第五十六話 疑いの香り
アデルが目を覚ましたのは、いつもの朝とは違う気配のためだった。
まだ完全に開ききらない瞼の向こうで、春の朝の光が薄い帳を白く透かしている。昨夜、窓を少し開けたまま眠ったらしく、冷えた朝気に若葉と湿った土の匂いが混じって室内へ流れ込んでいた。ほんの数刻前まで、星空と草の香りを思い返しながらリュシアンの隣で眠ったはずだった。
それなのに、廊下の向こうが妙に騒がしい。
走る足音。低く交わされる男たちの声。金属の触れ合う硬い音が、途切れてはまた聞こえてくる。
王宮の朝にしては、明らかに人の動きが多かった。
「……なんでしょう。なんだか雰囲気が……」
アデルが身を起こすと、隣ではリュシアンもすでに目を開けていた。寝起きの気配をほとんど残さないまま、廊下へ続く扉を見つめている。
「ああ。普通じゃないな」
昨夜までの柔らかな顔ではなかった。
声も低い。
「ライレイに確認するか。急いで支度をしよう」
「……はい」
アデルもすぐに寝台を出た。
侍女を呼ぶと、その表情にも明らかな緊張があった。けれど何か知っているかと尋ねても、「詳しいことは何も」としか答えない。
長い銀髪をいつもより簡素にまとめ、淡い青灰色のドレスへ袖を通す。鏡の中のアレキサンドライトの瞳は、朝の白い光を受けて緑を帯びていた。昨夜までなら、その色を見てリュシアンが何か言ったかもしれない。
今日は何も言わなかった。
リュシアンも黒髪を手早く整え、濃紺の上着へ腕を通す。王太子として人前へ出る時の服装だった。
二人とも、誰かに言われるまでもなく分かっていた。
新婚旅行の朝ではない。
支度を終え、ライレイの宮の応接室へ向かう。昨日までは静かだった回廊に武装した兵士の姿が増え、すれ違う侍従たちの顔にも落ち着きがない。どこかで香が焚かれているはずなのに、今朝はその匂いより、人の汗と革、それから磨かれた武具の油の匂いの方が強く感じられた。
応接室へ近づくにつれ、複数の男の声が聞こえてきた。
扉は開いている。
その向こうに、ライレイとユエの姿があった。
ライレイは昨日と同じ王太子の宮にいるというのに、朝の軽い服装ではなく、すでに正装に近い濃色の衣へ着替えている。その隣に立つユエも黒髪をきっちりとまとめ、深い赤の瞳を静かに前へ向けていた。
周囲には兵士がいる。
アデルは声をかけようとして、口を開いた。
その瞬間、正面に立つ男の声が聞こえた。
「国王陛下に対する暗殺未遂があった疑いがある。事態が明らかになるまで、お前たちには証拠隠滅などできぬよう軟禁させてもらう」
意味を理解するまで、数秒かかった。
暗殺未遂。
国王陛下。
軟禁。
どの言葉も、昨日までの景色と繋がらない。
話している男は三十歳前後だろうか。ライレイとは似ているようで似ていない。濃い髪を端正に整え、整った顔には焦燥が滲んでいる。衣装から王族であることだけは分かった。
「第二の兄上」
ライレイが呼んだことで、ようやくアデルにも分かった。
第二王子ガオラン。
「なんでそんな容疑をかけられてるのか、説明してほしいんだけど」
ライレイの口調は穏やかだった。
けれど、金色の瞳だけは笑っていない。
「お前が王太子で、婚約者がレン家の者だからだ。これ以上の理由などない」
「それだけ?」
「十分なはずだ!」
ガオランの声が強くなる。
対して、ライレイは一歩も動かなかった。
「兄上は、本当にそれで十分だと思ってるの?」
静かな声だった。
なのに、その場にいた誰よりも強い。
昨夜、星空の下で王都を見下ろしていた時とも違う。執務室で見せた冷たい顔とも違う。
金色の瞳がまっすぐ兄を捉えている。
疑いをかけられた人間の目ではなかった。
むしろ、相手が次に何をするのかを見極めようとしている目だった。
ガオランの口元がわずかに引きつる。
「……何が言いたい」
「別に」
ライレイは肩の力を抜いた。
「分かった。軟禁されるよ」
あまりにあっさり言うので、アデルの方が驚いた。
「ただ、疑うなら事情聴取くらいはしてほしい。何も聞かずに閉じ込められるのは困るからね」
「軟禁先で話は聞く」
「了解」
ライレイは隣を見た。
「ユエ。悪いね、付き合ってくれる?」
「御意にございます」
ユエも顔色一つ変えなかった。
その落ち着きが、かえってアデルには耐えられなかった。
「待ってください!」
気づけば、前へ出ていた。
「アデル」
リュシアンの手が伸びた時には、もう遅い。
「国王陛下への暗殺未遂とは、どういうことですか?」
ガオランがこちらを振り返った。
初めて、アデルとリュシアンがそこにいることを認識したような顔をする。
「……スピネリアの王太子夫妻か」
「はい」
「悪いが、シャンの内政だ。首を突っ込まないでもらおう」
「そんな……」
アデルは思わずライレイとユエを見る。
二人とも兵士に囲まれている。
「ライレイ殿下とユエ様は、私たちの友人です。黙っていることなどできません」
「客人という立場を忘れないでいただこう」
ガオランの声音は冷たい。
「貴殿たちは何も気にせず、予定どおり観光を楽しんでくれればいい」
言葉を失った。
アデルにも分かっている。
ここはスピネリアではない。
いくら友人だからといって、他国の王位に関わる問題へ勝手に介入することは許されない。
けれど、理屈で分かっていても、目の前で友人が連れていかれるのを黙って見送ることなどできそうになかった。
焦りだけが胸の中で大きくなる。
何か言わなければ。
何かしなければ。
「分かった」
隣から、リュシアンの声がした。
アデルが振り向く。
彼はガオランを見ていた。
「貴殿の言うことは正しい。国の問題に他国の王太子が勝手に口を出すわけにはいかない」
ガオランの顔から、わずかに警戒が抜ける。
「ご理解感謝する」
「頼まれでもしない限りな」
その一言だけ、静かに付け足した。
ガオランの眉が少し動いた。
「しかし一つ、確認させてほしい」
「何だ」
「事件が起きた国に、他国の王太子夫妻をそのまま滞在させることについて、貴殿は危機感を持たないのか?」
「……は?」
ガオランは、言っている意味が分からないという顔をした。
リュシアンの表情は穏やかだった。
「ライレイとユエ嬢が犯人なら問題は単純だ。二人を拘束した時点で、俺たちの危険も大きく減る」
「ああ」
「だが、二人が無実だった場合は?」
そこで初めて、ガオランの顔にわずかな変化が出た。
「国王陛下を狙った何者かが、まだ王宮内にいる可能性がある。その場所に友好国の王太子とその妻を滞在させたまま、『観光を楽しめ』というのか?」
「警備は強化する」
「暗殺者が王のところまで入れる警備を?」
「暗殺者が入れるほど、王の寝所は緩くない!」
言い切った瞬間だった。
室内の空気が止まった。
リュシアンの目だけが、微かに笑った。
「ほう」
ガオランの表情が強張る。
「王の寝所で事件があったのか」
初めて、本当の後悔が顔に出た。
ライレイが僅かに目を細める。
ユエは相変わらず無表情だったが、赤い瞳だけがガオランを見ていた。
「……これ以上話すことはない」
ガオランは強引に会話を切った。
「構わない」
リュシアンも追わなかった。
「ただ、どうしても妻が心配でね」
そう言って、アデルの腰へ自然に手を添える。
「信頼できる王子のどなたかと、一度お目通りさせていただきたい。王宮の安全について、もう少し説明を受けたい」
ガオランは一瞬黙った。
「……誰がいい?」
「第三王子殿下と第五王子殿下。この二人だ」
今度は、ガオランが明らかに考え込んだ。
断れば、スピネリア王太子夫妻を危険性の説明もせず王宮に留めることになる。受け入れれば、自分が完全には管理できない兄弟と接触させることになる。
どちらを選んでも、気持ちのいい選択ではない。
「……後で使いを送る」
「感謝する」
会話が終わる。
兵士たちが動き始めた。
その奥で、ライレイとリュシアンの目が合った。
ライレイの金色の瞳には、不安も敗北感もなかった。
むしろ、何かを確かめたような光がある。
「リュシアン」
「何だ」
「今回は事件なしって言ったのに、悪いね」
いつもの調子だった。
そのことが余計にアデルの胸を締めつける。
「リンレイには秘密にして」
「お前も苦労するな。考えておく」
「そこは兄心を分かってよ」
「いいから、さっさと軟禁されろ」
「はいはい」
ライレイは肩を竦め、ガオランを見た。
「では第二の兄上、俺たちはどこへ行けばいい?」
「俺の宮へ来てもらう」
「了解」
ユエも静かに一礼する。
二人はそのまま兵士たちに囲まれ、廊下の向こうへ消えていった。
アデルは追いかけることもできず、その背中を見送った。
昨日は四人で食事をした。
馬に乗り、星を見た。
ユエが「平和でございますね」と言ったのは、ほんの昨日のことだ。
それなのに今は、その二人が暗殺未遂の容疑者として連れていかれている。
あまりにも理不尽だった。
*
ガオランの宮の一角に用意された軟禁部屋は、王族を収容する場所として最低限の体裁だけは整えられていた。
簡素な寝台が二つ。小さな応接卓と椅子。水差しと茶器。窓には太い鉄格子が嵌められ、出入口には頑丈な鉄の扉がある。壁には装飾もなく、香炉すら置かれていない。
王宮でありながら、どこにも王族らしい華やかさがなかった。
ライレイは部屋へ入るなり窓の格子を軽く掴み、外を眺めた。
「頑丈だねえ」
「暴れないでくださいませ」
背後からユエが言う。
「暴れれば出られそうだけど」
「出てどうなさるおつもりですか」
「だから出ないよ」
ライレイは手を離した。
「こんな部屋、壊して出たら余計に犯人っぽいもんね」
「ご理解いただけて何よりにございます」
ユエは応接椅子へ座り、静かに衣の裾を整える。
ライレイも向かいへ腰を下ろした。
「リュシアンは分かってたみたいだけど、アデルちゃんには悪いことしちゃったなあ」
「アデル様はお優しいですから」
「泣きそうだったね」
「ええ」
ユエの表情がほんの少しだけ曇った。
「友人を信じてくださるのは、ありがたいことにございます」
「こういう時、困るよね。優しい人に心配されると」
「そうですね」
鉄格子の外には、春の朝の青空が見えている。昨日までなら、あの空を見て今日どこへ行こうかと話していたはずだった。
「しかし」
ユエが静かに続けた。
「随分早いご判断でしたね」
「うん」
ライレイの声から、先ほどまでの軽さが少し消える。
「父上が倒れて、俺を疑って、ユエまでまとめて拘束する。朝のうちに兵まで揃えてる」
「準備がよろしゅうございます」
「よすぎるよね」
二人の視線が合った。
けれど、そこで名前を口にはしなかった。
まだ証拠がない。
「まあ、今は大人しくしてようか」
「政治でございますからね」
「嫌だねえ、政治」
「王太子殿下のお言葉とは思えません」
「だから嫌なんだって」
ライレイは椅子の背へ身体を預けた。表情はいつもどおり気楽そうだったが、金色の瞳だけは冷えていた。
*
アデルとリュシアンが自分たちの客室へ戻ってから、しばらく経った頃だった。
朝の光はすでに高くなっていたが、二人とも朝食に手をつける気にはなれなかった。卓上に置かれた茶も冷め始めている。
アデルは窓辺に立ったまま、何度も同じ方向を見ていた。ライレイたちが連れていかれた先が見えるわけではない。それでも座っていることができなかった。
「アデル」
リュシアンが呼ぶ。
「はい」
「少し座れ」
「でも」
「立ってても状況は変わらない。話を聞く準備をしよう」
責める声音ではなかった。
アデルは唇を引き結び、ようやく彼の隣へ座った。
「……何もできませんでした」
「できなくて正解だ」
「でも、ユエ様もライレイ殿下も」
「分かってる」
リュシアンはアデルの手を取った。
「だから、できる形にする」
その言葉に、アデルは顔を上げる。
ほどなくして扉が叩かれた。
入ってきたのは二人の王子だった。
一人は、以前森の一件で顔を合わせた第三王子ハオジュン。頑健な体格と、外で過ごすことが多い人間らしい日焼けした肌、腕には古い傷がいくつも残っている。
もう一人は昨日茶を共にした第五王子セイランだった。
柔らかな面差しは変わらない。ただし今日は、昨日より明らかに表情が硬い。
「お待たせしました」
セイランが一礼する。
「第二の兄上から、お二人が王宮の安全について説明を求めていると伺いました」
「来てくれて感謝する」
リュシアンが立ち上がった。
挨拶を済ませ、四人が卓を囲む。
アデルは黙っていた。
目元にはまだ少し赤みが残っている。
それを見たリュシアンが、先に口を開いた。
「単刀直入に聞く」
灰青色の瞳が二人の王子を捉える。
「これは第二王子殿下の画策に見える」
ハオジュンとセイランが目を合わせた。
否定はしなかった。
「断言はできません」
先に答えたのはセイランだった。
「ですが、その可能性は高いと、僕も考えています」
「理由は?」
「今、王宮にいる王子を考えれば分かります」
セイランは淡々と続けた。
「第一の兄上は病床にあります。第七の弟は地方を治めていて、王宮にはおりません。もちろん僕は関係ありませんし、第三、第四の兄上も、少なくとも父上を殺して王位を奪うような方ではないと考えています」
「随分信頼されてて驚いたぜ、第五」
ハオジュンが少しだけ笑う。
「日頃の行いでしょう」
「お前、そういうこと平然と言うよな」
ほんの一瞬だけ空気が緩んだ。
リュシアンはセイランを見た。
「お前は、ユエ嬢を疑っていないのか?」
昨日までなら、答えは違ったのかもしれない。
セイランは少しだけ視線を落とした。けれど、迷いは長くなかった。
「少し前なら、疑っていたかもしれません。でも、今は違います」
アデルが息を止める。
「彼女は、人を殺すことを進んでする人ではない。そのくらいは、分かりましたから」
胸の奥にあった緊張が、ほんの少しだけほどけた。
アデルは昨日の茶室を思い出した。
セイランが母の茶を見つめていた顔。
あの後、何を考えたのかは分からない。
けれど少なくとも、王宮の中にユエを信じる人がまた一人いる。
「……ありがとうございます」
思わず言うと、セイランは少し困ったように笑った。
「僕がお礼を言われることではありませんよ」
「それでも、です」
アデルは一度息を整えた。
いつまでも感情だけでいるわけにはいかない。
「何が、あったのですか?」
今度の声は先ほどより落ち着いていた。
セイランとハオジュンがまた視線を交わす。
「本来なら国家機密に近い話です」
セイランが言う。
「ただ、ここまで渦中へ巻き込まれた方々へ、何もお話ししないわけにもいかないでしょう」
ハオジュンが腕を組む。
「今朝、侍従が父上を起こしに寝所へ入った。いつもの時間になっても起きてこなかったからだ」
アデルの指先がわずかに強張る。
「寝台にはいたが、呼びかけへの反応がほとんどなかった。息はある。脈もある。ただ意識がひどく混濁していて、目を覚まさない」
「ご病気ではなく?」
「宮廷医は、毒物の可能性を疑っている」
アデルは考えた。
毒。
ひと口にそう言っても、種類はあまりに多い。食事。飲み物。薬。皮膚へ触れたもの。吸い込んだもの。
「では、解毒を?」
「できていません」
ハオジュンの答えに、アデルは顔を上げた。
「毒が特定できないからだ」
「国王陛下は、今どちらに?」
「寝所にそのままお休みになっている」
「解毒もせずに?」
「下手に薬を入れて悪化させる危険がある。宮廷医はそう判断した」
「では、レン家は?」
答えが分かっているような気がした。それでも聞かずにはいられない。
「呼ばれていない」
「ユエ様を容疑者にされているからですか?」
「そうだ」
「でも、お命の方が優先ではないのですか!」
アデルは思わず身を乗り出した。
「毒が分からないのであれば、毒を最もよく知る方に診ていただくべきではありませんか。ユエ様が疑われているという理由だけで、国王陛下のお身体を調べることさえさせないのですか?」
「アデル」
リュシアンが名前を呼ぶ。
けれど、止めるためではなかった。
そのまま続けろ、と言うように視線だけを向ける。
アデルは一度息を整えた。
「……申し訳ございません。私はシャンの人間ではありません。でも、調香師として肌に触れる素材を扱うことがある人間として、思うのです。身体へ作用したものがあるなら、まず何が入ったのかを特定しなければ、治療もできません」
「俺もそう思う」
ハオジュンが低く答えた。
「だから変なんだ。第二の兄上は、父上が倒れたと分かってすぐ寝所を封鎖した。ライレイとレン家を疑い、ユエを父上へ近づけないようにした」
「すぐに?」
リュシアンが反応する。
「ああ。俺が知らせを受けて駆けつけた時には、もう兵が立ってた」
「早すぎるな」
セイランも苦い顔をする。
「僕も同じことを考えました」
アデルは先ほどの光景を思い返した。
兵士たち。
すでに決められていた軟禁。
ライレイが何をしたのか尋ねても、「王太子であること」と「婚約者がレン家であること」しか理由がなかった。
「おかしいところが、たくさんあります」
「そうだな」
リュシアンは低く答え、それから第三王子と第五王子を順に見た。
「貴殿たちとの面談を希望したことには、理由がある」
先ほどまでの会話とは明らかに声音が変わった。
アデルも、隣にいる夫を見る。
「俺たちは他国の人間だ。シャンの後継者争いにも、国王陛下の暗殺未遂にも、勝手に介入する権利はない」
ハオジュンの眉が僅かに動く。
セイランは黙ったまま続きを待っている。
「だが、さっき第二王子殿下にも言った」
リュシアンは椅子の背へ浅く身体を預けた。灰青色の瞳には、もう迷いがなかった。
「頼まれでもしない限り、と」
アデルが、ぱっと顔を上げた。
意味を理解した。
以前、森の件でも同じだった。
あの時も、シャン側から助力を求められたからこそ、スピネリアの人間である自分たちは調査へ関わることができた。
勝手に踏み込むことはできない。
けれど。
頼まれれば。
リュシアンは二人の王子をまっすぐ見た。
「依頼してくれ」
室内が静かになる。
「俺たちに、ライレイの無実を証明してほしい、と」
アデルの胸の奥で、先ほどまで行き場を失っていた焦燥が、初めて進むべき方向を持った。
頼まれれば。
今度は、動ける。




