第五十四話 すれ違う香り
セイランに案内されて茶室へ入ると、アデルはまず、その部屋が彼によく似合うと思った。庭へ張り出すように造られた小さな茶室は、王族のための場所としては驚くほど簡素で、磨き込まれた濃い木の柱と生成りの壁、窓辺に活けられた春の終わりの白い花が一枝あるばかりだった。開け放たれた窓からは池を渡った風が入り、朝の名残を含んだ若葉の青さと、陽に温められた石の乾いた匂いを室内へ運んでくる。
華美ではないのに、不思議と落ち着く空間だった。兄弟の多いシャン王家に生まれながら、自分は人を支える方が向いていると穏やかに笑ったセイランにも、どこか同じものを感じる。前へ出て人を圧するより、一歩引いた場所から全体を眺める方が似合う人なのかもしれない。
「どうぞ。座って」
「失礼いたします」
アデルとリュシアンが低い卓を挟んで腰を下ろすと、セイランも向かいへ座った。窓から差し込む午後の光が、後ろで束ねた黒髪の輪郭を柔らかく縁取っている。王族らしく整った顔立ちではあるが、鋭い金色の瞳を持つライレイとは印象が異なり、セイランには人を警戒させない穏やかさがあった。
「ライレイから聞いていたより、二人とも随分気さくだね」
「何と聞いていたのですか?」
「リュシアン殿下は愛想がない。アデル殿下は香りの話になると止まらない」
「否定しにくいな」
リュシアンが答えると、セイランは声を立てずに笑った。先ほど庭で見せていたものと同じ、柔らかな笑みだった。
「それにしても、二人がまたシャンへ来るとは思ってなかったよ。前回は、あまり楽しい思い出ばかりでもなかったでしょう?」
「いろいろございましたね」
「いろいろ、で済ませられるのはすごいな」
穏やかな会話のまま、セイランは卓上へ視線を落とした。窓から流れ込む風が白い花の細い茎をわずかに揺らし、その動きを見つめるように一拍置いてから、彼は何気ない世間話の続きを口にするような声で言った。
「友好国の使節に暗殺者が来るなんて、随分驚かれましたでしょう?」
空気が、ほんの少しだけ変わった。
誰のことを指しているのか、聞き返す必要はなかった。アデルは膝の上で重ねていた指へ、無意識に力を込める。
「ユエ様は、薬師としていらしておりましたので」
「……それでも、過去は消えません」
声音は静かなままだった。責め立てるでもなく、声を荒らげるでもない。ただ動かしようのない事実を卓上へ置くように言われたからこそ、アデルは返す言葉を見つけられなかった。
レン家がかつて担ってきた役割を、アデルも知っている。毒、潜入、諜報、そして必要とあれば暗殺まで。ユエ本人を知っているからといって、その歴史までもなかったことにはできない。
「それは……」
言葉が途切れたアデルの横顔を、リュシアンは一度だけ見た。
ユエを肯定したい気持ちは彼にもあった。むしろ、以前より強くなっている。
アデルには友人が多くない。誰とでも礼儀正しく接するが、人とのあいだには無意識に一定の距離を置く。それがユエと二人でいる時だけは少し違う。香料と薬草の話になれば目を輝かせ、仕事の顔とは異なる年相応の笑い方をする。昨日、ユエの工房へ向かったアデルの背中がいつになく弾んでいたことを、リュシアンはよく覚えていた。
自分といる時のアデルを、リュシアンは好きだ。それでもユエの前で見せるアデルの表情には、自分では引き出せないものがある。その時間まで失わせたいとは思わなかった。
「少なくとも、俺たちはユエ嬢本人を見て判断している」
リュシアンが静かに口を開くと、セイランの視線が彼へ向いた。
「家が何をしてきたかと、今その人間が何をしているかは別だ」
「随分、信用しているんですね」
「アデルが信用してるからな」
「リュシアン様」
思わず名前を呼ぶと、彼はわずかに肩を竦めた。
「もちろん俺自身も見てる。でも、妻が楽しそうにしてる相手を、昔の話だけで切り捨てたくはない」
アデルは何も言えず、しばらくリュシアンの横顔を見つめた。自分の友人だから庇っているのではない。アデルにとって大切な存在であることまで含めて、ユエを認めてくれている。そのことが、胸の奥へじんわりと温かく残った。
セイランは二人を順に眺め、それから少しだけ肩の力を抜いた。
「……仲がいいんですね」
「新婚ですので」
アデルが答えると、リュシアンが意外そうにこちらを見る。
「それ、自分から言えるようになったな」
「昨日までとは違います」
「昨日のこと、全部覚えてるんだろ」
「今はその話をしておりません」
わずかに緩んだ空気へ、セイランも苦笑を浮かべた。
ちょうどその時、控えていた使用人が茶器を運んできた。淡い青磁の急須と小ぶりの湯呑みが卓上へ並べられ、乾燥させた薬草と茶葉へ静かに湯が注がれる。
熱を含んだ茶葉がゆっくりと開き、湯気とともに香りが広がった。柔らかな茶の青さの奥に、熟した果実を思わせる丸い甘みがあり、さらに遅れて乾燥した根のような土気を帯びた重さと、わずかな苦みが鼻の奥へ残る。
アデルは何気なく息を吸い、そのまま少しだけ首を傾げた。
「良い香りですね。でも、どこかで……」
湯呑みにはまだ触れず、もう一度香りを確かめる。香料として扱った記憶ではない。もっと身近な場面で、誰かと話をしながら嗅いだ気がした。
目を閉じ、嗅覚を手掛かりに記憶の底へ潜る。春ではない。もっと寒い季節。祝祭のあと。身体へ残った疲労、温かな室内、手首に触れた冷たい指先。
「ああ」
隣で、リュシアンが先に声を上げた。
「あれじゃないか。結婚式の次の日、ユエ嬢が出してくれた回復のお茶」
その言葉で、記憶が一気につながった。
「ああ! それです。確かに同じ香りです。少し甘くて、根のような香りが残る……」
「あの時、脈まで測られたからよく覚えてる」
リュシアンが苦笑した。
「ふふ。そんなに疲労がお顔に出ていたのでしょうか」
「誰のせいだと思ってる?」
「婚礼は大変でしたものね」
「そういうことにしておくか」
二人にとっては、ただの思い出話だった。婚礼の翌朝、疲労した身体を案じたユエが茶を淹れ、脈を取り、顔色を確かめた。それだけのこととして記憶に残っていた。
アデルは笑ったまま正面へ視線を戻し、そこでようやく気づいた。
セイランは笑っていなかった。
つい先ほどまで穏やかだった顔から柔らかさが消え、黒い瞳がじっと二人を見据えている。卓上で組まれた指には力が入り、薄く結ばれた唇は血の気を失っていた。単に驚いているのではない。二人の言葉の中から、何かを必死に拾おうとしている顔だった。
開けた窓から春の風が入り、白い花の香りをかすかに揺らした。それでも先ほどまで心地よかった茶室の空気だけが、不自然に冷えたように感じられる。
「……セイラン殿下?」
「……は、失礼」
呼びかけられたセイランは、一度大きく瞬きをした。口元へ微笑みを戻そうとしている。しかしそれは、最初に見せた自然な笑みとは違い、笑わなければならないと自分へ言い聞かせているような表情だった。
「脈まで取られるとは、一体どんな経緯だったので?」
「このお茶をいただく前に、ユエ様から体調を確認されたのです」
アデルは当時を思い返しながら答える。
「たしか、心臓の弱い方には逆にお身体の負荷になってしまう、というお話だったかと」
「……心臓の、弱い体質ですか」
精一杯作っていた微笑みが、今度こそ完全に消えた。
アデルは、やはりユエの話が気に障ったのだろうかと思った。リュシアンも、その程度に考えている。ただ、セイランの顔色が目に見えて変わったことには気づいていた。
これ以上踏み込むべきではない。少なくとも、この場で問い詰めるような話ではないだろう。
リュシアンは自然に変えられる話題を探し、少し前にシャンとスピネリアを巻き込んだ一件を思い出した。
「そういえば、先日の森の件。今は問題ないのか?」
「え、ええ。お陰様で」
セイランの返事はわずかに遅れた。急に話題が変わり、意識だけがまだ先ほどの言葉の中へ置き去りにされているようだった。それでも二度ほど瞬きをすると、ゆっくり姿勢を整えた。
「今は大きな問題は起きていません。森を完全に閉ざすのではなく、管理下に置きながら利用する形に落ち着きました」
「それはよかった。第三王子殿下の人柄に救われたな」
「はい。第三の兄上は、昔からああいう人なんです」
兄の話になったことで、セイランの顔に少しずつ自然な温度が戻っていく。
「森の警備をしながら薬草や資源の採集を管理していて、誰がいつ森へ入り、どこから何を採ったのか、現場を見るのが第三の兄上です。それを帳簿にまとめ、王宮で管理しているのが第二の兄上になります」
「役割を分けているのですね」
「ええ。第三の兄上は人情深い方で、困っている人を見ると放っておけないんですよ。母上である第三王妃殿下もとても朗らかな方ですから、後宮の中では、あの親子が一番普通の親子らしいかもしれません」
「お母様の影響だったのですね。素敵です」
「そうかもしれません。第三の兄上が誰かを助ける時は、見返りを考えていませんから」
そこには、兄への素直な敬意があった。
「第二の兄上は?」
リュシアンが尋ねると、セイランは少し考えるように視線を落とした。
「才覚もありますし、努力もされる方です。ただ、ご本人は少し不遇だと思っているようですね。何をしても長兄が優先されたり、成果だけを見れば第三の兄上に注目が集まったりして、ご自分は機会に恵まれないとよく仰っています」
「だから帳簿や管理を任されているのか?」
「今はそうですね。ただ、数字や管理は本当に得意なんです。本人が望んでいる役割とは少し違うだけで」
「森の件に関わっているのは、王子お二人なのですね」
「はい。あの一件はスピネリアの皆様に助けていただいたことですから、聞きたいことがあれば包み隠さず何でもお教えしますよ」
そう言った時には、セイランはほとんど最初の穏やかな王子へ戻っていた。
アデルもようやく湯呑みを手に取り、香りを確かめてから一口含む。華やかさのある茶ではない。柔らかな甘みのあとへ薬草特有の苦みが重なり、飲み込んでしばらくすると身体の芯へじわりと熱が残った。
その温かさを感じながら、アデルは先ほどセイランが口にしていた言葉を思い出した。
「セイラン殿下のお母様も、このお茶を好まれているのでしたね」
その瞬間、セイランの指が湯呑みの縁で止まった。
「……正確には、『好んでいた』ですね」
「あ……失礼いたしました」
アデルはすぐに湯呑みを置いた。
「お辛いことを思い出させてしまって」
「いえ。もう随分前のことです」
セイランの声音は穏やかだったが、視線は遠く、春の庭よりさらに向こうにある過去を見ているようだった。
「ライレイの母を含め、王妃は五人おりますが、今も健在なのは三人です」
「そうでしたか」
「母は元々、身体が弱い人でした。おそらく後宮で権力を持ちたい実家の意向で、無理に入内させられたのだと思います」
「まあ……」
「王の子を産めば、家は強くなる。でも、子を産むのは家ではありませんからね」
淡々とした言葉の奥に、長い年月を経ても消えきらない苦みがあった。
「母が産んだのは僕一人です。それでも、かなり身体に負担がかかったらしい」
「出産そのものがお身体へ大きな負担になりますものね」
「一番多いのは第一王妃かな。王子を二人、王女を一人。三人とも無事に育っています」
「三人も……」
アデルの瞳に、先ほど香木を前にした時とは別種の知的な光が宿る。
「スピネリアは一夫一妻制ですので、五人の王妃が同時にいらっしゃる環境自体がとても不思議です。後宮では出産や産後の回復についても、相当知見が蓄積されているのでは――」
「アデル」
横からリュシアンの声が入った。
「はい?」
「仕事の目になってる」
言われて、アデルは自分が今にも質問を始めそうになっていたことへ気づいた。
「ああ……失礼いたしました」
「いや、面白いけどね」
セイランはようやく自然な笑みを浮かべた。
「でも今日は新婚旅行なんでしょう?」
「そうでした」
「忘れるなよ」
「忘れてはおりません」
リュシアンが呆れたように笑ってから、セイランへ向き直る。
「セイラン殿下も、貴重な時間を割いてくれて感謝する。今度はぜひスピネリアにも来てほしい」
「ありがとうございます。機会があれば、ぜひ」
セイランは立ち上がると、窓の外へ一度だけ視線を向けた。午後の陽射しは少し傾き始め、庭の木々の影が水面へ長く伸びている。
「僕も長々と話してしまいましたね。用事を思い出したので、そろそろ失礼します」
「ありがとうございました」
「庭もいいですが、ライレイは機能美が好きなので、執務室へ行くと面白いですよ」
「機能美、ですか」
「見れば分かります」
穏やかな微笑みを残し、セイランは一礼して茶室を出ていった。その横顔には、先ほどまでの動揺はほとんど見えなかった。
*
茶室を離れたあとも、セイランはすぐには自室へ戻らなかった。
春の午後の光が白壁に反射し、長い回廊へ薄い明暗を落としている。開いた窓から風が入り、庭の若葉と、どこかで焚かれている乾いた香木の匂いを運んでいた。その穏やかな香りの中を歩いているのに、頭から離れないのは、先ほどの茶だった。
『心臓の弱い方には逆にお身体の負荷になってしまう』
歩みが止まる。
舌にも鼻にも、まだあの茶の余韻が残っている。幼い頃から何度も嗅いだ香りだった。
母が飲んでいた茶。
身体が弱い母へ、少しでも元気になってほしいと自分が勧めた茶。
珍しい薬材が入った滋養の茶だと聞き、わざわざ取り寄せて届けた。母はいつも困ったように笑いながら、それでも嬉しそうに受け取ってくれた。
『ありがとう、セイラン』
細い指で頭を撫でてくれた感触まで、急に鮮明に思い出す。
その頃から、母は少しずつ弱っていった。
息切れが増え、寝台で過ごす時間が長くなり、やがて自力では庭へ出ることもできなくなった。
誰かに毒を盛られている。
そう考えたのは、後宮に育った王子としては不自然なことではなかった。誰かを失脚させるために毒が使われることも、病死に見せかけた死があることも、幼い頃から知っていた。
だから、レン家に調べさせた。
当時まだ若かったユエが、母の食事、薬、茶、香炉、寝具、侍女の出入りまで調べた。毒について誰より詳しい家なら、必ず何かを見つけるはずだと思っていた。
けれど、返ってきた答えは短かった。
『ご体質によるものです』
それだけだった。
納得できなかった。あれほど急に弱るものなのか。毒ではないというなら、なぜ詳しく説明しないのか。レン家が何かを隠しているのではないか、自分たちが関わった痕跡を消したのではないか。そんな疑念は一度根を張ると、母が亡くなったあとも消えなかった。
「……心臓の弱い方には、負荷になる」
誰もいない回廊で、セイランは小さく呟いた。
もし、あの茶だったのなら。
ユエは知っていたのではないか。
母の身体を弱らせていたものが何なのか。そして、それを誰が持ち込んだのかまで。
自分だ。
胸の奥へ鈍い重さが落ち、セイランは回廊の柱へ片手をついた。
まだ断定するべきではない。同じ茶でも配合や量が違う可能性はある。母の死そのものは元々抱えていた病によるものだったのかもしれない。
けれど、今になって思い返せば、あの時のユエの顔が違って見える。
いつもと変わらない無表情で、
『ご体質によるものです』
それ以上は何も言わなかった。
「……そういうことか」
あれは、レン家を守るための隠蔽ではなかったのではないか。
少なくとも、自分が疑ってきた意味とは違った。
母のためにしたことが、かえって身体へ負担をかけていた。その事実を、まだ少年だった自分へ突きつけないために、ユエは言わなかった。
セイランは目を閉じた。
ユエを優しい人間だと思ったことはなかった。今でも、世間一般が思う優しさを持っているかと聞かれれば、首を傾げるだろう。必要であれば人を傷つけるし、毒も使う。命令と契約があれば、人を殺すことさえためらわない。
けれど、彼女は人を殺すことそのものを喜ぶ人間ではない。
対価に厳しく、依頼の範囲を明確にし、必要以上のことを決してしない。以前はその姿勢を冷酷さだと思っていた。
今は、少し違って見える。
対価を曖昧にすれば、私情になる。
助けたいから助ける。嫌いだから傷つける。そんな判断を始めれば、レン家が扱ってきた力はたやすく人を壊す。
だから、線を引く。
自分の感情で命を選ばないために。
そのくせ、線の内側では、誰にも気づかれないように人を傷つけまいとする。
「……強い人だな」
口にしてから、その言葉に自分自身が驚いた。
ずっと、恐ろしい女だと思っていた。今も恐ろしくないとは言わない。けれど、それだけではないのだろう。
セイランは顔を上げた。
今すぐ執務室へ向かい、ユエを問いただそうとは思わなかった。まだ、自分の中で言葉にできるほど整理できていない。それに、もし本当に彼女が意図して黙っていたのなら、その沈黙をこちらの感情だけで暴くのも違う気がした。
春の風が回廊へ吹き込み、衣の裾を揺らした。
母が飲んでいた茶の香りは、もうどこにもない。それでも、記憶の奥には甘さよりも苦みの方が長く残っていた。
*
茶室を出たアデルとリュシアンは、ライレイの執務室へ向かっていた。庭から建物の奥へ戻るにつれ、花と水の香りは少しずつ薄くなり、代わりに乾いた木材と紙、それから墨の匂いが濃くなっていく。
「セイラン殿下、途中で少し暗いお顔をされていましたよね」
「ああ。おそらく、お母上のことだろうな」
「やはりそうでしょうか」
「憶測だけど、レン家と何かあったのかもしれない。ユエ嬢の話をした時から、少し様子が変わってた」
「悲しいことですね。ご家族を亡くした時に疑念まで残ってしまったら、どこへ気持ちを置けばよいのでしょう」
「本人にしか分からないだろうな」
「……はい」
二人はそれ以上、その話を掘り下げなかった。事情を知らない者が想像だけで過去を決めつけるべきではないということを、これまでいくつもの事件を通して知っている。
やがてライレイの宮でも奥まった区画へ入ると、アデルは周囲を見回して少し驚いた。勝手な想像では、ライレイの執務室はもう少し雑然としていると思っていたのだ。
本人は気分で動き、思いついたことをそのまま口にし、どこか掴みどころがない。机の上にも書類が積み上がり、必要なものをその山から適当に抜き取っていそうな人物である。
ところが、実際は正反対だった。
執務室へ続く廊下には必要な備品室が順序よく並び、文書庫から執務室までの距離も短い。筆や紙を扱う小部屋、封蝋や印章を管理する棚、使者が待機する控えの間まで、働く人間が余計な一歩を歩かなくて済むよう設計されている。
「……本当に機能美ですね」
「セイラン殿下が言ってた意味が分かったな」
装飾は少ないが手入れは行き届き、壁際の細身の香炉からはごく薄い沈香が香っている。そこへ紙と墨の乾いた匂いが重なり、昨日ライレイが選んでいた文具の店を思い出させた。
「文具屋がお好きなのも、少し分かる気がします」
「無駄が嫌いなんだろうな」
「ご本人はあんなに自由なのに」
「自由にするために、周りを整えてるのかもしれない」
その解釈に、アデルは少し納得した。
執務室の前へ着くと、リュシアンが扉を軽く叩いた。
乾いた木の音が廊下に二度響く。
「誰?」
中から返ってきた声に、アデルは思わず背筋を伸ばした。
低く、冷たい声だった。昨夜、酒を飲みながら笑っていた男とも、今朝「よっぱらいアデルちゃん」と楽しそうにからかってきた人物とも思えない。
王太子として働いている時は、これが普通なのだろう。
リュシアンはまるで気にした様子もなく答えた。
「俺だ」
一瞬の沈黙のあと、声が見事なほど変わった。
「リュシーか! どうぞー、入っていいよー」
「失礼する」
「……失礼します」
扉を開けながら、アデルはまだ少し固まっていた。
執務机の向こうにいるライレイは、朝とは違い、黒と深紅を基調とした王太子らしい執務着へ着替えていた。赤褐色の髪もきちんと結われ、金色の瞳には仕事中らしい鋭さが残っている。それでも二人を認めた途端、顔つきが目に見えて緩んだ。
「ちょうどよかった。休憩しようと思ってたんだ。いい口実が来てくれたよ」
横の机で書類を確認していたユエへ顔を向ける。
「ユエもね」
「まだ三刻ほどしかお仕事をなさっておりませんが」
「三刻も、でしょ」
「ただいまお茶をお出しいたします」
ユエはそれ以上相手にせず立ち上がった。濃い藍の衣にまとめた黒髪、深紅の瞳という姿は昨日の工房と変わらないが、仕事中だからか表情はさらに端正に引き締まっている。
「アデル?」
リュシアンに小さく呼ばれ、アデルはようやく我に返った。
「はい」
「固まってる」
「先ほどのライレイ殿下のお声が……」
「ああ」
「少し、怖かったです」
正直に言うと、本人が聞きつけた。
「え、俺?」
「扉の外からのお声が、とても」
「あれ普通だよ。仕事中だし」
「普通なのですか?」
「リュシーには使わないけど」
「差がありすぎるだろ」
「友達だから」
さらりと言われ、リュシアンの灰青色の瞳がわずかに和らぐ。
「それなら仕方ないな」
「仕方ないのですか」
アデルが二人を見比べると、戻ってきたユエが小さく口元を緩めた。
茶が配られる頃には、ライレイも執務机から離れ、応接用の卓へ移っていた。
「どうだった? 展示室」
聞かれた途端、アデルの表情が明るくなる。
「素晴らしかったです。六国五味という考え方を教えていただきました」
「気に入ったんだ」
「はい。香りを『嗅ぐ』のではなく『聞く』と表現することも、とても興味深くて」
伽羅のこと、羅国のこと、五つの味で香りを捉えることを説明しているうち、自然と手まで動き始める。ライレイは楽しそうに頷き、ユエも茶を配り終えたあと静かに耳を傾けていた。
「図書館も行ったの?」
「少しだけですが。薬草の棚も拝見しました」
「いかがでした?」
ユエに尋ねられ、アデルの瞳がさらに輝いた。
「まだ全部は見られておりません。また明日も行ってよろしいでしょうか」
「もちろんにございます」
「明日も行くのか」
リュシアンが呆れたように笑う。
「まだ三分の一も見ておりません」
「新婚旅行だぞ」
「図書館も旅行です」
「昨日も似たようなこと聞いたな」
軽い笑いが四人の間へ広がった。
その流れで、リュシアンが思い出したように言った。
「庭で第五王子殿下にも会った」
「セイラン兄上?」
ライレイの表情が少しだけ変わる。
「ああ。茶に誘われた」
「珍しいね。兄上、自分から客を誘うことあんまりないのに」
「お母上が好きだった茶だと仰っていました」
アデルがそう言った瞬間、茶を注いでいたユエの手がごくわずかに止まった。
本当に一瞬だった。けれど昨日一日を共に過ごしたアデルには、それが見えた。
「ユエ様?」
「……何でもございません」
ユエはすぐに茶を注ぎ終え、深紅の瞳もいつもの静けさへ戻っている。
リュシアンがライレイへ視線を向けた。
「レン家のことを、あまりよく思っていないようだった」
「まあね」
ライレイは驚かなかった。
「昔から少しあるんだよ。ユエにも」
「殿下」
ユエが静かに制すると、ライレイはすぐに察した。
「本人が話してないなら、俺から細かく言わない方がいい?」
「はい」
「了解」
それ以上踏み込まず、ライレイは茶を一口飲んだ。
「まあ、悪いやつじゃないよ。頭もいいし、自分が王に向いてないって認められるくらいには冷静だし」
「その点は俺も好感を持った」
「でしょ?」
ライレイは頬杖をつき、窓から差す春の光を横顔に受けながら笑った。
「最後は分かってくれると思うけどね」
ユエは何も答えなかった。ただ、深い赤の瞳を湯呑みの水面へ落とし、そこに映る揺れる光をしばらく見つめていた。
アデルも、それ以上は聞かなかった。
友人だからといって、すべてを知る権利があるわけではない。話したい時が来れば、ユエはきっと自分から話してくれる。その時を待つことも、友人であることの一つなのだろう。
「そうだ」
ライレイが不意に顔を上げる。
「今日もユエは泊まるから、午餐も一緒に食べようよ」
「殿下」
「先日のこともあるし」
「……それを理由になさるのですね」
「正当な理由でしょ」
ユエは小さく息を吐いたものの、否定はしなかった。
「アデルちゃんたちも予定ないんでしょ?」
「今のところは」
リュシアンが答える。
「でしたら、ぜひご一緒したいです」
「決まり」
ライレイは満足そうに笑った。
開けた窓から午後の風が入り、机の上に積まれた紙の端を静かに揺らす。墨と沈香の淡い匂いの向こうからは、春の若葉の青い香りが流れ込んでいた。
茶室で交わした言葉も、セイランの一瞬の表情も、ユエがほんの僅かに曇らせた瞳も、まだ何一つ解決したわけではない。
それでも、今は無理に答えを求める時ではないのだろう。
アデルは手の中の温かな茶へ口をつけた。
香りには、初めて嗅いだ瞬間には分からず、別の場所で同じものへ出会った時に初めて意味を持つものがある。
人の気持ちも、きっと同じなのだ。




