最終章 ある女性――真実
最後の住所は、長野県の山あいの、小さな集落だった。
鬼塚の体は、もう長くはもたなかった。車に三時間揺られただけで、顔色は土気色を通り越して、灰色に近くなっていた。真壁は何度も休憩を提案したが、鬼塚はそのたびに首を振った。
「止まるな。時間がない」
その言葉の意味を、真壁はもう理解していた。
木造の一軒家の前で、鬼塚は車を降りるのに、真壁の肩を借りた。三十数年前、腕一本で組の裏金を仕切っていたという男が、いまは他人の肩に縋らなければ歩けない。
呼び鈴を押すと、四十代後半の女が出てきた。エプロン姿、髪には白いものが混じり始めている。ごく普通の、田舎暮らしの主婦だった。
女は鬼塚の顔を見た瞬間、エプロンの裾を握りしめた。
「……来たのね」
声に、驚きはなかった。長年、この日が来ることを覚悟していたような声だった。
「水原美和さん、ですね」真壁は確認した。名字は結婚で変わっていたが、鬼塚が調べ上げた通りの人物だった。
「昔の名前で呼ばれるのは、久しぶりです」美和は静かに二人を招き入れた。
居間に通されると、美和は仏壇のような小さな棚の前に座った。線香を上げ、手を合わせてから、ようやく口を開いた。
「三十年、あなたに会ったら聞きたいことが、山ほどありました」
「聞いてくれ」鬼塚は畳に正座した。あばらの痛みで、その姿勢を保つのがやっとに見えた。
美和は、ゆっくりと語り始めた。
三十年前、美和はまだ十七歳だった。彼女の父親は、ある地方都市の市議会議員に対する贈収賄の証拠を握っていた。大手デベロッパーと政治家の癒着――巨大な再開発計画の裏に流れた、億単位の裏金の存在だ。父親は内部告発を決意していたが、その矢先、口封じのために殺された。
組織にとって、次に消さなければならなかったのは、証拠の在り処を知っている可能性がある美和自身だった。
「私を消せという指示が、下りていた」美和は言った。「鬼塚さんは、その実行役として送り込まれてきた」
鬼塚が、静かに続きを引き取った。
「俺は組織の人間として、お前を始末する役目を負っていた。だが、現場で会ったお前は、まだ子供だった」
「あなたは、私を殺さなかった」
「殺せなかった」鬼塚の声が、初めて大きく揺れた。「お前の目を見た瞬間、俺は……俺の中の何かが、壊れた」
鬼塚は、美和を逃がすことを決めた。だが、それは組織を裏切ることを意味した。バレれば、自分が消される。それだけでは済まない。逃亡を手伝った人間、匿った人間、その全員に、組織の追及が及ぶ。
そこで鬼塚が考えたのが、山城神父への一時的な保護の依頼であり、後に、美和の存在ごと「始末した」と組織に報告するという偽装だった。
だが、それを実行するには、協力者が必要だった。
「協力者が、俺の親父か」真壁は、拳を握りしめながら言った。
鬼塚は、ゆっくりとうなずいた。
「お前の親父――真壁誠一は、当時、美和の父親の事件を追っていた刑事だった。彼は、美和を守るために独自に動いていた。俺と誠一は、敵同士だった。だが、あの夜だけは、利害が一致した」
真壁の脳裏に、三十年前の記憶が蘇った。父が死んだ夜、真壁はまだ十七歳だった。警察からの説明は、「殉職」だった。裏社会の人間との銃撃戦の末、殉職したと。犯人は鬼塚だと、当時の新聞は書き立てた。
「あの夜、何があった」真壁の声は、震えていた。
鬼塚は目を閉じた。長い、長い沈黙のあと、彼は語り始めた。
「美和を安全な場所に逃がすルートは一つしかなかった。組織の監視が薄い、山間部を抜ける道だ。誠一が、その道を車で運んだ。俺は、組織の追手を引きつける役だった」
追手は三人。組織の中でも荒事専門の男たちだった。鬼塚は一人で、彼らの前に立った。
「俺は、殺されるつもりだった」鬼塚は言った。「だが、誠一が戻ってきた。美和を安全な場所に届けたあと、俺を助けに、戻ってきちまった」
真壁の呼吸が、止まった。
「三人を相手に、俺たちは二人がかりで応戦した。誠一は、丸腰だった。拳銃は携帯していたが、発砲は最後まで躊躇していた。市民を巻き込む恐れがあったからだ」
鬼塚の声が、初めて割れた。
「一人が、誠一の背中を刺した。俺を庇う形で、誠一は前に出ていた」
真壁の視界が、滲んだ。
「俺は、誠一を病院に運ぼうとした。だが、誠一は俺の腕を摑んで、止めた」
鬼塚は、その夜の誠一の声を、三十年経ったいまも、正確に覚えているようだった。
「お前が捕まれば、美和の居場所まで辿られる――誠一は、そう言った。俺に、このまま逃げろと。自分のことは、殉職として処理させろと」
「そんな……」真壁の声は、掠れていた。
「誠一は、最後まで警察官だった。自分の死を、事件の証拠として使うことすら、覚悟していた。俺が犯人だという筋書きにすれば、組織は俺を追い続ける。美和を追う手が、緩む。誠一は、そこまで計算していた」
真壁は、両手で顔を覆った。三十年間、憎み続けてきた男が、実は父の最後の作戦の共犯者だった。父を殺したのは、鬼塚ではなかった。父は、鬼塚と、そして見ず知らずの少女の未来を守るために、自ら死を選んだ。
「なぜ、今まで黙ってた」真壁は、顔を上げずに言った。「なぜ、三十年も」
「言えば、美和の居場所が、いつか誰かに漏れる可能性があった」鬼塚は言った。「俺は、誠一との約束を、守り続けるしかなかった」
美和が、静かに口を挟んだ。
「鬼塚さんは、私が結婚するときも、子供が生まれたときも、遠くから見ていてくれました。直接会いに来ることは、一度もなかった。ただ、毎年、誕生日に、差出人のない花が届きました」
真壁は、七人の顔を思い浮かべた。坂本。響子。田中千鶴子。柏木。川島。山城。そしてこの美和。すべての人生のその後を、鬼塚は、誰にも知られずに、見守り続けてきた。
「これで、七人だ」鬼塚は畳の上で、深く息をついた。「全員に会った」
美和は、鬼塚の痩せた手を、両手で包んだ。
「謝らなくていいです」美和は言った。「あなたは、私の命の恩人だから」
鬼塚は、初めて、涙を見せた。三十年間、誰にも見せなかった涙だった。
病院に戻る車の中、真壁は運転しながら聞いた。
「なぜ、悪人であり続けた。真実を話せば、あんたは英雄になれたはずだ」
鬼塚は、助手席で目を閉じたまま、答えた。
「英雄は、生き残れない」
「どういう意味だ」
「英雄になれば、注目される。注目されれば、美和の存在も、いずれ掘り起こされる。誰かが、正義感から真相を追いかける。そうなれば、組織の生き残りが、美和に辿り着く可能性がある」鬼塚は、ゆっくりと目を開けた。「悪人なら、誰も追いかけない。悪人の過去は、誰も掘り返そうとしない。悪人なら、長く――生きられる」
真壁は、ハンドルを握りしめた。三十年間、鬼塚は「悪人」という仮面を被り続けることで、七人の人生の、その先の平穏を守ってきたのだ。
数日後、鬼塚誠司は、息を引き取った。
葬儀に来たのは、真壁一人だけだった。誰も呼ばず、誰にも知らせず、小さな火葬場で、鬼塚は骨になった。
一週間後、七人のもとに、それぞれ一通の封筒が届いた。差出人は、生前の鬼塚が信頼していた弁護士事務所だった。
坂本のもとに。響子のもとに。田中千鶴子のもとに。柏木のもとに。川島のもとに。山城のもとに。そして、美和のもとに。
中には、鬼塚が病床で書いた手紙が入っていた。謝罪の言葉ではなかった。それぞれの人生を壊した本当の理由――組織の内情、事件の裏側、そして、彼らの人生のその後を、鬼塚がどれほど見守り続けてきたか。すべてが、簡潔な文章で綴られていた。
七人は、それぞれの場所で、その手紙を読んだ。
坂本は、団地の一室で、手紙を握りしめたまま、長い間、動かなかった。
響子は、店のカウンターで、手紙を読み終えると、静かにグラスを一つ、鬼塚のために置いた。
千鶴子は、息子の墓の前で、手紙を読んだ。
柏木は、六本木のオフィスで、夜景を見ながら、手紙を何度も読み返した。
川島は、居酒屋のカウンターで、声を殺して泣いた。
山城は、久しぶりに、十字架の前で手を合わせた。
そして美和は、鬼塚から毎年届いていた、差出人のない花の意味を、ようやく理解した。
真壁は、父の墓の前に立っていた。三十年間、憎んできた男の骨壺を、その隣に置くことは、できなかった。だが、線香を上げる手は、もう震えていなかった。
「親父」真壁は、墓石に向かって呟いた。「あんたは、英雄だったよ。誰も知らない、英雄だった」
風が、線香の煙を揺らした。
人は、誰かを守るために、悪人になれるのか。
その問いに、鬼塚誠司という男は、三十年をかけて、静かに答えを出した。
答えは、誰にも語られることなく、七通の手紙とともに、静かに散っていった。




