第五十二話 旅する香り
昨日までは、移動だけで一日が終わっていた。
スピネリアからシャンまでの道のりは、以前より随分近くなったとはいえ、王太子夫妻の旅となれば馬車に乗っていれば着くというものでもない。国境では出迎えを受け、宿泊地では土地の役人へ挨拶をし、シャン王都へ入れば今度は王族として迎えられる。新婚旅行という名はついていても、アデルがようやく旅行らしい気分になれたのは、到着した翌朝のことだった。
春香祭を終えたスピネリアでは、春はすでに盛りを過ぎようとしていた。けれど山を越えたシャンの朝にはまだ薄い涼気が残り、開けた窓から入る風には、濡れた土と若葉、それから遠くで焚かれている香木の煙が混じっていた。
香水を纏う文化のスピネリアとは違う。人ではなく、街そのものから香る。
「リュシアン様」
「うん?」
「今日からが、本当の新婚旅行ですね」
鏡の前で銀髪を整えていたアデルが振り返ると、窓辺のリュシアンがわずかに眉を上げた。旅装のため、普段の濃紺の執務着よりもずっと軽い上着を着ている。艶のある黒髪も王宮にいる時ほど隙なく整えられてはいない。それでも、朝の光を受けた灰青色の瞳と長い手足は否応なく人目を引いた。
「昨日までも新婚旅行だったはずだけど」
「昨日は馬車に乗っていただけです」
「途中で俺の肩で寝てただろ」
「睡眠は観光に含まれません」
「新婚旅行っぽくはあったけどな」
アデルは一瞬だけ考え、それから小さく頷いた。
「……それは、そうかもしれません」
「そこは認めるんだ」
リュシアンが笑いながら手を差し出す。
夫婦になってから、手を繋ぐことは随分自然になった。以前なら指先が触れただけでも理由を考えていたのに、今では差し出された手を取ることに迷いはない。
「まず市場へ参りたいです」
「やっぱりそこか」
「ここでしか香れない香りがあるそうです!」
途端に、アデルの瞳が光を受けて鮮やかな緑へ変わる。
「昨日、王宮へ着く途中でも同じこと言ってたな」
「だってシャンですよ。薫香、香木、お茶、薬材。スピネリアへ輸入されているものだけではなく、こちらでしか使われていないものもあるでしょうし」
「新婚旅行というより仕入れ旅行になりそうだ」
「買い付けるつもりはございません」
「本当に?」
「……珍しいものだけです」
「買うんじゃないか」
呆れながらも、リュシアンは楽しそうだった。
午前の市場は、すでに人で溢れていた。石造りの街並みに慣れたアデルには、木と漆喰を多く使ったシャンの店構えだけでも珍しい。軒先には乾燥させた薬草や木片が吊るされ、茶屋からは湯気が上がり、露店では餡を包んだ菓子が鉄板の上で焼かれている。
茶葉の青い香り。炙った肉の脂。乾燥した柑橘の皮。どこかの店で焚かれている白檀。それらが雑然と混じりながら、不思議と一つの街の匂いになっていた。
「あ」
アデルが突然立ち止まった。
「どうした?」
「沈香です」
小さな香木店の店頭に置かれた香炉から、細い煙が上がっている。アデルは吸い寄せられるように近づき、目を閉じた。
「少し甘い。でも、奥に苦みがありますね。樹脂の甘さというより……湿った古木のような」
「昨日、王宮の東廊下で焚いていたものより軽い」
隣でリュシアンが何気なく言う。
店主が二人を見比べた。
「旦那さんも鼻が利くねえ」
「ええ。とても」
アデルが嬉しそうに答えた。
「良すぎて困るほどです」
「余計だ」
「以前は困ることの方が多かったでしょうけれど、今では随分役に立っております」
「アデルが使うからだろ」
「使っているわけではございません」
「事件が起きるたび『リュシアン様、何か香りませんか』って聞いてくるだろ」
「頼りにしておりますので」
あまりに素直に返され、今度はリュシアンが少し黙った。
「……そう言われると悪い気はしないな」
その後、二人は薫香を見て、茶葉を買い、屋台の包子を半分ずつ食べた。アデルは珍しい香料を見つけるたびに立ち止まり、リュシアンはそれを急かすことなく隣で待った。
仕事でシャンを訪れた時には、こんなふうに街を見る余裕はなかった。あの時は和平のためだった。香料を見ても産地を考え、店を見れば交易を考え、人を見れば国同士の関係を考えていた。
今日は違う。
「リュシアン様、これも買ってよろしいでしょうか」
「それで何個目?」
「少量です」
「量じゃなくて種類を聞いてる」
「思い出ですから」
アデルが言うと、リュシアンは抱えていた包みを見下ろした。少し考えてから、笑う。
「それなら仕方ないな」
旅行とは、何かを得るために歩くのではなく、どうでもいいものまで覚えて帰るための時間なのかもしれない。アデルはそんなことを思いながら、次の店へ足を向けた。
*
午後、王宮へ戻った二人をライレイとユエが迎えに来た。
「ずいぶん買ったね」
ライレイが侍従の抱えた包みを眺める。
「珍しいものが多くて」
「アデルは朝からずっとこの調子だ」
「いいじゃん。新婚旅行なんだし」
そう笑うライレイも、今日は王太子としての正装ではなく、刺繍を抑えた黒と深紅の衣を着ていた。赤みのある茶髪を緩く結び、金色の瞳も公の場より随分柔らかい。
隣のユエも同様だった。濃い藍色の衣をすっきりと纏い、艶のある黒髪は高く結い上げられている。装飾は少ないが、その分、白い肌と深い赤の瞳が際立って見えた。
「ユエ様の作業部屋も、とても楽しみにしていたのです!」
アデルが言うと、ユエの口元に静かな笑みが浮かぶ。
「わたくしも、お招きするのを心待ちにしておりました」
「本当ですか?」
「はい。ですので」
ユエは隣のライレイへ顔を向けた。
「殿下は、スピネリア王太子殿下をご案内してくださいね」
「やっぱり俺たちは入れないかー」
「入れません」
「俺、いずれレン家とも家族になる予定なんだけど」
「それとこれとは別でございます」
きっぱり断られ、ライレイが肩を落とす。
「いくよ、リュシー。男同士で遊ぼう」
「お前かわいそうだな」
「何が?」
「俺はアデルの調香室に好きに出入りできる」
ライレイの足が止まった。
「……それ今言う?」
「事実だからな」
「ユエ、俺も」
「薬と毒を扱う場所ですので」
「リュシーだって香料の中には危険物あるでしょ」
「俺はアデルの夫だから」
「俺もそのうち夫になるよ」
「その時に改めてご検討くださいませ」
ユエの微笑みには一分の隙もなかった。
「まだ審査があるんだ……」
ライレイが小さく呟く。
「では、後ほど」
アデルが笑いながら言うと、リュシアンが軽く銀髪に触れた。
「楽しんでこい」
「はい」
その仕草があまりにも自然だったので、アデルもそのままユエについて歩き出した。
レン家が王都で営む薬屋は、王宮から少し離れた大通りにあった。
「いらっしゃいませ〜」
表の扉を開けると、店番の若い男が間延びした声を上げる。直後、ユエを見て背筋を伸ばした。
「お嬢様。お帰りでしたか」
「ええ。こちらはスピネリア王太子妃殿下です」
「えっ」
「本日は宮廷調香師としてお邪魔しております」
「どちらにしても緊張しますね」
アデルは笑いながら店内を見回した。
壁一面に小さな引き出しが並び、その一つ一つに札がついている。乾燥した根、葉、樹皮、鉱物。甘いものもあれば、鼻の奥へ刺さるような苦い香りもある。香料棚とは似ているようでまるで違った。
「薬屋も営んでおりますので、症状によってはその場で調合いたします。この奥に個室が作られているのです」
「皆さん、それぞれ個別のお部屋をお持ちなのですね」
「はい。ただ、材料は家門で一括管理しております。使用する際に量と用途を記録し、それぞれの作業室へ持ち込む形です」
アデルは棚につけられた札へ目を近づけた。採取地、入荷日、使用者。細かな記録が並んでいる。
「調香室より厳密かもしれません」
「薬は、人を治します」
ユエが静かに言った。
「同じものが、人を殺すこともございますから」
アデルは顔を上げた。ユエの声はいつもと変わらない。それでも、その言葉が単なる教訓ではないことは分かった。
「香りも似ています」
「そうなのですか?」
「量を誤れば気分を悪くしますし、成分によっては身体へ作用します。美しい香りだから安全とは限りません」
「では、やはり近い仕事なのかもしれませんね」
ユエがわずかに笑う。
その時、表から年配の男が入ってきた。
「前に買ったあの鎮痛剤、またもらえないか?」
「ああ、悪いね」
店員が申し訳なさそうに首を振る。
「あれは材料が禁止になったんだよ。ダチュラはうちではもう仕入れてない。近い効能のものを探すから、少し待っててくれ」
アデルの記憶に、ふと古い香りが蘇った。青臭い葉と、その奥に潜む甘い花。
(ああ)
初めてライレイと出会った頃、一度だけ彼から感じたことのある香りだった。
「ダチュラは、現在は一切?」
「はい」
ユエが頷く。
「レン家の管理庫にも残しておりません。代替できる薬がございますので、危険性の高いものを保管する理由がないと判断されました」
「なるほど」
「使用禁止になった薬材は帳簿にも記録されます。誰が最後に使用したか、残量をどう処分したかまで」
「徹底されていますね」
「先ほど申し上げた通りでございます」
ユエの深い赤の瞳が棚へ向く。
「薬は毒にもなりますから」
奥の工房へ入ると、今度はアデルの方が完全に周囲を忘れた。
大小さまざまな乳鉢、薬研、細い匙、天秤、薬材を煮出すための器。調香室でも似た道具は使うが、形も用途も少しずつ違う。
「この薬研、刃の角度が変わっていますね」
「よくお気づきになりましたね。硬い根を細かくする時に手首へ負担がかからないよう、レン家で改良しております」
「使ってみても?」
「もちろんです」
ユエも、自分の道具を見せる時には少しだけ表情が変わった。愛着のある秤を手に取る指先が丁寧で、古い調合帳を開く時には頁の端へ触れない。
「こちらは高麗人参です」
「これはスピネリアでも非常に高価です」
「冬虫夏草もございます。どちらも貴重ですが、殿下がお疲れの時には体調を見ながら使います」
「ライレイ殿下に?」
「はい。こちらの黄耆は体力が落ちた時に。陳皮は胃が弱っている時に使うことがございます」
「随分詳しいのですね」
「殿下は考え事を始めると食事を忘れますので。気づけば酒だけで済ませようとなさいます」
「それはいけませんね」
「何度申し上げても直りません」
しかし、何をいつ使うのか、どの症状が出やすいのかを迷いなく答える姿を見れば、それが単なる薬師としての記憶ではないことは明らかだった。
アデルは自然と笑った。
「ユエ様は、本当にライレイ殿下のことをよく見ていらっしゃるのですね」
ユエの手が、ほんの一瞬止まった。
「……必要ですので」
「必要だから、でしょうか」
アデルが少し首を傾げる。
ユエはしばらく何も言わなかった。やがて、深い赤の瞳が柔らかく細められた。
「大切な方ですので」
その答えに、アデルもにっこり笑った。
なんだか嬉しい。
自分がそうであるように、好きな人の体調を知り、嫌がるものを覚え、無理をしている時に気づく。それも一つの愛情なのだろう。
「そういえば」
ユエが何事もなかったように次の棚を開けた。
「先日はドクウツギを塗った毒針が役に立ちました」
「はい?」
「襲撃を受けまして」
「ええ?」
「十四名ほど」
「十四名?」
「全員退けました」
「ユエ様!」
「はい」
「あとで詳しく聞かせてください!」
「御意にございます」
アデルは少し迷って、それから目の前の棚を見た。
「今は……こちらが気になります」
「存分にどうぞ」
ユエが微笑む。
かなり大変な話を聞いた気がする。けれど、まだ見ていない薬棚が三列もある。話は夜にも聞ける。
*
その頃、リュシアンとライレイは王都の大通りを歩いていた。
「ここまで来て悪いんだけどさ」
ライレイが前を向いたまま言う。
「俺、友達いたことないから、何を案内したらいいのか分からなかったみたい」
リュシアンは少し考えた。
「俺も、友人と街を歩いた経験はないな」
「王太子って孤独だよね」
「そうだな」
「行きたい場所聞けばよかった」
「俺も普通の貴族の令息が何をして遊んでいるのか、誰かに聞いておくべきだった」
「誰に?」
「……ユリウス」
「それたぶん視察になるよ」
想像して、二人とも黙った。
友人と遊ぶ方法すら分からない王太子が二人、並んで歩いている。
「花街でも行く?」
「帰る」
「冗談だって」
「新婚旅行中の男に言う冗談じゃないだろ」
「リュシー、結婚してから真面目になった?」
「元からだ」
「それはない」
ライレイは笑って、細い路地へ入った。
「じゃあ、俺の好きな店でいい?」
「ユエ嬢以外にも好きなものがあるんだな」
「あるよ。少ないけどね」
連れていかれたのは、小さな文具屋だった。
筆、紙、封蝋、墨、硯。壁際には色の違う紙束が整然と積まれ、華美な装飾品はほとんど置かれていない。
「意外だな」
「そう?」
「もっと武器とか見るのかと思った」
「仕事で見飽きてるよ。俺、実用的な物の方が好きなの」
ライレイは棚の墨を一本手に取った。
「最近は文通も増えたしね」
「たまに墨が違うのは知ってる」
ライレイが振り返った。
「気づいてたの?」
「青い時と茶色い時がある。筆もたまに違う」
「……リュシー、結構ちゃんと手紙見てるね」
「外交文書だろ」
「私信も混じってるじゃん」
「だからだ」
ライレイが少し笑った。
「青は考えを整理したい時。茶色は気楽に書く時。あと、この店の細筆が好きなんだ。長く書いても疲れない」
「気分で変えてるだけじゃないんだな」
「毎日同じことばっかりしてると、どこまでが自分で、どこからが王太子なのか分からなくなる時あるでしょ。だから、墨くらいは自分で選ぶ」
リュシアンは墨へ向けていた目を上げた。
「……分かる気がする」
「でしょ?」
「俺なら香りだな」
「ああ」
「執務室の香りまで全部決められてたら、多分耐えられなかった」
「だからアデルちゃんが必要だった?」
「最初はな」
「今は?」
「香りとは関係なく必要」
ライレイが笑った。
「それ、本人にも言ってる?」
「言ってる」
「そこだけは俺たちより進んでるね」
「お前たちも大概だろ」
二人はしばらく墨を選んだ。ライレイが好むもの。リュシアンが気に入ったもの。互いの国へ戻れば、また外交文書を書くことになる。次に届く手紙の墨を見れば、今日のことを思い出すのかもしれない。
友人と街を歩くとは、案外それくらいのものなのだろう。
*
夜、ライレイの私室には白檀を基調とした穏やかな薫香が焚かれていた。
低い卓には何種類もの肴が並び、中央には細身の酒瓶が置かれている。四人とも公の装いは解き、昼間よりさらに気楽な姿になっていた。
「それでね」
ライレイが紹興酒を杯へ注ぎながら、待ちきれなかったように話を始めた。
「ユエが十四人倒して帰ってきたんだよ。ほんと過去一やばかった」
「ユエ様! お怪我は?」
「すでに完治しております」
「いや、普通は十四人の方を心配しない?」
「襲撃者ですので」
「そうなんだけどさ」
ユエは何事もなかったように杯へ口をつける。その横顔を見ていたライレイへ、今度はユエが静かに視線を向けた。
「わたくしのことばかりお話しになりますが、殿下も充分酷い目に遭われておりますよ」
「ああ、媚薬?」
「媚薬?」
アデルが反応する。
「まあ、多少はね。襲撃は慣れてるんだけど、媚薬は初だったかな。大変だった。もうほんと熱くて」
「お前、それ笑って話すことか?」
リュシアンが眉を寄せる。
「あの時の殿下が、今までで一番弱っておいででしたね」
ユエが淡々と続けた。
「服もご自分で脱げないくらい」
「そんなにですか?」
アデルが思わず身を乗り出す。
「その割にさ」
ライレイは恨めしそうにユエを見る。
「そのあと、弱った俺で遊んだでしょ」
「遊んでおりません」
「脈取って『随分速いですね』、瞳見て『反応が強いですね』って、完全に研究対象だったじゃん」
「薬の作用を把握する必要がございました」
「冷たい布を首に当てて、気持ちいいと思ったら外したよね」
「比較検証にございます」
「俺、死にそうだったんだけど」
「ですので死なないよう観察しておりました」
さらりと返されて、ライレイが一瞬だけ黙る。
「……ほんと、そういうところずるいよね」
「何がでございましょう」
「何でもない」
それでも口元は笑っている。
そのやり取りを見ていたアデルも、つい頬を緩めた。
「でもユエもさ」
今度はライレイが反撃するように杯を置いた。
「拷問の訓練受けてる割に、閨では声出すもんね?」
「――っ」
ユエが吹き出した。
アデルは瞬きをし、リュシアンは持ち上げかけた杯を止めた。
「殿下」
咳き込みながらユエがライレイを見る。白い頬が珍しく赤くなっていた。
「何?」
「そのお話をなさるのでしたら」
口元を布で押さえ、呼吸を整える。
「殿下も普段はせっかちなくせに、閨ではじっくり、ゆっくりがお好みですよね?」
今度はライレイが固まった。
「それ言う?」
「仕返しです」
「ユエ様」
アデルが恐る恐る口を挟む。
「はい」
「……拷問の訓練と、そこは関係があるのですか?」
「アデル、聞かなくていい」
リュシアンが即座に止めた。
「そうなのですか?」
「知らなくていい」
「リュシー、アデルちゃんに箱入り教育しすぎじゃない?」
「お前たちが開けすぎなんだ」
「でも夫婦なんだし」
「そういう問題じゃない」
ライレイが面白そうに笑った。
「何かあるでしょ。リュシーたちにも」
「なぜ俺だけなんだ」
「あります」
アデルが即答した。
隣のリュシアンが振り返る。
「アデル?」
「婚約後すぐに、着衣での湯浴みを要望されました」
今度はライレイが黙った。
「……着衣?」
「はい」
「どういうこと?」
「一緒に湯浴みをしたいと仰られたので、私が何度もお断りしましたら、それなら服を着たままでよいと」
「その折衷案、何も解決してなくない?」
「あれは本当に恥ずかしかったです!!」
思い出しただけで頬が熱い。
「二人ともきちんと着衣でしたが、湯に入れば当然服は濡れますし、髪まで濡れますし、いつもとは違いますし……」
「説明しなくていい」
今度はリュシアンが止める側になった。
「でも入ってくれた」
「それは」
アデルが言葉に詰まる。
「嫌なら入らなかっただろ?」
「……そういう聞き方は卑怯です」
「答えは?」
「嫌ではございませんでした! ただ非常に恥ずかしかったのです!」
ライレイが笑いながら紹興酒を口にする。
「リュシーも案外やるなあ」
「別に変なことはしてない」
「一緒に風呂入ろうとした時点で十分だと思うよ」
「ライレイ殿下にだけは言われたくありません」
アデルが真顔で言うと、ユエが静かに頷いた。
「同意いたします」
「なんで俺だけ敵なの?」
「では、こちらも」
リュシアンが杯を置いた。
「アデルは酔っ払って、俺の首の匂いを嗅いで調合しようとした」
アデルの顔から笑みが消えた。
「……何のお話でしょう」
「覚えてないふりするな」
「記憶にございません」
「ライレイからもらった紹興酒を飲んだ夜」
「あ」
ライレイが何かを思い出したように笑う。
「俺が贈ったやつ?」
「そう。こいつ一杯で酔った」
「一杯?」
「一杯です」
アデルが小さな声で答える。
「その上、俺の首を嗅いで『私にも嗅ぐ権利があります』って」
「……」
「『これを香水として再現できないでしょうか』とも言ってた」
「アデル様らしいですね」
ユエは妙に納得した顔をしている。
「らしくありません」
「さらに」
「まだあるのですか?」
「『一週間後には殿下は別の方のものになります』って」
「リュシアン様!」
「それは何?」
ライレイが急に楽しそうになった。
「妃選考の前。アデルは自分が選ばれると思ってなかったから」
「お忘れくださいと申し上げました!」
「無理」
「なぜです?」
リュシアンはしばらくアデルを見ていたが、やがて少しだけ笑った。
「あの時、初めて分かったから」
「何がでしょう」
「アデルも俺を取られたくないと思ってるんだって」
それまでの笑い声が、ほんの少しだけ静かになる。
アデルは杯へ目を落とした。
「……あの頃は、自分でもよく分かっておりませんでした」
「知ってる」
「ただ、嫌だったのです」
「うん」
「リュシアン様が別の方と結婚することを想像すると、胸の辺りが苦しくて」
「アデル」
「でも王太子ですから仕方がないと思って」
「アデルちゃん」
今度はライレイが呼んだ。
「それ、もう酔ってない?」
「酔っておりません」
「その返事は酔ってる人のやつだよ」
確かに、頬は随分熱くなっていた。
シャンの紹興酒は香りが柔らかい。熟成した穀物の甘みがあり、舌に乗せると丸く、飲み込んだあとから身体の内側がゆっくり温まる。
ユエもライレイも同じものを飲んでいる。
リュシアンも平然としている。
だから大丈夫だと思っていた。
「アデル様」
ユエが、ふと興味深そうに身を乗り出した。
「はい!」
「リュシアン殿下はお優しいですか?」
「はい、それはもちろん!」
即答だった。
ユエの目がわずかに細くなる。
「どのように?」
「いつも私のことをよく見てくださいます。疲れているとすぐお気づきになりますし、荷物も持ってくださいますし、私が仕事に夢中になって食事を忘れると迎えに来てくださいます」
「それはお優しいですね」
「はい」
「他には?」
「寝る時も、私が寒くないようにしてくださいます」
リュシアンが嫌な予感を覚えたらしく、ユエを見る。
「ユエ嬢」
「はい?」
「何を調べてる?」
「酒によって、どの程度抑制が外れるものかと」
「やめろ」
「まだ一般的なご質問しかしておりません」
ユエは平然とアデルへ戻る。
「では、寝台の上ではいかがです?」
「ユエ」
リュシアンの声が低くなった。
しかし、酔ったアデルは止まらない。
「寝台の上でもお優しいですよ」
「アデル」
「私が嫌ではないか、よく確かめてくださいますし」
「アデル、もういい」
「心地よいですか?」
「はい」
「アデル!」
リュシアンの声が少し大きくなった。
アデルは不思議そうに夫を見る。
「どうなさいました?」
「どうもしてない。もう水飲め」
「まだユエ様とお話を」
「その話は明日後悔する」
ライレイがとうとう笑いを堪えきれず、卓へ肘をついた。
「ユエ、その辺にしてやって。黒歴史になるよ。アデルちゃんも、リュシーも」
「どこまで口が軽くなるのか気になったもので」
「研究対象にするな」
「興味深い結果でした」
「何が?」
「普段のアデル様は、非常に理性的でいらっしゃいます」
「はい」
「ですが酔われると、尋ねられたことへほぼそのままお答えになりますね」
「そんなことはございません」
「では」
ユエが微笑んだ。
「リュシアン殿下のどこが一番お好きですか?」
「全部です」
間髪入れず返した。
沈黙。
ユエがゆっくりライレイを見る。
「ほぼそのままお答えになります」
「ほんとだね」
「アデル」
リュシアンが片手で顔を覆った。
アデルはますます不思議そうに彼を見る。
「だって本当です」
「分かった」
「お顔も好きですし、声も好きです。手も大きくて安心しますし」
「分かったから」
「匂いも好きです」
「それも知ってる」
「昔はリュシアン様ばかり私の匂いを嗅いでおられましたが、今は私も分かります」
灰青色の瞳が、わずかに揺れた。
「何が?」
「リュシアン様の匂いです」
アデルは嬉しそうに笑った。
「白檀とも沈香とも違います。石鹸と、紙と、少し墨と。それからリュシアン様の匂い」
午後に文具屋へ行ったばかりだからだろう。墨の香りまで拾われていたらしい。
リュシアンが何か言おうとして、結局口を閉じた。
「……リュシー」
「何だ」
「顔赤いよ」
「酒だ」
「一杯しか飲んでないでしょ」
「うるさい」
「でも」
アデルが、今度はリュシアンの腕へ身体を預けた。
「私は幸運です」
「何が?」
「ずっと好きだった方と結婚できました」
「……うん」
「以前は、一週間後には別の方のものになると思っていたのに」
「それ、まだ覚えてたのか」
「覚えております」
「じゃあさっきの首の話も覚えてるだろ」
「それは覚えておりません」
「都合いいな」
「でも、今は私の夫です」
満足そうに言って、アデルはリュシアンの肩へ頬を寄せた。
「私の、です」
また静かになった。
今度は笑う者はいなかった。
リュシアンが目を細め、銀髪へ指を入れる。その手つきは、本人が意識している以上に優しかった。
「そうだよ」
低い声で答える。
「アデルの夫だ」
その言葉を聞いて、アデルは安心したように目を閉じた。
「……寝た?」
少しして、ライレイが尋ねる。
「寝たな」
「早いね」
「アデル様は酒への耐性がほとんどございませんので」
ユエが冷静に分析する。
「知ってたなら止めてくれ」
「大変興味深かったもので」
「ユエ嬢」
「冗談にございます」
「絶対半分本気だっただろ」
ライレイが笑う。
「リュシー、明日の朝どうするの?」
「何が?」
「今日の会話、どこまで教える?」
リュシアンは腕の中で眠るアデルを見た。
「全部」
「鬼だね」
「俺だけ覚えてるのは不公平だろ」
「夫婦ってそういうもの?」
「知らない。俺も新婚だから」
ライレイは少し笑い、それから隣のユエへ視線をやった。
「じゃあ俺も、今日の話は忘れないから」
「どのお話でしょう」
「閨では声出す話」
「殿下」
「はい」
「今夜はご自分のお部屋でお休みくださいませ」
「ごめんなさい」
返事が早かった。
リュシアンが吹き出し、ユエも仕方なさそうに微笑む。
窓の外では、春の終わりの夜風が王都の屋根を渡っていた。どこか遠くで焚かれた香木の煙が、開いた窓から白檀の香りへわずかに混じる。
初めてシャンを訪れた時は、和平のためだった。
その後は交易、王位継承、毒、襲撃。いつ来ても、何かを解決しなければならなかった。
けれど今夜は違う。
好きなものを見て、友人と街を歩いて、くだらない話で笑う。
そんな一日が、この国でようやく持てた。
眠ったアデルの銀髪を撫でながら、リュシアンは静かに息を吐く。
白檀。
紹興酒。
春の夜気。
それから、すぐそばにあるアデルの匂い。
この旅で覚えて帰る香りは、どうやら香木だけではなさそうだった。




