第五十九話 ほどける香り
国王ジンレイが意識を取り戻したという知らせを受けて、最初に寝所へ通されたのはハオジュンとセイランだった。
窓の外では、日没を迎えたばかりの空がまだ赤紫色を残している。朝から開け放たれていた窓から夜の冷気が入り込み、室内に残っていた沈香の匂いは随分薄れていた。
国王は寝台の上で背を起こしていた。
顔色はまだ悪く、声にもいつもの張りはない。それでも二人の息子を見る目には、王としての力が戻っている。
「父上」
ハオジュンが寝台の前まで進んだ。
「無理に起きなくてもいい」
「寝たまま息子に説教される趣味はない」
「誰が説教するって」
「顔に書いてある」
ハオジュンは何か言い返しかけ、結局大きく息を吐いた。
「……生きててよかった」
その一言に、国王の目元が少しだけ緩んだ。
「心配をかけたな」
セイランも寝台の近くへ進み、深く頭を下げた。
「ご快復を心よりお喜び申し上げます。ただ、まだ安心できる状態ではないとレン家当主より伺っております。どうかご無理はなさらないでください」
「お前は昔から堅いな」
「父上が無理をなさるからです」
「第五にも叱られたか」
国王は小さく笑ったが、それだけでも体力を使うらしく、しばらく呼吸を整えた。
「それで」
再び目を開けた時には、王の顔に戻っていた。
「朕が寝ている間に、随分と騒がしくなったようだな」
ハオジュンとセイランが一度、目を合わせる。
「はい」
答えたのはセイランだった。
「父上が倒れられた直後、ライレイとレン・ユエ殿に暗殺未遂の嫌疑がかけられ、第二の兄上の宮へ軟禁されました」
国王の眉がゆっくりと寄る。
「ライレイが?」
「ユエ殿がレン家の者であること、ライレイが王太子であることを理由に」
「それだけでか」
「少なくとも、僕たちが聞いた理由はそれだけです」
国王は目を閉じた。
「……ガオランか」
声に驚きはなかった。
そのことに、今度はハオジュンが眉を上げた。
「父上、何か知ってるのか?」
「まだ聞く」
国王は先を促した。
セイランが、朝からの出来事を順に説明していく。
ガオランが寝所を封鎖したこと。ユエを国王へ近づけなかったこと。スピネリアの王太子夫妻が事件へ介入できるよう、ハオジュンとセイランが正式に助力を依頼したこと。
アデルが寝所に残る香りから、伽羅ではない沈香と甘い花の香りを嗅ぎ分けたこと。
レン家当主が国王を診察し、白花曼陀羅、すなわちダチュラによる症状との共通点を見つけたこと。
そして帳簿を照合する中で、焼却されたはずの白花曼陀羅が王宮の資源管理記録から消えていたこと。
「なるほど」
国王は長く息を吐いた。
「二人には随分働かせたな」
「はい」
「新婚旅行に来ているのではなかったか」
「そのはずです」
「気の毒に」
セイランが少しだけ笑う。
「アデル殿下は、ライレイたちが連れていかれた時には泣きそうになっておられました」
「そうか」
王は少し考えた。
「スピネリアの王太子夫妻には礼を言わねばならんな」
「それと」
ハオジュンが続ける。
「ジンカイを拘束した」
今度こそ、国王の目が鋭くなった。
「理由は」
「朝から部下に追わせてた。王宮を無届けで出て、西の旧倉庫へ行った。資源管理局の書記官と一緒に帳簿を燃やしてたところを押さえた」
「何が出た」
「処分したはずの白花曼陀羅と、沈香。燃やしかけた帳簿も回収した」
国王はしばらく何も言わなかった。
「……そうか」
短い言葉だった。
けれど、その声音には父としての疲労が混じっていた。
「第二王子ガオランをここへ呼べ。それから、スピネリアの王太子夫妻も」
「今からですか?」
セイランが確認する。
「ああ」
「お身体は」
「話せるうちに話す」
その目を見て、セイランはもう止めなかった。
「承知しました」
*
ガオランが寝所へ呼ばれた時、彼はまだ宰相の執務室で国政書類を読んでいた。
国王が意識を取り戻したと聞いた瞬間、その手から紙が滑り落ちたという。
アデルとリュシアンが寝所へ着いた時には、すでにガオランも立っていた。
先ほどまで王の仕事を任されていた人間とは思えないほど顔色が悪い。
国王はまず、アデルを見た。
「スピネリアの宮廷調香師殿」
「はい」
アデルが姿勢を正す。
「朕の部屋の香りはいかがかな」
随分変わった質問だった。
けれど、アデルには何を求められているのか分かった。
「一般的な平民にも流通している沈香でございますね」
ガオランの肩が僅かに動いた。
「少なくとも、伽羅と呼ばれる格の香りではございません。そして、沈香とは別に甘い花の香りもいたします」
「うむ」
国王は頷いた。
「この香はな、昨晩ガオランが持ってきたものだ」
室内の空気が止まった。
ガオランが顔を上げる。
「父上」
「国内の森から珍しい伽羅が採れた。せっかくだから今夜焚いてみてはどうか、と」
「それは」
「お前が自ら香炉へ入れてくれたな」
ガオランの唇が動く。
けれど言葉が出ない。
「朕も喜んだ。国内で伽羅まで採れるようになれば、シャンの新たな産業になるとな」
国王はそこでアデルを見る。
「しかし、伽羅ではなかったらしい」
「はい」
「ガオラン」
国王の声が低くなる。
「お前は香木に詳しくなかったな」
「……騙されたのです」
「誰に」
「献上した者に」
「名は」
ガオランが黙る。
「誰から受け取った」
「……」
「答えられぬか」
そこへハオジュンが一歩前へ出た。
「父上。ジンカイを拘束した件、詳しく報告していいか」
「ああ」
「西の旧倉庫で、資源管理局の書記官と証拠を燃やしてた。そこから白花曼陀羅と沈香も出た。帳簿に書かれてる廃棄品と量が合うか、今調べさせてる」
「そうか」
「兵は倉庫と書記官の家にも向かわせた。逃げられない」
国王は息子を見た。
「ハオジュン」
「何だ」
「お前はやはり兵を動かす力があるな」
突然褒められ、ハオジュンが怪訝な顔をする。
「今その話か?」
「今だからする」
国王の口元に薄く笑みが浮かぶ。
「命じれば兵が動く。それだけなら王子なら誰でもできる。だがお前の場合は、兵の方がお前について行きたがる。戦場で一緒に泥を被り、傷を負った者を忘れぬからだ」
「……」
「兵が動くに足る人柄も、お前の力だ」
ハオジュンは居心地が悪そうに頭を掻いた。
「そういうのは元気になってから言ってくれ」
「照れているのか」
「違う」
国王は少し笑い、次にセイランを見た。
「帳簿は?」
「こちらに」
セイランは持参した記録を開いた。
「森から資源管理局へ搬入された白花曼陀羅の量と、焼却記録には形式上の矛盾はありません。しかし、ジンカイのいた倉庫から焼却済みと記録された植物が発見されました。また、沈香についても品質不良として廃棄された量と、倉庫から押収した量を照合しています」
「レン家は」
「最近の白花曼陀羅の購入記録がございません。レン家当主より、中央倉庫、各工房、廃棄記録のすべてが提出されています」
「ならばユエが持ち出したとするには、別の経路を証明せねばならんな」
「はい」
国王は頷いた。
「セイラン」
「はい」
「お前は補佐の仕事がよくできる」
セイランが瞬きをした。
「自分が前へ出るより、必要な情報を揃え、誰をどこへ動かすべきかを見ることができる。王の傍には、お前のような者も必要だ」
「……ありがとうございます」
今度はハオジュンが横から笑った。
「第五、褒められてるぞ」
「兄上ほど分かりやすく照れませんので」
「お前な」
「静かにしろ」
国王に言われ、二人とも黙った。
そして国王の視線が、ガオランへ戻った。
「ガオラン」
返事はない。
「何が気に入らなかった?」
静かな問いだった。
怒鳴りもしない。責める声でもない。
だからこそ、ガオランの顔が歪んだ。
「……何も」
「ならば朕を殺そうとはせぬ」
「私は」
「何が気に入らなかった」
もう一度、同じ問い。
長い沈黙の末、ガオランが拳を握った。
「なぜ、あいつなのです」
声が震えていた。
「第八ですよ」
ハオジュンの眉が動く。
セイランは黙ったまま兄を見る。
「私はずっと、王宮の仕事をしてきた。帳簿を整え、資源を管理し、戦場に送る物資を計算し、戦が終われば今度は新領地の収支を整えた。誰も見ない仕事を、ずっと」
「見ていた」
国王が言う。
ガオランの声が止まる。
「朕は見ていた」
「ではなぜ!」
初めて声が大きくなった。
「なぜライレイなのです! 戦で勝ったからですか。敵を斬ったからですか。派手な功績があれば、地道に国を支えてきた者などどうでもよいのですか!」
「違う」
「何が違う!」
「ライレイを選んだのは、戦に勝ったからではない」
国王の声は弱っていたが、答えに迷いはなかった。
「あれは求められたものから逃げず、戦が終われば平和な時代に合わせて自分も変わろうとした。王に必要なのは、過去の功だけではない」
それ以上の理由を、国王はこの場では語らなかった。ライレイ本人へ伝えるべき言葉まで、兄たちの前で使い切るつもりはないようだった。
「では、私は」
ガオランが掠れた声を出す。
「私は、最初から候補ではなかったのですか」
「誰がそう言った」
ガオランが顔を上げる。
「お前の数字を見る力は、兄弟の中でも優れている。資源を任せたのも、できると知っていたからだ」
「なら」
「だからこそ残念だと言っている」
国王の声が初めて厳しくなった。
「帳簿を読む力を、帳簿を偽るために使った。国を支えるために預けた資源を、王を殺すために隠した。お前自身が、自分の力の価値を捨てたのだ」
ガオランの顔から、怒りが抜け落ちた。
残ったのは、幼いほどの悔しさだった。
「……母上なら」
その言葉に、国王の目が変わる。
「母上なら、分かってくださった」
「そう思うか」
「母上こそ第一王妃にふさわしかった。第一王妃より聡明で、国政にも通じていた。母上の子である私が、なぜ」
「そこか」
国王は目を閉じた。
長い沈黙のあと、低く言った。
「お前は、母の何を見ていた」
「何を……」
「確かに聡明な女だった。朕が疲れて戻れば、何も聞かず二胡を弾いてくれた。政の話をすれば、朕が見落としていることを何度も指摘された」
ガオランの目が揺れる。
「朕はあの女を愛していたよ」
「ならなぜ第一王妃に」
「王妃の序列だけが、女の価値ではない」
静かな声だった。
「まして、その子の価値でもない」
ガオランは何も言えなくなった。
「そしてお前の母なら、今回のことを最も嫌っただろう」
「……」
「だから止めようとしたのではないか?」
ガオランの顔が強張る。
ハオジュンが反応する。
「父上?」
「第二王妃も、今朝から意識を失っている」
部屋が凍りついた。
セイランが顔を上げる。
「同じ症状なのですか」
「レン家に診せた。朕ほど重くはないが、似ているそうだ」
国王はガオランを見た。
「お前の母は、何かに気づいたのだろう」
「違います」
「何が」
「母上には」
ガオランの声が震える。
「少し眠っていただいただけです」
言ってから、自分で気づいた。
誰も何も尋ねていない。
何を盛ったとも、眠らせたとも。
ガオランの顔から血の気が引いた。
「……なるほど」
国王が静かに言った。
ハオジュンの目が冷える。
「兄上」
「違う、私は」
「もういい」
国王は目を閉じた。
「ハオジュン」
「はい」
「ガオランを拘束しろ。ジンカイと共に、正式な取り調べへ回せ」
「承知した」
「セイラン」
「はい」
「ライレイとユエの軟禁を解け。今回の嫌疑は撤回する。レン家にも正式に謝罪するよう宰相へ伝えよ」
「承知しました」
兵士が入ってくる。
ガオランは抵抗しなかった。
ただ連れていかれる直前、一度だけ父を見た。
国王は息子を見返した。
そこに怒りよりも深い疲れがあることを、アデルにも感じ取れた。
扉が閉じる。
しばらく誰も話さなかった。
やがて国王がアデルを見る。
「宮廷調香師殿」
「はい」
「助かった」
アデルは深く頭を下げた。
「私は香りの違いを見つけただけでございます。国王陛下をお救いしたのはレン家の方々で、証拠を見つけられたのは皆様です」
「そういうところも、ライレイが気に入るわけだな」
「……はい?」
隣でリュシアンの眉が動いた。
「陛下」
「冗談だ」
「病み上がりにやめてください」
国王が初めて声を立てて笑った。
すぐ宮廷医に叱られた。
*
夜はすっかり深くなっていた。
軟禁部屋の扉が開いた時、ライレイは寝台に横になったまま片目だけを開けた。
「お、脱出しなくて済んだ」
「殿下」
ユエはすでに起きていた。
扉の向こうに立つアデルとリュシアンを見て、静かに立ち上がる。
「ご無事で」
「ユエ様!」
言い終わるより早く、銀色の影が飛び込んだ。
ユエが目を見開く。
アデルはそのまま彼女へ抱きついた。
「……アデル様」
「よかった……」
声が震えていた。
次の瞬間には涙が頬を伝っている。
「本当に、よかったです」
ユエは両手を宙に浮かせたまま数秒固まっていたが、やがて片方の手をアデルの背へ置いた。
「ご心配をおかけいたしました」
「心配しました」
「はい」
「とても」
「……はい」
ライレイは寝台から起き上がり、その光景を眺めた。
「俺もいたんだけどなあ」
「お前は元気そうだな」
リュシアンが返す。
「一日寝てたからね」
「本当に寝てたのか」
「やることなかったし」
「大物だな」
「王太子なので」
「容疑者だっただろ」
「そうだった」
二人が話している間にも、アデルはユエから離れない。
「とりあえず戻るか」
リュシアンが言った。
「ライレイ殿下の宮に戻りましょう」
アデルが涙を拭きながら言う。
「うん。俺もさすがにあの寝台は飽きた」
「一度しか寝ていらっしゃいません」
「十分だよ」
*
昼からまともに食事を取れていなかった四人は、ライレイの宮へ戻ると、遅い夕食を用意してもらった。
温かな粥と蒸した肉、野菜の煮物。疲れた身体へ負担をかけないものばかりだった。
けれど、食事が終わってもアデルはユエの隣から動かなかった。
話をするでもなく、ただ袖が触れるほど近くに座っている。
時折、本当にそこにいるのか確かめるようにユエを見る。
「ユエにアデルちゃん取られちゃったね」
ライレイが向かいから言った。
「本気で心配してたからな」
リュシアンは茶を飲みながら答える。
「立場的にも共感したんだろう。アデルも家柄だけで疑われることを嫌うから」
「なるほど」
二人で女性たちを見る。
ユエは困っているようで、追い払おうとはしていない。
アデルはその隣で、ようやく少し落ち着いた顔をしていた。
「俺たちは席を外すか」
リュシアンが立ち上がる。
「どこへ行く?」
「んー」
ライレイは腕を伸ばした。
「一日閉じ込められていたからなあ。修練場で身体動かしたい。相手になってよ」
「俺、戦場の経験ないんだけど」
「身体動かすだけだから。リュシーも剣術はやったでしょ」
「まあ、騎士団に入らされていた時期はあるけど」
「じゃあ行こ」
「軽いな」
「木剣だから死なないよ」
「基準がおかしい」
それでもリュシアンはついていった。
*
夜の修練場には、月明かりと周囲に置かれた松明の火が揺れていた。
二人は上着を脱ぎ、木剣を一本ずつ取った。
「軽くな」
リュシアンが念を押す。
「分かってるって」
ライレイが笑った。
開始の合図などなかった。
次の瞬間には、木と木が激しくぶつかる乾いた音が夜へ響いた。
リュシアンの剣は真っ直ぐだった。
足を崩さず、正面を保ち、相手の剣を受けて最短距離で返す。王宮騎士団で叩き込まれた、癖の少ない剣だった。
対するライレイは、まるで違う。
真正面にいない。
剣を受ける直前に身体を捻り、円を描くように外へ抜ける。低く沈んだと思えば次の瞬間には踏み込み、リュシアンの肩口を狙った木剣が空を切る前に、今度は反対側へ回り込んでいる。
「お前……っ」
「何?」
返事をする余裕まである。
リュシアンが横薙ぎに振る。
ライレイは受けずに身を屈め、その勢いのまま片手を地面について身体を回した。
「おい」
立ち上がった時には笑っている。
「何?」
「剣術なのか、それ」
「当たらなければ何でもいい」
「騎士団で言ったら怒られるぞ」
「戦場に騎士団の先生いないからね」
また木剣がぶつかる。
一度、二度、三度。
リュシアンが押し込むと、ライレイは力で受けない。刃筋をずらし、自分の身体ごと回転させて抜ける。
そのまま地面を蹴り、驚くほど高く跳んだ。
「……鬼人っていうより」
リュシアンが一歩引く。
「猿とかの方が近くない?」
「ねえ、それやめて」
着地したライレイの顔が本気で嫌そうに歪む。
「黒歴史なの」
「鬼人はいいのか」
「よくないから黒歴史なんだよ!」
言いながらも剣は止まらない。
リュシアンの真っ直ぐな一撃を横へ流し、足を払おうとする。
避けたリュシアンが今度は肩へ打ち込む。
ライレイは笑いながら半歩下がった。
「結構やるね」
「一応、王太子だからな」
「関係ある?」
「お前が言うな」
しばらくすると、リュシアンの呼吸が明らかに荒くなり始めた。
一方、ライレイは汗こそ流しているものの、まだ笑う余裕がある。
「……お前、体力どうなってるんだ」
「戦場で息切れしたら死ぬよ」
「それを新婚旅行中の友人に要求するな」
「リュシー、足止まってる」
「うるさい」
木剣が高い音を立てて重なる。
ライレイの金色の瞳から、その瞬間だけ笑みが消えた。
踏み込み。
回転。
視界から外れる。
気づけば木剣の切っ先が、リュシアンの喉元で止まっていた。
リュシアンは数秒黙った。
「……鬼人だな」
「やめてって言ってるでしょ」
「猿よりは格好いい」
「比較対象を消して」
ライレイが木剣を下ろす。
リュシアンも剣を放り、息を整えながら笑った。
「でも、分かった」
「何が?」
「傷が少ない理由」
ライレイが瞬きをする。
「相手の剣を受けないんだな」
「受けると痛いから」
「それだけかよ」
「それだけだよ」
あまりに普通に答えるので、リュシアンはまた笑った。
*
「はあ、いい汗かいた」
宮へ戻ったライレイは濡れた髪を掻き上げながら居間の扉を開けた。
「ユエ、湯浴みしよう。お?」
「お静かに」
ユエが人差し指を唇へ当てる。
リュシアンも後ろから覗き込んだ。
長椅子の端に座るユエの膝へ、銀髪が流れている。
「アデル、寝たのか?」
近づいて顔を覗き込む。
アデルはユエの膝を枕にして、静かな寝息を立てていた。
泣いた跡が目元に残っている。
「はい」
ユエが柔らかく答えた。
「随分心配してくださって。こんなに労られたのは、初めてでございますね」
赤い瞳が、眠るアデルへ向く。
その表情はいつもの冷静な薬師とも、王太子の婚約者とも違った。
まるで年下の妹を見るように、穏やかだった。
「落ち着くように、滋養の酒を一杯だけ飲んでいただきました」
「酒か」
「一杯にございます」
「アデルには十分だな」
リュシアンは苦笑し、眠る妻の身体へ腕を入れた。
「すまないな、ユエ嬢。このまま寝台に連れていくよ」
「ご随意に」
アデルは持ち上げられてもほとんど起きなかった。無意識にリュシアンの胸へ頬を寄せる。
それを見ていたライレイが、もう一度言った。
「ユエ、湯浴み」
「今まいります」
ユエはあっさり立ち上がった。
リュシアンは眠るアデルを抱いたまま、その背中を見送った。
(そこは素直に行くんだな)
口には出さなかった。
*
広い湯殿には、白い湯気が漂っていた。
夜の冷気で冷えた身体へ湯が染み込み、ライレイは浴槽の縁へ頭を預ける。
「はあ……生き返る」
「本日その言葉を使うと、少々不謹慎にございます」
隣でユエが髪をまとめ直す。
「父上本当に死にかけたもんね」
「はい」
「で」
ライレイが横を見る。
「アデルちゃんから事件のあらましは聞いた?」
「概ね」
「俺、何も知らずに一日寝てたんだけど」
「よくお休みでした」
「褒めてる?」
「いいえ」
「今日それ多いな」
ユエは淡々と、朝からの出来事を説明した。
国王の寝室に残った偽の伽羅。
白花曼陀羅。
森の帳簿。
レン家の記録。
西の倉庫で拘束されたジンカイ。
そして、ガオラン自身が国王へ香を持ち込み、焚いたこと。
ライレイは途中まで湯を指先で掬っていたが、次第に動きを止めていった。
「第二の兄上が」
「はい」
「父上に自分で焚いたんだ」
「国王陛下のご証言では」
「……馬鹿だなあ」
笑っているような声だった。
けれど金色の瞳は笑っていない。
「俺を潰したいなら、父上まで殺さなくても方法はいくらでもあったのに」
「王位が欲しかったのでしょう」
「そうだね」
ライレイは天井を見上げた。
「ジンカイも?」
「共犯の可能性が高いかと」
「母君は」
「第二王妃殿下も同様の症状で倒れておられます。国王陛下のお話では、ガオラン殿下ご自身が口を滑らせたとのことです」
ライレイの表情が消えた。
「……実の母まで?」
「止められることを恐れたのでしょう」
「そう」
しばらく湯の音だけが続いた。
やがてライレイが息を吐く。
「明日の朝一番で父上へ謁見だな」
「はい」
「怒られるかな」
「何についてでしょう」
「勝手に軟禁されて寝てたこと」
「それで怒られるのでしたら理不尽でございます」
「だよね」
ようやく、いつもの笑みが少し戻った。
「じゃあ今日はもう考えるのやめよ」
「それがよろしいかと」
「ユエ」
「はい」
「無事でよかった」
ユエがライレイを見る。
「殿下も」
「うん」
今度はそれだけで十分だった。
*
湯浴みを終え、自室へ戻ったライレイは、ようやく自分の寝台へ身体を投げ出した。
厚く柔らかな敷布が背中を受け止める。
「ああ」
大きく息を吐く。
「この寝台に来て、やっと戻ってきた感じするよ」
髪を乾かしていたユエが振り返る。
「軟禁部屋のものは、ほぼ板でしたね」
「だよね。あれ寝台って呼んでいいのかな」
「一応、寝具は敷かれておりました」
「薄かったよ」
「寝られていたではありませんか」
「寝たけど」
ライレイは身体を起こし、自分の隣をぽんぽんと叩いた。
「ここなら壊れないよ?」
ユエの手が止まった。
「寝台は、でしょうね」
「うん」
「……」
「何?」
「殿下が先ほどから非常に楽しそうなので」
「寝台の話しかしてないよ、俺」
「左様でございますか」
「その顔、信じてないでしょ」
「何のお話かは理解しております」
「分かってるんだ」
「分からないふりをした方がよろしかったですか?」
「いや、ユエはそのままでいい」
ライレイは笑いながら、もう一度隣を叩いた。
「じゃあ一緒に寝よう」
「先ほどの話から、なぜその結論になるのでしょう」
「軟禁部屋では寝台が狭かったから無理って言ったじゃん」
「申し上げました」
「これは広い」
「そうですね」
「丈夫」
「でしょうね」
「問題解決」
「しておりません」
「何が残ってる?」
「いろいろでございます」
「曖昧だなあ」
ユエは乾かした黒髪を背へ流し、寝台の方へ歩いてきた。
ライレイの顔が明るくなる。
「来る?」
「座るだけです」
「まずはね」
「まずは、とは」
「何でもない」
ユエは寝台の端へ腰を下ろした。
隣ではライレイが満足そうに寝転んでいる。
「殿下」
「ん?」
「今日は随分元気ですね」
「一日寝たから」
「それもございますが」
ユエは少しだけ目を細めた。
「国王陛下がご無事だったからでしょう」
ライレイの笑みが僅かに止まった。
「……そうだね」
「安心なさったのでしたら、それでよろしいかと」
「ユエってさ」
「はい」
「こういう時だけ急に優しいよね」
「普段も十分お優しくしているつもりですが」
「嘘だ」
「では寝台を分けますか」
「優しい。今すごく優しい」
即答すると、ユエが小さく息を吐いた。
ライレイはその横顔を見上げた。
朝、目の前で父の暗殺容疑をかけられた。
婚約者まで巻き込まれ、何も知らされないまま閉じ込められた。
笑って寝てはいたけれど、何も感じていなかったわけではない。
「……今日は、一人で寝たくないな」
今度の声には軽さがなかった。
ユエが視線を落とす。
ライレイは笑わずに彼女を見ていた。
数秒の沈黙のあと、ユエは外側の掛布を持ち上げた。
「眠るだけにございます」
ライレイの顔が一気に緩む。
「うん」
「そのお顔が信用を損ねております」
「嬉しいから仕方ない」
「端へ寄ってください」
「十分広いよ」
「殿下」
「はい」
素直に横へずれる。
ユエが隣へ身体を横たえると、寝台は軟禁部屋のものとは比べものにならないほど余裕があった。
ライレイは天井を見たまま笑う。
「ほら、壊れない」
「まだ何もしておりませんので」
「……ユエ」
「何でしょう」
「今の言い方、結構すごいよ」
「事実を申し上げただけです」
「そういうところ好き」
「お休みください」
「はいはい」
ライレイは満足そうに目を閉じた。
少しして、布の上を探るように伸びてきた手を、ユエは一度だけ見た。
それから何も言わず、その指へ自分の指を重ねる。
ライレイの口元が僅かに上がった。
今度こそ、何も言わなかった。
*
リュシアンがアデルを寝台へ下ろすと、銀髪が白い寝具の上へ広がった。
靴を脱がせ、掛布を整えようとしたところで、細い指が袖を掴む。
「……リュシアン様」
「起きたか」
瞼がゆっくり開く。
まだ酒と眠気が残っているのか、アレキサンドライトの瞳はぼんやりしていた。
「ユエ様は」
「ライレイと湯浴みに行った」
「……ご一緒に?」
「そこに反応するのか」
アデルは数秒考えた。
「婚約者ですものね」
「俺たちも夫婦だけどな」
「存じております」
「本当に?」
「失礼です」
そう言いながら、袖は離さない。
リュシアンは諦めて寝台の端へ腰を下ろした。
「今日は怖かったです」
アデルが小さく言った。
先ほどまでの酔った声音とは少し違う。
「目の前でお二人が連れていかれて、何もできなくて。国王陛下も目を覚まされなくて」
「ああ」
「リュシアン様まで倉庫へ行ってしまわれるし」
「それは必要だった」
「分かっております。でも怖いものは怖いです」
リュシアンは黙って、その手を握った。
「終わった」
「はい」
「二人とも無事だ。国王陛下も目を覚ました。俺もここにいる」
アデルは握られた手を見る。
それから少しだけ笑った。
「今日はずっとユエ様にくっついておりました」
「見てた」
「嫉妬なさいました?」
「した」
即答だった。
アデルが瞬きをする。
「なぜ驚く」
「もう少し否定されるかと」
「妻が一日ずっと他の人に抱きついてたら、多少はする」
「ユエ様は女性です」
「関係ない」
「そうなのですか」
「ああ」
アデルはしばらく考え、掛布の中から腕を伸ばした。
「では、今からはリュシアン様の番です」
「……何の?」
「くっつく番です」
リュシアンが黙った。
「ご不満ですか?」
「いや」
口元が緩む。
「随分、自信ついたな」
「夫に似たのでしょうか」
「俺のせいか」
「おそらく」
リュシアンが身体を傾けると、アデルは素直に腕を首へ回した。
柔らかな銀髪から、湯浴み前の自分とは違う、ほのかな酒とユエの薬草の匂いがする。
「……今日は色んな匂いがします」
「お前からな」
「ユエ様のお酒と、お食事と、それから煙の匂いも少し」
リュシアンはそのままアデルの腰を引き寄せた。
アデルが拒むどころか、さらに身体を寄せる。
それで十分だった。
「今日はもう、俺の匂いで上書きしとけ」
アデルが目を丸くした。
「そのようなことができるのでしょうか」
「そこを真面目に考えるな」
「調香師ですので」
「今は妻だろ」
「そうでした」
額へ口づける。
アデルは安心したように目を閉じた。
しばらくして、今度は彼の首元へ顔を寄せる。
「何してる」
「確認です」
「何の」
すん、と小さく息を吸う。
「ちゃんとリュシアン様の匂いです」
「一日毒の香り嗅いだ後にする確認か、それ」
「安心いたします」
「なら好きなだけ嗅げ」
「よいのですか?」
「夫だからな」
以前と同じ言葉なのに、今夜は少し違って聞こえた。
アデルが笑う。
「では遠慮なく」
「本当に嗅ぐんだな」
「私にも嗅ぐ権利がございますので」
「それまだ使うのか」
肩を揺らして笑うリュシアンへ、アデルも笑った。
朝から張りつめていたものが、ようやくほどけていく。
偽物の伽羅も、毒の花も、焦げた帳簿の匂いも、今はもうここにはない。
あるのは、夜の冷たい空気と、清潔な寝具、それから互いの肌に残るいつもの匂いだけだった。
「リュシアン様」
「ん?」
「新婚旅行、まだ続きますよね」
「帰りたいのか?」
「いいえ」
アデルは首を振った。
「明日は、普通の日がよいです」
「俺もそう思う」
「事件はなしで」
「ライレイに言え」
「明日の朝、念を押します」
「そうしろ」
リュシアンは笑いながら、今度は唇へ軽く口づけた。
アデルは逃げず、その胸元へさらに身体を寄せる。
長かった一日は終わった。
明日の朝になれば、まだ話さなければならないことも、片づけなければならない政治も残っている。
それでも今夜だけは、誰も疑われず、誰も追われず、好きな人の隣で眠れる。
アデルには、それだけで十分だった。




