第八話「出陣」
出陣の日は、抜けるような晴天だった。
躑躅ヶ崎館の前庭には、甲斐国中から集められた将兵がずらりと居並び、旗指物が朝の光を受けて揺れていた。山県昌景、内藤昌豊、馬場信春――そうした宿老たちの姿を、俺は館の廊下から、じっと見つめていた。
九歳の俺には、当然ながら戦場へ同行する立場はない。父・勝頼からも、「そなたは甲斐に残り、留守を預かる者たちを助けよ」とだけ告げられていた。それは表向きの理由であり、実際のところ、九歳の子供が戦場に出る道理などどこにもない。
だが、それでよかった。むしろ、俺にとって都合がよかった。
前世の記憶にある長篠の戦いは、現地での刹那の判断がすべてを決める戦いではない。事前にどれだけ備えたか、そして戦の後、どれだけ早く、正確に立て直せるかが、勝敗以上に重い意味を持つ戦いだった。ならば俺の戦場は、設楽原の戦場ではなく、この躑躅ヶ崎館そのものだ。
「若君、殿がお呼びにございます」
近習に呼ばれ、俺は出陣直前の父の前に進み出た。具足に身を包んだ勝頼は、これまで見たどの姿よりも、当主としての貫禄をまとっていた。
「信次。留守の間、頼んだぞ」
「はい。殿がご不在の間、甲斐の内はしっかりと守ります」
「……それだけではあるまい」
勝頼は、声を少し落とした。
「そなたと信春の考えた備え、儂は信じておる。城攻めがどれほど長引くか、後詰めが本当に来るのかも、まだ分からぬ。だが、来たときのために、備えだけはしておくに越したことはない」
「殿」
「案ずるな。今さら覆すつもりはない。ただ、そなたに聞いておきたかっただけだ。……この備えは、本当に、武田のためになるのだな」
その問いに、俺は即答できなかった。史実を知っているとはいえ、この世界の長篠が、まったく同じ形で起こる保証はどこにもない。前世の記憶は道標にはなるが、絶対の答えではない。
「殿。私に、先のことをすべて見通す力などございません。ですが、備えなくして戦うより、備えて戦うほうが、必ず良い結果に近づけると、それだけは信じております」
勝頼は、しばらく俺を見つめていた。やがて、小さく頷いた。
「それでよい。……行ってくる」
その一言を残し、勝頼は具足の音を響かせながら、前庭へと歩み去っていった。
俺は館の櫓に上り、出陣していく軍勢を、最後まで見送った。土煙を上げながら遠ざかっていく旗指物の列を眺めながら、腹の底から込み上げてくる不安を、必死に抑え込んでいた。
――俺の役目は、ここからだ。
物見からの報せを受け取り、正確に読み解くこと。兵站の道を、絶やさぬよう差配すること。そして、万一の事態が起きたとき、誰よりも早く、次の一手を用意しておくこと。前世で言うところの「後方支援」であり「危機管理」だった。剣も槍も持たない九歳の子供にできることは、それしかない。だが、それだけでも、十分に戦の行方を左右し得ることを、俺は知っていた。
信春が出陣前、最後に俺にかけてくれた言葉を、俺は何度も思い返していた。
「若君は、戦場にはおられぬ。だが、それがしは、若君が甲斐に控えておられることが、何よりの心強さにございます」
その言葉の重みを、噛みしめながら、俺は静かに拳を握った。
館に戻ると、留守を預かる者たちが、すでに動き始めていた。物見からの報せを一箇所に集める仕組み、兵站の荷を送り出す手筈、負傷者を受け入れるための備え――信春と練り上げてきた計画の一つひとつが、ようやく実際に動き出していた。
長篠城攻めは、これから、どれほど長く続くのか。そして、その先に何が待っているのか。俺の戦は、もう始まっていた。
「若君、物見の順路を記した図にございます。ご確認を」
差し出された図を、俺は丹念に目を通した。前世であれば、こうした仕事はプロジェクト管理と呼ばれるものだった。誰が、いつ、どこで、何を確認し、誰に伝えるか。その流れが一つでも滞れば、せっかくの備えも意味をなさなくなる。
「この道筋だけでは、雨の日に川が増水すれば、報せが遅れる。もう一筋、控えの道を用意しておいてくれ」
「はっ、すぐに」
指示を出しながら、俺はふと、自分の中に前世とは違う感覚が芽生えていることに気づいた。前世では、こうした仕事はあくまで「仕事」であり、報酬のための労働だった。だが今、俺が動かしているのは、実際にこの国で生きている人々の命そのものだった。
その重みは、前世で味わったどんな緊張とも、比べ物にならなかった。
日が傾き始める頃、俺は再び櫓に上り、軍勢が去っていった街道の彼方を見つめた。父も、信春も、昌景も、今頃はどこまで進んでいるのだろうか。長篠城の攻略には、おそらく数週間、あるいはそれ以上かかるだろう。その間、織田・徳川がどう動くか、俺にはまだ何も分からない。
――それでいい。分からないからこそ、備えておく意味がある。
夜の帳が下りても、館の詰所には灯りが絶えなかった。物見からの一報一報を待ち構える緊張が、日を追うごとに強まっていく。俺は、その中心に静かに座り続けた。
長篠城攻めは、これから、どれほど長く続くのか。そして、その先に何が待っているのか。俺の戦は、もう始まっていた。




