第五十五話 星降る香り
午餐は、ライレイの宮の南側にある小さな食堂へ用意された。正式な晩餐に使う広間ではなく、王族が身内やごく親しい客と食事をするための部屋らしい。大きく開けた窓の向こうには若葉の茂る庭があり、春の終わりを告げる白い花が風に揺れている。午後の日差しはすでに初夏の明るさを帯びていたが、石造りの室内にはまだ涼しさが残り、庭から流れ込む草の青い匂いと、卓上に並んだ香辛料や焼いた肉の香ばしさが心地よく混じっていた。
昼食は朝よりもずっと華やかだった。鶏肉を香草とともに焼いたもの、薄く切った豚肉を甘辛い醤で煮たもの、青菜の炒め物、竹筒で蒸した米。スピネリアの料理より油と香辛料を多く使うが、香りの組み合わせが複雑で、アデルにとっては食事そのものが一つの調香を見ているようでもあった。
向かいでは、ライレイが仕事着の襟元を少し緩め、午前中より明らかに気を抜いている。その隣に座るユエも、執務中の張りつめた顔から少しだけ力を抜き、湯気の上がる茶を静かに口へ運んでいた。
しばらくは、午前中に見たものの話をしていた。アデルが六国五味について語り始めると、ライレイが途中で「その話、たぶん夜まで続くやつ?」と確認し、リュシアンが「止めなければ」と答える。ユエだけは興味深そうに聞きながら、薬材として使われる沈香との違いを尋ねてくれた。
そんな取り留めもない話が一段落した頃だった。
「平和でございますね」
ユエが窓の外を眺めながら呟いた。春の風が薄い簾を揺らし、その向こうでは白い花が日差しを受けて静かに揺れている。
「そうだね」
ライレイも同じ庭を見た。
「国全体で言ったら、今も内部分裂してるし、この間まで戦争してたんだけどね。ここだけ見れば、すごく平和だ」
「ええ。このような時間を、自分が持つことになるとは想像しておりませんでした」
ユエの深い赤の瞳が、わずかに細められる。その横顔に浮かんでいたのは安堵というより、今ここに何も起きていないことを確かめ、その事実を大切に飲み込んでいるような表情だった。
アデルは箸を置き、二人を見た。
「お二人とも、本当に大変な過去をお持ちなのですね……」
口にしてから、それ以上続けられなかった。
アデルは戦争を知らない。事件に巻き込まれたことはある。命を狙われたことも、一歩間違えれば誰かが死んでいた場面も知っている。それでも、帰る国そのものが戦火に晒される恐怖も、昨日まで隣にいた人が今日には敵になる世界も知らない。
スピネリアは平和だった。幼い頃から香料を学び、家族に愛され、働きたいと願えばその道を選ぶこともできた。自分が当然のように持っていた日々を、ライレイとユエはきっと「平和」と呼び、ようやく今こうして噛み締めている。
同じ目線で分かったふりをすることはできない。それでも、大切にしたい友人であることは変わらなかった。
「でしたら、今日はたくさん平和にいたしましょう」
アデルが少し考えてから言うと、ライレイが瞬きをした。
「平和にするって、どうやるの?」
「こうして食事をして、好きな場所へ行って、皆様で楽しく過ごします」
「なるほど」
「事件は起こしません」
「それ大事だね」
「毒も使いません」
アデルがユエを見る。
「御意にございます」
「俺は?」
ライレイが自分を指す。
「公務に戻らない」
「それは駄目にございます」
「ユエだけ平和に厳しくない?」
笑い声が上がった。
アデルには彼らの過去を変えられない。けれど、今ここにある時間を一緒に楽しいものへすることならできる。それでいいのかもしれなかった。
しばらくすると、リュシアンが鶏肉を切り分けながらライレイを見た。
「そういえば、お前の兄たちは戦場でできたらしい傷が結構あったよな。第三王子殿下なんて手にも首にもあった」
「ああ。第三の兄上は兵と一緒に前へ出たがるからね。あの人は特に多いよ。他の兄上方も、矢とか剣の傷が少しくらいはあるんじゃないかな」
リュシアンはライレイの顔から手元まで何気なく眺めた。
「お前はないよな」
「俺?」
ライレイは自分の腕を見下ろした。
「どうだったかな。治ったのかな?」
「ご自分のお身体でしょう」
ユエが呆れたように言う。
「気にしたことなかった」
「殿下の場合、そもそも傷を受けないように戦っておられましたから」
「それ普通じゃない?」
「殿下の『普通』については、諜報筋でいろいろと聞いております」
ライレイが露骨に嫌そうな顔をした。
「何を?」
「曰く、『鬼人』であると」
「やめてよ」
即座だった。金色の瞳まで気まずそうに逸らし、本気で恥ずかしがっているらしい。
「そういうの、本当に嫌なんだよ。勝手につけないでほしい」
「鬼人?」
アデルは少し身を乗り出した。
「どういう意味ですか?」
「知らなくていいよ」
「敵陣へ入ってもほとんど傷を負わず、必要な箇所だけを崩し、気づいた時には指揮系統が機能しなくなっていることから、そう呼ばれたそうでございます」
「ユエ」
「事実にございます」
「避けて、必要な攻撃をしただけじゃん。怪我したくないし、長く戦うのも嫌だったから早く終わらせただけだよ」
アデルは、少し不思議な気持ちでライレイを見た。昨夜はユエに風呂へ入れてもらえるかどうかで騒ぎ、今朝は酔ったアデルを楽しそうにからかい、昼には仕事を抜ける口実を探していた人である。その人物と「鬼人」という言葉が、どうしても結びつかなかった。
リュシアンも同じだったらしい。
「鬼人? お前が?」
目の前の鶏肉を切りながら、心底不思議そうにライレイを見る。
「いいやつなのにな」
ライレイの表情が止まった。ほんの一瞬だけ、困ったように笑う。
「……リュシーって、そういうこと普通に言うよね」
「何が?」
「何でもない」
戦場にいた自分を、この男は知らない。血に濡れた姿も、迷わず人を斬った瞬間も、人間を盤上の駒のように配置して勝敗を決めていた自分も知らないまま、「いいやつ」だと言う。それが少し嬉しいなどとは、本人には言わないことにした。
「ユエ様には、二つ名のようなものはなかったのですか?」
アデルは完全に興味を持ったらしく、今度はユエを見る。
「残念ながら、ございません」
「そうなのですか?」
「レン家は個人の名で仕事をいたしませんので。誰が行ったかを知られるようでは、情報を扱う者としては未熟にございます。名や顔が残るより、『レン家が動いた』という事実だけが残る方が望ましいのです」
「なるほど……かっこいいですね」
「アデルちゃん、感想それ?」
ライレイが笑う。
「だって、かっこいいではありませんか」
「分かるけどさ」
その時、何か思いついたようにライレイが顔を上げた。
「そういえばユエ、馬乗れるの?」
「乗れます。情報伝達の際、馬を使う必要がございますので」
「遠乗りも?」
「問題ございません」
ライレイは満足そうに頷くと、次にリュシアンを見た。
「リュシアンは?」
「乗れる」
「だよね。アデルちゃんは?」
「俺は乗れるが、アデルは馬に乗ったことないんじゃないか?」
話を振られたアデルは、少し考えてから首を振った。
「ございません。でも、いつか乗ってみたいと思っていたのです」
その瞬間、ライレイがにっこり笑った。
アデルは、その笑顔に少しだけ嫌な予感を覚えた。
「じゃあ決まり」
「何がでしょう?」
「午餐が終わったら、馬に乗って少し遠出しよう」
「どちらへ?」
「秘密」
「秘密ですか?」
「新婚旅行って、そういうのも必要でしょ?」
リュシアンが眉を上げる。
「アデルは初めてなんだぞ」
「最初に馬場で練習してから行くよ。そんな速く走らないし、俺もユエもいる」
「俺もいる」
「リュシーは一番心配性だから、アデルちゃんの横から離れなさそう」
「当たり前だろ」
アデルは三人を順に見てから、胸の奥に湧いた期待を隠せず笑った。
「行ってみたいです」
「じゃあ決まり」
今度のライレイの笑顔には、何かを企んでいるというより、友人に自分の好きなものを見せたい子どものような明るさがあった。
*
乗馬服へ着替えて鏡の前に立った時、アデルは自分の姿が妙に新鮮に見えた。
普段のドレスとも、宮廷調香師として働く時の衣服とも違う。シャンの王宮で用意してもらった深い青緑の乗馬着は、腰までは身体に沿うよう仕立てられ、その下は馬へ跨れるよう左右へ分かれている。長い銀髪は邪魔にならないよう編み込み、後頭部でまとめてもらった。
女性は横乗りをするものだと思っていたが、シャンでは長距離を移動する女性も多く、跨って乗るための服も珍しくないらしい。
「動きやすいです」
腕を上げて確かめていると、後ろからリュシアンの声がした。
「似合ってる」
振り返ると、彼も濃紺の乗馬着へ着替えていた。身体に沿った上着のせいでいつも以上に細身の長身が際立ち、黒髪も風で乱れないよう後ろへ流している。
「リュシアン様は、随分乗り慣れていそうに見えます」
「一応、王族だからな」
「私も王族になりました」
「昨日なったみたいに言うな」
夫婦になってまだ長くないため、アデルの中では未だに「王族になった」という感覚が時折新鮮に戻ってくる。
馬場へ出ると、ライレイとユエはすでに待っていた。ライレイは黒を基調にした軽い乗馬着で、赤褐色の髪を高い位置で一つに結んでいる。馬上に跨る姿は、普段の気安さよりずっと野性味が強く、たしかに戦場にいた人なのだと思わせるものがあった。
一方のユエは、墨色の細身の乗馬着に深紅の帯を締めていた。黒髪も高くまとめられ、余計な装飾を何一つつけていない。その姿は美しいというより、研ぎ澄まされているという言葉の方が似合った。
「アデル様、最初は馬の動きに身体を合わせてくださいませ。力で押さえようとなさらなくて大丈夫です」
「はい」
選ばれたのは、よく調教された栗毛の牝馬だった。近くで見ると想像していたより大きく、鼻先から吐き出される息は温かい。乾いた草と獣の匂いがし、艶のある毛並みに手を置けば、その下で生きた筋肉が動くのが分かった。
「よろしくお願いいたします」
思わず馬へ頭を下げる。
「馬に挨拶するんだ」
ライレイが笑った。
「大切ではありませんか」
「すごくアデルちゃんらしい」
リュシアンに支えられて鞍へ上がると、急に地面が遠くなった。
「……高いです」
「怖い?」
「少しだけ。でも、面白いです」
「俺が横にいるから」
「はい」
馬場で歩くところから始め、止まり方と進ませ方を教わった。初めは馬が一歩動くたびに身体が揺れたが、しばらくすると、動物の背中が作る一定のリズムが分かってくる。
ライレイは決して急かさなかった。ユエも隣から姿勢を直し、リュシアンは本当に一度も遠くへ離れなかった。
やがて門を出る頃には、春の日は西へ大きく傾いていた。
四頭の馬が、王都を抜けていく。
馬に乗るというのは、こんなにも不思議な体験なのかとアデルは思った。馬車とはまるで違う。窓枠も、厚い扉も、屋根もない。目線は普段より遥かに高く、風が真正面から頬へ当たる。土の匂いも、道端の草も、民家から流れてくる夕餉の煙も、一つ一つが遮られることなく届いてくる。
馬が少し速度を上げれば、春の空気が銀髪の隙間へ入り込み、頬を撫でて後ろへ流れていった。
「楽しいです!」
思わず声を上げると、すぐ隣を走るリュシアンが笑った。
「分かったから前見ろ」
「見ております!」
「俺じゃなくて道を」
「あ」
慌てて前を見ると、後ろからライレイの笑い声が聞こえた。
街道を離れ、小高い丘陵へ続く道へ入る頃には、空の色が青から薄紫へ変わり始めていた。森を抜ける風は少し冷たくなり、陽を失った草の匂いも昼間より濃い。
急な場所では馬をゆっくり歩かせながら登る。
やがて日が完全に沈み、空の端に残っていた赤も夜へ溶けた頃、先頭を走っていたライレイが馬を止めた。
「着いたよ」
アデルも手綱を引き、顔を上げた。
「……わあ」
それ以上の言葉が出なかった。
そこは王都を一望できる高台だった。
足元から斜面の向こうへ視界が一気に開け、その遥か下にシャンの王都が広がっている。中央には王城の灯りがある。金と赤を使った華やかな光。けれど、その周囲にはもっと小さな灯りが無数に瞬いていた。
一軒一軒の家から漏れる灯火。夜道を歩く人の提灯。店先の火。炊事の煙。
昼間には巨大に見えた王宮が、ここから見ると無数の生活の一つに見える。
そして顔を上げれば、地上の灯りとは比べものにならないほど多くの星が夜空を埋めていた。
スピネリアは平地の国だ。一番高い場所は王城で、王都をこれほど上から見下ろすことはできない。まして山の影に余計な光が遮られた空を、アデルはほとんど見たことがなかった。
「綺麗……」
冷たい夜気を吸い込む。
湿った草。馬の身体の温かい匂い。遠くの街から上がってくる煙。乾いた土。そして、夜そのもののような澄んだ冷たさ。
香水など一滴もない。それなのに世界全体から、一つの香りが立ち上っているようだった。
「綺麗でしょ」
ライレイが馬から下りた。
「嫌になった時、たまに来るんだ」
リュシアンも降り、王都を見下ろした。
「嫌になった時?」
「王宮とか、後宮とか、兄上たちとか。全部」
軽い調子だったが、金色の瞳は街の明かりから離れなかった。
「ここまで来るとさ、王宮って思ったより小さいんだよね」
しばらく誰も何も言わなかった。
やがてリュシアンが静かに尋ねた。
「お前の守るものを確認しに来るのか?」
ライレイが顔を向けた。
二人の王太子の視線が合う。
「……たぶんね」
それだけだった。
けれど、アデルにはその短いやり取りの中に、自分には完全には分からないものがあると感じた。
リュシアンもまた、国を背負っている。王宮の中だけを見ていれば、国とは会議で決める予算や外交文書や制度に見えるのかもしれない。けれど本当は、下に灯る一つ一つの明かりなのだ。眠る子どもも、夕餉を作る人も、明日の仕事を考えている人も、そのすべてを含めて国になる。
ライレイとリュシアンはそれ以上何も言わなかった。言葉にしなくても分かるものがあるのだろう。
アデルは視線を夜空へ上げた。
「星も、とても綺麗ですね」
声にした瞬間、自分の中に別の衝動が湧いてくる。
「これを香りにしてみたいです」
「出た」
リュシアンが笑った。
「だって、こんな景色は初めてです」
「星に匂いないよ?」
ライレイが言う。
「ありません」
「じゃあどうやって?」
「考えます」
「強い」
アデルは夜空と眼下の王都を交互に眺めた。
「きらきらした星の光は、弾けるグレープフルーツがよいでしょうか。あまり甘くせず、最初だけ鮮やかに光るように」
「もう始まってる」
ライレイが笑う。
「人々の灯りは温かいですから、コパルを使いたいです。樹脂の柔らかな温度を中心にして、夜の澄んだ空気にはシルバーバーチ。草の青さはバイオレットリーフもいいですね。それと……ベイも迷うところです」
指折り数えながら呟くアデルの頭の中では、すでに景色が香料へ置き換わり始めていた。
「全部入れたら喧嘩しない?」
ライレイが尋ねる。
「そこを調整するのが調香師です」
「頼もしい」
「ただ、星の遠さが足りませんね。グレープフルーツだけでは近すぎますし……」
「遠さ?」
リュシアンが聞き返す。
「はい。星は綺麗ですが、手を伸ばしても届きません。その距離も香りにしたいのです」
リュシアンは少しだけ目を細めた。
「相変わらず難しいこと考えるな」
「難しいから面白いのです」
夜の冷たさ。地上の灯りの温度。草と土。頭上の星。
どれも一つだけなら香りにできる。
けれど、この景色はその全部が同時に存在するから美しい。
「シャンでは、星々について『二十八宿』という見方をいたします」
隣でユエが言った。
「二十八宿?」
「はい。空を二十八の宿へ分け、それをさらに四つの象へ見立てます。今は、東方青竜の星々がよく見える時期にございます」
アデルは夜空を見上げた。
「星に、龍がいるのですか?」
その尋ね方がよほど素直だったのか、ユエが小さく笑った。
「ふふ。昔の方には、そう見えたようですね」
「どちらです?」
「今ここからですと……」
ユエはアデルの隣へ立ち、細い指を夜空へ伸ばした。いくつかの星を順に辿る。
「東方の七宿を繋いで、青い龍といたします」
「私にはまだ、龍には見えません」
「慣れが必要かと」
「明日、図書館に本はございますか?」
「もちろんにございます。おすすめのものをお持ちいたしますね」
「ぜひ!」
アデルの声が弾む。
夜の高台。満天の星。見知らぬ国に伝わる古い星の物語。また一つ、知らなかったものが増えた。そのことがたまらなく嬉しい。
少し離れたところから、リュシアンはその横顔を見ていた。
星明かりの下では、アデルの銀髪はほとんど白く見える。夜空を見上げる瞳は、昼間とは違ってアレキサンドライトの赤紫を強く帯び、その奥へ無数の星の光が映り込んでいた。
リュシアンには、夜空そのものよりそちらの方が綺麗に見えた。
「リュシアン様?」
見られていることに気づいたアデルが振り返る。
「どうかなさいました?」
「いや」
リュシアンは少しだけ笑った。
「綺麗だと思って」
アデルも夜空を見上げる。
「本当に綺麗ですね」
「そっちじゃなくて」
「?」
「……まあいい」
「何でしょう」
「帰ってから言う」
意味が分からず首を傾げるアデルの向こうで、ライレイが面白そうに笑っていた。
その時、夜空の端を一筋の光が走った。
「あ」
アデルが声を上げるより早く、それは消えてしまった。
「今のは?」
「流れ星だね」
ライレイが空を見上げる。
「お願い事をするのですか?」
「スピネリアにもそういう話ある?」
「聞いたことはございます。でも、三回唱えるのは難しそうですね」
「アデル、もう消えてるぞ」
「ですから間に合いませんでした」
残念そうに答えたアデルを見て、リュシアンが笑った。
「何を願うつもりだった?」
アデルは少し考えたが、すぐには何も浮かばなかった。
「秘密です」
「願い事あるんだ」
「ございますよ」
本当は、その瞬間には思いつかなかった。
香りをもっと知りたい。仕事を続けたい。知らない場所へ行きたい。願いならいくらでもあるはずなのに、流れ星を見た瞬間、何か一つを強く願う必要がないような気がした。
好きな人が隣にいて、友人がいて、知らない景色を見ている。
少なくとも今この瞬間には、足りないものを探せなかった。
それ自体が、すでに願いの途中にいるということなのかもしれない。
*
王宮へ戻った頃には、夜もかなり深くなっていた。
初めて長く馬へ乗ったせいで、寝室へ戻ったアデルの身体には心地よい疲労が残っていた。湯浴みを済ませ、薄い寝間着へ着替えると、まとめていた銀髪も解いて背中へ流す。
窓の外には、先ほど高台から見たものよりずっと少ないながら、いくつかの星が見えた。
同じ空なのに、場所が変わるだけでまるで別のものに見える。
リュシアンも湯浴みを終え、濡れた黒髪を軽く拭きながら寝室へ戻ってきた。
「疲れた?」
「少しだけ。でも、とても楽しかったです」
「明日、筋肉痛になるぞ」
「そうでしょうか」
「普段使わないところ使ってたからな」
「では、ユエ様に何か塗り薬を」
「新婚旅行中くらい、何でもユエ嬢に頼るのやめろ」
少し不満そうな声に、アデルは笑った。
「嫉妬ですか?」
「最近それ聞くの好きだな」
「答えてくださるようになりましたので」
「じゃあ嫉妬」
もう隠す気もないらしい。
アデルは鏡台の前へ座り、髪を梳かしながら窓の星を見る。
「今日の香りを、忘れたくありません」
「高台の?」
「はい」
「さっきもう半分できてただろ」
「半分どころではございません。まだ輪郭だけです」
アデルは櫛を置き、今度は本当に紙へ手を伸ばした。
「グレープフルーツは最初に弾けるだけにしたいのです。星そのものというより、見上げた瞬間の驚きですね。コパルは地上の灯りへ。シルバーバーチは空気の透明感。バイオレットリーフは草の青さ……ベイを入れるなら少量でしょうか」
「今から仕事する気?」
「仕事ではございません」
「その顔で言っても説得力ないな」
「忘れないうちに」
紙へ触れる寸前、その手をリュシアンが横から取った。
強く止めるのではなく、そのまま指を絡め、自分の方へ引く。
「今日はもう終わり」
「まだ少しだけ」
「駄目」
「リュシアン様」
「新婚旅行の夜まで調香師に戻るな」
アデルが何か言い返す前に、リュシアンは椅子ごと自分の方へ向け、その腰へ腕を回した。
夫婦になってから、彼は以前のように一つ一つ理由を探さなくなった。
アデルが本当に拒む時の顔も、単に恥ずかしがっている時の顔も、もう知っている。
そしてアデルも、それを知っているリュシアンに身を預けることへ、以前ほど戸惑わなくなっていた。
「調香師ではなく、妻として過ごせということでしょうか」
「そういうこと」
「随分、自信がおありですね」
「夫だからな」
「またそれです」
「事実だろ」
当然のように言われ、アデルは少し笑った。
「最近、本当に便利にお使いになりますね」
「便利なんじゃなくて、慣れた」
「何にでしょう」
「アデルが俺の妻なのに」
あまりにも迷いなく言われ、アデルの方が黙った。
リュシアンはその反応を見て満足したように口元を緩め、そのまま銀髪を肩の後ろへ払った。
「それに、さっき言いそびれた」
「何をです?」
「高台で綺麗だって言ったやつ」
「ああ。星ではないと仰っていましたね」
「アデル」
灰青色の瞳が、まっすぐこちらを見る。
「星見てる時の顔が、一番綺麗だった」
アデルは視線を逸らした。
「……急に仰るのはずるいです」
「帰ってから言うって言っただろ」
「そうでしたけれど」
「約束守った」
「そういう意味ではございません」
リュシアンは笑いながら、アデルを自然に引き寄せる。
アデルの両手も、もう反射的に彼を止めるのではなく、胸元へ添えられた。
近づけば、湯上がりの石鹸の香りがする。その奥には紙と墨、それからよく知っている彼自身の匂いがある。
アデルはふと思い出し、首元へ顔を寄せた。
「……また嗅いでる」
「はい」
「今日は素面だな」
「もちろんです」
「じゃあ言い訳できないぞ」
「言い訳する必要がございません」
アデルは少し得意そうに顔を上げた。
「私にも嗅ぐ権利がございますので」
リュシアンは一瞬黙り、それから低く笑った。
「それを素面で言えるようになったか」
「成長しております」
「変なところばっかり」
「誰の影響でしょう」
「俺だな」
「ご自覚があるなら結構です」
腰へ回っていた腕に少し力が入り、二人の距離がさらに縮まる。
もう、どちらもそれを不自然だとは思わなかった。
恋人だった頃には一つ触れるたび理由を考えていたのに、今では同じ部屋へ戻り、同じ寝台で眠り、互いの体温を知っている。
アデルにとってまだ新鮮ではあるけれど、もう怖いほど未知のものではなかった。
「私は今、とても幸せです」
アデルが静かに言う。
「知らない香りをたくさん嗅いで、ユエ様とお話しして、ライレイ殿下とリュシアン様が友人になって。今日は馬にも乗れて、あんなに綺麗な星まで見られました」
「うん」
「新婚旅行とは、素晴らしいものですね」
「それはよかった」
「そして」
少しだけ頬が熱くなる。
「一番よかったのは、リュシアン様と一緒だったことです」
灰青色の瞳が、ゆっくり細くなった。
「それ、酒入ってないよな?」
「入っておりません」
「じゃあ忘れないな」
「もちろんです」
「なら覚えておく」
「ご自由に」
「何十年後でも言うからな」
「それは少し困ります」
「俺は困らない」
アデルは呆れながらも笑った。
少し背伸びをして、リュシアンの頬へ口づける。
一瞬だけのつもりだったのに、今度は当然のように腰を引き寄せられた。
「それで終わり?」
「……まだ足りませんか?」
「新婚旅行だからな」
「その言葉も随分便利ですね」
「今日は使っていいだろ」
唇が触れた。
昼間に聞いた戦場の話も、王位の争いも、母を失った王子の悲しみも、この部屋までは追ってこなかった。
少なくとも今夜だけは、何かを解決する必要がない。
窓の外には星があり、春の夜風があり、遠い王都からかすかに煙の匂いが届いている。そしてすぐそばには、もう理由を探さなくても触れられる人がいる。
しばらくして唇が離れると、アデルはリュシアンの胸へ額を預けた。
「……やはり、少し書き留めたいです」
「まだ言う?」
「一行だけです」
「何を?」
「星の遠さが決まらないのです」
リュシアンが吹き出した。
「今その話する?」
「大切なのです」
「さっき、グレープフルーツじゃ近すぎるって言ってたな」
「はい。弾ける光は表現できますが、遥か遠くにある感じがありません。コパルを温かく置いて、その上へシルバーバーチで澄んだ夜気を作って、バイオレットリーフを低く……」
アデルはリュシアンの胸元へ頬を寄せたまま考え込む。
「ベイをほんの少し入れれば、草の中を風が抜けるような動きが出るかもしれません。でも強くすると星より地上が勝ってしまいますね」
「難しいな」
「難しいです」
「でも楽しそう」
「とても」
アデルは顔を上げた。
「香らないものを香りにするのは、とても難しいのです。でも、だから作りたいのだと思います」
「星みたいな?」
「星もです」
少し考える。
「愛情も。安心も。平和も」
リュシアンは何も言わずに聞いている。
「今日、四人で食事をした時に、ユエ様が『平和でございますね』と仰ったでしょう。あの時の香りも、きっとあります。焼いたお肉と、香辛料と、お茶と、窓から入ってきた若葉の香り。でも、あの香りそのものが平和だったわけではありません」
「うん」
「それでも、いつか同じような香りを嗅いだら、今日のことを思い出すかもしれません」
「なら、それが平和の香りなんじゃない?」
アデルは瞬きをした。
「……なるほど」
「俺でもたまにはいいこと言うだろ」
「たまに、なのですか?」
「そこ拾う?」
アデルは少し笑ってから、窓の外へ目を向けた。
「今日見た星は、明日も同じ場所にあるのでしょう。でも、今日の私たちが見た星空は、今日しかございません」
リュシアンも同じ窓を見る。
「じゃあ、忘れないように作る?」
「はい」
「完成したら最初に嗅がせて」
「もちろんです」
「名前は?」
アデルは少し考えた。
弾けるグレープフルーツ。
人々の灯りを宿すコパル。
澄んだ夜気のシルバーバーチ。
夜露を含んだ草のようなバイオレットリーフ。
そこへ、風を通すようにほんの少しのベイ。
まだ完成には遠い。
それでも、輪郭はもう見え始めている。
「まだ秘密です」
「ライレイみたいなこと言うな」
「新婚旅行ですので」
「それ便利だな」
「便利でしょう?」
二人で笑った。
その夜、アデルは結局、調香の覚え書きを一文字も書かなかった。
けれど、不思議と忘れる気はしなかった。
馬の背で受けた風も、夜露を含んだ草の青い匂いも、遠い王都から立ち上る煙も、ユエが指で辿った青竜の星も、ライレイとリュシアンが無言で見つめた無数の灯りも。
そして、自分を見つめていた灰青色の瞳も。
どれも香水瓶へ閉じ込める前から、すでに自分の中へ残っていた。
星には香りがない。
愛情にも、平和にも、目に見える形はない。
それでも人は、香らないものまで何かの匂いと結びつけて覚えているのかもしれない。
いつかスピネリアへ帰り、この旅が遠い季節になったあとも。
グレープフルーツの皮が弾ける香りに星の光を思い、コパルの温かさに眼下へ広がっていた人々の灯りを思い出すだろう。シルバーバーチの澄んだ気配にあの夜空を、バイオレットリーフの青さに馬の蹄で踏んだ草を思い出す。
そしてきっと、そのすべての向こうに、隣にいた人の体温まで戻ってくる。
アデルはそんなことを考えながら、リュシアンの胸元へ頬を寄せた。
窓の外では、遠い星が静かに瞬いている。
香るはずのないその光が、今夜だけは春の草と冷たい夜気と、好きな人の匂いをまとい、降り積もってくるように思えた。




