込む風には、花の盛りを終えつつある木々の青い匂いと、陽に温められ始めた土の香りが混じっていた。庭では薄紅色の花弁が時折風にさらわれ、若葉の間をくるくると舞っている。昨日の朝、この同じ王宮に武具の音と張りつめた声が満ちていたことが嘘のようだった。
「ライレイ殿下とユエ様は、もうお出かけになったのですか?」
アデルが蒸した小麦の饅頭を割りながら尋ねると、向かいのリュシアンが茶器を置いた。
「ああ。朝一番で国王陛下に呼ばれたらしい」
「やはり」
「昨日あれだけ寝ていたのに、朝は早いんだな」
「軟禁中のお昼寝まで数えてはいけないと思います」
「随分しっかり寝ていたけどな」
思わず笑いが零れた。昨日は、そんな他愛のないことで笑う余裕すらなかった。
温かな茶を一口飲むと、香ばしい穀物の匂いが鼻へ抜けていく。身体のどこかに残っていた緊張が、それにつられるように少しずつほどけていった。
「今日は何をして過ごしましょうね」
口にしてから、アデルは自分でも少し嬉しくなった。ようやく、新婚旅行らしい相談ができる。
リュシアンも同じことを思ったらしく、口元を僅かに緩めた。
「シャンは王都からさらに東へ行くと、海があるらしい」
「海?」
「ライレイが手配してくれた」
その一言だけで、アデルの瞳が一気に明るくなった。
「海! 初めてです!」
「そんなにか」
「だって、海ですよ。書物では何度も読みましたけれど、本物は見たことがございません」
「俺も、ちゃんと見るのは初めてかもしれないな。遠くから見えた程度なら別として、海辺まで行った記憶はない」
「では、お二人とも初めてですね」
「ああ」
「行きたいです」
「分かってる」
「まだ何もお願いしておりません」
「顔に書いてある」
昨夜、国王がハオジュンへ似たようなことを言っていたのを思い出し、アデルは少しだけ頬を膨らませた。
「馬車の時間は長くなるらしいが、まあ休みながら行こう」
「はい」
返事があまりにも早く、今度はリュシアンが笑う。
「今日は事件なしで」
「それは俺に言うな」
「では帰ってきたら、ライレイ殿下に念を押します」
「昨日も言ってたな」
「重要なことですので」
春の光が穏やかに食卓へ落ちていた。今日はようやく、ただ旅をするだけの一日になりそうだった。
*
その頃、ライレイとユエは国王の寝所にいた。
昨日とは違い、室内に兵士はいない。宰相も侍従も、宮廷医さえ隣室へ下がっている。そこにいるのは、国王ジンレイと、その後継者であるライレイ、そして王太子の婚約者であるユエだけだった。
国王は昨日より顔色を取り戻していたものの、まだ寝台から離れられるほどではなく、背へいくつか枕を重ねて上半身を起こしている。
ライレイはその姿をしばらく見つめてから、何とも言えない顔で口を開いた。
「……ほんとに生きてるね」
「朝一番に父親へ言うことがそれか」
「昨日死にかけてたから確認」
「不敬だな」
「息子だから許して」
「王太子だろう」
「今それ言う?」
国王が鼻で笑った。その反応を見て、ライレイはようやく肩から力を抜く。
「父上」
「何だ」
「無事でよかった」
今度はふざけずに言った。
国王も、ほんの少しだけ目を細める。
「ああ」
それだけ返すと、今度はユエへ視線を向けた。
「レン・ユエ」
「はい」
ユエは静かに頭を下げる。
「此度は、レン家に随分な無礼を働いた」
「国王陛下がお詫びになることではございません」
「王家の者がしたことだ。王の責任でもある」
「では、お言葉だけ頂戴いたします」
「父親にもそう伝えてくれ」
「承知いたしました」
国王はそこで少しだけ表情を和らげた。
「それと、息子に付き合わせたな」
「自ら付き合っておりますので」
あまりにも迷いのない即答に、ライレイが横を向く。
「そういう言い方、ちょっと嬉しい」
「今は国王陛下とお話ししております」
「はい」
「お前、随分言うことを聞くようになったな」
国王が面白そうに言うと、ライレイは肩を竦めた。
「ユエ限定かも」
「殿下」
「ほら」
「何が、ほら、ですか」
国王は小さく笑い、それから改めて息子を見る。
「変わったな」
あまりに唐突だったため、ライレイは一度瞬きをした。
「俺?」
「ああ」
「髪?」
「中身だ」
「急だなあ」
「昨日、お前の兄たちにも話した。王太子にお前を選んだ理由をな」
ライレイの笑みが少しだけ薄れる。
「第二の兄上の前で?」
「ああ」
「それはきついね」
「だからこそ言う必要があった」
国王はしばらく息子を見つめ、それから静かに続けた。
「お前は昔から強かった。戦場では判断が早く、必要なら躊躇わず切れる。王になるには有用な性質だが、その冷たさがお前の欠けた部分でもあった」
ライレイの金色の瞳が静かになる。否定はしなかった。
「必要なら兵を切る。土地を切る。人を切る。正しいか間違っているかではなく、目的へ至る最短を選ぶ。それだけでは、戦を終わらせる王にはなれても、平和な国を続ける王にはなれん」
「……うん」
「だが、いつの間にやら変わったようだな。以前のお前なら、分からぬものを残してはおかなかった。危険だと思えば、すべて捨てた」
ユエの視線が僅かに動き、ライレイもそれに気づいたようだった。
深緑の絹をすべて処分しようとした時、それを止めたのはユエだった。危険なものだけを捨てればいい。安全なものまで失う必要はない。その判断を、ライレイは受け入れた。
「今は違うのだろう?」
「違うね」
「人に任せることも覚えた。知らぬものを知らぬと言えるようにもなった。戦争が終われば、自分の役目まで変えねばならんと理解した」
「ずっと見てたんだ」
「父親だからな」
「もっと早く言ってよ」
「王だから言わなかった」
ライレイが苦笑する。
「面倒だねえ、王って」
「今さら気づいたか」
「昔から気づいてる」
しばらくの間、窓の外から聞こえる春の鳥の声だけが室内へ入り込んだ。
「第二の兄上は、どうなる?」
やがてライレイが尋ねる。
「正式な裁きを受ける。ジンカイも同じだ」
「母君は?」
「命に別状はない。レン家が診ている。ガオランが何をしたとしても、第二王妃の罪にはならん」
「分かってる」
ライレイは少し視線を落としてから、再び父を見た。
「第一の兄上の件も、第四王妃の件も、ルオシンの件も。父上、全部知ってたんだね」
「王宮で起きることを、王が何も知らぬと思っていたか」
「知っていて放置したこともある?」
「ある」
迷いのない答えだった。
「王は、見えているものをすべて裁けばよいわけではない」
「それで母上は死んだ」
室内の空気が変わった。
ユエは口を挟まず、国王もしばらく答えなかった。
「ああ」
やがて、そう認めた。
「朕の失敗だ」
ライレイの目が僅かに揺れる。
国王は窓の外へ視線を向けた。薄い帳が春風に揺れ、その向こうから穏やかな陽射しが差している。
「朕の母、今の王太后の時代はな。母親同士が害し合い、王子を削っていった」
低い声だった。
「毒を盛られた者もいた。事故に見せかけて消された者もいた。罪を着せられ、宮を追われた者もいる。子が一人減れば、それだけ自分の息子が王へ近づく。誰もが、それを当然のように考えていた」
「……父上も?」
「狙われた」
あまりにも淡々とした言い方に、ライレイも言葉を失う。
「母は強かった。朕を守った。守るためなら、人を先に潰すことも躊躇わなかった」
「王太后らしいね」
「ああ。今でも恐ろしい女だ」
国王は苦く笑った。
「朕が王になったのは、最も優れていたからではない。最後まで残ったからだ」
その言葉の重さに、室内が静まり返る。
「だから朕は、自分の代では変えようと思った。妃たちを平等に愛し、母親同士に優劣をつけなければ、少しは平和になると」
ライレイは父の顔を見つめた。
「随分、甘い考えだったよ」
「でも父上は」
「愛した」
国王は息子の言葉を遮った。
「全員を。それぞれ違う女だったし、それぞれを違う理由で愛した」
その目が、遠い時間を辿る。
「第一王妃エンファは、唯一、母が選んだ女だった。母は『この娘は自分に似ている』と言って気に入っていた」
「それ、褒め言葉なの?」
「母にとってはな。朕にとっては、それが恐ろしくなかったと言えば嘘になる」
幼い頃から、王太后がどのようにして息子を王へ押し上げたのかを知っている。その母とよく似た女を最初の妃として与えられた時、何も感じなかったはずはない。
「エンファは王家というものを誰より重く考えていた。第一王子シュエンを王にすることが、自分の役目だと疑わなかった」
「兄上を戦場へ出さなかったね」
「ああ。王になる子へ危険なことはさせられぬ、と。守ったつもりだったのだろうが、過保護に守ったがゆえに、結果として王位から遠ざけた。王になるために守り抜いたことで、王として必要な経験を奪ってしまった」
「……母上を殺したのも」
「エンファだ」
今度は濁さなかった。
「知った時には、もうフェイランはいなかった」
国王は一度目を閉じ、短く息を吐いてから先へ進んだ。
「第二王妃は、静かな女だった。聡明で、朕が政の話をするとよく聞いた。時には朕より先に問題へ気づいた」
「二胡を弾く人だよね」
「ああ。疲れて部屋へ行くと、何も聞かずに弾いてくれた。話したければ聞き、話したくなければ何も言わぬ。あれは賢い女だ」
「第二の兄上は、そこを尊敬してた」
「尊敬の仕方を間違えたな。母が第一王妃であれば、自分こそ正当な後継者だった。そう考えたらしい」
「本人はそんなこと望んでなかったのに」
「だから止めようとした。それで自分の息子に眠らされた」
国王の声音が重くなる。
「目を覚ました時、あの女が何を思うか。それを考える方が、朕には辛い」
少し間を置き、今度は第三王妃の話へ移った。
「ミンランは、後宮には珍しく何も欲しがらぬ女だった。いつも笑っていて、ハオジュンが森を見回って泥だらけで帰れば、『よく働いたのね』と喜ぶような女だ。王にしろとも、もっと地位を与えろとも、一度も言わなかった」
「ハオジュン兄上がああなの、母君の影響大きそうだね」
「だろうな」
「父上、ああいう人好きそう」
「余計なことを言うな」
「はい」
国王は僅かに笑ってから、続ける。
「第四王妃リジェンは逆だ。欲しいものを隠さない。実家の力も強く、官職にも縁者が多い。後宮へ入った時から、息子と実家の利益をどう残すかを考えていた」
「今もね」
「知っている」
「俺に女送り込んできた件も?」
「知っている」
「止めてよ」
「お前が自分で返しただろう」
「そうだけど」
「リジェンのような女を完全に排除すれば、その実家ごと敵になる。だから残した。力を持つ家と王家を繋ぐことも、後宮の役目だった」
「それがまた面倒の元になる」
「そうだ」
否定はしなかった。
「第五王妃ユウランは、本来なら後宮へ来るべき女ではなかった」
そこで国王の声が少し柔らかくなる。
「身体が弱かった?」
「ああ。実家が望み、本人も家を守るために受け入れた。朕も、それなら宮の中で守ればよいと思った」
「守れなかった」
「ああ。朕は断るべきだった」
ライレイが父を見る。
「ユウランは弱い女ではなかった。身体が弱かっただけだ。痛くても苦しくても、誰にも言わず笑っていた」
「それも、あまり良くなかったね」
「そうだな。耐えることを強さだと思わせてしまったのかもしれん」
そして、最後の名を口にするまでには、少しだけ時間があった。
「フェイランは」
ライレイが顔を上げる。
国王の表情が変わった。王ではなく、一人の男の顔に近くなる。
「お前の母は、太陽のような女だった。最初から最後まで強かった」
「知ってる」
「朕の手を取って野原を走り出した女は、後にも先にもフェイランだけだ」
ライレイが小さく笑う。
「国の太陽たる国王が何言ってるの」
「その太陽を外へ引っ張り出した女だ。あれに高原を教えられた。馬の乗り方も、草原の夜の冷たさも、火を囲んで飲む酒の味も。王宮の外にも国があると、フェイランに教えられた」
ライレイの金色の瞳が僅かに揺れる。
「だから、母上だけ特別だった?」
国王は息子を見る。
「愛の量を比べるつもりはない。だが、違った」
それだけで十分だった。
「そして朕は、その違いが誰にも見えていないつもりでいた」
「……第一王妃には見えてた」
「ああ」
国王は静かに目を閉じる。
「全員を平等に愛せば争わないと思っていた。だが、人の心は帳簿のようには揃わん。誰に同じだけ時間を与えた、誰に同じだけ衣装を贈った、誰の息子にも同じ教育を施した。そんなことで測れるものではなかった」
同じように愛したつもりでも、愛された側の受け取り方は違う。愛したからこそ自分の子にも多くを望み、愛されたからこそ、それを失うことを恐れる。
「父上のやり方も失敗だった?」
「そうだ」
迷わなかった。
「母のやり方を否定したくて逆を選んだ。だが、制度そのものは残した。妃を何人も置き、その子らを競わせる形を変えなかった。その結果、お前の母を失い、ガオランも壊れ、セイランにも傷を残した」
ライレイは長く息を吐いた。
「じゃあ、父上」
「何だ」
「もう後宮やめない?」
国王が眉を上げ、ユエまで僅かに目を見開いた。
「随分大きな話を急にするな」
「今しかないでしょ」
「理由は」
「面倒だから」
「殿下」
ユエが低く呼ぶ。
「半分冗談」
「残り半分は」
「本気」
ライレイは父へ向き直った。
「母上も死んだ。セイランの母君も、本人が望んで入ったわけじゃない。第二の兄上は母君の立場に歪んだ意味を持たせたし、第四王妃は自分の家を残すために俺へ女を送り込もうとした。第一王妃は自分の息子を王にするために動き続けた。これ、制度そのものが争えって言ってるようなものでしょ」
「すぐに廃せるものではない」
「分かってる。だから、いきなり追い出したりもしない。王子の妻として関係が決まっている人はそのままにして、まだ誰とも正式に結ばれていない人は、希望があれば女官として雇う。王家の敷地内で住居と生活は保障する。兄上たちの子供も王族のままでいいし、継承権も消さない」
「自分の子の競争相手になるぞ」
「なるね。でも、俺の子だから王になるって決める方が、今までと同じじゃない?」
国王の目が少しだけ細くなる。
「王に向いている子がいれば、その子がなればいい。少なくとも、母親が何番目の王妃だったかで決めるよりはましだと思う。後宮を残したまま、次も同じことが起きる方が嫌だ」
「簡単にはいかんぞ」
国王は長く息を吐いた。その呼吸には、まだ病み上がりの弱さが残っている。
「だが、朕もこの身体だ。一人でこれまで通り政務を担うのは厳しい。いずれにせよ、お前の権限を増やさねばならん」
ライレイの表情が変わった。
「じゃあ、俺はハオジュン兄上に禁軍の指揮権を任せたい。セイランには宰相補佐を」
「もう人事まで決めているのか」
「向いてる人に向いてる仕事を任せるようになったんだよ。父上が今褒めたばっかりでしょ」
国王はしばらく息子の顔を見つめていたが、やがてふっと笑った。
「確かに変わったな」
「でしょ?」
「調子に乗るな」
「はい」
「ハオジュンに禁軍を任せるのは悪くない。兵はあれについて行く。セイランも、前へ出るより補佐でこそ力を発揮するだろう」
「じゃあ決まり?」
「勝手に決めるな。本人たちの意思も聞け」
「そこは聞くよ」
「本当に変わったな」
「二回目だよ、それ」
「何度言っても足りんくらい、昔は人の話を聞かなかった」
「ひどいなあ」
そう言いながら、ライレイも笑っていた。
「後宮のことも、すぐに形を変えることはできん。だが、朕の代で始めたものを、朕の代で少し整理しておくべきなのかもしれんな」
「本当に?」
「ああ。ただし急ぐな。反対する家も多いし、女たち自身の意思も聞かねばならん」
「そこはちゃんとやる」
「王太子」
「はい」
「返事は一度でよい」
「はい」
国王は呆れたように息を吐き、それからユエへ視線を移した。
「苦労するぞ」
「承知しております」
「即答か」
「婚約をお受けした時点で」
ライレイが嬉しそうに横を見る。
「ユエ、今のもう一回言って」
「申し上げません」
「父上、聞いた?」
「聞いた」
「いい婚約者でしょ」
「お前には勿体ないな」
「それは言わないでよ」
国王の寝室に、久しぶりに穏やかな笑い声が響いた。
*
王都を出てから、馬車は何度か休憩を挟みながら東へ進んだ。春の野は王都を離れるほど広くなり、柔らかな新緑をまとった丘陵の間に、水を張った畑や白い小花の群れが現れる。遠くには青く霞む山並みが続き、その切れ目を縫うように街道が伸びていた。
途中、小さな宿場で茶と果物を取り、馬も休ませた。アデルはそのたびに馬車から降りて、初めて見る植物や土地の匂いに足を止める。
「これも持ち帰りたいです」
「何を」
「香りを」
「その辺の草まで?」
「その辺の草、ではございません」
「名前知ってるのか」
「……まだ存じません」
「その辺の草だな」
「帰ったら調べます」
そんなやり取りを何度繰り返した頃だろう。午後も深くなり始めると、窓から入る風の質が少しずつ変わっていった。
「……何か、香ります」
アデルが顔を上げる。
「また草か?」
「違います」
目を閉じ、窓辺へ顔を寄せる。今までの土や木とは違う、湿っていて少し冷たい空気の中に、舌へ触れそうなほどはっきりとした塩気が混じっていた。
「これが……海でしょうか」
「もう近いらしい」
さらに進むと、道の先が次第に開け、木々の隙間に空とは違う青が見え始めた。それは地平の向こうまで続いている。
アデルはいつの間にか黙り込んでいた。
馬車が停まり、先に降りたリュシアンが手を差し出す。アデルがその手を取って地面へ降りた瞬間、強い風が吹き、銀色の髪が一気にさらわれた。
「わ……」
目の前に、海があった。
どこまで続いているのか分からないほど大きな水面が、空と接するところまで広がっている。陽の光を受けた波が無数の白い光を散らし、寄せては崩れ、また引いていく。そのたびに、今まで耳にしたことのない低く大きな音が浜辺へ響いた。
アデルはしばらくその場から動かなかった。
「……大きいです」
「感想それか」
「だって、大きいです」
「それはそうだな」
「書物では知っていました。でも、こんなにどこまでも続いているとは思いませんでした」
一歩砂の上へ踏み出すと、靴底が柔らかく沈む。波が寄せるたびに風が湿り、塩、濡れた砂、海藻の青い匂い、陽に温められた岩の気配が入り混じる。大量の水が絶えず動いているせいなのか、空気そのものまでどこか冷たく澄んでいた。
アデルは胸いっぱいに息を吸った。
「これも香りにして、瓶に閉じ込めたいです」
「出たな」
「何ですか、その言い方は」
「何を見ても瓶に入れたがるなと思って」
「調香師ですから」
「海まで?」
「海も、です」
真剣な顔で答え、もう一度風の匂いを確かめる。
「塩の香りだけではないのですね。もっと青くて、湿っていて、冷たいものがあります。それから砂と草と……少し生き物の匂いも」
「俺には全部まとめて海の匂いだ」
「それを分けるのが仕事です」
「新婚旅行中だぞ」
「今は仕事ではございません」
「じゃあ何だ」
アデルは海を見たまま笑った。
「覚えておきたいのです。初めてリュシアン様と海を見た日の匂いとして」
リュシアンは返事を忘れた。
この女は時々、本人だけが何でもないことのように、こちらの胸へ深く残る言葉を口にする。
「……そうか」
「はい」
二人はそのまま波打ち際を歩いた。寄せた水が靴のすぐ近くまで伸びてくるたび、アデルは少し後ろへ下がっては、また懲りずに近づいていく。
「濡れるぞ」
「分かっております」
「その割に近い」
「どこまで来るのか気になりまして」
「波次第だろ」
「では予測できませんね」
「だから濡れるって言ってる」
次の波は、それまでより少し遠くまで伸びた。
「きゃっ」
慌てて下がったアデルの腰を、リュシアンが素早く抱いて引き寄せる。水は二人の靴先を僅かに濡らしただけで、すぐに海へ戻っていった。
「ほら」
「……少しだけです」
「濡れたな」
「少しです」
「負けず嫌いか」
「違います」
そう言いながら笑っているので、リュシアンもつられて笑った。
午後の光は少しずつ傾き、青かった海面へ淡い橙色が混じり始めていた。空との境目も柔らかく霞み、遠くの波だけが白く光っている。
アデルは少し離れたところで、波に削られた白い貝殻を見つけたらしく、しゃがみ込んで拾い上げた。
「リュシアン様、こちら」
呼ばれて振り返る。
ちょうど、傾き始めた夕陽が彼女の背後にあった。
風にほどけた銀色の髪が、普段の月や雪を思わせる冷たい色ではなく、夕陽を受けて淡い赤金色へ染まっている。白い頬にも暖かな光が差し、アレキサンドライトの瞳には海の青と夕焼けの色が入り混じっていた。
リュシアンは、しばらく返事を忘れた。
「……リュシアン様?」
「ああ」
「どうかなさいました?」
「いや」
視線が外せなかった。
妻になった。毎朝隣で目を覚まし、抱きしめることにも、口づけることにも、もう以前ほどの躊躇はない。それでも時々、初めて見る人のように見惚れる瞬間がある。
「綺麗だなと思って」
アデルが少し照れたように目を伏せた。
「海が、ですか?」
「お前」
頬がさらに赤くなる。
「……海も綺麗です」
「そうだな」
リュシアンは彼女の隣へ立ち、ゆっくりと沈んでいく太陽を眺めた。
今日見た景色も、聞いた波の音も、肌へ触れた風も、いつかはすべて記憶になるのだろう。その時、ふと何年か先のことを考えた。
二人ではなくなった時のことを。
小さな手を引いて、この同じ海を見る日が来るのかもしれない。
「子供ができたら、アデルに似てほしいな」
考えるより先に、言葉になっていた。
隣が静かになる。
リュシアンも、自分が何を口にしたのか数秒遅れて理解した。
アデルは驚いたように瞬きをしている。
「……子供」
「ああ」
今さら誤魔化すようなことでもない。夫婦なのだから、いつかそういう未来が来る可能性は当然ある。それでも、具体的な姿を思い描いて口にしたのは初めてだった。
「銀髪で」
リュシアンはアデルの髪を一房すくう。夕陽を透かした銀糸が、指の間で赤金色に光った。
「お前みたいな目で」
「私の目は、少々変わった色ですけれど」
「だからいい」
「性格もですか?」
「そこは……半分くらい」
「なぜですか」
「全部お前だと、仕事ばかりしそうだから」
「リュシアン様に似ても、お仕事はなさるでしょう」
「俺は休む」
「最近ようやく、です」
「じゃあ二人に似たら働きすぎるな」
「困りましたね」
アデルが笑う。
その笑顔を見ながら、リュシアンは思った。
きっと、どちらに似てもいい。髪の色も、瞳の色も、性格も、どちらでも構わない。ただ、いつかこの景色を一緒に見ることができたなら、それでいい。
海から吹く風が、二人の間を抜けていった。
アデルはもう一度、静かに息を吸う。
塩と水、濡れた砂、夕陽に温められた春の海。そして、すぐ隣にいる夫の匂い。
まだ名前のない未来まで、この香りと一緒に覚えていたいと思った。




