第五十八話 消せない香り
軟禁部屋に入れられてから、どれほど時間が経ったのだろう。
窓には鉄格子が嵌められているが、その向こうの空はよく見えた。朝には白かった光が、いつの間にか少し傾き始めている。外ではきっと王宮中の人間が走り回っているのだろうが、厚い扉を一枚隔てたこの部屋だけは、妙なほど静かだった。
ライレイは簡素な長椅子へ身体を投げ出し、天井を見上げていた。
「明日の朝までに音沙汰がなかったら、さすがにここ脱出するかあ」
向かいで茶を飲んでいたユエが、赤い瞳だけを上げる。
「アデル様方にご不便をおかけしますからね」
「そうだね。なんか嫌な予感もするし」
軽い調子で言いながら、ライレイは目を閉じた。
朝から何も知らせがない。
父の容体も、リュシアンたちがどう動いているのかも、第二の兄が何をしているのかも分からない。
本当にただ疑われて閉じ込められただけなら、それはそれで構わなかった。事情を聞かれ、証拠がないと分かれば出られる。
けれど、あまりにも手際がよすぎる。
父が倒れたその朝には兵が揃い、自分とユエが犯人だと決めつけられ、父へ近づくことすら許されなかった。
何かが動いている。それだけは確かだった。
「でもまあ、とりあえず寝ておくか。こんなにすることない時間、久々だ」
ライレイは立ち上がり、二つ並んだ寝台を見た。
王族を軟禁するために最低限用意したものなのだろう。寝具は清潔ではあるが、普段使っているものとは比べるべくもない。細い寝台が壁際へ一つずつ置かれているだけだった。
「では殿下は、あちらの寝台をどうぞ」
ユエが当然のように遠い方を示す。
「一緒じゃないの」
「粗末な寝台に二人は無理です」
「俺の上とか」
「ございません」
「即答」
「何を迷う必要がございますか」
「婚約者なのに」
「婚約者だからこそ、こんなところで寝台を壊したという記録を残したくございません」
「壊さないよ」
「殿下はご自分を過信しておられます」
「どういう意味?」
「そのままの意味にございます」
ユエは茶杯を置き、片方の寝台へ向かった。
「では、お休みなさいませ」
「本当に寝るんだ」
「殿下がお休みになると仰ったので」
「一緒に寝ないなら起きてようかな」
「ご自由に」
「冷たいなあ」
言いながらも、ライレイは少し笑った。
こんな状況でも、ユエは変わらない。
怯えもしないし、過剰に励ましもしない。必要なら一緒に閉じ込められ、寝る時間になれば寝る。それだけで、随分と気が楽だった。
「ユエ」
「はい」
「父上、大丈夫かな」
今度の声だけは、少し低かった。
ユエはすぐには答えなかった。
「父が呼ばれている可能性は高いと思います」
「そう?」
「アデル様がいらっしゃいますので」
ライレイが目を開ける。
「アデルちゃん?」
「何かの異変を香りで見つけられたなら、ご自身で毒を判断しようとはなさらないでしょう。必ず専門家を求めます」
「なるほどね」
「そしてリュシアン殿下は、それを通す方法を考えられる方です」
「……うん」
ライレイは寝台へ横になった。
「じゃあ、本当に寝とくか」
「はい」
「起きたら全部終わってたりして」
「それが一番楽でございますね」
「それ、王太子としてどうなの?」
「今は容疑者ですので」
「そうだった」
ライレイは笑い、腕を枕にした。
それから少しして、部屋は本当に静かになった。
*
一方、王宮の中心部では、宰相が別の手を打っていた。
「第二王子殿下」
執務室へ呼ばれたガオランは、露骨に警戒した顔をしていた。
「まだ何かあるのか」
「お願いしたいことがございます」
「私に?」
「はい」
宰相の机の上には、王が倒れたことで決裁を待つ文書が積み上がっていた。国王の印が必要なもの、王太子の確認を経なければ進まないもの、軍や地方官から送られてきた急ぎの報告。
国が止まるわけではない。
王が眠っていても、朝は来る。税は動き、商人は門を通り、兵には食事が必要になる。
「第一王子殿下はご病床。王太子殿下には現在嫌疑がかけられております」
宰相は慎重に言葉を選んだ。
「この状況であれば、次なる王の資質をお持ちなのは第二王子殿下でございます」
ガオランの顔が動いた。
ほんの少しだけ。
それでも、隠しきれなかった。
「……何が言いたい」
「国のため、ご助力いただきたいのです」
宰相は文書の束を示した。
「陛下がお目覚めになるまでの間、滞っている案件について王族としてご判断をいただけませんでしょうか」
「私が?」
「はい」
ガオランの視線が書類へ落ちた。
王太子ではない。正式な代行でもない。それでも、国王の仕事が自分へ回ってくる。
悪くない。
そんな感情が一瞬だけ顔を掠めた。
「……仕方がないな」
「感謝いたします」
「国を止めるわけにはいかない」
「仰るとおりでございます」
「急ぎのものから持ってこい」
「すでにこちらへ」
宰相は深々と頭を下げた。
その顔を上げる頃には、何の感情も残っていなかった。
ガオランが椅子へ腰を下ろし、最初の文書を開く。
宰相はその姿を見届けてから、控えていた官吏へ視線を送った。
「第二王子殿下にご不便がないよう、必要な資料はすべてこちらへお運びしなさい」
「承知しました」
つまり、ここから出る理由を与えない。
王の代わりを任されていると思わせたまま、できる限り長く、この部屋へ留めておく。
ガオランはまだ、それに気づいていなかった。
*
その間、別の小部屋では大量の帳簿が机いっぱいに広げられていた。
アデルは見慣れないシャンの数字や略号と格闘しながら、ハオジュンの持つ現場記録と王宮側の帳簿を一つずつ照らし合わせていた。
リュシアンはその隣で、さらに別の年の記録まで遡っている。
セイランは王宮の記録体系に慣れているため、必要な項目を次々と抜き出していた。
「これです」
セイランが一枚の紙を指で押さえた。
「北東の森、第三区画。白花曼陀羅の採取」
ハオジュンが自分の帳面を引き寄せる。
「ある。危険植物が増えすぎたから刈ったんだ。焼却する前に王宮へ量を報告してる」
「量は?」
「乾燥前でこれくらい」
数字を示す。
セイランは王宮の帳簿を見る。
「こちらでは、焼却済みとなっています」
「いつ?」
「現場から搬送された三日後」
アデルは二つの数字を見比べた。
「すべて、ですか?」
「帳簿上は」
リュシアンが別の頁を引き寄せる。
「焼却を確認した人間は?」
「資源管理局の書記官ですね」
「責任者は?」
一瞬、誰も答えなかった。
答えはすでに分かっている。
「第二の兄上です」
セイランが言った。
「森から上がった資源や薬材は、最終的に第二の兄上が管轄する部署へ入ります」
「だったら兄上が持ち出せたってことか?」
ハオジュンの声が低くなる。
「可能性だけなら」
セイランは慎重だった。
「それだけでは証拠になりません。帳簿どおり本当に焼却された可能性もあります」
「でも」
アデルは現場の帳面を見つめた。
「レン家では、必要な薬材を王室から購入しているのでしたよね」
「はい」
「そして最近、ダチュラは購入していない」
「レン家当主の帳簿が届けば確認できます」
リュシアンが顔を上げた。
「つまり今の時点で、ユエ嬢が手に入れた経路は見つかっていない。一方で王宮側には、一度回収したダチュラが存在した記録がある」
「しかも管理していたのは第二の兄上」
ハオジュンの顔が険しくなる。
「まだ足りないな」
リュシアンは淡々と言った。
「これだけなら管理責任を問えるだけだ。本人が使った証拠じゃない」
「そうですね」
セイランも頷く。
「ジンカイが何をしているか、分かればいいのですが」
その時、扉が叩かれた。
「第三王子殿下」
入ってきたのは、ハオジュンの部下だった。
朝、ジンカイを追わせた男とは別の者である。
「どうした」
「ジンカイ殿下の件でございます」
部屋の空気が変わった。
「話せ」
「西門から出られました。そのまま王都の外へ向かわれたため、距離を置いて追跡いたしました」
「どこへ?」
「西の旧倉庫街へ」
「旧倉庫?」
セイランが眉を寄せる。
「今はほとんど使われていないはずですが」
「はい。ですが一棟だけ、中へ人が出入りしておりました」
「誰だ」
「資源管理局の書記官です」
リュシアンが帳簿を見る。
「今名前が出たやつか?」
「確認を」
セイランが該当箇所を指す。
部下は頷いた。
「この者です」
ハオジュンが椅子から立ち上がった。
「捕らえたのか?」
「まだです。殿下から監視のみと命じられておりましたので」
「よくやった」
ハオジュンはすぐに剣帯へ手をかける。
「今から行く」
「待ってください」
セイランが止めた。
「逃げられるぞ」
「だからこそ、兵を連れて行ってください。兄上だけで突っ込んだら、後で何を言われるか分かりません」
「面倒だな」
「政治です」
「ああもう、それ嫌いだ」
リュシアンが立ち上がった。
「俺も行く」
「リュシアン様」
アデルが顔を上げる。
「アデルはここにいてくれ」
その言い方に迷いはなかった。
「香りのことはお前が一番分かる。もし何か出てきたら、持ち帰らせる」
アデルは一瞬だけ唇を結び、それから頷いた。
「分かりました。お気をつけて」
「ああ」
「ハオジュン殿下も」
「任せろ」
「兄上は本当にお気をつけください」
「第五まで言うのかよ」
*
西門の外にある旧倉庫街は、かつて戦時中に軍需物資を保管していた場所だった。
新しい倉庫が東側へ整備されてからは使われることも減り、今では古い建物が点々と残るだけになっている。
ハオジュンの兵が囲んだのは、その一番奥にある小さな倉庫だった。
扉の向こうから煙が漏れている。
「火だ」
リュシアンが言う。
ハオジュンが迷わず扉を蹴り開けた。
中では男が二人、炉の前にいた。
一人は第六王子ジンカイ。
もう一人は資源管理局の書記官。
床には書類の束が散らばり、その一部はすでに火へ投げ込まれている。
「何してる」
ハオジュンの声が倉庫へ響いた。
ジンカイが振り返った。
「……第三の兄上」
「散歩にしちゃ煙いな」
「これは」
「説明は後で聞く」
ハオジュンは兵へ目配せした。
「火を消せ。紙も全部拾え」
「待て!」
ジンカイが一歩前へ出る。
その動きだけで兵が剣へ手をかけた。
「何だよ」
「王族の私を拘束する気か?」
「無届けで王宮を出て、使われてない倉庫で帳簿燃やしてる王子に、まず事情を聞くくらいはするだろ」
「帳簿ではない!」
「じゃあ何だ?」
答えがない。
リュシアンは床に落ちていた半分焦げた紙を拾った。
シャンの文字はまだ十分には読めない。
「セイランに見せれば分かるな」
「触るな!」
ジンカイの声が鋭くなる。
それだけで十分だった。
リュシアンが目を細める。
「これは大事なものらしい」
兵の一人が、倉庫の奥から声を上げた。
「第三王子殿下、こちらを」
木箱がいくつか積まれている。
蓋を開けば、中には乾燥した植物と木片が分けて収められていた。
ハオジュンが眉を寄せる。
「俺には分からん」
「持ち帰ろう」
リュシアンは中身へ顔を近づけなかった。
「アデルに確認させる」
別の兵が、小さな布袋を見つけた。
中には白い、乾燥した花弁が残っている。
「全部押収しろ」
ハオジュンが命じる。
「ジンカイと書記官も王宮へ連れ戻す」
「兄上!」
「嫌なら説明しろ。何でここにいる」
ジンカイは黙った。
その沈黙が、何より雄弁だった。
*
木箱が王宮へ戻された頃には、日が西へ傾いていた。
アデルは蓋が開かれた瞬間に、息を止めた。
「……同じです」
「何が?」
セイランが尋ねる。
「国王陛下のお部屋に残っていた香りと」
木片の方からは沈香。
布袋からは、青臭さを残す乾いた植物と、甘い花。
「この花です」
アデルは触れずに指し示した。
「断定はレン家の方へお願いします。でも、香りは同じです」
ほどなくしてレン家当主も確認へ加わった。
「白花曼陀羅で間違いございません」
短い断定だった。
部屋が静まる。
「こちらの木片は?」
セイランが尋ねる。
「沈香ですね」
アデルが答えた。
「でも、伽羅ではありません」
「国王陛下の寝所に残っていたものと?」
「おそらく同じ種類です」
リュシアンは半分焦げた帳簿を卓上へ置いた。
セイランがそれを読む。
しばらくして、表情が変わった。
「……焼却記録です」
「何の?」
「白花曼陀羅」
ハオジュンが息を吐く。
「焼いたことにして、残してたってことか」
「それだけではありません」
セイランはさらに頁をめくる。
「沈香もあります。北東の森から資源管理局へ入れた量と、王宮へ正式に納めた量が合いません」
「余った分は?」
「記録上、品質不良として廃棄」
セイランは顔を上げた。
「でも、ここにある」
アデルは木箱を見た。
伽羅と偽られた沈香。
処分されたはずの白花曼陀羅。
同じ場所から消えた二つの素材が、一つの倉庫に残されていた。
「これでライレイとユエ嬢の嫌疑は?」
リュシアンが聞く。
「かなり崩せます」
セイランが答えた。
「少なくとも、毒物を入手できたのがレン家だけではないことは明らかです。むしろ王宮側に、記録から消された白花曼陀羅が存在していた」
「ジンカイは現場にいた」
ハオジュンが続ける。
「第二の兄上の部署の書記官と一緒にな」
「まだ第二王子本人への直接証拠はありません」
セイランは慎重に言った。
「ですが」
「十分近づいた」
リュシアンが言う。
「本人が動けば、もっと出る」
「宰相がうまく留めてくださっていればいいのですが」
その時だった。
廊下を走る足音が聞こえた。
今度は誰も口を開かない。
扉が開く。
国王付きの侍従だった。
息を切らしながら、それでも礼を忘れず頭を下げる。
「第三王子殿下、第五王子殿下」
「父上か?」
ハオジュンが立ち上がる。
「はい」
侍従の顔には、朝から初めて見る明るさがあった。
「レン家当主による処置の後、陛下の意識が戻られました」
アデルが息を呑む。
「国王陛下が?」
「はい。まだお身体はお弱りですが、言葉もお話しになれます」
ハオジュンが大きく息を吐いた。
セイランは目を閉じ、ほんの一瞬だけ俯く。
リュシアンは静かにアデルを見た。
アデルの新緑の瞳にも、ようやく安堵が戻っていた。
けれど、事件はまだ終わっていない。
眠っていた国王が、目を覚ました。
昨夜、自分の寝所で何が起きたのか。誰が香を持ち込み、誰の言葉でそれを焚いたのか。その答えを知る人間が、ようやく話せるようになったのだ。
時刻はすでに夕方になり、窓の向こうでは眩しいほど赤く染まった太陽が、長かった一日を閉じるようにゆっくりと地平の向こうへ姿を隠そうとしていた。




