第五十一話 効かない香り
春香祭まで、あと三週間。
王宮の庭園では、冬のあいだ固く閉じていた木々の芽がようやくほどけ始めていた。朝夕にはまだ冷たい風が石造りの回廊を抜けるものの、昼になると陽射しはずいぶん柔らかくなり、宮廷調香室の窓を細く開ければ、湿った土と若葉の青い匂いが入り込んでくる。昨年の春にはまだ珍しかったシャン式の薫香も、今では王都の工房が競うように新しい調合を作っていた。
香水、香油、石鹸、香り袋。それに今年は、薫香。
春香祭へ出品される品は、昨年より明らかに増えている。
アデルはその日の午前中も、届いたばかりの香料を確認していた。銀色の髪を低い位置でまとめ、淡い灰青色の仕事着に白い前掛けを重ねる。王太子妃となった今でも、調香室へ入れば服装は以前とほとんど変わらない。指先に宝石をつけることもなく、今朝も小さな硝子瓶を光へ翳していたところで、扉が叩かれた。
「アデル様。王太子殿下がお呼びでございます」
侍従の言葉に、アデルは瓶を置いた。
「私を、ですか?」
「はい。宮廷調香師として、執務室へお越しいただきたいとのことです」
「宮廷調香師として」
わざわざ付け加えられた言葉に、アデルはわずかに眉を上げた。夫が妻を呼ぶのなら、夕食の予定でも婚礼後の公務でも、もう少し気軽な使いが来る。宮廷調香師として正式に呼ばれるなら、仕事だ。
「分かりました。すぐに参ります」
作業台へ布を掛け、記録帳を閉じる。前掛けだけを外し、アデルはそのまま執務棟へ向かった。
王太子の執務室へ入ると、春の光が高い窓から斜めに差し込み、広い机の上へ積まれた書類の端を白く照らしていた。リュシアンはいつもの濃紺の執務着姿で、黒髪も朝らしく隙なく整えられている。切れ長の灰青色の瞳は紙面へ落ちていたが、アデルが入ってくるとすぐに上がった。
「来たか」
「お呼びと伺いました」
「ああ。そこ」
リュシアンが机の端を指す。書類の脇に、小さな硝子瓶が一本置かれていた。透き通った液体の中へ、ごく薄く赤金色が差している。瓶そのものも凝っていた。細い首元には金属細工が施され、蔓と花を組み合わせた意匠が硝子へ巻きついている。
「最近、巷で惚れ薬が流行ってるそうだ」
「惚れ薬、ですか」
「実際は香水みたいに吹きかけるらしいけどな」
アデルは瓶とリュシアンを交互に見た。
「そのようなものが、王都で?」
「かなり売れてるらしい。春香祭にも出品申請が来てる」
「なるほど」
「実物はこれだ。宮廷調香師として見分を頼む」
アデルは瓶を手に取り、栓を外した。
すん、と細く息を吸う。
最初に立ったのは、濃厚な白い花だった。夜に咲く花を思わせる、重たく甘いチュベローズ。その下へ柔らかなバニラが重なり、奥には乾いた温かさを持つサフランが僅かに潜んでいる。香りの組み方そのものは悪くない。華やかで、少し大胆で、確かに恋や夜会を連想させる。
「香りは強めですが、よくまとまっております。チュベローズにバニラ、それからサフランですね」
「危険なものは?」
「サフランは量によっては身体へ作用いたしますが、この程度の使用量であれば問題ございません。肌へつける量も多くはないでしょう」
「じゃあ、効能は?」
「ございません」
即答すると、リュシアンが瞬いた。
「そんな即答する?」
「はい」
「惚れない?」
「惚れません」
「好きな相手が振り向くとか」
「香水を吹きかけたことで相手の感情が変わるような作用はございません」
「夢がないな」
「宮廷調香師へ効能を聞いたのはリュシアン様です」
「そうだけど」
リュシアンは瓶を受け取り、少し離して眺めた。
「じゃあ、なんで売れてるんだ」
「使う方のお気持ちの問題ではないでしょうか」
「気持ち?」
「好きな香りをまとえば、自信が出ることはございます。装いが整ったと感じれば、普段より少し大胆になれることもあるでしょう。その結果、好きな方へ声をかけられたのであれば、香りが背中を押したとは言えるかもしれません」
「でも、相手を惚れさせたわけじゃない」
「はい」
アデルが頷くと、リュシアンは無言で机の引き出しを開けた。
「なら、こっちも見てくれ」
差し出されたのは、一束の紙だった。春香祭の出品申請一覧。アデルは受け取り、上から順に目を通した。
『寝不足に効く薫香』
『ストレスがなくなる香油』
『好きな人が振り向く香水』
『王都一モテる! 春の恋香』
『集中力が上がる香り袋』
『食欲が戻る芳香水』
頁をめくるたび、アデルの眉間にゆっくり皺が寄っていく。
「……これは、あまりよくありませんね」
「だよな」
「昨年までとは、随分変わりました」
去年の春香祭にも華やかな商品名は多かった。春の庭、白薔薇の午後、雨上がりの森。詩的であったり、大胆であったり、時には少々気恥ずかしい名もあったが、それでも売られていたのは香りそのものだった。
今年は違う。何が香るかではなく、それを使えば何が起こるかが書かれている。
「紙だけ見て禁止するのも違うと思ってる」
リュシアンが椅子の背へ身体を預けた。
「実際にどう売られてるのか見たい」
「市場へ視察に?」
「いや」
灰青色の瞳が少しだけ細くなる。
「お忍びで行く」
「……私も?」
「宮廷調香師として呼んだんだけど」
「でしたら、王太子殿下は必要ございませんね」
「そういうこと言う?」
不満そうな声とは裏腹に、口元は少し笑っていた。
*
翌日の午後、二人は王都の市場にいた。
王太子夫妻が正式に視察へ来たと分かれば、どの工房も前日から床を磨き、最も出来のよい商品だけを並べ、客への説明まで整えるだろう。それでは意味がない。
リュシアンは装飾の少ない濃灰色の上着に着替え、いつもはきちんと整えられている黒髪も少しだけ崩していた。背が高く顔立ちも目立つため完全に庶民へ紛れるのは無理があるが、少なくとも遠目から王太子だと気づかれる格好ではない。
アデルも銀髪を簡素な外套の頭巾へ隠し、淡い茶色のガウンを着ている。王太子妃として身につける宝飾品は一つもなく、手には小さな革鞄だけを持っていた。
「夫婦に見えますか?」
大通りへ入る前、アデルが小声で尋ねた。
「夫婦だろ」
「そういう意味ではなく」
「手でも繋ぐ?」
「目立ちます」
「普通の夫婦も繋ぐと思うけど」
「今日は調査です」
「分かってる」
そう言いながら、リュシアンは少し楽しそうだった。
春香祭を間近に控えた王都は賑やかだった。店先には若葉色や薄桃色の布が飾られ、香水瓶を並べた露店の間からは焼き菓子や果実酒の甘い匂いが流れてくる。今年はその中へ、薫香の煙も混じっていた。白檀、樹脂、花を練り込んだ香。香炉から細く立ち上る煙が春の風にほどけ、衣服や髪へ淡く移っていく。
昨年にはまだ珍しかった光景だった。
「増えましたね」
「ああ」
「春香祭の審査に時間がかかるはずです」
「香水みたいに紙へ一滴で終わらないからな」
「焚き始めだけでは分かりません。煙が安定してからの香りも、燃え終わった後に残る香りも確認したいので」
「今年、寝る時間ある?」
「努力いたします」
「その答え嫌だな」
そんな話をしながら歩いていた時だった。
「だから、これがあれば振り向いてくれるって思ったの!」
甲高い泣き声が聞こえた。
二人の足が止まる。
通りの少し先、小さな香水工房の前に若い女性が座り込んでいた。春物らしい薄桃色のガウンを着ているが、裾は石畳へ広がり、頬には涙の跡がいくつも残っている。
店先では販売員らしい男が困り果てていた。
「ですから、うちにそんな責任まで取れませんよ!」
「だって『好きな人が振り向く』って書いてあったじゃない!」
「商品の名前でしょう!」
「これをつけて告白したの! 言わなければ、ずっと友達でいられたわ!」
女性の声がまた震える。
「振られたのよ! もう前みたいに話せない!」
周囲には小さな人だかりまでできていた。
アデルはしばらくその様子を見てから、隣へ顔を向けた。リュシアンも笑ってはいなかった。
「……なるほど」
「ああ」
低い声で答え、二人はその場を離れた。
次に入った工房では、もっと直接的だった。
「全然眠れないじゃない!」
年配の男性が小さな薫香の箱を突きつけている。
「三晩使ったぞ!」
「個人差がございますので」
「寝不足に効くって書いてあるだろう!」
「落ち着く香りという意味でして」
「そんなこと、どこにも書いてない!」
販売員は慣れた様子で謝っていた。どうやら初めての苦情ではないらしい。
店を出たところで、リュシアンが息を吐いた。
「これはよくないな」
「はい」
「商品が悪いわけじゃない」
「先ほどの薫香も、香り自体は穏やかでした。白檀にラベンダー、それから少量の安息香でしょう」
「でも、眠れるとは限らない」
「もちろんです」
二人はそのまま、少し規模の大きな工房へ入った。店内には色とりどりの香水瓶が並び、その奥には今年から扱い始めたらしい薫香の箱が積まれている。磨かれた硝子へ金属細工を巻きつけた瓶も多く、以前より明らかに装飾が凝っていた。
客が途切れたところで、アデルは工房主へ声をかけた。
「少し伺っても?」
「はい。どの商品でしょう」
「最近、効能を前面に出した商品が増えていますね」
工房主の顔に、ほんの少し警戒が浮かんだ。
「流行ですよ」
「以前は、ここまで多くなかったように思います」
「以前と今じゃ、事情が違いますからね」
男は肩を竦め、店内を見渡した。
「香料の質が上がったんですよ。農園も蒸留所も腕を上げた。交易が広がって、前なら王都の大工房しか使えなかった材料も入るようになった。品質も供給も安定した」
棚の一角へ視線を移す。
「それに、シャンとの交易が始まってから金属も加工品も増えた。見てくださいよ、瓶だって昔とは全然違う」
確かに美しい。薄青い硝子へ銀色の花を絡ませた瓶。赤い硝子を真鍮の蔓が包む瓶。栓まで一つの装飾品のように作られている。
「いいことではありませんか」
アデルが言うと、工房主は苦く笑った。
「職人にとってはね。でも、みんな良くなったんです」
「皆?」
「どこの店も、そこそこいい香りを作る。瓶も綺麗だ。材料だって似たようなものが手に入る。昔なら『この店の薔薇は特別だ』で客が来た。でも今は隣の店の薔薇も、その先の店の薔薇も悪くない」
男は一本の香水を手に取った。
「だから、違う理由が要るんですよ」
「違う理由」
「これをつければ眠れる。これなら恋が叶う。これを使えば仕事に集中できる。そっちの方が、客は手に取る」
「本当に効くとは思っていらっしゃらない?」
「香水屋ですよ、俺は」
工房主は苦笑した。
「薬師じゃない」
店を出る頃には、春の日が少し傾き始めていた。
大通りへ差す光が金色を帯び、軒先の香水瓶を透かして路面へ淡い色を落としている。風に乗る香りはどれも悪くない。薔薇、柑橘、白檀、樹脂、花、若葉。職人たちの技術が上がり、この国の香りが豊かになっていることは間違いなかった。
それなのに、その豊かさが別の競争を生んでいる。
「職人にとって有利な環境が、必ず追い風になるとは限らないのですね」
アデルが呟くと、リュシアンが隣を見た。
「いいものが作れる人間が増えたら、今度は『いい』だけじゃ売れなくなる」
「だから、効能を売る」
「ああ」
しばらく歩いてから、アデルは言った。
「香りは、人の気持ちを支えることがございます」
「うん」
「好きな香りをまとえば、自信が出ることもあるでしょう。眠る前に好ましい香りを焚けば、落ち着く方もいらっしゃるかもしれません」
「でも」
「それによって、相手の気持ちが変わるわけではございません。不眠を治療するものでもない」
リュシアンは少し黙った。
やがて、低く言う。
「今は効かないから笑ってられる」
「はい?」
「売る側が、そのうち本当に効かせたくなったら?」
アデルの足が止まった。
「もっと眠れるように。もっと気分が上がるように。もっと強く効くように」
灰青色の瞳がまっすぐこちらを見る。
「何を入れる?」
アデルは答えなかった。いや、答えは分かっていた。
「……薬草を加える者が出るかもしれません」
「香料の量を増やす人間もいるだろうな」
「はい」
「さっきの惚れ薬にはサフランが入ってた」
「少量であれば問題ございません」
「でも、“効かせる”ことを目的にしたら?」
アデルはゆっくり息を吐いた。
「量の考え方そのものが変わります」
「だろ」
通りを吹き抜けた春風が、頭巾の隙間から銀色の髪を一筋だけ外へ引き出した。アデルはそれを指で押さえながら、しばらく考えた。
「これは、香水の問題ではありませんね」
「売る時に、何を約束していいかの問題だ」
リュシアンが言った。
アデルが顔を上げる。
「なら、分けましょう」
「何をです?」
「香りと薬を」
*
それからの数日は、春香祭の準備とは別の意味で慌ただしくなった。
王太子執務室へ宮廷医、薬師組合の代表、香料商組合、調香師組合の者たちが次々と呼ばれ、机の上には出品一覧より厚い資料が積み上がった。
アデルが定義したのは、まず「香粧品」だった。香水、香油、石鹸、香り袋、薫香。香りを楽しみ、装いや空間を整えるためのもの。
一方、身体の症状を治療、軽減することを目的とし、薬草や薬効成分を用いるものは「薬香」とする。こちらは薬師または医局の管理下へ置き、販売前に審査を受ける。
「『落ち着いた香り』は?」
リュシアンが条文案を見ながら尋ねた。
「問題ございません」
「『眠る前におすすめ』」
「香りの使用場面を示しているだけなら」
「『よく眠れる』」
「不可です」
「『恋する夜に』」
「構いません」
「『相手が惚れる』」
「不可です」
「『王都一モテる』」
アデルは少し考えた。
「……不可寄りです」
「寄り?」
「表現が曖昧です」
「じゃあ不可にしよう」
「その決め方は雑です」
「でもアデルも駄目だと思ってるだろ」
「思っております」
向かいで書記官が必死に笑いを堪えていた。
最終的に作られたのは、『香粧品及び薬香表示令』だった。
香粧品へ治療効果や身体への作用を事実として記載してはならないこと。恋愛成就など、他者の意思へ作用する効能を保証する表示も認めないこと。薬効を目的とする品は薬香として別途審査を受けること。そして春香祭へ出品されるすべての品は、名称、説明文、原料、用途を改めて提出すること。
リュシアンは完成した案を国王と評議会へ上げ、春香祭前の暫定令として即日施行する承認を取った。
「今年の出品を止める必要はない」
会議の終わり、リュシアンは集まった組合代表たちへ言った。
「説明を直して再提出してくれ。薬として売りたいものは審査へ回す。香りとして売るなら、香りとして売ればいい」
一人の工房主が不安そうに尋ねた。
「間に合いますでしょうか」
「間に合わせる」
リュシアンは迷わなかった。
「祭りを潰すための規則じゃない。続けるための規則だ」
アデルは隣で、その横顔を見た。
王太子として人前へ立つ時のリュシアンは、私室で見る夫とは随分違う。背筋はまっすぐ伸び、灰青色の瞳には迷いがない。誰か一人の商品を守るのではなく、これから何年も続いていく市場そのものを見ている。
自分が香りの境界を示せば、この人はそれを国の仕組みにする。
以前から一緒に仕事をしてきたはずなのに、夫婦となった今、そのことが妙に誇らしく感じられた。
*
再提出された春香祭の一覧が届いたのは、それから五日後だった。
アデルは王太子の執務室で、その紙を一枚ずつ確認していた。
『恋する夜会――チュベローズ、バニラ、サフランの香水』
『静かな夜――ラベンダーと白檀の薫香』
『春の朝――柑橘と若葉の香油』
『午後の書斎――ローズマリーと樹木の香り袋』
「……ずいぶん変わりましたね」
「前よりいいだろ」
「はい」
何が起こるかを約束する名前ではない。何が香るのか、どんな時間に似合うのかを伝える名前へ戻っている。
それでも去年と同じではなかった。薫香が増え、使われる香料も広がり、瓶や箱の意匠も以前より洗練されている。
文化は変わった。
変わった上で、守るところを決めたのだ。
「これなら、春香祭を迎えられそうですね」
「ああ」
リュシアンが椅子の背へ寄りかかり、ようやく肩の力を抜いた。
「間に合ってよかったです」
「まだ始まってないけどな」
「始まる前に問題が片づいたのです。十分喜ばしいことです」
「じゃあ今日はもう仕事終わり?」
「私はこのあと薫香の審査がございます」
「……何種類」
「十二種類ほど」
「それ、今日中に終わる?」
「焚いて確かめる必要がありますので、香水より時間はかかります」
「今年、寝る時間ないんじゃない?」
「努力いたします」
「だからその答え嫌だって」
アデルが笑うと、リュシアンも諦めたように息を吐いた。
*
その夜、寝室へ戻った頃には、アデルの鼻は完全に疲れていた。
一日で十二種類の薫香を焚いたわけではない。途中で休憩を取り、部屋を替え、香りが混ざらないよう十分に間を置いた。それでも白檀、沈香、樹脂、花、香辛料と次々に異なる煙を確かめていれば、最後には自分が何を嗅いでいるのか分からなくなりそうになる。
湯浴みを終えたアデルは、真珠色の寝間着の上へ薄い室内着を羽織り、長い銀髪をほどいたまま寝台の端へ腰を下ろした。昼間、何度も薫香の煙へ晒されたせいか、洗ったはずの髪にもまだ淡い残り香があるような気がする。
リュシアンは一足先に寝台へ入り、枕を背へ当てて書類を読んでいた。白い寝間着の襟元は少し緩み、昼間は一筋の乱れもなかった黒髪も、今は柔らかく額へ落ちている。
アデルが隣へ座っただけで、リュシアンは書類を閉じた。
「もういいのですか?」
「同じ頁を三回読んだから、たぶん頭に入ってない」
「お疲れですね」
「誰のせいだと思ってる?」
「私ですか?」
「半分くらい」
「残り半分はご自分のお仕事でしょう」
「そういうところ、結婚してから容赦なくなったよな」
「以前からです」
「前はもう少し王太子扱いしてくれた」
「それは公務中です」
アデルが平然と答えると、リュシアンは笑いながら書類を脇の卓へ置いた。
「で?」
「何がでしょう」
「さっきからそっちを見てる」
「見ております」
「何か言いたそう」
「特には」
「じゃあ来れば?」
先に言われ、アデルは少しだけ目を細めた。
「最近、よくお分かりになりますね」
「毎晩一緒にいるからな」
さらりと言われると、今でも少しだけ困る。
けれど以前のように、その言葉だけで動けなくなることはなくなった。
アデルは室内着の裾を整えると、そのままリュシアンの隣へ身体を寄せた。肩が触れ、もう少し近づく。彼の腕が自然に背へ回るのを待ってから、銀髪を片側へ寄せ、首元へ顔を埋めた。
「……今日、いろんな香りを嗅ぎすぎました」
「うん」
「リュシアン様の匂いで戻したいです」
「好きにどうぞ」
「以前より随分、扱いが軽くなりましたね」
「最初の頃みたいに毎回驚いてたら身が持たない」
「私は最初から、驚かれるようなことはしておりません」
「今、自分から俺の首嗅いでるけど」
「必要だからです」
「はいはい」
答えながら、リュシアンはアデルの銀髪を手に取った。指の間をさらさらと滑らせ、香りを確かめるように毛先へ顔を寄せる。
「まだ何か残ってる」
「薫香でしょうか」
「白檀と……甘い樹脂。あと、何か花」
「今日試したものが混ざっておりますね」
「アデルの匂いもする」
「それは洗っても消えないでしょう」
「知ってる」
返事があまりに当然だったので、アデルは首元から顔を上げた。
「今の言い方は、少々気になります」
「何が?」
「ずいぶん詳しそうでしたので」
「詳しいよ」
「なぜでしょう」
「今さら?」
リュシアンの灰青色の瞳が笑う。
アデルは数秒考え、それから視線を逸らした。
「……質問を撤回いたします」
「遅い」
「聞かなかったことにしてください」
「無理」
「では、忘れてください」
「もっと無理」
アデルが軽く肘で脇腹を押すと、リュシアンは声を立てて笑った。
婚礼前には、こうして寝台の上でじゃれ合う自分など想像したこともなかった。そもそも隣に誰かが眠る生活そのものを考えたことがない。
それが今では、仕事で疲れて帰った夜に、この人の体温へ身体を預けることが自然になっている。
リュシアンが笑い終えるのを待ってから、アデルは再び肩へ頭を預けた。
「でも、不思議ですね」
「何が?」
「本日あれほど、香りには人を惚れさせる効能などない、と説明していたのに」
「うん」
「実際、好きな人の香りは特別に感じます」
リュシアンの指が、銀髪を梳いていた途中で僅かに止まった。
「それ、今日の制度に矛盾しない?」
「いたしません。香りが相手の感情を変えるのではなく、すでにある感情によって香りの意味が変わるのです」
「なるほど」
「たとえば、リュシアン様の匂い自体に安心させる成分が含まれているわけではございません」
「夢がない」
「先ほども聞きました」
「じゃあ、俺が安心するのは?」
「私がリュシアン様を好きだからでしょう」
言ってから、アデルは自分で少し驚いた。
以前なら、こういう言葉は頭の中で一度吟味してからでなければ口にできなかった。
けれどリュシアンは驚かなかった。
ただ、銀髪を梳いていた手を止め、少しだけ嬉しそうに口元を緩めた。
「それ、もう一回言って」
「申し上げません」
「なんで」
「聞こえていたでしょう」
「聞こえたけど、もう一回」
「効能を誇張するのは禁止になりました」
「その逃げ方する?」
「本日できたばかりの制度を有効活用しております」
リュシアンはしばらくアデルを見ていたが、やがて諦めたように息を吐いた。
「じゃあ俺も事実だけ言う」
「何でしょう」
「アデルの香り、俺にはやっぱり効果ある」
「まだおっしゃるのですか」
「だって、これは嘘じゃない」
「どのような効果でしょう」
半ば呆れて尋ねると、リュシアンは少し考えた。
「最初は、落ち着く」
「それは昔から伺っております」
「その次は、近くにいたくなる」
「それは香りの作用ではありません」
「分かってる。その次が問題」
灰青色の瞳が、僅かにいたずらっぽく細くなった。
アデルは嫌な予感がした。
「何でしょう」
「触りたくなる」
「リュシアン様」
「もう少し近くに来てほしくなる」
「それは完全にご自身の――」
「最後は、寝かせたくなくなる」
アデルは黙った。
昔なら真っ赤になって逃げていたところだ。
今は、まず夫の顔を見る。
案の定、楽しそうだった。
「つまり」
アデルは静かに言った。
「ご自身の欲望を香りの責任にしようとなさっているのですね」
「言い方」
「違いますか?」
「……否定しづらい」
「本日一日、何を学ばれたのでしょう」
「表示は正確に」
「結構です」
「じゃあ訂正する」
リュシアンの手が、アデルの腰へ回った。
乱暴ではない。これくらいなら逃げないことを、もう互いに知っている。
「アデルの香りに媚薬効果がある、じゃなくて」
「はい」
「アデルを好きな俺が、アデルの匂いを嗅ぐと余計にそうなる」
「非常に正確になりました」
「表示していい?」
「どこへです?」
「瓶を作って」
「作りません」
「『王太子専用』って」
「絶対に作りません」
「じゃあ非売品」
「そういう問題ではございません」
アデルは笑いを堪えながら、腰へ回った腕へ手を重ねた。
その指先を見て、ふと思う。
婚礼より前には、触れられるたびに意味を考えていた。
これは恋人としてなのか。
王太子として守っているだけなのか。
どこまで近づいていいのか。
今はもう考えない。
触れたいから触れる。
寄りかかりたいから寄りかかる。
互いに嫌なら言うことも知っている。
「リュシアン様」
「ん?」
「私も、一つ効能を確認いたしました」
「何?」
「リュシアン様は、私が疲れている時にはよく眠れます」
「俺が?」
「はい。温かいので」
「……それ、人としてじゃなく寝具として評価されてない?」
「優秀です」
「嬉しくない」
「抱き枕としても」
「もっと嬉しくない」
アデルが笑う。
今度はリュシアンが少し不満そうに眉を寄せた。
その表情さえ見慣れたものになっていることが、妙に愛しかった。
「では、訂正いたします」
アデルは腰へ回された腕の中で身体を向き直り、リュシアンの頬へ手を添えた。
「安心いたします」
今度は冗談ではなく言った。
「帰ってきた、と思います」
リュシアンの顔から、先ほどまでのからかうような笑みが少し消えた。
「王宮に?」
「あなたのところへ」
静かな寝室に、暖炉の薪が小さく爆ぜる音がした。
春の夜気を含んだ風が薄いカーテンを揺らし、窓の隙間から湿った土と芽吹いたばかりの若葉の匂いが流れ込んでくる。
リュシアンは何も言わず、アデルの手に自分の手を重ねた。
「……それは、効くな」
「何にです?」
「俺に」
「またですか」
「今度は香りじゃない」
そう言って笑うと、リュシアンはアデルの手のひらへ軽く口付けた。
「俺も同じ。アデルがここにいると、帰ってきた感じがする」
「ここは元々、リュシアン様のお部屋ですが」
「そういうところだよ」
「事実です」
「分かってる」
それから少しだけ顔を近づける。
アデルも避けなかった。
唇が触れ、離れ、もう一度重なる。
以前より長くなった口付けにも、もう驚いて目を開けたまま固まったりはしない。リュシアンの肩へ自然に腕を回し、息を整えるために離れれば、自分から額を寄せることさえある。
近い距離で、灰青色の瞳がこちらを見る。
「ところで」
「はい?」
「今日は本当に疲れてる?」
「それなりに」
「じゃあ寝る?」
アデルは少し考えた。
以前なら、この質問の意味を必要以上に考えていただろう。
今では、リュシアンが本当に自分の体調を聞いていることも、答え次第で何もせず眠るつもりなのも分かっている。
だからこそ、アデルは素直に言った。
「もう少しだけ、こうしていたいです」
「了解」
「ですが、明日は早いので」
「分かってる」
「春香祭の審査も残っております」
「分かってるって」
「それから」
「アデル」
「何でしょう」
「今くらい、仕事忘れて」
言われて、アデルは口を閉じた。
少しだけ迷い、それからリュシアンの首元へもう一度顔を埋める。
「……では、あと少し」
「うん」
「これは香りの審査ではございませんので」
「知ってる」
「効果の検証でもありません」
「それも知ってる」
リュシアンの腕が、ゆっくりと背中へ回る。
「ただ好きだから、だろ?」
アデルは答えず、その胸元へ顔を隠した。
けれど否定もしなかった。
春香祭まで、あと二週間。
今年のスピネリアでは、香りに効能を謳うことが少し難しくなった。
けれど、好きな人の香りを特別だと思うことも、その人の腕の中を帰る場所だと思うことも、どんな法律にも定める必要はなかった。




