エピローグ
一年が経った。
真壁悠人の事務所は、相変わらず古いビルの三階にある。看板の文字は色褪せたままだ。変わったのは、依頼の中身だった。
以前の真壁は、浮気調査や失踪人捜索を、機械的にこなしていた。だが今は、依頼を受ける前に、必ず一つだけ聞くようになった。
「その人を、まだ憎んでいますか」
意味を測りかねる顔をする依頼人がほとんどだ。それでも真壁は聞く。答えによって、調査の仕方が変わることがあるからだ。
鬼塚の墓は、都下の共同墓地の隅にある。名もない、小さな墓石だ。真壁が骨を引き取り、無縁墓に近い形で納めた。誰も来ないだろうと思っていた。
だが、命日から半年経ったある日、真壁が墓参りに行くと、墓石の前に、すでに花が供えられていた。
一輪ではなかった。白いユリが一本、黄色いバラが一本、名前の分からない野の花が一束。誰かが、それぞれ別々に置いていったものだった。
真壁は、その花の組み合わせを見て、誰が来たのか、なんとなく分かった気がした。坂本は、たぶん花など買ったことがない男だ。それでもコンビニの花束を、不器用に供えていったのだろう。響子は、店で余った花を持ってきたに違いない。そして、名前も分からない野の花――それは、たぶん美和が、長野から車を飛ばして持ってきたものだ。
誰も、互いに顔を合わせてはいない。示し合わせてもいない。それぞれが、それぞれのタイミングで、この小さな墓を訪れている。
真壁は線香を上げ、しばらく墓石の前に座っていた。
「親父とあんた、どっちが先に会いに行ったんだろうな」
墓石は、何も答えない。当たり前だ。それでも真壁は、少しだけ笑った。
坂本の団地の部屋には、いまでは小さな仏壇が置かれている。誰の位牌もない、ただの棚だ。だが坂本は、毎朝そこに手を合わせる。
「あんたのおかげで、俺はまだ、正義ってものを、便所に流したままじゃなくなった」
そう呟くのが、坂本の日課になっていた。
響子の店は、いまも新宿の裏路地で灯っている。ネオン管は新しいものに替えられた。「結愛」の文字は、もう消えたり点いたりしない。カウンターの隅には、いつも小さなグラスが一つ、誰のためでもなく置かれている。
千鶴子は、息子の墓参りの回数が増えた。以前は月に一度だったのが、いまでは週に一度になった。「航、あんたを死なせた男は、あんたを助けようとしてたんだって」――彼女はそう墓石に語りかける。それが、赦しなのか、諦めなのか、彼女自身にも分からない。それでも、足は自然と墓地に向かう。
柏木は、田辺の部品工場に、密かに発注を回すようになった。表向きは、ただの取引先だ。誰も、その裏にある事情を知らない。柏木自身、なぜそうしているのか、はっきりとした理由を語らない。
川島修二の店には、常連が一人増えた。真壁だ。月に一度、真壁はふらりとその店を訪れ、川島と黙って酒を飲む。多くを語らないが、それでいい関係だった。
山城は、教会に戻った。信徒として、一番後ろの席に座る。まだ神父には戻っていない。だが、十字架を見上げる目には、以前の空虚さがなくなっていた。
美和の家の庭には、毎年、差出人のない花が届くことはもうない。その代わり、彼女自身が、年に一度、長野から東京へ花を届けに来るようになった。
真壁は、父の墓と、鬼塚の墓を、同じ日に回ることにしている。
隣り合わせには、できなかった。それでも、同じ日に、同じ手で、線香を上げる。それが、真壁にできる、精一杯の答え合わせだった。
事務所に戻る電車の中で、真壁はふと、鬼塚の最後の言葉を思い出す。
――英雄は生き残れない。悪人なら長く生きられる。
鬼塚は、長くは生きられなかった。だが、七人の人生の中には、いまも生き続けている。
誰も知らない英雄が、二人。
真壁は、車窓に映る自分の顔を見た。父に少し似てきた気がした。
電車が、夕暮れの街を走り抜けていく。




