第五十話 追いついた香り
コンコン、と控えめな音が調香室の扉を叩いた。
アデルは手元の記録帳から顔を上げた。宮廷調香室を訪ねてくる人間は少なくないが、ここまで律儀に扉を叩く者となると、ある程度限られている。新設された王族警護部隊のことで、また何か調整でも入ったのだろうか。あの苦労性らしい副官あたりかもしれないと思いながら、乳鉢の横へ羽根ペンを置いた。
「はい、どうぞ」
「失礼いたします。騎士団のユリウス・フェルナーでございます」
「ああ、フェルナー卿。お入りください」
扉を開けて入ってきたのは予想とは違う人物だった。ユリウスは勤務中らしく、いつもの濃紺の騎士服を隙なく着込み、短く整えた黒髪にも乱れがない。淡い灰色の瞳も普段通り落ち着いていたが、なぜか扉の前で一度立ち止まり、改めて姿勢を正した。
「本日は私的なご相談で恐縮ではございますが、宮廷調香師殿へご相談があり参りました」
「私的な?」
珍しい。
アデルは瞬きをした。
王太子妃としてここに座っているのなら、ユリウスにとって自分は警護対象の王族である。けれど今のアデルは、白い前掛けをつけ、銀髪を低くまとめて作業机に向かう宮廷調香師だった。王族警護を担う騎士と宮廷に仕える調香師であれば、職務上は同じ王宮で働く者同士でもある。
アデルは少しだけ笑った。
「では、王太子妃ではなく、同僚としてお聞きいたします」
「ありがとうございます」
「どうぞ、お掛けください」
ユリウスは向かいの椅子へ腰を下ろしたものの、すぐには話し始めなかった。剣や警備計画についてなら迷うことなどなさそうな男が、言葉を選ぶように一度だけ視線を伏せる。
「実は、お見合いにつけていく香水について、ご意見を伺いたく」
「まあ、メリル殿下と?」
「なぜ、お分かりに?」
即座に返され、アデルは口を閉じた。
しまった。
ある夜に、リュシアンへ話してしまったこともある。とはいえ、メリル本人が公にしていないことをアデルから明かすのは違う。
「……女性の勘、ということにしておいてくださいませ」
「そういうものでしょうか」
「そういうものです」
押し切った。
ユリウスは釈然としないようだったが、深く追及することはしなかった。
「お見合いでしたら、お相手がお好きな香りをまとわれるのはいかがでしょう」
「メリル殿下のお好きな香り、ですか」
「はい。もちろんフェルナー卿ご自身に似合うことも大切ですが、今回は気に入っていただくことが目的でしょう?」
「そうですね」
ユリウスは真剣に考え始めた。メリルが普段まとっているのは、軽やかな花の香りが多い。薔薇のように華美なものより、若葉や小さな白い花のような、本人の快活さを邪魔しない香りを好んでいる。だからといって、同じものをユリウスが使えばよいわけではない。
しばらく黙っていた彼の灰色の瞳が、ふと動いた。
「ああ」
「何か思い当たりました?」
「以前、殿下から言われたことがございます」
「どのような?」
「汗は、頑張った香りだと」
アデルの手が止まった。
「……まあ」
「それから、自分のものなら、そのままでよいとも」
なるほど。
アデルはすべてを察した。メリルがユリウスへ向けていた視線も、先日騎士団で見た妙な距離感も、あの時の言葉も、今になって一本へ繋がっていく。
本人は随分前から、かなり分かりやすいことを言っていたらしい。
「でしたら、あまり強い香りはお勧めいたしません」
「そうなのですか?」
「メリル殿下がお好きなのは、おそらく香料そのものではありませんもの」
アデルは棚を振り返ると、いくつかの小瓶を取り出した。
最初に選んだのはベルガモット。明るく澄んだ柑橘の香りは、堅い印象を持たれやすいユリウスの輪郭を少しだけ柔らかくしてくれる。次に、乾いた檜の香り。騎士服や革具とも馴染みやすく、森を思わせる清潔な木の香りだった。最後にスペアミントをほんの少量だけ加える。清涼感は出るが、ペパーミントほど鋭くない。
試香紙へ落とし、三つを重ねる。ベルガモットが最初に軽く立ち、その後ろから乾いた木の香りが現れ、最後にスペアミントの涼しさが細く残った。
「こちらはいかがでしょう」
ユリウスが試香紙へ鼻を寄せる。
「爽やかですね」
「それ以上にしないことが大切です。香りをまとっていることが分かる程度で十分でしょう」
「理由を伺っても?」
「フェルナー卿ご自身の香りを消してしまわないためです」
ユリウスが瞬きをした。
「メリル殿下は、あなたが剣を振って、走って、誰かを守った後の香りを好まれたのでしょう?」
「……はい」
「でしたら、別の男性になってお見合いへ行く必要はございません」
アデルは小瓶へ香りを移しながら、穏やかに続けた。
「香りは、好かれるために別人になるためのものではありませんから。その人のよいところを、少しだけ相手へ伝えやすくするものです」
ユリウスはしばらく小瓶を見ていた。
「一滴で十分です」
「一滴」
「一滴です」
「二滴では」
「いけません」
「承知いたしました」
素直だった。
小瓶を受け取り、丁寧に懐へ収める。
「ありがとうございます」
「どういたしまして。よいお見合いになるとよろしいですね」
「はい」
立ち上がったユリウスが一礼する。扉へ向かいかけたところで、アデルはふと思いついて声をかけた。
「フェルナー卿」
「はい?」
「メリル殿下は、随分お待ちになったと思いますよ」
灰色の瞳が少しだけ見開かれた。それからユリウスは、ほんのわずかに口元を緩めた。
「……昨日、ようやく理解いたしました」
どうやら本当に、ようやくらしい。
*
翌朝。
「メリル。東部辺境伯より、縁談のお申し出があったわ」
「……っ! 本当!?」
反射的に身を乗り出してから、メリルは自分が何をしたのかに気づいた。
王族の朝食の席である。向かいには国王と王妃。その隣にはリュシアンとアデルがおり、少し離れた席ではライオネルがパンを切っている。
全員がこちらを見た。
メリルはゆっくり座り直した。
「……そう」
遅かった。
滑らかに整えた亜麻色の髪の下で、王妃の茶色の瞳がすでに楽しそうに細められている。
「でも、あなた北部辺境伯家からのお話も、南部辺境伯家からのお話もお断りしたでしょう? 東部もお断りするのかしら」
「絶対にお受けするわ!」
また即答した。
今度こそ食卓が静かになる。
「……お相手を見てから決めるもの。そういう意味よ」
「そう」
王妃の声には、まったく信じていない響きがあった。
「それなら安心したわ。先方は、できれば明日にでも顔合わせをと仰っているそうよ」
「明日?」
早い。
昨日の午後、ユリウスがあの盛大な勘違いにようやく気づいたばかりではなかったか。その日のうちに父親へ連絡し、東部辺境伯家から王家へ正式な申し入れを出し、翌朝には話が届いている。
動いてからが早すぎる。
(……ユリウスって、こうなのね)
考えてみれば、仕事では昔からそうだった。何かが起きれば状況を見て、必要なことを決め、黙って実行する。迷っている姿をほとんど見たことがない。
恋愛だけが壊滅的に状況を読めていなかっただけなのだ。
「それで」
メリルはなるべく平静を装いながら、水へ手を伸ばした。
「お相手は、東部のどなた?」
「それがねえ」
王妃がわざとらしく考える素振りをする。
「ユリウス・フェルナー卿なのよ。王室騎士団の」
その名前を聞いた国王が、わずかに眉を上げた。
「フェルナー卿か。先日、リュシアンの推薦で新部隊の隊長へ昇進した者だな」
「はい、父上」
リュシアンが静かに答える。
「あの東部視察でも働きは申し分ありませんでした。判断が速く、王族警護に必要な慎重さもある。新部隊を任せるなら、あいつが適任だと思いました」
メリルは思わず兄を見る。
(……お兄様だったのね)
もちろん、ユリウスが隊長に選ばれたのは本人が積み上げてきた実績があってこそだ。それでも、その働きを誰より近くで見て、王家へ正式に推薦した人間が兄だったことまでは知らなかった。
東部から帰った翌朝、突然知らされた昇進。
ずっと待っていたものが、ようやく来たと思った。
あの時、リュシアンは何も言わなかった。
メリルの視線に気づいたらしい。リュシアンは紅茶の杯を口元へ運びながら、ごく僅かに口元を緩めた。
兄が見せたのは、それだけだった。
けれど、メリルには十分だった。
(ありがとう、お兄様)
声に出せば、母に何を言われるか分からない。だから代わりに小さく頷くと、リュシアンもそれ以上何も言わず、ほんの少しだけ灰青色の瞳を和らげた。
「人物については私も報告を読んでいる」
国王が続ける。
「東部辺境伯家の三男で家督を継ぐ立場ではないが、今は王族警護部隊の長だ。家格、役職ともに王女の相手として問題になるほどではない」
「あなた」
王妃が穏やかに夫を見る。
「まだお見合い前ですよ」
「分かっている」
そう言いながらも、国王の眉間には微かな皺が残っていた。候補として不足があるからではなく、自分の娘が本当に誰かの妻になるかもしれないという事実の方が、どうにも気に入らないらしい。
メリルはそれに気づかないふりをした。
「私は、お会いしてみたいわ」
「そう」
王妃の笑みがまた深くなる。
「では、明日の午後でお返事しておきますね」
「お願い」
ライオネルは興味がなさそうに見せながら、口元だけが僅かに笑っていた。
そしてアデルは。
(昨日の香りで、本当によかったのでしょうか……)
まったく別の理由で緊張していた。
*
翌日の午後。
メリルは王宮の応接室へ入ってきた男を見て、足を止めた。
ユリウスだった。
当然である。
分かっていた。
それなのに、一瞬誰なのか分からなかった。
普段の騎士服ではない。深い紺色を基調とした貴族の礼服を纏い、襟元と袖口には銀糸で控えめな刺繍が施されている。腰には儀礼用の細身の剣。短い黒髪もいつも以上に丁寧に整えられ、白い襟元から覗く首筋まで隙がない。
騎士服の時には、鍛えられた身体と実用的な立ち姿ばかりが目についた。
こうして見ると違う。
ユリウス・フェルナーは、東部辺境伯家の三男なのだ。
礼の角度も、椅子を引く仕草も、言葉を発する前のわずかな間さえ、幼い頃から貴族として身につけてきた品格がある。普段はそれを騎士という役割の後ろへ隠していただけなのだと、メリルは初めて知った。
応接室には国王夫妻とリュシアン、アデルも同席していた。東部辺境伯本人は領地を離れられなかったため、王都に滞在しているフェルナー家の家令が正式な書状を携えている。
ユリウスは国王夫妻へ礼を取った。
「このたびは、私どもの申し出をお受けいただき、ありがとうございます」
普段、訓練場で見る姿とはまるで違う。
声そのものは同じなのに、王女の護衛として控えている時とは纏う空気が違っていた。今日は誰かの後ろに立つ騎士ではなく、自分自身の名前でメリルへ会いに来ている。
「堅くならなくてもよい」
国王が言う。
「とはいえ、私が何も聞かずに娘を任せると思われても困るが」
「あなた」
「必要なことだ」
王妃に窘められても、国王は譲らなかった。
ユリウスは姿勢を正す。
「何なりと」
「お前は、なぜメリルとの婚姻を望む」
真正面から問われ、メリルの心臓まで跳ねた。
まさかここで聞くのか。
横を見ることもできず、膝の上で指先だけを握る。
ユリウスは少し黙った。
答えに窮したのではなく、言葉を選んでいるようだった。
「昨日までの自分は、王女殿下が自分を婚姻相手としてお考えになる可能性そのものを、最初から除外しておりました」
国王の眉が僅かに動く。
「なぜだ」
「自分は辺境伯家の三男であり、王室騎士です。殿下のおそばへ立つことを許されているのは、身分が釣り合うからではなく、警護役だからだと考えておりました」
メリルは俯きかけて、やめた。
昨日聞いた話だ。
分かっている。
それでも、父や母の前で改めて聞くと少し胸が痛む。
「ですが」
ユリウスの声が続いた。
「昨日、その認識が誤っていたことを教えていただきました」
そこで初めて、淡い灰色の瞳がメリルへ向いた。
「可能性がないと思っていたから、考えなかっただけです。考えることを許された今は、迷う理由がございません」
メリルの指先から、ゆっくり力が抜けた。
「王女殿下の快活さも、剣を握られる時の真剣なお顔も、誰かが困っていれば身分を問わず手を貸されるところも、昔からよく存じております。そばにいることを仕事だと思っておりましたが、離れていた時に落ち着かなかった理由も、今なら分かります」
メリルが顔を上げた。
そんなことは聞いていない。
東部へ行っていた一週間、自分ばかりが長いと思っていたのではなかったらしい。
「ユリウス……」
「ですので、自分はメリル王女殿下との婚姻を望みます」
静かな声だった。
けれど迷いはなかった。
リュシアンがほんの僅かに笑う。
王妃は最初から分かっていたような顔をしている。
国王だけは腕を組み、しばらくユリウスを見ていた。
「分かった」
短い言葉だった。
「後は、本人同士で話せ」
メリルが瞬きをする。
「よろしいの?」
「まだ許可を出したわけではない」
「お父様」
「お前がどう答えるかを聞いてからだ」
頑固である。
けれど反対しているわけではないことくらい、娘にも分かった。
王妃が小さく笑った。
「せっかくですから、お庭でも歩いていらっしゃい。お二人で話したいこともあるでしょう」
「ありがとうございます」
ユリウスが礼をする。
メリルも立ち上がった。
応接室を出る直前、振り返る。
リュシアンと目が合った。
兄はまた、ごく軽く笑った。
行ってこい。
言葉にすれば、そんな顔だった。
*
王宮庭園へ続く階段の前で、ユリウスが自然に手を差し出した。
「お手を」
「……え?」
「段差がございます」
「それは見れば分かるわ」
「はい」
「いつもなら、こんなことしないでしょう」
ユリウスの手が止まる。
「警護の際には、自分が先に足元を確認するだけですので」
「今日は?」
灰色の瞳がメリルを見る。
「見合い相手として参りました」
「…………そう」
メリルはその手へ自分の指を重ねた。
革手袋越しではない。
素手だった。
指先へ触れた体温を意識した瞬間、胸の奥が一気に騒がしくなる。
さっきより危ない。
階段を降りると、ユリウスは手を離したが、そのまま数歩後ろへ戻ることはなかった。
横にいる。
自分と同じ速度で歩いている。
それだけのことが、どうしようもなく嬉しかった。
風が吹く。
その時、メリルはふと知らない香りに気づいた。
明るい柑橘。
その後ろに、乾いた木の香り。
涼しい葉の気配。
「……今日、何かつけてる?」
「はい」
「香水?」
「昨日、宮廷調香師殿へ相談いたしました」
「アデルに?」
「お見合いであれば、相手の好きな香りがよいと伺いまして」
嫌な予感がした。
「……私が好きな香り、知ってたの?」
「以前、教えていただきました」
「私が?」
「汗は、頑張った香りだと」
メリルの歩みが止まりかけた。
「それから、自分のものなら、そのままでよいとも」
「…………」
覚えている。
もちろん覚えている。
あれは自分なりにかなり踏み込んだ言葉だった。
本人にはまったく伝わっていないと思っていた。
「ですので、宮廷調香師殿には、自分自身の匂いを消さないものを作っていただきました」
ベルガモット。
檜。
スペアミント。
確かに爽やかな香りなのに、ユリウスへ近づけば、その奥には昔から知っている彼自身の匂いがある。
「……アデル」
「何か?」
「何でもない」
今度お茶へ呼ぼう。
いろいろ聞きたい。
しばらく歩いたところで、メリルはふと口を開いた。
「ねえ、ユリウス」
「はい」
「もし、今日の話がまとまったら」
「はい」
「これからは夜会も、警護じゃなくて私をエスコートしてくれるんでしょう?」
「もちろんです」
即答だった。
メリルは思わず横を見る。
「……本当に?」
「婚約者となるのであれば、当然かと」
「ちゃんと隣に立ってね」
「承知しております」
「後ろじゃなくて」
「はい」
「踊ってくれる?」
「もちろんです」
「あなた、舞踏できるの?」
「貴族ですので」
淡々と言われ、メリルは笑った。
「そうだったわね。今日初めて思い出した」
「殿下は自分を何だと思っていらしたのでしょう」
「無口な騎士」
「間違ってはいません」
「でも、踊るところは想像できないわ」
「でしたら今度、お相手いたします」
「練習しておいてね」
「殿下のお相手が務まる程度には」
「それから、ドレスも贈ってくれる?」
「もちろんです」
また即答した。
「……あなた、そういうこともできるのね」
「先ほどから、自分に対する評価が少々気になります」
「だって、今まで警護しかしてくれなかったもの」
「警護役でしたので」
「そうだけど」
長い間、ずっとそうだった。
ユリウスが悪いわけではない。
分かっている。
それでも、今なら言っていい気がした。
「お揃いがいいわ」
「お揃い?」
「全部同じ色という意味じゃないの。私のドレスと、あなたの上着の刺繍とか、飾り紐とか。並んだ時に分かる程度でいいの」
ユリウスは少し考える。
「では、一緒に仕立屋へ参りましょう」
メリルが瞬きをした。
「一緒に?」
「自分だけで選んで殿下のお好みに合わない方が困りますので」
「……そう」
胸の奥がまた少し熱くなる。
ずっと自分から誘ってきた。
二人で茶を飲みたい。
遠乗りへ行きたい。
もう少し話したい。
その度にユリウスは、すべて「王女の公務」か「警護の仕事」として受け取った。
そんな男が今、自分から一緒に仕立屋へ行こうと言っている。
「遠乗りも」
「はい」
「警護じゃなくて、一緒に行きたい」
「では、休みを合わせます」
「あなたから誘って」
「承知しました」
「お茶も」
「はい」
「帳面を持ってこないで」
ユリウスが一度だけ黙った。
「……以前の件でしょうか」
「そうよ」
メリルは少し睨んだ。
「私が二人でお茶を飲もうって言ったら、あなた護衛報告書を出したじゃない」
「申し訳ございません」
「今なら分かる?」
「はい」
「あれは何だったと思う?」
「お誘いでした」
「そうよ!」
何年越しだろう。
ようやく届いた。
「それから、誕生日に手袋をあげた時も」
「今も使用しております」
「そういうことじゃないの」
「?」
「普通、女性から個人的に贈り物をされたら、少しくらい何か考えるでしょう」
「防寒具だと思いました」
「だから、どうして性能だけ見るのよ」
「実際、非常に暖かかったので」
「性能の話をしてないの」
思わず声を上げると、ユリウスの口元がほんの少し緩んだ。
「ですが、大切にはしております」
メリルの言葉が止まる。
「……まだ持ってるの?」
「もちろんです」
「新しいものも支給されてるでしょう」
「ございます」
「だったら」
「あれは、殿下から初めて個人的にいただいた物ですので」
「…………」
ずるい。
今まで何一つ気づかなかったくせに。
本人にとっては恋愛ではなかったのかもしれない。けれど、自分と過ごした時間も、自分から渡したものも、どうでもよかったわけではないのだ。
それが分かってしまうと、怒るに怒れない。
「……あなた、本当に気づいてなかっただけなのね」
「今となっては、そう申し上げるしかございません」
「腹が立つわ」
「申し訳ございません」
「でも、少しだけ許す」
「ありがとうございます」
「全部じゃないからね」
「承知しております」
庭園の奥では、冬を越した木々に小さな芽が膨らみ始めていた。まだ風は冷たい。それでも陽射しには春の気配があり、歩いているうちにメリルの肩から少しずつ力が抜けていく。
長い間、自分だけが待っていると思っていた。
けれど今は、横にいる。
ユリウスの歩幅が、自分に合わせて少しだけ小さいことにも気づいた。
「さっき」
メリルがぽつりと言う。
「お父様の前で、離れていると落ち着かなかったって言ったでしょう」
「はい」
「東部に行ってた時?」
「はい」
「……私も長かった」
ユリウスがこちらを見る。
「一週間だけなのに、すごく長かったわ」
「自分もです」
即答ではなかった。
だからこそ、その言葉が胸へ入ってきた。
「どうしてその時に気づかなかったの?」
「殿下の警護から長く外れたためだと思っておりました」
「本当にもう」
メリルは呆れて笑う。
「じゃあ、今は?」
「今は、理由が分かります」
灰色の瞳がまっすぐこちらへ向いた。
「会えないと、寂しかったのだと思います」
メリルは顔を逸らした。
「……そういうの、急に言わないで」
「申し訳ございません」
「謝らなくていいわ」
昨日まで何も分かっていなかった男が、理解した途端にこれである。
心臓がいくつあっても足りそうにない。
庭園中央の噴水へ着いたところで、ユリウスが足を止めた。
「メリル王女殿下」
声が変わった。
メリルも立ち止まる。
ユリウスは彼女の前へ向き直ると、右手を取った。
いつもの警護ではない。
騎士としての礼でもない。
指先を支えるように持ち上げ、手の甲へゆっくり唇を落とす。
柔らかな感触は一瞬だったのに、そこだけ熱が残った。
ユリウスが顔を上げる。
淡い灰色の瞳が、逃げずにまっすぐこちらを見ていた。
「昨日、自分は殿下から、婚姻を申し込んでもよいのだと教えていただきました」
「ええ」
「ですが、許されたから申し込むのではありません」
メリルの瞳が僅かに揺れる。
「自分が、そうしたいと思ったから申し上げます」
ユリウスの親指が、手袋越しではないメリルの指先をほんの少し支え直した。
「これまでお待たせした分を取り戻せるとは思っておりません。ですが、これから先は、自分から殿下のおそばへ行きたいと思っております」
言葉が胸の奥へ落ちた。
ずっと欲しかったものだった。
追いついてほしいと思っていた。
けれど本当に追いついた彼は、想像していたよりずっと真っ直ぐだった。
「改めて、婚姻をお申し込みいたします。私と結婚していただけますか」
今度こそ駄目だった。
礼服。
エスコート。
覚えていた香り。
離れて寂しかったという言葉。
そしてこれ。
何度も平静を失いかけてきたが、もう完全に終わりである。
それでも、ここだけはきちんと答えたかった。
「……はい」
メリルは少しだけ笑った。
「喜んで」
ユリウスの表情は大きく変わらなかった。けれど灰色の瞳がゆっくりと柔らかくなり、いつも固く結ばれている口元にも僅かな笑みが浮かんだ。
「ありがとうございます」
その顔を見て、メリルの胸の奥まで温かくなる。
*
二人が応接室へ戻ると、国王夫妻はまだ同じ場所で待っていた。
リュシアンとアデルもいる。
扉が開いた瞬間、王妃は二人の顔を見ただけですべてを察したらしい。茶色の瞳が楽しそうに細められた。
「お話は済みましたか?」
「はい」
答えたのはユリウスだった。
メリルの隣へ立ち、一歩も後ろへ下がらない。
「メリル王女殿下へ正式に婚姻を申し込み、お受けいただきました」
国王の視線が娘へ向く。
「メリル」
「私も、ユリウス・フェルナー卿との婚姻を望みます」
今度は迷わなかった。
公の場で、自分の意思を明確に告げる。
国王がしばらく黙る。
やがて深く息を吐いた。
「……そうか」
父親としては、もう少し時間が欲しかったのかもしれない。
けれど王として出した答えは早かった。
「ならば、両家の婚約を認める」
メリルの顔が明るくなる。
「お父様!」
「まだ婚礼の日取りまで決めたわけではない」
「分かってるわ」
「本当か?」
「分かってるってば」
王妃がとうとう笑った。
「おめでとう、メリル」
「ありがとう、お母様」
「フェルナー卿」
国王が呼ぶ。
「はい」
「娘を頼む」
ユリウスは背筋を伸ばした。
「命に代えましても」
「それは警護の答えだ」
珍しく国王が少し眉を寄せる。
「夫になるのなら、共に生きろ」
ユリウスが一瞬だけ目を見開いた。
「……はい」
今度の返事は少しだけ柔らかかった。
「心得ました」
メリルはその横顔を見る。
そして少し離れたところに立つリュシアンと目が合った。
兄が軽く微笑む。
「おめでとう、メリル」
「……ありがとう、お兄様」
今度は声に出して言った。
リュシアンは何でもないことのように頷いたが、その灰青色の瞳には兄としての安堵が滲んでいた。
その隣でアデルも嬉しそうに笑っている。
婚約が決まった。
本当に。
ずっと待っていた人と。
*
応接室を出て少し歩いたところで、メリルがふと思い出した。
「そういえば」
「はい」
「婚約したら、ずっと『殿下』なの?」
ユリウスがこちらを見る。
「人前では、その方がよろしいかと」
「二人きりの時は?」
少しの沈黙。
「……メリル様」
「様はいらないわ、恋人なのだから」
ユリウスの足が僅かに遅くなった。先ほどまで何でも迷わず答えていた男が、そこだけは珍しく言葉を選んでいる。
「では……メリル?」
「……うん。それがいい」
名前を呼ばれただけだった。それなのに、これまでのどの言葉より近く感じる。
「いつか敬語もやめてくれる?」
「時間がかかりそうですが、努力します」
「本当に?」
「はい」
「じゃあ待つわ」
今度はもう、追いつくまで何年も待つ必要はなさそうだった。
「では、自分からもお願いがございます」
「何?」
「これからは婚約者として、時々お時間をいただけますか?」
「…………時々?」
「はい」
「二人で?」
「もちろんです」
その瞬間、なぜかメリルの頭へ、少し前にリンレイから聞いた言葉が蘇った。
『兄様は、閨へ連れていくのが早いです』
「…………」
「メリル?」
「へっ……心の準備が」
ユリウスが瞬きをする。
「何の、でしょう」
「騎士団の宿舎は、ちょっと……」
「はい?」
「だったら私の部屋かしら?」
ユリウスが止まった。
メリル自身も、口から出ている言葉に思考が追いついていない。
「寝室の警護は外してもらうわ! あ、担当者はあなただったわね?!」
「…………」
ようやく意味が届いたらしい。
ユリウスの灰色の瞳が、珍しいほど大きく見開かれる。次の瞬間、耳まで薄く赤くなった。
「メリル」
「何よ!」
「自分は、食事や散歩などへお誘いしたつもりだったのですが」
「…………」
終わった。
メリルはその場で消えてしまいたかった。
「……忘れて」
「ですが」
「忘れて!」
「承知しました」
ユリウスは真面目に頷いた。
少し間を置いて。
「本日は」
「本日は?」
メリルが顔を上げる。
灰色の瞳には、もう先ほどまでの動揺がほとんど残っていなかった。
理解したのだ。
そして、この男は一度理解すると妙に強い。
「将来的には、湯浴みからご一緒しましょう」
「…………は?」
「東部では、夫婦が湯浴みを共にすることも珍しくございませんので」
「そういう意味で言ったんじゃないわよ!」
「自分は、そのような意味で申し上げました」
「あなた、昨日まで私を愛人にしたいのかとか聞いてたでしょう?!」
「昨日までの自分と本日の自分では、状況認識が異なります」
「仕事みたいに言わないで!」
「事実ですので」
「嫌!」
メリルは真っ赤な顔で先に歩き出した。
後ろから足音がついてくる。
数歩進んだところで、足音がいつもの位置へ戻ったことに気づいた。
少し後ろ。
右側。
王女を警護する騎士として、長い間ずっと守られてきた距離だった。
メリルは足を止める。
「ユリウス」
「はい」
「そこじゃない」
振り返り、自分の隣を指差した。
「ここ」
ユリウスは一瞬だけ、いつもの位置とメリルの横を見比べた。それから静かに一歩進み、隣へ並ぶ。
「これからは、ここでしょう?」
灰色の瞳が柔らかく細められた。
「……はい。メリル」
今度は様もつかなかった。
メリルは満足して前を向く。
二人で歩き出す。
同じ速度で。
同じ方向へ。
ずっと追いついてくるのを待っていた人は、ようやく隣まで来た。
そして今度は、もう後ろへ戻らなかった。
*
翌日。
王室騎士団の詰所では、午前の訓練を終えた騎士たちがそれぞれの持ち場へ戻る準備をしていた。
机の上には報告書が積まれ、壁際には整然と剣が並んでいる。窓から入る冷たい風に、革と鉄、それから訓練を終えたばかりの男たちの汗の匂いが混じっていた。
第一部隊の隊長アルベルト・クロイツが書類へ目を通し、その向かいでは副隊長のマルセル・デュランが椅子を後ろへ傾けながら、気の抜けた顔で水を飲んでいる。
そこへユリウスが入ってきた。
「失礼します」
「お疲れ、隊長殿」
マルセルが片手を上げる。
新部隊へ移ったとはいえ、ユリウスは設立準備のため第一部隊と顔を合わせることもまだ多かった。
「何かあったか?」
アルベルトが顔を上げる。
「私事ですが、ご報告がございます」
ユリウスの声音はいつもと変わらない。
その場にいた何人かの騎士が、なぜか一斉にこちらを見た。
「昨日、メリル王女殿下へ正式に婚姻を申し込み、お受けいただきました。国王陛下より婚約の許可も頂戴しております」
数秒。
妙な沈黙が落ちた。
次の瞬間。
「やっとかよ!」
マルセルの声が詰所中へ響いた。
ほぼ同時に、周囲から安堵したような笑い声が上がる。
「おめでとうございます、フェルナー隊長」
「長かったなあ」
「いや、本当に」
「いつ気づくんだろうって思ってました」
「……?」
ユリウスが眉を寄せた。
想像していた反応と違う。
「待ってください」
「何?」
マルセルが笑いを堪えながらこちらを見る。
「皆、気づいていたのですか」
また一瞬、静かになった。
アルベルトが無言でユリウスを見る。
マルセルも見る。
近くにいた若い騎士たちまで見る。
「……自分だけ?」
「まあ」
マルセルが口元を歪める。
「あれだけ見てたらなあ」
「何をでしょう」
「殿下がお前を」
ユリウスが黙る。
「訓練場へ来ても、お前がいると妙に視線がそっちへ行くし。逆に話しかける時だけ不自然に固いし」
「そうでしょうか」
「そうだよ」
近くの騎士も頷く。
「遠乗りの警護もフェルナー殿を指定されることが多かったですし」
「自分が適任だったのでは」
「そういうところですよ」
「……」
ユリウスがさらに黙った。
アルベルトは書類へ視線を戻しながら、淡々と言った。
「勤務中に王女殿下の私情を話題にするべきではないと思っていたので、私は何も言わなかった」
「隊長も気づいていたのですか」
「当然だ」
即答だった。
ユリウスの淡い灰色の瞳が、珍しく途方に暮れたように動く。
「では、本当に……自分だけだったのですね」
「そういうこと」
マルセルが楽しそうに頷いた。
「まあ、よかったじゃん。ちゃんと気づけて」
「はい」
「しかも王女殿下だろ? すごいなあ」
マルセルはそこで急に遠い目をした。
そして机へ突っ伏す。
「あーあ。いいなあ。俺も婚約者ほしい!」
「まず相手を探せ」
アルベルトが書類から顔も上げずに言う。
「隊長、冷たくないです?」
「三年前から同じことを言っているだろう」
「出会いがないんですよ。毎日ここで男ばっかり見てるんだから」
「夜会へ行け」
「警護で?」
「休暇を取れ」
「休暇取ったら寝たいです」
「なら諦めろ」
「ひどい!」
詰所に笑いが広がった。
ユリウスはしばらくその様子を眺めていたが、やがて自分の手元へ視線を落とした。
昨日、メリルが重ねた手。
名前を呼んだ時の、あの嬉しそうな顔。
ずっと待たせていた。
それすら、自分一人だけが知らなかった。
「隊長」
マルセルがまだ机へ突っ伏したまま呼ぶ。
「何でしょう」
「今度、王女殿下と夜会出る時、お揃いの服着るんです?」
ユリウスの目が僅かに動く。
「その予定です」
「もうそこまで話したの?!」
「一緒に仕立てに行きます」
「昨日婚約したばっかりだろ?!」
「はい」
「進み始めたら早いな、お前!」
また笑いが起きた。
ユリウスは何がそんなに面白いのか分からないまま、ほんの少しだけ口元を緩めた。
追いつくまでには随分時間がかかった。
けれど、追いついた以上。
もう立ち止まるつもりはなかった。




