第六話「商いの道筋」
天正元年の秋、俺は館の商人司――他国との交易を差配する役人の元へ、足繁く通うようになっていた。
きっかけは、ある夜に耳にした立ち話だった。近習たちが、塩の値が近頃また上がっているとぼやいていたのだ。甲斐は海を持たない山国だ。塩は他国から買うしかない。数年前、信玄公が駿河を切り取ったことで、甲斐は駿河湊からの塩を、比較的容易に得られるようになったという。だがそれは裏を返せば、塩の道のほとんどが、駿河の一筋に集中しているということでもあった。
――これは、典型的な「単一供給網」の弱さだ。
前世で、俺は幾つものメーカーの調達戦略を見てきた。仕入れ先を一つに頼りきっている会社ほど、その一つに何かあったとき、あっけなく立ち行かなくなる。値上げされても飲むしかない。供給が途絶えれば、事業そのものが止まる。道が安定しているうちは気づかないが、何かのきっかけで乱れた瞬間、すべてのツケが一気に回ってくる。
甲斐の塩は、まさにその構図だった。駿河からの一筋の道に頼りきっている限り、その道に何かがあれば、甲斐の民は塩を得られなくなる。駿河はいまや武田の領内とはいえ、東海道筋の混乱や、北条・今川方の残党の動き一つで、道そのものが乱れる恐れは、決して小さくなかった。
商人司の詰所を訪れた俺は、老練な商人司に、率直に尋ねた。
「塩は、駿河からの道以外に、入ってくる道はないのか」
商人司は驚いた顔をした。
「無いわけではございません。北の、信濃を越えて越後から入る道もございます。ただ、道が険しく、量も限られ、値も張りますゆえ、皆、駿河の道を使うのです」
「越後の道は、今、どれほど使われている」
「ほとんど、使われておりませぬな。わざわざ高い道を使う者は、おりませぬゆえ」
俺は内心で頷いた。予想どおりだった。
「使われていないからこそ、今のうちに整えておく価値がある。駿河の道が万一乱れたとき、越後の道が細いままでは、間に合わない」
「今、困っておらぬものに、手間をかけよと仰せですか」
「困ってから動いては、遅い。困る前に、逃げ道を作っておく。それが、商いというものではないか」
前世の言葉で言えば、リスク分散であり、供給網の複線化だった。今、コストがかかっても、いざというときの逃げ道を持っておくことの価値は、平時には理解されにくい。それは前世の経営の現場でも、繰り返し目にしてきた壁だった。「今、困っていないなら、なぜ金をかけるのか」という反発は、時代を問わず、変わらない人間の性なのかもしれない。
商人司はしばらく考え込んでいたが、やがて小さく頷いた。
「越後の道を使う商人に、多少の便宜を図ることは、できぬこともございません。若君のお考え、殿にお伝えしておきましょう」
「もう一つ、頼みがある」
「何でございましょう」
「駿河からの塩の値と、越後からの塩の値を、月ごとに書き記しておいてほしい。二つの値を並べて見られるようにしておけば、駿河の道に何かあったとき、越後にどれだけ切り替えれば釣り合うか、すぐに分かる」
商人司は、目を丸くした。
「……値を比べて、切り替えの目安にする、と。そのようなこと、考えたこともございませんでした」
前世で当たり前だった「複数の仕入れ先を比較し、切り替えの目安にする」という発想は、この時代にはまだ根付いていなかった。仕入れ先は固定のもの、値は動くがまま受け入れるもの――それが常識だった。だからこそ、この小さな仕組みひとつが、いずれ大きな武器になる。
年が明けて間もなく、その効果は、俺が思っていたより早く現れた。
駿河筋を差配する商人の一人が、道普請の名目で、例年より強気に運び賃を吊り上げてきたのだ。駿河はまだ武田が切り取って日の浅い土地であり、旧今川方の国人たちの動きも、完全に落ち着いたとは言えなかった。そうした不安定さにつけ込む形での値上げだった。これまでの甲斐であれば、その値を黙って飲むしかなかっただろう。
だが今回は違った。商人司は、蓄えていた越後との取引の記録を手に、その商人に静かに告げた。「その値であれば、越後の道を厚くするまでのこと」と。
商人は、一瞬たじろいだという。値を吊り上げれば黙って払うと思っていた相手が、初めて「他にも道がある」と口にしたのだ。結局、値上げ幅は当初の言い値の半分ほどに落ち着いた。
その報告を受けたとき、俺は静かに確信した。
――これが、交渉における「代替の力」だ。
前世で、俺は取引先との価格交渉に苦しむ企業を、数え切れないほど見てきた。仕入れ先が一つしかなければ、相手の言い値を飲むしかない。だが「他にも選べる道がある」という事実そのものが、値を下げさせる最大の武器になる。実際に切り替えるかどうかは、二の次だ。切り替える力を持っていること自体が、交渉のテコになる。
商人司は、この一件以来、俺の言葉を以前よりも真剣に聞くようになっていた。
「若君のお考えは、時に恐ろしいほど当たりまする」
「当たっているのではない。当たり前のことを、当たり前にしているだけだ」
そう答えながら、俺は内心で笑っていた。当たり前のことを、当たり前にする。それがどれほど難しく、そしてどれほど強い武器になるかを、この国はまだ、ほとんど知らない。
詰所を出ると、夕暮れの風が冷たく頬を撫でた。金山の帳面、継承の設計、鉄砲の運用、そして今度は交易の道筋。前世の記憶は、戦国の世では誰も持っていない、静かで、しかし確実に効く武器だった。
一つひとつは、小さな種にすぎない。だが種は、蒔き続けなければ、決して森にはならない。
長篠まで、あと二年。俺はまだ、蒔き続ける。




