第十一話「疑いの目」
陣立ての変更が実際に前線で伝えられ始めた頃、思わぬところから軋みが生まれたと、後に信春からの文で知らされた。
山県昌景が、俺の考えた陣立てに、真っ向から異を唱えたのだという。
「後備えに回れ、と申されるか」
信春の文には、評定でのやり取りが、丁寧に書き記されていた。昌景の声は、これまでのどの記録よりも硬かったという。信玄の代から幾多の戦場を駆け抜けてきた男の誇りが、その一言に滲んでいたと、信春は綴っていた。
「信春殿は、決してお疑いのゆえではないと申された。ただ、若い将たちにも、経験を積ませたく、と」
だが昌景は、鋭くそれを遮ったという。
「信春殿。それがしを謀ろうとなさるな。この陣立て、退くための備えであろう」
その一文を読んだとき、俺は文机の前で、深く息を吐いた。
――見抜かれた。
昌景ほどの男であれば、体裁を整えたところで、中身までは誤魔化しきれない。信春の文には、その後のやり取りも、詳しく記されていた。
「昌景殿の仰るとおりにございます。万一に備え、宿老の方々を無闇に危地へ立たせぬための、備えにございます」
信春が、正直にそう答えたという。
「万一のために、それがしを退けよと申すか。それがしは、信玄公の代より、幾度となく先陣を務めてきた身。今さら後ろに控えよなど、それがしへの侮辱に等しい」
昌景の言葉を書き写す信春の筆致からも、その場の緊張が、痛いほど伝わってきた。
俺は、遠く離れた甲斐の地で、この報告を読みながら、胸の奥が締めつけられるのを感じていた。数字の上では、昌景を後方に置くことが正しい。だが、それを本人が「侮辱」と受け取るなら、正しさは、もはや正しさとして機能しない。俺がその場にいれば、何か言葉を尽くせたかもしれない。だが、離れた場所からでは、ただ結果を待つことしかできなかった。
文の続きには、思わぬ形で場が収まった経緯が記されていた。
「殿が、自ら進み出られ、こう仰せになりました。『そなたを疑っているのではない。そなたほどの武辺者を、この先も、武田になくてはならぬと思うがゆえだ。今日、そなたに華々しく散られては、この先の武田が立ち行かぬ。それがしは、そなたに、生きて武田を支え続けてほしいのだ』と」
その一文を読んだとき、俺は思わず、文机に手をついた。
勝頼が、自らの言葉で、昌景を説き伏せてくれた。俺が遠く離れた場所から送った策と言葉を、勝頼自身が、この国の理屈に沿った形で、届けてくれたのだ。
「昌景殿は、なお完全に納得したご様子ではございませぬが、ひとまず、矛を収められました」
信春の文は、そう締めくくられていた。
俺は、その夜、遠い前線に思いを馳せながら、静かに筆を執った。勝頼への礼状を認めるためだった。
「殿のお言葉、それがし一人では、決して届けられぬものでございました」
そう書きながら、俺は改めて実感していた。数字と理屈だけを武器にしてきた俺に、この国は、それだけでは足りないということを、繰り返し教えてくれている。正しい答えを、正しいまま人に届けるには、また別の力が要る。それは、離れた場所にいる俺には持てない、この国で生きる者たちだけが持つ力だった。
決戦の日は、もう間近に迫っている。俺は、次の報せを待ちながら、静かにそう確信していた。
信春からの文には、もう一つ、俺の胸に長く残ることになる一文が添えられていた。
「若君は、時に、まるでこの先に起こることを、すでにご存知であるかのように、文を寄越される。それが、それがしには、少々恐ろしくもあり、また、頼もしくもございます」
その一文を読んだとき、心臓が跳ねた。だが、その筆致に、それ以上の追及の色はなかった。ただ、静かに見守るような、そんな言葉だった。
俺は、返す文に、慎重に言葉を選んだ。
「何も、存じてはおりません。ただ、こうなってほしくないと、強く願っているだけです」
そう書きながら、俺は自分の手が、わずかに震えていることに気づいた。離れた場所にいるからこそ、言葉を選ぶ余裕がある。だが、いつかこの男の前に立ったとき、同じように言葉を選び切れるだろうか。
その夜、俺は文机に向かったまま、しばらく動けずにいた。信春という男にだけは、いつか本当のことを話す日が来るのかもしれない――そんな予感が、胸の奥に、静かに根を下ろしていった。
窓の外は、すでに夜も更けていた。遠く三河では、両軍が睨み合ったまま、決戦の刻を待っている。俺にできることは、もう、ほとんど残されていなかった。あとは、これまで積み上げてきた備えが、実際にどこまで意味を持つのか――それを、静かに見届けるしかなかった。




