第五十三話 聞き分ける香り
朝、目を覚ました瞬間、アデルは昨夜のことを何一つ忘れていない自分に気づいた。開け放たれた窓の向こうでは、春の終わりの柔らかな陽光がシャン王宮の瓦屋根を照らしている。夜のあいだに降りた露の匂いと、庭のどこかで焚かれている薄い沈香が風に混じり、異国らしい静かな朝の香りを寝室まで運んでいた。本来なら、知らない国で迎える新婚旅行の朝として申し分のない景色だった。
しかし、アデルは寝台の中で目を開けたまま、しばらく身動きひとつできなかった。
白檀の煙。紹興酒のまろやかな甘み。楽しそうに笑うライレイ。妙に真剣な顔で質問を重ねるユエ。そして、自分が何を聞かれ、何を答えたのか。そのすべてが、酒の抜けた頭の中へ驚くほど鮮明に残っている。
(どうして、こういう時だけ記憶力がよろしいのでしょう)
宮廷調香師としては、香りや配合を正確に記憶できることは長所である。仕事であれば誇ってよい。けれど今朝ばかりは、自分の能力を恨めしく思った。
『寝台の上でもお優しいですよ』
『心地よいですか?』
『はい』
記憶が勝手に再生され、アデルは両手で顔を覆った。指の隙間まで熱くなっていく気がする。
「起きた?」
すぐ近くから聞き慣れた声がして、肩が跳ねた。
恐る恐る顔を向けると、リュシアンはすでに寝台を出ていた。白いシャツに濃紺の脚衣という簡素な朝の装いで、黒髪はまだ完全には整えられていない。王太子として人前へ立つ時の隙のない姿とは違い、襟元も少し緩く、朝の光を受けた灰青色の瞳には、ひどく私的な柔らかさがあった。
「お、おはようございます」
「おはよう」
リュシアンは口元を緩めた。何も言わない。そのくせ、昨夜のことをすべて覚えていると分かっている顔だった。
アデルは耐えられず、毛布を鼻先まで引き上げた。
「……何も仰らないでくださいませ」
「まだ何も言ってない」
「お顔が仰っています」
「どんな顔?」
「大変楽しんでおられる顔です」
「まあ、楽しかったからな」
アデルは今度こそ毛布を頭まで被りたくなった。
「全部覚えてる?」
「その質問もやめてください」
「覚えてるんだな」
「忘れてくださいませ」
「無理」
返事が早い。アデルは毛布の中から恨めしげに顔だけを出した。
「なぜです?」
「嬉しかったから」
「何がですか」
「全部」
あまりに平然と言われ、今度は怒るきっかけまで失ってしまう。
「顔も好き、声も好き、手も好き、匂いも好きだったか」
「リュシアン様」
「あと寝台の上でも」
「それ以上仰ったら、本当に怒ります」
ようやく身体を起こして睨むと、リュシアンは肩を揺らして笑った。その笑顔は完全にからかっているのに、どこか満足そうでもあった。
考えてみれば、この人は以前からそうだ。王太子としては誰に好かれているかなどいちいち確かめる必要もないほど人に囲まれているのに、アデルの気持ちについてだけは妙に欲深い。少し好意を示せば嬉しそうにし、言葉にすれば何度でも覚えている。
その理由を、今ではアデルも少し理解している。
与えられる好意と、自分が欲しい相手から選ばれることは、きっと別なのだ。
そう思ってしまうと、完全には怒れなかった。
「……もうお酒は控えます」
「それ、前にも聞いた」
「今度こそです」
「紹興酒だけ禁止にする?」
「そうします」
「ライレイが泣くな」
「知りません」
寝台から足を下ろした瞬間、頭の奥に鈍い重さが響いた。思わず眉を寄せると、リュシアンがすぐに気づく。
「頭痛い?」
「……少しだけ」
「水、飲め」
卓上に用意されていた水を差し出され、アデルは素直に受け取った。
「こういうところです」
「何が?」
「お優しいところです」
言ってから、昨夜と同じことを言っていると気づいた。
リュシアンも気づいたらしい。灰青色の瞳が愉快そうに細くなる。
「また聞かれてもそう答える?」
「もう誰にも聞かせません」
今度こそ、アデルはきっぱり答えた。
*
朝餉の間へ入ると、ライレイとユエはすでに席についていた。東向きの窓から春の朝日が斜めに差し込み、薄い簾の向こうで若葉が風に揺れている。卓には白粥、蒸した魚、青菜、卵を使った小さな料理が並び、湯気の向こうに乾燥した柑橘と生姜に似た香りが漂っていた。
アデルの姿を認めた瞬間、ライレイの金色の瞳が楽しそうに細くなった。
「おはよう、よっぱらいアデルちゃん」
「……おはようございます」
「全部覚えてる?」
「聞かないでくださいませ」
「その顔は覚えてるねえ」
「殿下、朝からおやめくださいませ」
ユエが静かに遮った。
助け舟だ。
アデルが思わず感謝を込めて見つめると、ユエは昨夜と変わらぬ涼しい顔で一つの湯呑みを差し出した。
「アデル様、二日酔いに効くお茶でございます」
「ユエ様も朝餉をご一緒できるのですね。嬉しいです。そして今朝ほどユエ様が心強く見えたことはございません」
「光栄にございます」
受け取った湯呑みからは、生姜のような穏やかな刺激と乾燥した柑橘の皮の爽やかさ、それから薬草特有のわずかな苦みが立ち上っていた。そっと口をつけると、温かな液体が乾いた喉を通り、重かった胃の底へゆっくり落ちていく。
「……美味しいです」
「二日酔いでなければ、もう少し苦く感じるかと」
「今はこの苦みさえありがたいです」
アデルは両手で湯呑みを包み、しみじみともう一口啜った。
「ユエは昨日、俺のところに泊まったからね」
ライレイが粥を食べながら何気なく言った。
アデルは湯呑みの縁越しにユエを見る。
「先日のこともございましたから」
ユエは何事もなかったように答える。
先日のこと、と言われれば、何を指しているのかは聞かなくても分かる。ライレイが薬を盛られ、女官に襲われた件だろう。それを思えば、今は一人にしないという判断にも十分理由がある。
しかし、昨夜の会話がまだ生々しく残っているせいで、アデルはそれ以上のことまで考えそうになり、黙って茶を飲んだ。
「昨日、今夜はひとりで寝ろって言われてなかったか?」
隣でリュシアンが淡々と指摘した。
ライレイが少しだけ肩を竦める。
「そこはまあ」
「殿下が廊下でお待ちになる方が余計に面倒でしたので」
ユエが答えた。
「待ってたのか?」
「少しだけ」
「少しではございません。諦めずに扉の前にいらっしゃいました」
「だって中に入れてくれないから」
「反省していただくためです」
「反省したよ」
「十分ほどで?」
「俺としては長い方だよ」
「それは反省とは申しません」
いつもの調子だった。それでも、ユエの前の湯呑みが空きかけていることにはライレイがすぐ気づき、話をしながら自然に茶を足してやっている。ユエも礼を言うでもなく受け入れていて、それが二人にとってもう当たり前の動作なのだと分かった。
四人で同じ卓を囲み、昨夜の話を少し蒸し返し、今日の予定を相談しながら朝食を食べる。王宮での食事にはいつも役割があった。公務なら相手との会話があり、晩餐なら作法があり、夫婦二人で食べる朝食にもその日の予定がついて回る。
けれど今朝は、誰かの家へ泊まり、前夜に酒を飲み、翌朝もそのまま同じ顔ぶれで食卓を囲んでいるだけだった。
こういう時間を、アデルは知らなかった。
有名な建物を見ることだけが旅行ではないのだろう。後になって思い出すのは、案外こうした何でもない朝なのかもしれない。
「それで、二人は今日はどうするの?」
ライレイが尋ねた。
リュシアンはパンをちぎる手を止め、少し考えた。
「何も決めてなかったな」
「珍しいね」
「そもそもシャンに何があるか、ろくに知らないからな」
言われてみればその通りだった。今回の新婚旅行には、細かな予定表がない。名所を巡るためではなく、ライレイとユエに会いたい、以前とは違う立場でもう一度シャンを訪れたいというところから始まった旅だった。
「じゃあ今日は、王宮の展示室を見たら?」
「展示室?」
「歴代の王が集めた品を保管してる場所。交易品とか古い書物とか、香木もかなりあるよ。普段は管理人がついてるから、その人を案内につける」
「貴重な香木が?」
アデルの声が明らかに明るくなった。
「よろしいのですか?」
「もちろん」
「……貴重な香木」
「もう頭痛忘れたな」
リュシアンが笑う。
「忘れてはおりません。でも香木は別です」
「どう別なんだ」
「別なのです」
さらにユエが、アデルへ追い打ちをかけるように続けた。
「図書館もよろしゅうございますよ。伊達に王宮ではございません」
「図書館……!」
「香料の知見についてはスピネリアほどではございませんが、薬草や医学関係の収蔵はなかなかのものにございます」
「薬草の棚まで……」
先ほどまで二日酔いでわずかに青ざめていた顔に、みるみる生気が戻っていく。光を受けたアレキサンドライトの瞳が鮮やかな緑を帯び、長い銀髪まで朝の光を反して明るく見えた。
リュシアンはその様子を横から眺め、満足そうに口元を緩めた。
旅先で何を見せれば喜ぶのかなど、出発前にはほとんど考えていなかった。けれど、こうして目の前で嬉しそうにされるだけで、来てよかったと思えてしまう。
「うれしそうでよかった」
ライレイも笑った。
「あと俺の宮は好きに歩いていいよ。庭も茶室も。表の池はちょうど花が咲いてるから」
「ライレイは今日は公務か?」
「そうだね。ユエと一緒に執務室にいるかな。昨日の分もあるし、溜めると父上がうるさいから」
「当然にございます」
「ユエまで父上側なの?」
「仕事に関しては」
「冷たいなあ」
「何かございましたら、執務室へお越しくださいませ」
「はい」
アデルはもう一度、二日酔いの茶を口にした。先ほどより薬草の苦みが薄く感じる。身体が戻ってきたというより、楽しみの方が勝ち始めたのかもしれない。
*
朝餉を終えると、ユエが先に席を立った。
「わたくしは先に執務室へ参ります」
「もう行く?」
「殿下がお戻りになるまでに、昨日の書類を整理いたします」
「働き者だねえ」
「殿下の分もございますので」
「急に嫌な予感がしてきた」
ユエはわずかに笑い、一礼して朝の回廊を歩いていった。藍色の衣の裾が揺れ、黒髪をまとめた髪飾りが光を反す。角を曲がって姿が消えるまでライレイが何となくその背中を見ていたことに、アデルは気づいた。
「じゃあ、俺は案内人を呼んでくるよ」
ライレイも立ち上がる。
その背中がこちらへ向いたところで、アデルは昨日の工房で感じたことを思い出した。
「あ、ライレイ殿下」
「ん?」
「少しだけ。お耳を」
指先で耳を示すと、ライレイは不思議そうに眉を上げながら長身を屈めた。アデルも少し背伸びをし、ほかには聞こえないよう声を落とす。
「ユエ様の工房は、殿下への想いで溢れておりましたよ」
一瞬、ライレイが止まった。
それから堪えきれないように笑う。
「ふはは。それはユエ、俺には見せたがらないわけだねえ」
からかうような口調なのに、その表情だけはまるで違った。金色の瞳がゆるやかに細まり、口元には隠そうともしない幸福が滲んでいる。
昨日、街を案内していた時の気安い顔とも違う。外交の場で浮かべる、人の心を読ませない微笑でもない。
ただ、自分のいない場所でも大切に思われていると知った男の顔だった。
この国へ来るたび、ライレイは何かと戦っている。兄弟との王位争い、後宮の思惑、見えない敵。本人はいつも軽口を叩いているが、その実、王族として生きている限り完全に武器を置くことなどできないのだろう。
そんな人にとって、ユエという存在がどれほど大きいのか。
今の表情だけで十分だった。
「こら」
突然、腰の辺りを後ろへ引かれた。
振り返れば、リュシアンが明らかに面白くなさそうな顔をしている。
「近い」
「お耳を貸していただいただけです」
「顔まで近づける必要ないだろ」
「遠くから耳打ちはできません」
「普通に小声で話せばいい」
「リュシー、まだそこ気にするんだ」
ライレイが嬉しそうに笑った。
「早く公務に行け」
「はいはい。案内人、すぐ連れてくるから」
片手をひらひら振りながら歩いていく背中を見送り、アデルは隣の夫を見上げた。
「……嫉妬なさったのですか?」
「した」
即答だった。
アデルは思わず笑う。
「随分と素直になられましたね」
「隠す意味ないだろ。夫なんだから」
「最近、その言葉を便利に使っておられませんか?」
「便利だからな」
「もう」
呆れた声を出しながらも、嫌ではなかった。
*
王室展示室は、王宮北側の静かな一角に設けられていた。歴代王の武具や宝飾品を飾る華やかな宝物庫とは異なり、こちらには交易や学術のために集められた品々が収蔵されているらしい。
案内についたのは、白髪を後ろで束ねた老齢の男だった。焦茶色の長衣を纏い、腰には何本もの鍵と、小さな革張りの記録帳を下げている。柔和な顔立ちではあるが、展示品を扱う指先には長年の慎重さが染みついていた。
「長年こちらの収蔵品を管理しております、シュウと申します」
「アデル・スピネリアです。本日はよろしくお願いいたします」
「リュシアン・スピネリアだ。世話になる」
「王太子殿下より、香木を中心にご覧になりたいと伺っております」
「はい。ぜひ」
返事に力が入りすぎたらしく、隣でリュシアンが小さく笑った。
展示室の奥へ進むにつれ、空気の質が少しずつ変わっていく。長い年月を吸い込んだ紙と木箱の乾いた匂い、布に残ったかすかな防虫香、乾燥薬草の青さ、金属器具の冷たい気配。それぞれが入り混じらないよう、品目ごとに部屋が分けられていた。
香木を収める区画だけは、さらに二重の扉で隔てられていた。
「香りを保存するために、香らせないようにするのですね」
アデルが感心すると、シュウが鍵を回しながら頷いた。
「香木は焚けば減りますし、空気へ晒せば少しずつ性質も変わります。特に古い品ほど、保管している時間の方が長うございます」
重い扉が開く。
室内には大小の木箱が整然と並べられていた。宝石のような華やかさはない。けれどアデルには、それらがどんな宝飾品より魅力的に見えた。
樹脂を抱え、長い年月を経て、遠い土地からこの場所まで運ばれてきた木。その一本一本に、時間と場所の記憶が詰まっている。
「……素晴らしい」
思わず声が漏れた。
シュウはそれを聞いて少し嬉しそうに笑った。
「こちらでは香木を扱う際、『六国五味』という考え方を用います」
「六国五味?」
「はい。香木を六つの系統に分け、さらに香りの性質を五つの味へなぞらえて聞き分ける方法でございます」
「聞き分ける、ですか」
アデルの表情が変わる。
「嗅ぐのではなく?」
「香りを『聞く』と申します」
その言葉だけで、胸が少し高鳴った。
「香りを、聞く……」
「ただ匂いを取るのではなく、その木が何を持っているのかへ意識を澄ませる。そのため、こちらではそう表現いたします」
アデルはゆっくりその言葉を噛みしめた。
スピネリアにおいて、香りは多くの場合、組み立てるものだ。花、樹脂、果皮、木、動物性香料。それぞれの性質を理解し、何を前へ出し、何を支えに回すかを考えて一つの香りを作る。
けれど、シャンの香木は違う。
一片の木から、自分が何を受け取るのかを探す。
「面白いですね」
「アデルが好きそうだな」
「とても」
即答すると、リュシアンの口元がまた緩んだ。
シュウは小さな香炉を用意し、灰の中へ熱源を仕込んだ。その上へ薄い板を置き、ごく小さな香木を載せる。
燃やして煙を出すのではない。木が穏やかに温められ、閉じ込めていた香りだけが、目に見えない形でゆっくりと立ち上がる。
「よろしければ、実際にお聞きください」
「よろしいのですか?」
「王太子殿下より許可を頂いております」
アデルは慎重に香炉を受け取った。片手で支え、もう片方の手で香りを逃さないよう覆い、鼻元へ運ぶ。
最初に触れたのは、柔らかな甘さだった。けれど、花の蜜のような甘さではない。木の奥から滲むような、少し湿り気を含んだ甘さ。その後ろに細い刺激があり、最後には鼻の奥へ涼しさが残る。
「甘みがあります。でも、それだけではありませんね。少し冷たくて、その奥に……辛さのようなものも」
隣でリュシアンも香りを確かめる。
「最初は丸いけど、残るのは乾いた感じだな。確かに、味にたとえるなら辛いに近い」
シュウが満足そうに頷いた。
「お二人とも、よい聞き方をなさいます」
「これは何という香木なのでしょう」
「羅国にございます」
次の香木は先ほどよりも重く、わずかな酸味を連想させた。その次には苦みを思わせる乾いた深さがあり、さらに別の木には塩気のような硬質な余韻があった。
実際に舌で味わっているわけではない。それなのに、甘、辛、酸、苦、鹹という五つの言葉を与えられることで、それまで漠然としていた香りの差が急に輪郭を持ち始める。
「面白い……」
アデルはもう完全に夢中になっていた。
「同じ沈香でも、これほど違うのですね」
「産地だけで決まるものでもございません。同じ土地の木であっても、樹脂の入り方、経た年月、湿度、保管によって香りは変わります」
「では六国というのは、厳密な産地分類だけではないのですね」
「左様でございます。大きくは、伽羅、羅国、真那賀、真南蛮、佐曽羅、寸聞多羅。これらを六国と呼びます」
アデルは頭の中で名前を繰り返した。
「そして五味が、甘、辛、酸、苦、鹹」
「はい」
「では、この分類に当てはめれば、すべての香木を説明できるのでしょうか」
その問いに、シュウは少し笑った。
「いいえ」
即答だった。
アデルはむしろ嬉しくなった。
「香りは生き物でございます。分類は知るための道具であって、香木そのものではありません」
「……好きです、その考え方」
「でしょうね」
横からリュシアンが言う。
「アデルも前に似たこと言ってただろ。花の香りだからって、全部まとめて同じ系統に入れるなって」
「ああ」
確かに言ったことがある。
「分類は便利なのです。でも、名前をつけたことで分かった気になると、見落とすものも増えます」
「こちらも同じにございます」
シュウが頷いた。
最後に運ばれてきた箱は、これまでのものよりずっと小さかった。二重の布で包まれ、さらに細い紐で封じられている。
シュウの手つきまで、わずかに慎重になる。
「こちらが、当室でも特に厳重に管理しているものの一つでございます」
「これは?」
「伽羅にございます」
アデルは無意識に背筋を伸ばした。
布を解き、箱が開けられる。そこに収められていたのは、ごく小さな黒褐色の木片だった。見た目だけなら、先ほどまでの沈香と大きく違うわけではない。
しかし熱が入った瞬間、空気の印象そのものが変わった。
アデルは息を止めた。
最初に感じたのは深い甘さだった。けれど追いかけるほど、そこへ静かな苦みが重なり、さらに細い辛さが現れ、最後には森の奥で水へ触れたような涼しさが残る。どの一面を掴もうとしても、次の瞬間には別の表情へ移っている。
「……これが、伽羅」
自然と声が小さくなった。
リュシアンも香炉へ顔を寄せ、灰青色の瞳を細める。
「複雑だな。さっきのものより、香りが長く残る」
「はい。しかも残り方が一つではありません」
「伽羅も沈香の一種にございます」
シュウが静かに説明する。
「ただし、すべての沈香が伽羅になるわけではございません。その中でも特に質が高く、香りの格が異なるものを、こう呼び分けております」
アデルはもう一度、香りを聞いた。
覚えておきたいと思った。調香へ利用するためではない。この香りそのものを、自分の記憶の中へ残しておきたい。
「リュシアン様」
「うん?」
「今日、ここへ来られてよかったです」
答えを待って隣を見ると、リュシアンは香炉ではなく、アデルを見ていた。
「俺も」
「……香木をご覧になってください」
「見てるよ」
「今、私を見ておられました」
「アデルがあんまり嬉しそうだから」
その声が柔らかく、アデルは少しだけ視線を逸らした。
「また、そういうことを」
「新婚旅行だろ?」
昨夜あれほど恥ずかしいことを喋ったというのに、まだこういう時には頬が熱くなる。どうやら酒が入っていなくても、この人には勝てないらしい。
*
展示室を出る頃には日が高くなっていた。春の終わりとはいえ、昼近くになると陽射しには初夏の気配が混じる。それでも日陰を通る風は涼しく、王宮の長い回廊から庭へ出ると、池の水面を渡った風が花と濡れた石の香りを運んできた。
ライレイの宮の庭は、スピネリアの整形式庭園とは随分趣が違う。左右対称に刈り込むのではなく、曲がった木や不揃いな石をそのまま景色へ取り込み、歩くたびに見えるものが変わるよう作られている。
「朝言っていた庭は、ここでしょうか」
「たぶんな」
「綺麗ですね」
池の縁には淡い桃色の花が咲き、風が吹くたび細い枝が水面へ影を落としていた。アデルが花へ顔を近づけると、香りそのものは弱いものの、葉を擦った時に青く清潔な匂いが立った。
「花より葉の方が香りますね」
「旅行中でも分析するんだな」
「癖ですので」
「知ってる」
リュシアンが笑った、その時だった。
「スピネリアの王太子夫妻?」
背後から声をかけられ、二人は同時に振り返った。
こちらへ歩いてきたのは、二十代半ばほどに見える青年だった。黒に近い髪を後ろでまとめ、灰色がかった青の衣を上品に着こなしている。王族らしい質のよい装いではあるが、金糸や宝石を過剰に使うことはなく、第一印象はむしろ穏やかだった。
顔立ちには、ライレイと同じ王家の血を感じる。ただ、鋭い金色の瞳と人を試すような笑みを持つライレイとは違い、青年の表情には人を安心させる柔らかさがあった。
「初めまして、ではないかな。宴で顔くらいは見ているかもしれないけれど」
青年は二人の前で足を止め、穏やかに笑う。
「僕はセイラン。第五王子だ」
アデルとリュシアンはすぐに礼を返した。
「アデル・スピネリアです」
「リュシアン・スピネリアだ」
「今日は新婚旅行なんでしょう? そんなに畏まらなくていいよ」
セイランはそう言って、二人が歩いてきた庭へ視線を向けた。
「ライレイの宮を歩いていたから、何か用事でもあるのかと思った」
「今日は自由に見てよいと、ライレイ殿下に言っていただきまして」
「なるほど。あいつらしい」
声音には自然な親しみがあった。弟の名を口にする時にも、嫉妬や侮蔑らしいものは感じない。
それでも、リュシアンの表情から警戒が完全に消えることはなかった。シャン王家の兄弟関係が単純ではないことを、二人はすでに知っている。
セイランもそれに気づいたらしく、少し困ったように笑った。
「警戒されるのも仕方ないか。うちは兄弟が多いからね」
「悪い」
「いいよ。僕だって逆の立場ならそうする」
気を悪くした様子もなく、セイランは池へ架かる石橋に目を向けた。
「でも、僕はライレイを王太子として認めている、数少ない兄弟なんだ」
リュシアンの眉がわずかに動く。
「意外かい?」
「少しな」
「正直でいいね」
セイランは声を上げずに笑った。
「僕は王になるより、誰かを支える方が向いているんだ。大勢の人間を引っ張って、最後は全部自分で決める。ああいうのは昔から得意じゃない」
「それを弱みだとは思わないのか?」
リュシアンが尋ねる。
「思わないよ」
答えに迷いはなかった。
「自分に向いていないことを知るのも、役に立つ方法の一つだろう? ライレイには僕にないものがあるし、僕にもあいつより向いていることがある。その方が国にはいい」
卑下でも負け惜しみでもない。自分の立ち位置をすでに選んでいる人間の声だった。
「兄上として、弟が王太子になったことに悔しさはございませんか?」
アデルが尋ねると、セイランは少しだけ目を細めた。
「ないよ。生まれた順番で、向き不向きまで決まるわけじゃないだろう?」
その答えに、リュシアンの肩からわずかに力が抜けた。少なくとも、王位を奪う機会を窺っている人間の言葉には聞こえない。
「それに」
セイランは庭の先を見ながら続けた。
「僕は、あいつが昔より人間らしくなったことの方が嬉しい」
「人間らしく?」
「昔のライレイはね、自分以外の誰も信用してなかった。信用して裏切られるくらいなら、最初から全部自分でやった方がいいって顔をしてたよ」
アデルの頭に、今朝ユエへ茶を注いでいたライレイの姿が浮かんだ。
「今は違いますね」
「そうみたいだね」
セイランも笑った。
しかし、その笑みはほんの一瞬だけ曇った。
「……相手については、思うところもあるけれど」
微かな変化だった。
けれど、リュシアンは見逃さなかった。
「レン家か?」
セイランの視線が戻る。
「よく分かったね」
「今の顔は分かりやすかった」
「そう?」
「ああ」
しばらく、誰も口を開かなかった。
池の水面を風が滑り、桃色の花弁が一枚だけ水へ落ちる。穏やかな昼の庭には似つかわしくない、細い緊張が三人の間へ生まれた。
けれどセイランは、その話を深く続けようとはしなかった。
「立ち話も何だし、お茶でもどう?」
「お茶ですか?」
「ちょうどあちらの茶亭が空いてる。シャンまで来たんだから、香木だけじゃなく茶も楽しんでいってよ」
先ほどまでの翳りを消し、セイランはまた柔らかく笑った。
アデルとリュシアンは一度だけ視線を交わす。今のところ、断る理由はない。
「私はぜひ」
「俺も構わない」
「よかった」
セイランは茶亭へ向かって歩き出した。
「母が好きだった茶なんだ。滋養によいと言われていてね」
春の風が三人の間を抜け、池の水面に細かな波紋を広げた。




