第九話「包囲の日々」
長篠城を囲んでから、すでに二十日近くが過ぎていた。
館の詰所には、断続的に報せが届いていた。おおむね、悪くない内容だった。長篠城は思いのほか頑強に持ちこたえているものの、武田方が優勢に事を進めているという。俺は、その一報一報に目を通しながらも、心のどこかで、じっと息を潜めるようにして、次の報せを待ち続けていた。
――まだ、来ない。
前世の記憶にある長篠の戦いでは、織田信長自らが大軍を率いて後詰めに現れる。その報せが、いつ届くのか、俺には正確な日付までは思い出せなかった。ただ、それが遠くない未来であることだけは、確信していた。
五月に入ってすぐのある日、遠江方面から、小さな戦があったとの報せが届いた。長篠城の近く、二連木や牛久保といった地で、武田方が徳川方と小競り合いを演じたという。大きな戦果はなかったようだが、それでも、事態が少しずつ動き始めている兆しには違いなかった。
「若君、殿はいったん兵を引かれ、再び長篠城を囲み直されたとの由にございます」
留守居役の報告に、俺は静かに頷いた。慎重な運びだった。前世の記憶にある「無謀な突撃を繰り返す武田軍」というイメージとは、少し違う戦い方だった。
それでも、俺の胸の内にある緊張は、日を追うごとに強まっていった。二十日、三十日と、包囲が長引けば長引くほど、織田信長が動く可能性は、確実に高まっていく。
五月十三日。
その日、遠江方面から届いた一報が、俺の予感を、はっきりとした現実に変えた。
「申し上げます。織田信長、自ら大軍を率いて岐阜を出陣したとの由」
その言葉を聞いた瞬間、俺は詰めていた息を、大きく吸い込んだ。
――来た。
前世の記憶にある、あの日が、ついに動き出した。数万ともいわれる織田の大軍が、今まさに、三河へ向けて進軍を始めている。
「物見の数を、今すぐ増やせ。信長本隊の規模、鉄砲の数、進軍の道筋、分かる限りのことを、一つ残らず探らせるのだ」
俺の指示に、留守居の者たちが、慌ただしく動き始めた。対陣する敵の実像を、命がけで探りに行く者たち。それは、出兵前の漠然とした備えとは、まるで質の違う緊張を孕んでいた。
同時に、俺は前線の本陣へ向けて、急ぎ使者を発たせた。信春宛てに、簡潔な文を認めた。
「織田本隊、出陣の由。数、不明なれど、これまでとは規模の違う後詰めと思われ候。かねての備え、油断なく整えられたく」
これまで漠然と「万一の備え」として練り上げてきた退き際の合図と、複数の伝令路。それが、いよいよ現実のものとして、試される時が近づいていた。
数日後、最初の物見の報せが、詰所に飛び込んできた。
「申し上げます。信長本隊、三河牛久保に到着。兵の数、正確には摑めませぬが、これまでの合戦とは比べ物にならぬ規模との由」
「鉄砲は」
「柵を組む材木を、大量に運び入れているとの噂もございます。何のためかは、まだ分かりかねますが」
馬防柵。その言葉こそ出なかったが、俺には、その報せが何を意味するか、痛いほど分かっていた。前世の記憶にある、あの光景――幾重にも組まれた柵と、その内側に潜む、数千挺ともいわれる鉄砲。
「引き続き、探らせよ。数だけでなく、陣の構え方、どこに柵を築いているか、できる限り詳しく」
俺の指示に、留守居の者たちは緊張した面持ちで頷いた。
信長本隊の到着から数日、物見たちは次々と、断片的な情報を持ち帰り続けた。ある者は柵の位置を、ある者は陣の配置を、またある者は、鉄砲を担いだ足軽の姿を、命がけで見届けてきた。一つひとつの報せは、断片に過ぎなかった。だが、それらを一箇所に集め、突き合わせていくことで、次第に敵陣の輪郭が、はっきりと浮かび上がってきた。
前世で、俺は幾度となく「情報の精度が、判断の精度を決める」という言葉を口にしてきた。だが、今この瞬間ほど、その言葉の重みを、身をもって感じたことはなかった。物見一人ひとりが命を懸けて持ち帰る報せの一つひとつが、これから武田がどう動くべきかを決める、何より確かな根拠になる。
夜、詰所に一人残った俺は、遠く三河の空を思い、静かに拳を握った。
信長本隊が、どれほどの規模で、どれほどの鉄砲を揃えているのか――それは、これから数日のうちに、物見たちの報告によって、少しずつ明らかになっていくはずだった。俺にできることは、もはや祈ることと、次の一手をいつでも打てるよう、備え続けることだけだった。
窓の外、甲斐の夜空には、いつもと変わらぬ星々が瞬いていた。だが、その静けさとは裏腹に、遠く三河の地では、この国の行く末を左右する大きな駒が、音もなく動き始めている。俺は、その予感を胸に抱えたまま、しばらく夜空を見上げ続けた。数日のうちに届くはずの、次の報せを待ちながら。




