第七十三話 未来へ続く香り
イリスが生まれた翌朝、スピネリア王太子宮には、これまでにないほど穏やかで、そして奇妙なほど疲れ切った空気が漂っていた。
冬の陽射しが高い窓から差し込み、白い寝具の上へ柔らかな光を落としている。暖炉には小さな火が残り、室内には洗いたての布と温かな乳の匂いが、ほのかに混ざり合っていた。いつもなら朝から侍従たちが忙しく行き交う時間だったが、今日ばかりは足音も控えめで、扉の開閉さえ慎重に行われている。
その部屋の中央で、アデルは深く寝台へ身体を沈めていた。
長い銀髪は緩く編まれ、白い頬にはまだ疲労の色が濃く残っている。出産を終えてから幾度か眠ったものの、身体のあちこちには鈍い痛みがあり、少し姿勢を変えるだけでも思うように力が入らなかった。宮廷医からは十分な休息が必要だと言われており、今日は何もせずに過ごすよう、メリーからも念を押されている。
けれど、アデルは少しも退屈していなかった。
寝台の傍らには、小さな寝床が置かれている。
その中で、イリスが眠っていた。
柔らかな白い布に包まれた小さな身体。額にかかる産毛のような銀髪は、朝の光を受けると淡い真珠色に輝き、まだ丸みの強い頬には、かすかな血色が差している。小さな唇がときおり動き、そのたびに、何か夢でも見ているのだろうかと不思議になる。
アデルは寝台に横たわったまま、娘の顔を眺めていた。
昨日まで、自分の身体の中にいた子供である。
それが今は、こうしてすぐ隣で眠っている。
当然のことなのに、何度考えても不思議だった。
「……殿下」
小さく呼びかけると、長椅子へ腰を下ろしていたリュシアンが顔を上げた。
濃紺の室内着をまとい、艶のある黒髪をいつもより無造作に整えている。端正な顔立ちは普段と変わらないものの、灰青色の瞳の下には薄い影が落ち、さすがに疲労を隠しきれていなかった。
「何だ。痛むのか?」
すぐに立ち上がろうとする夫を、アデルは微笑んで制した。
「いいえ。そうではなくて」
「なら、どうした?」
「……イリスが、可愛らしくて」
リュシアンは一瞬黙った。
それから、寝床へ視線を向ける。
「……ああ」
彼の口元が、ゆっくりと緩んだ。
「可愛いな」
アデルは頷いた。
「はい」
「……本当に、可愛い」
「はい」
それきり、二人はしばらく黙って娘を眺めた。
眠っているだけなのに、どうしてこんなにも飽きないのだろう。小さな指が動くたびに目で追い、唇がわずかに開けば、何かを求めているのではないかと気になってしまう。
やがてリュシアンが、ゆっくりと寝床の傍らへ腰を下ろした。
「……アデル」
「はい」
「この子、さっき笑った気がする」
アデルは目を瞬いた。
「まあ、本当ですか?」
「ああ。口元が少し上がった」
「まだ生まれたばかりですから、笑ったわけではないかもしれませんね」
「……そうなのか?」
「ええ。赤ちゃんには、眠っている間に表情が変わることがあるそうです」
リュシアンは少し考えた。
それから、もう一度娘を見つめる。
「……でも、笑ってた」
アデルは思わず吹き出した。
「殿下」
「何だ」
「随分と嬉しそうですね」
「当たり前だろ」
リュシアンは真顔で答えた。
「お前に似た顔で笑ったんだぞ」
アデルは頬を赤くした。
どうやら、夫は早くも相当な親馬鹿になりつつあるらしい。
もっとも、自分も人のことは言えなかった。
イリスが少し身じろぎするだけで気になり、目を開ければ嬉しくなり、眠ってしまえば名残惜しい。昨夜あれほど疲れていたのに、今もこうして娘の顔を見ているだけで、胸の奥が温かくなるのだから。
「……殿下」
「うん?」
「私たち、ライレイ殿下を笑えませんね」
リュシアンは一瞬黙った。
それから、深く息を吐いた。
「……そうだな」
その返事があまりにも素直だったので、アデルはまた笑ってしまった。
けれど、その笑顔を見たリュシアンは、今度こそ寝台の傍らへ近づいた。
「……お前も、ちゃんと休め」
「休んでおりますよ」
「さっきからイリスばかり見てるだろ」
「見ているだけです」
「目を閉じろ」
アデルは少し不満そうに眉を寄せた。
「……殿下も、お休みになってください」
「俺は大丈夫だ」
「目の下に影ができております」
「……そうか?」
「はい。随分と」
リュシアンは口を閉じた。
アデルは少し得意げに微笑む。
「では、一緒に休みましょう」
そう言って、彼の手を取った。
リュシアンはしばらく妻を見つめていたが、やがて小さく笑い、寝台の傍らの椅子へ腰を下ろした。
「……分かった」
アデルは安心したように目を閉じた。
清潔な布の匂い。
暖炉の穏やかな温もり。
そして、すぐ隣から聞こえてくる小さな寝息。
それらが、いつの間にか一つの心地よい空気になっていた。
しばらくして、アデルがそっと目を開けると、リュシアンは椅子へ深く身体を預けたまま眠っていた。
その手は、まだ彼女の手を握っている。
アデルは静かに微笑んだ。
長い夜を、彼も一緒に越えてくれたのだ。
そう思うと、胸の奥が少し熱くなった。
寝床の中では、イリスが小さなあくびをしていた。
アデルはその姿を眺めながら、ゆっくりと目を閉じた。
今は、何も考えなくていい。
ただ、家族が三人になったことを、静かに喜んでいたかった。
*
その頃、王太子宮の別室では、メリルとリンレイがすっかりくたびれた様子で長椅子へ座り込んでいた。
メリルの亜麻色の髪は少し乱れ、いつもなら明るく整えられている顔には眠気が色濃く浮かんでいる。リンレイも金色の瞳を何度も瞬かせながら、温かな茶を両手で包んでいた。
二人とも、ほとんど眠らずにアデルへ付き添っていたのである。
「……私、昨日は何度泣いたか分からないわ」
メリルが小さく呟く。
リンレイは頷いた。
「私もです。ユエ姉様のときも大変でしたけれど、今回は本当に……」
言いかけて、目元が少し潤んだ。
メリルはその顔を見て、そっと微笑んだ。
「でも、よかったわね」
「……はい」
「アデルも、イリスも、無事で」
リンレイは何度も頷いた。
思い出すだけで、胸がいっぱいになった。
長い夜だった。
アデルが痛みに耐えるたび、何もできない自分が悔しくて、何度も泣きそうになった。それでも、側にいることしかできなかった。
そして、ようやく聞こえた小さな泣き声。
あの瞬間の安堵は、きっと一生忘れないだろう。
「……それにしても」
メリルが少し笑った。
「イリス、本当に可愛いわね」
リンレイの表情が明るくなる。
「はい! 銀色の髪が、とても綺麗でした」
「目はお兄様にそっくりだったわ」
「ええ。灰青色の瞳、素敵でしたね」
メリルは両手を胸元で重ねた。
「……ああ、早くまた抱っこしたい」
その声には、疲労も眠気も忘れてしまいそうなほどの愛情が滲んでいた。
リンレイも嬉しそうに微笑んだ。
「……女の子も、いいですねえ」
メリルが顔を向ける。
「ユウユウとは違う?」
「もちろん、ユウユウも可愛いです。でも、イリス殿下はまた違う可愛らしさで……」
リンレイは少し考えた。
「……ああ、どちらも可愛いです」
メリルは声を立てて笑った。
「結局、そうなるのね」
「はい」
リンレイは真顔で頷いた。
「選べません」
そのあまりにも真剣な表情に、メリルはますます笑ってしまった。
やがて二人は顔を見合わせ、どちらともなく微笑んだ。
疲れている。
身体も重いし、眠気も強い。
けれど、少しも後悔はなかった。
あの小さな命が無事に生まれてきてくれた。
それだけで、すべてが報われたような気がした。
*
ライレイとユエが王都へ出かけることにしたのは、その日の午後だった。
アデルとリュシアンが十分に休めるよう、しばらくは王太子宮への訪問を控えることにしたのである。
ライレイは息子を抱き、王宮の門へ続く回廊を歩いていた。
ユウユウは厚手の外套に包まれ、赤褐色の髪を小さな帽子の下へ収めている。暗赤色の瞳は興味深そうに周囲を見回し、時折父親の襟元を握りしめていた。
「……ユウユウ」
ライレイが声をかける。
「今日は王都を見に行こうか」
ユウユウは意味が分かったのかどうか、嬉しそうに声を上げた。
その様子を見て、ユエが微笑んだ。
「殿下も、随分と楽しそうでございますね」
「うん。せっかく来たんだから、いろいろ見たいしね」
ライレイは少し笑った。
「それに、リュシーたちも今は休ませてあげたいから」
ユエは静かに頷いた。
アデルの出産が大変だったことは、彼女もよく理解している。
無事に生まれたとはいえ、身体が回復するまでには時間がかかる。周囲が祝いの気持ちで賑やかになるのは悪いことではないが、今は何より、母親と子供が落ち着いて過ごせる環境を整えることが大切だった。
「……では、今日はお土産を探しましょうか」
ユエが提案する。
ライレイの瞳が輝いた。
「いいね。アデルちゃんにも、イリスにも、何か贈りたい」
「ええ。ですが、香りの強いものは避けた方がよろしいかと」
「そうだね」
ライレイは頷いた。
「今は、香りよりも柔らかい布とか、そういうものがいいかな」
ユエは微笑んだ。
かつて、何かを贈るとなれば、珍しい香木や高価な薬草を探していた夫が、今では赤子のために布の柔らかさを気にしている。
その変化が、何とも愛おしかった。
王都の市場では、冬の陽射しの下に多くの店が並んでいた。
焼き菓子の甘い匂い、温かな香草茶の香り、革製品の店から漂う油の匂い。石畳の通りには人々の声が響き、商人たちが色鮮やかな商品を並べて客を呼び込んでいる。
ライレイはユウユウを抱いたまま、興味深そうに店を覗いて回った。
ある店では、柔らかな毛織物を見つけた。
別の店では、小さな木製の玩具を手に取った。
ユウユウは父親が持ち上げた玩具へ手を伸ばし、嬉しそうに笑った。
「……これ、気に入った?」
ライレイが尋ねる。
ユウユウは玩具を握りしめ、離そうとしなかった。
ユエが小さく笑う。
「お気に召したようでございますね」
「じゃあ、これも買おうかな」
「……殿下」
「何?」
「先ほどから、随分と増えております」
ライレイは荷物を振り返った。
柔らかな布。
小さな靴。
木製の玩具。
温かな茶葉。
アデルが好きそうな焼き菓子。
それから、リュシアンへ贈ろうと選んだ、珍しい香木まで。
「……そうかな」
ライレイは少し考えた。
ユエは静かに微笑んだ。
「……そうでございます」
その口調があまりにも穏やかだったので、ライレイはとうとう笑ってしまった。
「……じゃあ、今日はこのくらいにしておこうか」
ユエは頷いた。
「それがよろしいかと」
ユウユウは父親の腕の中で、買ってもらったばかりの玩具を満足そうに握っていた。
*
二日後。
アデルの体調が少し落ち着いた頃、ライレイたちは改めて王太子宮を訪れた。
私室には穏やかな冬の陽射しが差し込み、暖炉の火が静かに燃えている。アデルは寝台から起き上がり、柔らかな長椅子へ身体を預けていた。まだ疲労は残っているものの、顔色は随分とよくなり、表情にもいつもの明るさが戻り始めている。
その隣では、リュシアンがイリスを抱いていた。
銀色の髪を持つ小さな娘は、父親の腕の中で穏やかに眠っている。リュシアンはその寝顔を見つめながら、何とも言えないほど柔らかな表情をしていた。
「……見てくれ、ライレイ」
ライレイが部屋へ入るなり、リュシアンが声をかけた。
「イリスが、今朝から少し長く目を開けるようになった」
ライレイは目を瞬いた。
「……そうなんだ」
「ああ。それから、さっきは俺の指を握った」
「へえ」
「昨日より、握る力が強くなった気がする」
ライレイはしばらく友人を眺めた。
それから、口元がゆっくり緩んでいく。
「……リュシー」
「何だ」
「君、すごく嬉しそうだね」
リュシアンは当然のように頷いた。
「当たり前だろ」
そして、娘の顔を覗き込む。
「……天使すぎる」
「…………」
ライレイは固まった。
それから、とうとう声を上げて笑い出した。
「……あはは!」
リュシアンが眉を寄せる。
「何だ」
「いや、君の口からそんな言葉が出るとは思わなくて」
「事実だろ」
あまりにも真剣な返事だった。
ライレイはますます笑ってしまった。
「……ああ、もう。すごいね、リュシー」
その隣で、ユエが静かに微笑んだ。
「……殿下」
「何?」
「悠凰が生まれた頃の殿下も、まったく同じでございましたよ」
ライレイが目を瞬いた。
「……俺?」
「はい」
ユエは穏やかに頷いた。
「毎日、何度も可愛いと仰っておりました」
「……そうだったかな」
「ええ。お顔を眺めるだけで、一日が終わってしまいそうでした」
ライレイは少し考えた。
それから、素直に笑った。
「……確かに」
リュシアンが口元を緩める。
「お前も同じだっただろ」
「そうだね」
ライレイは頷いた。
「でも、やっぱり君がそうなるのを見ると面白いよ」
リュシアンは呆れたように息を吐いた。
けれど、その表情はどこまでも幸せそうだった。
アデルはそんな二人を眺めながら、静かに笑っていた。
友人同士で、父親になったことを喜び合っている。
その光景が、何とも微笑ましかった。
やがてユエがアデルの隣へ腰を下ろした。
「……アデル様」
「はい」
「お加減はいかがでございますか」
アデルは少し微笑んだ。
「おかげさまで、随分と落ち着きました。ただ、思っていた以上に身体が疲れているようで」
「それは、当然にございます」
ユエは静かに頷いた。
「大変なお産でございましたもの」
アデルは少し目を伏せた。
長い痛みの記憶は、まだ身体の奥に残っている。
けれど、今こうしてイリスの顔を見ると、不思議と心が温かくなった。
「……でも」
アデルは微笑んだ。
「会えて、よかったです」
ユエの表情が柔らかくなった。
「……そうでございますね」
しばらく二人でイリスを眺めていたが、やがてユエが静かに口を開いた。
「……アデル様」
「はい」
「どうか、今はご自分のお身体を大切になさってくださいませ」
アデルが顔を上げる。
ユエは穏やかに微笑んだ。
「子供が生まれると、どうしても子供のことばかり考えてしまうものでございます」
「……はい」
「ですが、母親も休まなければなりません」
その言葉に、アデルは少し驚いた。
ユエは自分の手元へ視線を落とした。
「悠凰が生まれたとき、わたくしもそうでございました。無事に生まれてくれたことが嬉しくて、少しでも側にいたくて、休むことを忘れそうになってしまったのです」
アデルは静かに耳を傾けた。
「そのとき、ミンラン様が仰ってくださいました」
ユエの声が、少し柔らかくなる。
「母親になったからといって、何もかも一人で背負う必要はないのだと」
アデルは目を瞬いた。
ユエは微笑んだ。
「泣いたら誰かが抱いてくれます。眠っている間も、誰かが見守ってくれます。子供を大切に思う人は、母親だけではありませんから」
その言葉は、不思議なほど静かに胸へ落ちてきた。
アデルはそっとイリスへ目を向けた。
リュシアンの腕の中で、娘は穏やかに眠っている。
その周囲には、ライレイも、メリルも、リンレイも、メリーもいる。
皆が、この子を大切に思ってくれている。
「……そうですね」
アデルは微笑んだ。
「私も、少しずつ頼ることを覚えなければ」
ユエは頷いた。
「ええ。どうか、焦らずに」
その声には、かつて自分が誰かから受け取った優しさを、今度は別の誰かへ手渡そうとする温かさがあった。
アデルは静かに微笑んだ。
「……ありがとうございます、ユエ様」
「こちらこそ」
ユエも微笑んだ。
そのとき、少し離れたところからリュシアンの声がした。
「……ライレイ、見ろ」
アデルとユエが顔を向ける。
リュシアンはイリスの小さな手を見つめていた。
「また握った」
ライレイは堪えきれずに笑った。
「……うん。見たよ」
ユエも小さく笑った。
アデルは思わず頬を緩めた。
どうやら、この部屋には、もう一人休息が必要な人物がいるらしい。
*
しばらくして、ユウユウも部屋へ連れてこられた。
一歳を過ぎたばかりの男の子は、父親の腕から降ろされると、興味深そうに室内を見回した。赤褐色の柔らかな髪が額へかかり、暗赤色の瞳には好奇心が満ちている。
「……ユウユウ」
アデルが声をかける。
小さな男の子は顔を上げた。
しばらく彼女を見つめていたが、やがて嬉しそうに笑った。
「……まあ!」
アデルの表情が明るくなる。
「可愛らしいですね!」
ライレイは満足そうに頷いた。
「でしょ?」
アデルは思わず身を乗り出しかけたが、ユエがそっと手を添えて支えた。
「……まだ無理はなさらずに」
「……あ、申し訳ありません」
アデルは少し照れたように微笑んだ。
けれど、目はすっかりユウユウへ向けられていた。
「……ライレイ殿下」
「何?」
「ユウユウは、どちらに似ているのでしょう」
ライレイが目を瞬いた。
「……どちら?」
「はい。髪は殿下に、瞳はユエ様に似ていますよね」
「そうだね」
「性格は?」
ライレイは少し考えた。
その隣で、ユエが静かに微笑む。
「……好奇心の強さは、殿下に似ているように思います」
ライレイが頷いた。
「そうそう。何でも触りたがるんだよ」
「まあ」
アデルの瞳が輝いた。
「では、興味を持つものも、殿下に似ているのでしょうか」
「どうかなあ」
ライレイは笑った。
「俺が子供の頃は、剣や馬に興味があったらしいけど、ユウユウは今のところ、何でも好きみたいだね」
「それから」
ユエが続けた。
「少し、慎重なところもございます」
「……慎重?」
アデルが首を傾げる。
ユエは頷いた。
「初めてのものに触れるときは、必ず一度、わたくしたちの顔を確かめるのです」
その言葉に、ライレイも笑った。
「そうそう。俺がいいよって言うと、すぐに触るんだけどね」
アデルは嬉しそうに頷いた。
「……なるほど」
そして、さらに質問を重ねた。
「では、好きな香りは?」
「……香り?」
ライレイが目を瞬いた。
「はい。何か、特に気に入っているものはございますか?」
ユエは少し考えた。
「……桂花でしょうか」
アデルの瞳が輝く。
「桂花!」
「はい。庭で遊ぶとき、よく花へ顔を近づけております」
「まあ……」
アデルは感動したように頷いた。
「それは、素敵ですね」
そこから、質問はしばらく止まらなかった。
ユウユウは何を食べるのが好きなのか。
どんなときに笑うのか。
眠る前には何をしたがるのか。
父親と母親のどちらに甘えることが多いのか。
ライレイとユエは、その一つ一つへ嬉しそうに答えた。
ライレイはときどき身振りを交え、ユウユウが初めて歩いたときのことや、最近覚えた仕草について話した。ユエはその隣で穏やかに補足し、ときには夫の大げさな表現を静かに訂正する。
アデルは何度も笑い、目を輝かせた。
その様子を見て、リュシアンが小さく息を吐いた。
「……アデル」
「はい?」
「また研究してるのか」
アデルは顔を上げた。
そして、少し得意げに微笑んだ。
「観察です」
リュシアンは額を押さえた。
「……そうか」
ライレイはとうとう笑い出した。
「……あはは! アデルちゃんらしいね」
ユエも微笑んだ。
その間、イリスは父親の腕の中で穏やかに眠っていた。
ユウユウは小さな寝床へ興味を示し、そっと近づいて中を覗き込んだ。
銀色の髪を持つ赤子を、暗赤色の瞳がじっと見つめる。
「……あ」
小さな声が漏れた。
アデルは息を呑んだ。
ライレイも、ユエも、リュシアンも、その様子を見守っていた。
ユウユウはしばらくイリスを眺めていたが、やがて小さな手を伸ばしかけた。
ライレイがそっと支える。
「……優しくね」
ユウユウは父親を見上げた。
それから、もう一度イリスへ目を向ける。
その小さな指先が、柔らかな布へ触れた。
イリスは眠ったまま、かすかに身じろぎした。
ユウユウは驚いたように目を見開き、それから嬉しそうに笑った。
「……まあ」
アデルの目元が柔らかくなる。
リュシアンも微笑んだ。
ライレイは息子の頭をそっと撫でた。
「……仲良くしてね」
ユウユウは意味も分からず、楽しそうに笑っていた。
その光景を、誰もが静かに見守っていた。
まだ何も知らない二人の子供。
けれど、いつか。
この二人が一緒に遊び、笑い、何かを語り合う日が来るのだろう。
その未来を想像することが、何とも幸せだった。
*
三年後。
スピネリアとシャンを隔てる山脈には、新しい交通路が完成していた。
かつては険しい峠道を越えるか、冬になると大きく迂回しなければならなかった両国間の移動は、今では整備された街道と中継施設によって大幅に短縮されている。山腹には新たな道が切り開かれ、危険な区間には堅固な石橋が架けられた。冬の雪を避けられるよう、風の強い場所には覆いのある通路も設けられ、馬車の通行を支える宿場や馬の交換所が整えられている。
この事業には、両国から多くの人員が参加していた。
石工、測量師、鍛冶職人、馬車職人、医師、薬師、そして交易に携わる商人たち。
山脈を越えるための新しい道は、単なる土木工事ではなかった。
両国の技術と知識を持ち寄り、互いに協力しなければ完成しない、大きな事業だったのである。
その結果、王都間の移動は、整備された中継路を利用すれば片道一日で可能になった。
「……いやあ、すごいね」
ライレイは新しい街道を見渡し、感心したように声を上げた。
山間を吹き抜ける風は澄んでおり、遠くには雪を残した峰々が連なっている。道の両側には石の擁壁が築かれ、馬車がすれ違えるほどの広さが確保されていた。
「こんなに短くなるとは思わなかったよ。予想以上の結果だね」
隣に立つリュシアンが頷いた。
黒髪を整え、濃紺の旅装を身につけた姿は、三年前と大きく変わらない。ただ、以前よりも表情が柔らかくなり、灰青色の瞳には落ち着いた余裕が宿っていた。
「シャンから随分と人手を貸してもらったからな。おかげで、予定より早く進んだ」
「それを言うなら、スピネリアの石工たちも相当頑張ってくれたでしょ」
「ああ。特に山腹の橋は、こちらの技術が役に立ったらしい」
ライレイは頷いた。
「それに、シャンの測量師たちが、雪崩の危険が少ない道筋を見つけてくれた。あれがなかったら、もっと時間がかかっていたと思う」
リュシアンも頷いた。
「両国の職人たちが、よく協力してくれた」
ライレイは満足そうに笑った。
「……こういう仕事、いいね」
「そうだな」
「誰かを倒すためじゃなくて、誰かと会うために道を作るんだから」
その言葉に、リュシアンは少しだけ目を細めた。
かつて、ライレイは戦場に立っていた。
国境を越えることは、敵地へ踏み込むことを意味し、道を確保することは軍を進めるための手段だった。
けれど今は違う。
この道を通るのは、商人や職人、旅人、そして互いの国に暮らす人々である。
そこにあるのは、戦うための道ではない。
会いに行くための道だった。
「……お前も変わったな」
リュシアンが呟く。
ライレイは少し笑った。
「そう?」
「ああ」
リュシアンは遠くの山々へ目を向けた。
「昔のお前なら、この道を軍事的にどう利用するか、真っ先に考えていただろう」
ライレイはしばらく黙った。
それから、ゆっくりと微笑んだ。
「……そうだね」
金色の瞳が、穏やかに細められる。
「でも、今はさ」
彼は遠くの街道へ目を向けた。
「ユウユウたちが、大きくなったときに使う道だと思うと、それだけで嬉しいんだよ」
リュシアンは小さく笑った。
「……親馬鹿だな」
「君に言われたくないなあ」
二人は顔を見合わせた。
それから、同時に笑った。
山脈を吹き抜ける風には、乾いた草と冷たい石の匂いが混じっていた。
その先には、二つの国が続いている。
*
その頃、スピネリア王宮の庭園では、アデルとユエが穏やかな午後を過ごしていた。
春の陽射しが芝生を照らし、噴水の水音が柔らかく響いている。花壇には色とりどりの花が咲き、薔薇や香草の香りが風に乗って流れていた。
庭園の東屋には小さな茶卓が置かれ、二人の王太子妃が向かい合って座っている。
アデルは淡い青緑色のドレスをまとい、長い銀髪を柔らかく結い上げていた。三年前よりも幾分落ち着いた雰囲気をまとっているものの、アレキサンドライトの瞳には相変わらず好奇心が満ちている。
ユエは深い紅色の絹を重ねた衣を身につけ、黒髪を上品にまとめていた。暗赤色の瞳は穏やかで、その口元には柔らかな微笑みが浮かんでいる。
二人の傍らには、子供たちが遊んでいた。
ユウユウは四歳になり、赤褐色の髪を短く整えた活発な男の子へ成長していた。母親に似た暗赤色の瞳には好奇心が満ち、何か面白そうなものを見つけるたびに、すぐ駆け寄っていく。
イリスは三歳。
柔らかな銀髪は肩のあたりまで伸び、今日は小さな青いリボンで結ばれていた。父親に似た灰青色の瞳は澄んでおり、花壇の植物を眺めるときには、母親そっくりの真剣な表情になる。
そして、その二人の少し後ろには、まだ幼い三人の子供たちがいた。
アデルとリュシアンの第二子、エリオ。
イリスの弟として生まれた小さな王子は、艶のある黒髪に、光を受けると緑色を帯びる瞳を持っていた。普段は比較的おとなしく、誰かに抱かれていると満足そうに笑うが、気になるものを見つけると、途端に身を乗り出そうとする。
その名は、ユエが贈ったものだった。
柔らかな響きの中に、明るい陽射しを思わせる温かさがある。アデルもリュシアンも、その名前を聞いたとき、すぐに気に入った。
一方、ユエとライレイの間には、ユウユウのあとに男女の双子が生まれていた。
男の子は瑞陽、ルイヤン。
女の子は瑞蘭、ルイラン。
どちらもアデルが考えた名前だった。
瑞は、めでたい兆しを表す言葉。
陽は温かな光を、蘭は清らかな香りを思わせる。
スピネリアの宮廷調香師らしく、植物や香りにちなんだ意味を含めながら、シャンの言葉として自然に響くよう、ユエと相談を重ねて決めた名前だった。
ルイヤンは父親に似た金色の瞳を持ち、ルイランは母親に似た暗赤色の瞳をしている。二人とも赤褐色を帯びた柔らかな髪を持ち、並んで座ると、顔立ちのよく似た小さな人形のようだった。
その五人の子供たちを、今はリンレイが見守っていた。
二十歳を過ぎた彼女は、かつてスピネリアへ赴任したばかりの少女とは見違えるほど成長していた。長い赤褐色の髪を高く結い、深い緑色の衣に金色の飾りを合わせている。金色の瞳には凛とした強さが宿り、すらりと伸びた背筋と端正な顔立ちは、かつての母親を思わせる気品を備えていた。
今では両国の交易に欠かせない使節として、多くの商人や官吏から信頼されている。
けれど。
「……ユウユウ!」
リンレイの声が庭園へ響いた。
四歳になった甥が、庭の大きな樹へ手をかけていたのである。
「ユウユウ、だめです! スピネリアでは木登りは禁止です!」
ユウユウは振り返った。
暗赤色の瞳が、きょとんと瞬く。
「……なんで?」
「危ないからです!」
「でも、登れるよ?」
「登れるかどうかの問題ではありません!」
リンレイは慌てて駆け寄った。
ユウユウは少し不満そうに唇を尖らせたが、叔母に手を取られると、素直に樹から離れた。
そのとき、今度は別の方向から小さな声がした。
「……きれい」
リンレイが顔を向ける。
イリスが花壇の前にしゃがみ込み、見慣れない植物の葉へ手を伸ばしていた。
「……イリス殿下!」
リンレイは目を見開いた。
「知らない葉っぱは触ってはいけません!」
イリスは顔を上げた。
灰青色の瞳が、父親に似た少し不満そうな色を帯びる。
「……でも、いい匂いがするの」
「それでも、だめです」
「……お母様なら、教えてくれるのに」
その言葉に、リンレイは一瞬固まった。
そして、深く息を吐いた。
「……アデル姉様」
思わず、遠くの東屋へ視線を向ける。
そこでは、アデルとユエが穏やかに茶を飲んでいた。
「……似ていますね」
ユエが小さく笑った。
アデルも微笑んだ。
「……そうでしょうか」
「ええ。植物を見ると、すぐに近づいてしまうところが」
アデルは少し考えた。
それから、嬉しそうに頷いた。
「……確かに」
その表情を見て、ユエはますます笑ってしまった。
「……アデル様」
「はい」
「少しは止めて差し上げてくださいませ」
アデルは目を瞬いた。
それから、慌てて立ち上がりかけた。
「……あ、そうですね」
しかし、その前にリンレイがイリスの手を取り、花壇から離していた。
アデルは安心して腰を下ろした。
「……リンレイ殿下は、頼もしくなられましたね」
ユエは微笑んだ。
「ええ。本当に」
二人はしばらく、子供たちを眺めていた。
ユウユウは今度は噴水の方へ走り出し、イリスがその後を追いかけている。エリオは乳母の膝の上から二人を見つめ、嬉しそうに声を上げていた。
ルイヤンとルイランは、柔らかな敷物の上で並んで座り、小さな木製の玩具を取り合っている。
リンレイはその間を忙しそうに行き来し、ときどき額へ手を当てながらも、楽しそうに笑っていた。
「……五人もいると、大変ですね」
アデルが呟く。
ユエは頷いた。
「ええ。ですが、賑やかでよろしいことにございます」
アデルは微笑んだ。
「本当に」
以前、初めて子供を持つことを考えたとき、自分はどんな母親になるのだろうと不安に思った。
宮廷調香師の仕事を続けられるのか。
子供を育てながら、研究を続けられるのか。
分からないことばかりだった。
けれど、今は。
こうして子供たちの笑い声を聞きながら、ユエと茶を飲んでいる。
調香室には相変わらず研究の途中の香料が並び、仕事の予定は決して少なくない。もちろん、以前と同じようにはいかないことも増えたが、そのたびにリュシアンやメリー、周囲の人々と相談しながら、少しずつ新しい生活を作ってきた。
何かを諦めたというよりも、知らなかった世界が増えたような気がしている。
「……ユエ様」
「はい」
「最近、シャンから届いた香料について、少し気になることがありまして」
ユエの瞳が輝いた。
「……新しい香料でございますか?」
「はい。以前いただいた薬草なのですが、乾燥させる方法によって、香りの出方が随分違うのです」
「……それは興味深いですね」
アデルは嬉しそうに身を乗り出した。
「そうなのです! 特に、低い温度でゆっくり乾燥させたものは、青い香りが残りやすくて」
そこから、二人の話題はすっかり研究へ移っていった。
乾燥方法。
香料の保存。
薬草の成分。
新しい交易路によって、これまで以上に新鮮な素材を運べるようになること。
アデルは目を輝かせ、ユエも真剣に頷いた。
王太子妃としての落ち着いた姿はそのままに、二人ともすっかり専門家の顔になっていた。
そのとき、庭園の向こうからリンレイの声が響いた。
「……アデル姉様! ユエ姉様!」
二人が顔を上げる。
リンレイは片手にユウユウ、もう片方の手にイリスを連れ、少し疲れた顔で立っていた。
「……少し、お手伝いいただけませんか!」
アデルとユエは顔を見合わせた。
それから、同時に笑った。
「……はい、今まいります」
アデルが立ち上がる。
ユエも微笑んだ。
研究は、あとでもできる。
今は、目の前の子供たちが待っている。
アデルはゆっくり歩き出した。
庭園には春の花が咲き、温かな風が薔薇と香草の匂いを運んでいる。
その香りの中で、子供たちの笑い声が響いていた。
明日は、シャンとスピネリアを結ぶ新しい交易路の開通式である。
両国の未来へ続く道が、いよいよ正式に開かれるのだった。
*
翌朝、スピネリア王宮は華やかな祝賀の空気に包まれていた。
晴れ渡った空の下、王宮前の広場には両国の旗が掲げられ、石畳の両側には多くの人々が集まっている。遠くの山脈へ続く新しい街道には、色鮮やかな布が飾られ、道の入り口には両国の紋章を刻んだ大きな石碑が据えられていた。
式典には、国王夫妻をはじめ、王族や貴族、両国の商人、職人、技術者たちが招かれていた。
そして、その中心には、二組の王太子夫妻が並んでいた。
リュシアンはスピネリア王家の正式な礼装をまとっていた。深い紺色の上着には銀糸で王家の紋章が刺繍され、肩には白い外套が掛けられている。艶のある黒髪はきちんと整えられ、灰青色の瞳には、王太子としての落ち着いた威厳が宿っていた。
その隣に立つアデルは、淡い銀青色のドレスに身を包んでいた。細かな刺繍が施された衣は春の陽射しを受けて柔らかく輝き、長い銀髪には小さな宝石を散りばめた髪飾りが添えられている。アレキサンドライトの瞳は澄み、口元には穏やかな微笑みが浮かんでいた。
一方、ライレイは深い紅色の礼装に金糸の装飾を合わせ、赤褐色の髪を高く結い上げていた。金色の瞳は明るく、以前よりも落ち着いた雰囲気をまといながらも、どこか楽しそうな光を宿している。
その隣では、ユエが濃い緑色の絹を重ねた礼装をまとい、黒髪を上品にまとめていた。暗赤色の瞳は穏やかで、凛とした美しさの中に、柔らかな温かさが感じられた。
少し離れたところには、リンレイが使節団の代表として立っている。
二十歳を過ぎた彼女は、深い青緑色の礼装に金の飾りを合わせ、堂々とした姿勢で式典の進行を見守っていた。
その表情には、かつて兄の背中を追いかけていた少女の面影が、ほとんど残っていない。
今は、自分の役割を理解し、両国の未来を担う一人の外交官として、ここに立っているのだった。
式典が始まると、リュシアンとライレイが前へ進み出た。
広場には静けさが広がり、集まった人々の視線が二人へ向けられる。
リュシアンはゆっくりと口を開いた。
「本日、スピネリアとシャンを結ぶ新たな交易路が、正式に開通する」
落ち着いた声が、広場へ響く。
「この道は、両国の協力によって築かれた。険しい山脈を越えるため、多くの技術者と職人が知恵を持ち寄り、長い時間をかけて完成させたものだ」
彼は集まった人々へ視線を向けた。
「この道によって、私たちはこれまで以上に多くのものを分かち合えるようになるだろう。香料や薬草、織物や技術だけではない。人が行き来し、言葉を交わし、互いを知る機会そのものが増える」
その言葉に、ライレイが静かに頷いた。
リュシアンは続けた。
「スピネリアは、香りを国の誇りとしてきた。香料を育て、調合し、人々の暮らしを豊かにしてきた。そして、香りを読み解く知識によって、多くの危険から人々を守ってきた」
アデルは静かに顔を上げた。
その言葉には、自分が宮廷調香師として歩んできた日々が重なっていた。
最初に王宮へ出仕した日のこと。
リュシアンの嗅覚過敏を知ったこと。
香りから事件の手がかりを見つけ、多くの人々を助けてきたこと。
その一つ一つが、今の自分へつながっている。
「これからも、スピネリアは香りの知識と技術によって、国と人々の暮らしを守り続ける」
リュシアンは静かに言い切った。
そして、ライレイへ視線を向ける。
ライレイは一歩前へ進み出た。
金色の瞳が、春の陽射しを受けて輝く。
「シャンもまた、香りを大切にしてきた国だ」
彼の声は、柔らかくも力強かった。
「香木や薬草は、長い間、我が国の文化と暮らしを支えてきた。けれど、その価値を知っているのは、まだ一部の人々だけだった」
ライレイは広場に集まった人々を見渡した。
「今回の交易路によって、シャンの香料はもっと多くの人々の手へ届くことになる。そして、スピネリアの技術もまた、我が国へ新しい可能性をもたらしてくれるだろう」
少し間を置く。
金色の瞳が、穏やかに細められた。
「かつて、国境を越える道は、兵を進めるために使われることが多かった。けれど、これからは違う」
その声には、静かな決意が宿っていた。
「私たちは、この道を戦争のためではなく、平和のために使いたい」
広場に、穏やかなざわめきが広がる。
ライレイは続けた。
「香りは、人を傷つけるためのものではない。人を癒し、暮らしを豊かにし、遠く離れた誰かと心を通わせるためのものだと、私は信じている」
ユエは静かに微笑んだ。
かつて、毒や薬草の知識は、宮廷の争いに利用されることもあった。
けれど今、その知識は人を守るために使われている。
その変化が、何より嬉しかった。
「シャンは、香りを通じて国を平和にする。そのために、これからもスピネリアと協力していきたい」
ライレイはリュシアンへ顔を向けた。
二人の視線が合う。
かつて、互いの国の事情を背負いながら出会った二人の王太子。
今では、友人として、父親として、そして国の未来を担う者として、こうして並んでいる。
リュシアンは静かに頷いた。
「……ああ」
その返事には、迷いがなかった。
二人は向かい合い、ゆっくりと手を差し出した。
そして、しっかりと握手を交わす。
広場に、大きな拍手が響いた。
両国の旗が風に揺れ、春の陽射しが新しい街道を照らしている。
リュシアンは握った手へ、少しだけ力を込めた。
「これからも、よろしく頼む」
ライレイは微笑んだ。
「もちろん」
金色の瞳が、悪戯っぽく細められる。
「……まだまだ、やりたいことがたくさんあるからね」
リュシアンは小さく笑った。
「……そうだな」
その隣で、アデルとユエも微笑み合った。
香料の研究。
薬草の利用。
新しい交易。
そして、子供たちが生きていく未来。
まだ知らないことは、たくさんある。
けれど、それを一つずつ知っていく日々が、今は何より楽しみだった。
やがて、式典の最後に、リュシアンがもう一度口を開いた。
「最後に」
広場が静まる。
リュシアンは集まった人々へ視線を向けた。
「この道を完成させたすべての人々に、心からの感謝を伝えたい」
その声は、はっきりと響いた。
「石工、測量師、職人、商人、そして、この交易を支えてきたすべての者たちへ」
ライレイも頷いた。
「特に、香料を育て、調合し、その価値を広めてきたすべての調香師と香料技術者へ」
二人の声が、春の空へ重なる。
「……感謝と、労いを」
その言葉とともに、再び大きな拍手が響いた。
広場には歓声が広がり、両国の旗が風に揺れる。
アデルは静かに目を閉じた。
香りを知りたいと思った。
その気持ちから始まった自分の人生が、こんな場所へつながるとは思わなかった。
宮廷調香師として王宮へ出仕し、リュシアンと出会い、恋をして、結婚した。
そして今、二人の子供たちがいる。
その子供たちが生きていく未来のために、二つの国が手を取り合っている。
アデルはゆっくり目を開けた。
春の風には、遠くの花壇から流れてくる薔薇の香りと、乾いた石の匂いが混じっていた。
その先には、新しく開かれた道が続いている。
シャンへ。
そして、まだ見ぬ未来へ。
アデルはそっと微笑んだ。
これからも、きっと知らないことがたくさんある。
新しい香り。
新しい技術。
新しい人々との出会い。
そして、子供たちが教えてくれる、まだ知らない世界。
そのすべてが、今から楽しみだった。
隣でリュシアンが、そっと彼女の手を取った。
アデルは顔を上げた。
灰青色の瞳が、柔らかく細められている。
「……アデル」
「はい」
「これからも、よろしくな」
その言葉に、アデルは微笑んだ。
「……もちろんです」
そして、少しだけ得意げに続ける。
「まだまだ、研究したいことがたくさんありますので」
リュシアンは呆れたように息を吐いた。
「……やっぱり、そうなるか」
アデルは笑った。
リュシアンも、堪えきれずに笑った。
春の陽射しが、二人の姿を柔らかく包んでいた。
その足元から、新しい道が遠くまで続いている。
香りが結んだ縁は、今、国と国を結ぶ大きな道になっていた。
そして、その道の先には。
まだ誰も知らない未来が、静かに広がっていた。




