第七話「長篠への道」
天正三年、春。俺は九歳になっていた。
その報せを聞いたとき、体の芯が冷えるのを感じた。三河国、長篠城。徳川方の拠点であるこの城を巡って、父・勝頼が大規模な出兵を決めたという。
――来た。
前世の記憶にある年号と、寸分違わなかった。この出兵の先に待っているのは、設楽原での決戦。鉄砲三千丁の斉射の前に、山県昌景、馬場信春、内藤昌豊といった信玄以来の宿老たちが、次々と討ち死にする、あの戦いだ。
だが、今この時点で、俺にできることは限られていた。信長がどう動くかは、まだ誰にも分からない。長篠城攻め自体は、三河深くへの足がかりを得るための、まっとうな戦略だった。問題は、その先――織田の後詰めが現れたとき、退くべき局面で退かず、無理な決戦に突き進んでしまうことだった。
俺は、父の側近に取り入り、出兵の陣立てを話し合う評定の場に、末席ながら同席する許しを得た。九歳の子供が評定に顔を出すこと自体、異例だったが、信玄存命中からの俺の評判が、それを可能にしていた。
評定の場では、山県昌景をはじめとする宿老たちが、意気軒昂に出兵の利を説いていた。長篠城を落とせば三河深くへの足がかりとなる。後詰めが来たとしても、これまでの武田騎馬隊であれば恐れるに足りない――そうした空気が、広間を支配していた。
俺は末席で、静かに口を開いた。
「畏れながら、一つ申し上げたきことが」
昌景をはじめ、居並ぶ宿老たちの視線が、一斉に俺に集まった。
「申してみよ」
父・勝頼が促した。俺は覚悟を決めて続けた。
「此度の戦、長く続くやもしれませぬ。城攻めの間に、思わぬ後詰めが来ることも、なきにしもあらずかと。今のうちに、万一に備えた手筈を、決めておいてはいかがでしょうか」
山県昌景が、鷹揚に答えた。
「万一の備えとは、大仰な。後詰めが来たとて、これまでの戦のごとく、押し返すまでのことよ」
「押し返せればよいのですが、もし押し返せなんだときのことを、今のうちに決めておきたいのです。誰が、どの道を通って退くか。どこまで退けば、それ以上は深追いせぬか。それを、戦の最中に決めようとすれば、勢いに飲まれ、決められなくなりましょう」
広間に、失笑に似たざわめきが広がった。だが、その中で一人、馬場信春だけが、静かに俺の言葉に耳を傾けていた。
「……たしかに、決めごとは、事が起きてからでは遅い。あらかじめ定めておくのは、道理にかなっておりましょう」
その一言に、周囲の空気が、わずかに変わった。
「退くための備え、と聞こえれば、士気に関わりましょう。ただの用心深い構え――後詰めの兵を厚く残す、陣を深く構える、というだけのことにございます」
俺は、慎重に言葉を選んだ。信春と、後にこの一件について話し合った際に決めた言い回しだった。同じ中身でも、伝え方一つで、受け取られ方はまるで変わる。
父・勝頼が、静かに頷いた。
「……馬場の言うことも一理ある。陣立てに、多少の余裕を持たせよう」
小さな一歩だった。だが、この一言があるとないとでは、この先の展開が、大きく変わるはずだった。
評定を終えて広間を出るとき、俺の胸には、安堵と同じだけの緊張が残っていた。今はまだ、何も起きていない。後詰めが本当に現れるのか、現れるとしてどれほどの規模になるのか、それは誰にも分からない。だが、少なくとも、何もせずにその日を迎えることだけは、避けられそうだった。
長篠まで、まだ時間はある。だが、この城攻めが、いつまで続くのか――それもまた、誰にも分からなかった。
評定の翌日、俺は信春に呼ばれ、二人だけで話す機会を持った。
「若君のお考え、もう少し詳しく伺いたく」
「はい。万一、深追いすべきでない局面が来たとき、誰もが迷わず動けるようにしておきたいのです。たとえば、退くべき合図をあらかじめ決めておき、伝える道筋も、一本だけでなく、いくつか用意しておく」
「一本の道だけでは、いざというとき、断たれれば終わりにございますな」
信春は、すぐに理解を示した。俺たちは、旗印による合図の案と、伝令の道筋を複数用意する案を、二人で練り上げていった。宿老たちを無闇に前面に立たせない陣立てについても、「若い将を鍛えるため」という体裁を取ることで、角が立たぬようにする工夫を凝らした。
「これならば、退くための策ではなく、万一に備えた、ただの手筈にございます」
信春はそう言って、微かに笑った。
「ですが若君、まだ後詰めが来るとも、来ぬとも分からぬ今のうちから、ここまで念入りに備えられる。よほど、この戦を案じておられるのですな」
その問いに、俺は慎重に答えた。
「これまでの武田の勝ち方が、これからも通じるとは限らないと、そう思うだけです。備えておいて、無駄になるなら、それに越したことはございません」
信春は、しばらく俺を見つめていたが、やがて小さく頷いた。
「若君のお言葉、心に留めておきましょう」
その言葉が、どれほど心強かったか。宿老たちの中に、たった一人でも「聞く耳」を持つ味方がいる。それだけで、これから先の展開が、大きく変わる可能性がある。
長篠まで、まだ時間はある。だが、この城攻めが、いつまで続くのか――それもまた、誰にも分からなかった。




