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武田家、滅びません〜信玄の孫は現代知識で御館の乱を制す〜  作者: 春野ケイ
信玄の庇護のもとで

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第十話「退けぬ理由」

信長本隊到着の報から、さらに数日が過ぎた。


物見たちがもたらす報せは、日を追うごとに、その深刻さを増していった。柵は三重に組まれ、鉄砲の数は、これまで武田が見たどの合戦とも比べ物にならないという。俺は、その一つひとつを、前線の信春へ向けて、逐一書き送り続けた。


だが、前線の様子を伝える返信は、俺が望んでいたものとは、少し違っていた。


使者として戻ってきた近習が、そう告げた。


「本陣にて、評定が開かれたとのことにございます。若君の文にあった備え、ただちに用いるべしとの声もあれば、退くなど武田の名折れとの声も、強く上がっている由」


「退くな、と言っているのは」


「跡部勝資様にございます。信玄公の代より仕えてきた宿老として、決して退いてはならぬと、強く主張なさっているとのこと」


その報せに、俺は唇を強く噛んだ。


――これだ。これが、この国の現実だ。


前世の俺は、数字と合理性だけで物事を判断してきた。撤退すべき局面なら撤退する。負ける戦はしない。それが正しい経営判断だと信じてきた。だが今、遠く離れた前線で交わされているのは、そんな単純な計算では割り切れない話だった。


勝頼にとって、この戦は単なる軍事判断ではない。信玄という偉大すぎる父の跡を継いだばかりの当主が、初めての大きな決断を下す場でもある。ここで退けば、「勝頼は信玄より弱い」という評価が、家中にも他国にも、決定的な形で刻まれてしまう。


数字の上では退くべきだ。だが退けば、勝頼という当主そのものの求心力が崩れる。崩れた求心力は、たとえ戦で兵を失わずとも、この先の武田家をじわじわと蝕んでいく。


――退くも地獄。当たるも地獄、か。


俺は、自分の考えの浅さを、初めて思い知らされていた。遠く甲斐から文を送るだけでは、この対立を収めることはできない。信春にすべてを託すしかない、その事実が、もどかしかった。


数日後、再び使者が戻ってきた。信春からの、詳しい報告を携えて。


「馬場様は、評定にて、こう申されたそうにございます。『敵を侮り、確かめもせずに当たるのは、危うい。されど、退くべしと決めつけるのもまた、早計。まずは物見の報せをもとに、退くべき基準を、あらかじめ定めておこう』と」


その言葉に、俺は目を見開いた。信春は、俺が送り続けた文の内容を、この場に持ち込んでくれていた。


「跡部様は、なお納得せぬご様子でしたが、殿が、『馬場の申すこと、一理ある』と仰せになり、ひとまず、その場は収まったとのことにございます」


俺は、詰めていた息を、大きく吐き出した。完全な決着ではない。だが、少なくとも、頭ごなしに「退くな」の一辺倒で押し切られることだけは、免れたのだ。


夜、居室で一人、俺はこの報せを、改めて噛みしめていた。遠く離れた場所で交わされる評定に、俺は直接、言葉を届けることができない。できるのは、事前に託した言葉と、それを託した相手への信頼だけだった。


前世で、俺は「正しい判断」を、いとも簡単に口にしてきた。だが、その正しさを、実際にこの国で、離れた場所から届け、誰かの手で実行してもらうというのは、まったく別の重みを持つ。


俺にできることは、これから先も、信春という一本の糸を、信じ続けることだけだった。


数日後、俺は改めて、信春へ宛てて文を書いた。今度は、より具体的な内容だった。


「宿老の方々を、無闇に前面に立たせぬ陣立てを。これも『若い将を鍛えるため、前備えを譲る』という体裁を取れば、角は立ちますまい。兵站の道は、必ず二筋以上、確保されたく。そして、退くべき基準を、旗印の合図として、今一度、全軍へ徹底されたく」


これまで二人で練り上げてきた策を、俺は改めて、余すことなく文に込めた。この文が、どこまで前線に届き、どこまで実行されるのか、俺には確かめる術がなかった。だが、届けなければ、何も始まらない。


使者を送り出したあと、俺は詰所の片隅で、しばらく目を閉じた。


離れた場所から人を動かすというのは、これほどまでに、もどかしいものなのか。前世であれば、電話一本、文書一枚で、瞬時に意思を伝えられた。だがこの時代、俺の言葉は、馬の脚と、人の足の速さでしか、前線には届かない。その一日、二日の遅れが、時にすべてを決めてしまうかもしれないという恐怖が、常に胸の奥に張り付いていた。


それでも、俺にできることは、これしかなかった。正確な情報を集め、それを整理し、最善と思われる策を、言葉に託して送り出す。あとは、それを受け取った信春が、どう動いてくれるかを、信じるしかない。


決戦の日は、もう間近に迫っている。俺はそう確信していた。


長篠まで、もう幾日もない。俺にできることは、これから先も、信春という一本の糸を、信じ続けることだけだった。


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― 新着の感想 ―
自分が長篠の戦いでの武田家家臣なら主戦論を主張しますね。 戦の為の兵糧や武器弾薬は自分達家臣の自己負担な上に、陪臣(家臣の家臣)や兵として動員する領地の民に恩賞を出さなければならない立場なのに、戦果…
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