第五十七話 偽りの香り
セイランはすぐには答えなかった。
卓上へ視線を落とし、指先を組む。穏やかな顔立ちに、昨日までとは違う迷いが浮かんだ。
他国の王太子夫妻へ、自国の王を狙った事件の調査を依頼する。それが単なる友人への頼み事では済まないことくらい、彼にも分かっているのだろう。
けれど、その逡巡は長くなかった。
セイランはさっと顔を上げた。
「分かりました。ハオジュン兄上と一緒なら通るかもしれません。第二の兄上は話を聞かないと思うので、宰相に交渉してみます」
「俺は何をすればいい」
ハオジュンがすぐに尋ねた。
先ほどまで椅子へ深く腰かけていた大柄な身体が、わずかに前へ傾く。日に焼けた顔には、弟のような思慮深さより先に行動へ出る人間の鋭さがあった。
「ハオジュン兄上は、父上を早く解毒しろと怒ってください」
「……それだけでいいのか?」
「効果的です」
セイランは真顔で答えた。
「兄上が本気で怒っている時に、理屈で止められる方はあまりおりませんので」
「褒められてる気がしねえな」
「褒めてはいません」
「第五、お前やっぱり結構言うな」
二人のやり取りに、張りつめていた空気がほんの少しだけ緩む。
しかしセイランはすぐに表情を戻した。
「それと、念のためお願いがあります。部下の方に、ジンカイを見ていていただけませんか」
「ジンカイを?」
ハオジュンの眉が寄った。
「あいつか。第二の兄上に味方するかもしれないってことか?」
「なくはないでしょう? 第二の兄上とジンカイは実の兄弟です。もちろん、それだけで疑うつもりはありません。ただ、今朝から第二の兄上があまりにも早く動いている。もし一人でなければ、こちらが動く間に別の誰かが何かをする可能性もあります」
「……なるほどな。分かった。森の連中を何人か使う。王宮の兵より、俺の部下の方が気づかれにくい」
「お願いします」
リュシアンはそのやり取りを黙って聞いていた。
そして最後に、二人へ向けて言った。
「正式に頼むなら、言葉にしてくれ。あとで誰かに、俺たちが勝手に介入したと言わせないためだ」
「……そうですね」
セイランは立ち上がった。その隣でハオジュンも立つ。
二人はシャンの王子として、スピネリアの王太子夫妻へ向き直った。
「スピネリア王太子リュシアン殿下、王太子妃アデル殿下。シャン第五王子セイランとしてお願い申し上げます。父、国王ジンレイへの暗殺未遂について真相を調べ、王太子ライレイとレン・ユエにかけられた嫌疑が正当なものか、お力をお貸しください」
「俺も同意する」
ハオジュンが続ける。
「第三王子ハオジュンとして頼む。父上を助けたい。ついでに、弟がやってねえことまで押しつけられてるなら、それもひっくり返してくれ」
最後の言い方だけは、やはり彼らしかった。
リュシアンは頷いた。
「依頼、確かに受けた」
その隣で、アデルも深く息を吸う。胸の中にあった焦りは消えていない。それでももう、ただ見ているだけではなかった。
「できることをいたします」
*
宰相の執務室へ向かう頃には、朝の光はすでに王宮の屋根を白く照らしていた。
廊下を行き交う人間は増えている。兵士、侍従、宮廷医、文官。誰もが声を抑えているのに、王宮全体がざわめいているように感じられた。
宰相は王宮の東棟にある執務室にいた。
六十を越えているだろうか。白髪の混じった髪をきっちりと後ろへ撫でつけ、痩せた身体に濃灰色の官服を纏っている。机の上には朝から届いたらしい文書が何段にも積まれ、普段なら冷静なのだろう顔にも今日は疲労が色濃く浮かんでいた。
「第三王子殿下、第五王子殿下。今は――」
「父上が死にそうなのに、今は何だ?」
ハオジュンが挨拶より先に言った。
宰相の肩がわずかに揺れる。
「……陛下はまだお亡くなりになっておりません」
「だから言ってるんだよ。生きてるうちに助けろって」
「宮廷医が手を尽くしております」
「毒が分からないから何もできねえって聞いたぞ」
「それは」
「だったら、分かるやつを呼べばいいだろ。レン家は何代も毒を扱ってきた。今さら家柄が気に入らねえだの、容疑者だの言ってる場合か? 犯人探しは父上が目を覚ましてからでもできるだろうが」
「兄上」
セイランが横から静かに呼ぶ。
「何だ」
「もう少し穏やかに」
「お前が怒れって言ったんだろ」
「ここまでとは申し上げておりません」
宰相が二人を交互に見た。
「……第五王子殿下。これはどういうお話ですか」
そこでようやくセイランが一歩前へ出る。
「スピネリアの王太子殿下ご夫妻へ、今回の件について助力をお願いしました」
宰相の顔色が変わった。
「他国の王族へ?」
「ええ」
「そのようなことを、第二王子殿下の許可なく――」
「第二の兄上の許可がなければ、父上を助けるために何もしてはいけないのですか?」
セイランの声は穏やかだった。
それだけに、宰相は言葉に詰まった。
「もちろん、内政へ自由に介入していただくつもりはありません。陛下へのお見舞いという形で寝所へお通しし、王宮内の安全について確認していただく。それだけです」
「しかし」
「宰相」
ハオジュンが机へ片手を置いた。
「父上に何かあったら、誰が責任取るんだ? 第二の兄上か? お前か? 俺たちか?」
部屋が静まり返る。
「俺はそんな責任、取りたくねえぞ。助けられる手があるのに、王位がどうとか容疑がどうとか言って何もしなかったなんて」
宰相は額へ手を当てた。
迷っていることは明らかだった。
国王の寝所はすでにガオランの指示で封鎖されている。その命令を覆せば、第二王子と対立することになる。しかし国王の容体が悪化すれば、今度は何もしなかった責任を問われる。しかも王宮には友好国の王太子夫妻まで滞在している。
「……お見舞いとしてであれば」
やがて宰相が言った。
「私が同行することを条件に、お通しします」
セイランがわずかに息を吐く。
「では王太子ご夫妻をお迎えにあがります」
「お待ちください。もうお話を?」
「正式に助力を依頼しております」
宰相はますます難しい顔をしたが、今さら撤回はしなかった。
「……分かりました。ただし、室内の物品に勝手に触れられては困ります」
「その旨もお伝えします」
セイランは一礼し、執務室を出た。
ハオジュンは残り、宰相の前で腕を組む。
「俺も行く」
「第三王子殿下まで?」
「父上の見舞いだ。何か問題あるか?」
「……ございません」
「なら決まりだな」
宰相がまた額を押さえた。
*
ほどなくして、セイランに伴われたアデルとリュシアンが宰相の執務室へ姿を見せた。
アデルは淡い青灰色のドレスの裾を整えて一礼し、リュシアンも隣で正式な挨拶を交わす。
「急な申し出を受け入れていただき、感謝する」
「本来ならば、客人である殿下方をこのような事態へ巻き込むべきではないのですが」
宰相は疲れた表情で答えた。
「こちらも望んで巻き込まれたわけではない」
リュシアンの返事は淡々としていた。
「だが、友人二人が拘束され、滞在先で国王暗殺未遂が起きた。もう無関係とも言えないだろう」
「……ごもっともです」
「それに、正式に依頼を受けた」
リュシアンがセイランへ視線を向ける。
宰相もそれを追い、短く息を吐いた。
「承知しております。陛下へのお見舞いという名目で寝所へお通しします。私も同行いたします。ただし室内のものには、許可なく触れないでいただきたい」
「承知した」
「もちろんでございます」
アデルも頷いた。
「では参りましょう」
四人に宰相を加え、一行は国王の寝所へ向かった。
*
国王ジンレイの寝所へ近づくほど、王宮の空気は重くなっていった。
扉の前には複数の兵士が立ち、宮廷医と侍従だけが限られた出入りを許されている。窓は朝から開けられたらしく、廊下まで冷たい春の空気が流れ込んでいた。
宰相が許可を告げると、扉が開く。
アデルは一歩、室内へ入った。
寝台の中央に、国王ジンレイが横たわっている。
昨日まで宴や王宮で遠くから見ていた威厳ある男とは思えないほど、顔色は悪かった。閉じられた瞼は動かず、呼吸だけがかろうじて胸元を上下させている。
枕元には宮廷医が二人いる。
薬湯の苦い匂い。人の汗。冷たい水。
それから。
アデルの足が止まった。
「……これは」
無意識に息を吸う。
室内には、まだ香木を焚いたあとの残り香があった。
「沈香ですね」
宰相が振り返る。
「香りがお分かりになるのですか」
「はい。でも……」
アデルは眉を寄せた。
何かがおかしい。
甘く深い木の香りには違いない。けれど昨日、王宮の収蔵室で聞いた香りとは違う。
あの伽羅は、ほんの少量でも複雑な樹脂香が何層にも重なり、甘さの奥から辛さや苦さが立ち上がった。
この部屋の香りは、もっと平たい。
「陛下は伽羅のみを焚かれます」
宰相が言った。
「他の沈香はほとんどお使いになりません」
アデルが顔を上げる。
「……では、やはりおかしいです」
「何がです?」
「これは伽羅ではありません」
室内にいた全員の視線が集まった。
リュシアンも空気を確かめるように静かに息を吸う。
「昨日の香りと違うな」
「はい。沈香の香りはいたします。でも、昨日聞かせていただいた伽羅とは明らかに違います。それに……」
もう一度、慎重に香りを拾う。
燃え残った木の匂い。灰。薬湯。
その奥に、ほんの僅かに別のものがある。
「甘い……花のような香りが混じっています」
「花?」
宰相の表情が曇った。
「国王陛下は、花の香を寝所ではお召しになりません」
アデルは窓際に置かれた青銅の香炉を見た。火はすでに消えているが、灰の中には黒く焦げた木片が残っている。
「香炉へ近づいてもよろしいでしょうか」
宰相が少し迷ってから頷く。
「触れないように」
「もちろんです」
アデルは香炉の前へしゃがみ込み、鼻を近づけすぎないよう残った香気を確かめた。
やはり木だけではない。
どこかで嗅いだことがある。
甘い花の匂いと、その陰に青臭いものがある。
記憶を辿る。
ユエの工房? いや、違う。
並べられていた薬材に、こんな花はなかった。
「この香木は、どこから来たものですか?」
宰相が侍従を見る。
国王付きの老侍従が答えた。
「昨日の夕刻、新たに献上された香木でございます。夜にお使いになるよう寝所へ運ばれましたが、わたくしは陛下へ渡る前の受け渡しには立ち会っておりません」
「産地の記録は?」
「添付された書付では、第三王子殿下が管理されている北東の森と。ただ、採取品の記録そのものは王宮へ上がっております」
アデルとリュシアンの視線が合った。
昨日、セイランから聞いたばかりだった。
森ではハオジュンが採集と警備を行い、王宮では第二王子が帳簿を管理している。
「その採取記録を見せていただけますか?」
宰相はすぐには答えなかった。
アデルは続ける。
「香木だけを調べたいのではありません。同じ森で、他に何が採れているのかを確認したいのです」
「理由は?」
「まだ分かりません。ただ、この香りには別の植物が混じっているように感じます。もし森の中に同じ香りを持つ植物があるなら、候補を絞れるかもしれません」
宰相は一度、国王を見た。
迷いは短かった。
「分かりました。取り寄せましょう」
「王宮の帳簿だけじゃなく、第三王子殿下の手元にある記録も」
リュシアンが付け加える。
宰相が彼を見る。
「なぜです?」
「現場の記録と王宮の記録を照合した方がいい」
「……承知しました」
*
記録が届くまで、それほど時間はかからなかった。
ハオジュンの部下が持ってきた採取記録は、王宮の正式な帳簿よりずっと粗雑だった。厚い紙へ日付と場所、採取した植物、量、担当者が簡潔に書かれている。土や雨の跡まで残り、実際に森で使われていたものだと一目で分かった。
アデルは薬草について詳しいわけではない。だから香木と芳香植物の項目を中心に見ていく。
沈香となり得る木。樹脂。薬草。花。
そこへ、見覚えのある名前があった。
「……ダチュラ」
指が止まる。
宰相が覗き込む。
「ご存じなのですか?」
「名前だけは。ユエ様の工房で聞きました。以前は薬材として扱われていたそうですが、今は危険性が高いため、レン家では通常在庫を置いていないと」
ハオジュンの現場記録には、北東の森の一部にダチュラが自生していることが書かれていた。
同じ区域では、香木に使われる木も採取されている。
「これが混ざったのか?」
ハオジュンが低く尋ねる。
「まだ分かりません」
アデルはすぐに否定した。
「香りが似ているというだけです。国王陛下の症状と関係があるかは、私には判断できません」
「専門家を呼ぶべきだな」
リュシアンが言った。
宰相の顔が強張る。
「ユエ嬢本人が無理なら、レン家の当主を呼べ」
「しかし第二王子殿下が」
「国王の命と、第二王子の面子と、どちらが大事なんだ?」
ハオジュンが横から睨む。
宰相は額へ手を当てた。
「……レン家当主へ使いを」
侍従が一礼し、足早に部屋を出ていった。
*
レン家当主は、思っていたより早く現れた。
黒髪に僅かに白いものが混じった、細身の男だった。目元にはユエとよく似た冷静さがあり、深い赤の瞳が室内を一度見渡す。
娘が王太子と共に軟禁されたと聞いているはずなのに、その顔に露骨な動揺はない。
「陛下を」
挨拶を終えるなり、それだけ言った。
宰相が許可すると、男は寝台へ近づき、宮廷医からこれまでの状態を聞く。脈、呼吸、発汗、瞳の反応、意識の状態。アデルには分からない専門的な確認がいくつか続いた。
やがてレン家当主は国王から離れた。
「断定はいたしかねます。ですが、ダチュラ由来の毒性物質へ曝露した際に見られる反応と、重なる点はございます」
宰相の顔色が変わる。
「治療は」
「可能な限り行います。ただし、何をどの程度取り込まれたか分からぬ以上、慎重に進めます」
「頼む」
「承知いたしました」
レン家当主は一礼し、それから香炉へ視線を向けた。
「こちらが?」
「ええ」
アデルが答える。
「沈香の中へ、甘い花のような香りが混じっています。採取記録を見ると、同じ森にダチュラが自生していると分かりました」
男はほんの僅かに眉を上げた。
「娘から聞いております。アデル殿下は香りをよく覚えておいでだと」
「ユエ様から?」
「珍しく、楽しそうに話しておりました」
こんな時でなければ、アデルはきっと嬉しくなっていただろう。今は胸の奥が痛むだけだった。
「レン家では、ダチュラを現在扱っていないのですか?」
「常備はしておりません。危険性が高く、用途も限られます。必要が生じた際には使用目的と量を記録し、当主の許可を要します」
「最近の使用は?」
「ございません」
「証明できますか?」
リュシアンが尋ねる。
当主は灰青色の瞳をまっすぐ見返した。
「できます。中央倉庫の在庫台帳、各工房の出納記録、廃棄記録がございます。ご覧になりますか」
「ぜひ」
「すぐに持たせましょう」
その時だった。
廊下の向こうから荒い足音が聞こえてきた。
扉が勢いよく開く。
「何をしている!」
ガオランだった。
朝よりも顔色が悪い。視線がまずレン家当主へ向き、それから卓上に広げられた森の採取記録へ落ちた。
「誰がレン家の者を呼べと言った!」
「私です」
宰相が答えた。
ガオランが信じられないものを見るように彼を見る。
「宰相」
「国王陛下のお命が最優先です」
「そいつらが犯人かもしれないんだぞ!」
「ならばなおさら、証拠をもって判断すべきでしょう」
宰相の声音には、先ほどまでなかった硬さがあった。
ガオランが黙る。
リュシアンはその様子を静かに見ていた。
「第二王子殿下」
「……何だ」
「ちょうどよかった。いくつか分かったことがある」
「お前たちに調査を許可した覚えはない」
「俺たちは正式に依頼を受けた」
「誰に」
「第三王子殿下と第五王子殿下だ。宰相にも国王陛下へのお見舞いと安全確認を許可してもらっている」
「そんなもの――」
「それより」
リュシアンは言葉を重ねた。
声を荒らげてはいない。それでもガオランの言葉は止まった。
「今朝、お前はライレイとユエ嬢を拘束した理由について、『ライレイが王太子で、婚約者がレン家だから』と言ったな」
「それがどうした」
「他に証拠は?」
「捜査中だ」
「では、証拠が見つかる前に拘束したのか」
「逃亡や証拠隠滅を防ぐためだ!」
「ユエ嬢を国王陛下から遠ざけることまで?」
ガオランの目が揺れた。
「レン家の人間だぞ」
「だから?」
「毒を扱う家だ!」
「今まさに、その毒を扱う家の当主が陛下を診ている」
リュシアンは寝台へ一度視線を向けた。
「そして、国王陛下の症状にはダチュラによるものと重なる点があるそうだ」
「……ダチュラ?」
「以前、白花曼陀羅という名前で市場に出回っていたものです」
アデルが答えた。
その名を口にした瞬間、古い記憶が繋がった。
ライレイが初めてスピネリアへ来た頃、彼は二か月ほど咳を続けていた。衣服には白檀や樹脂に混じって、焦がした青葉と甘い花の匂いが染みついていた。
『シャンでは白花曼陀羅と呼びます』
新領地から持ち込まれた香の箱を開けながら、ライレイはそう言った。
調べてみれば、その植物を混ぜた香を焚いた者の中に、頭痛や吐き気、意識の混濁を訴える者が出ていた。美しく香る植物なら香材になると、知識のないまま流通させたことが原因だった。fileciteturn24file0L1-L28
あの時の、青臭い葉と甘い花。
国王の寝所に残る香りと、よく似ている。
「……白花曼陀羅」
リュシアンも思い出したらしい。
「あの時、ライレイの寝室で焚いていた香に混ざっていたものか」
「はい。その後、危険性が知られて扱いが厳しくなった植物です」
「だからダチュラという名前に聞き覚えがなくても、白花曼陀羅ならシャンでは知っている者がいる」
リュシアンが静かに補った。
ガオランの反応は一瞬だった。
驚いたようにも見える。
けれどリュシアンは見逃さなかった。
「知らないのか?」
「当然だ」
「そうか」
リュシアンはそれ以上追及せず、今度は卓上の記録へ手を置いた。
「北東の森には、その白花曼陀羅――ダチュラが自生している」
「それが何だ」
「同じ森では香木も採れる。そして昨夜、国王陛下には国内で採れたという『伽羅』が献上された」
「……」
「だが、アデルによれば、寝所に残っている香りは伽羅ではない」
ガオランがアデルを見る。
その視線に、アデルは一瞬だけ緊張した。
けれど逸らさなかった。
「昨日、本物の伽羅を聞かせていただきました。寝室に残っているものは沈香ではありますが、同じ香りではございません。それに、本来そこにはないはずの甘い花の香りが混じっています」
「ただの香りだろう」
「はい。ですから、それだけで誰かを犯人とは申し上げません」
ガオランの顔が僅かに緩んだ。
「しかし、何が混ざっていたのかを調べる理由にはなります」
その表情がまた固まる。
「レン家では現在、ダチュラを常備していないそうだ」
リュシアンが続ける。
「在庫と出納の記録も提出できる」
「帳簿など、いくらでも書き換えられる!」
「なるほど」
リュシアンが静かに返す。
「なら、王宮の帳簿も同じだな」
ガオランが言葉を失った。
「森の採取品を王宮で管理しているのは、お前だったな?」
室内が静まり返る。
ガオランの顔から、明らかに血の気が引いた。
「……何が言いたい」
「まだ何も。俺たちは、帳簿を照らし合わせているだけだ」
「他国の人間が、我が国の記録を」
「だから正式に依頼を受けたと言っただろ」
「第二王子殿下」
今度はセイランが口を開いた。
「もしライレイとユエ殿が犯人なのであれば、調べればその証拠が出るはずです。兄上が焦る必要はありません」
「焦ってなどいない!」
返事が早すぎた。
誰も何も言わなかった。
ガオラン自身も、それに気づいたらしい。
室内に流れる春の空気とは裏腹に、彼の額には薄く汗が浮いていた。
そこへ、廊下から足音が近づいた。
ハオジュンの部下だった。
「第三王子殿下へ、報告がございます」
「ここでいい」
男は一瞬、ガオランを見た。
それから主へ向き直る。
「第六王子殿下が、先ほどから西門へ向かわれております。供の者も少なく、正式な外出の届けは出ておりません」
ハオジュンの目が鋭くなる。
「ジンカイが?」
「はい」
ガオランの指が、僅かに動いた。
リュシアンはその小さな反応を見た。
「第二王子殿下」
静かな声だった。
「弟君は、どこへ行こうとしている?」
春の風が窓から吹き込み、卓上に広げられた採取記録の端を揺らした。
寝所にはまだ、燃え残った沈香の匂いがある。
その奥に紛れた甘い香りは、もうただの違和感ではなかった。
かつて一度、人を苦しめた白い花の香り。
誰かが本物の名を借りて、同じ危うさをもう一度、別の形で隠した痕跡になりつつあった。




