第六章 神父――信仰
六人目は、教会にはいなかった。
真壁が調べた住所は、都下の外れにある古い一軒家だった。庭は荒れ、郵便受けにはチラシが溢れている。表札には「山城」とだけあった。
インターホンに応答はなく、鬼塚は迷わず庭に回った。縁側の雨戸が半分開いていた。
「山城さん」
呼びかけに、しばらくして影が動いた。縁側に現れたのは、痩せた老人だった。かつて聖職者だったという面影は、着崩れた寝間着と伸びきった白髪の下に、辛うじて残っている程度だった。
「……あんたか」
山城の声には、これまでの誰とも違う響きがあった。怒りでも、悲嘆でもない。乾ききった、空虚な響きだった。
「上がっていいか」
山城は答えなかった。だが縁側から動きもしなかった。それが答えだと、鬼塚は受け取ったらしい。靴を脱ぎ、縁側に腰を下ろした。真壁もそれに倣った。
部屋の中は、埃と線香の匂いが混じっていた。十字架は壁に掛かったままだったが、その下の小さな棚には、聖書が閉じたまま埃をかぶっていた。
「もう祈らないんですか」真壁は聞かずにいられなかった。
「祈る相手が、いなくなった」山城は乾いた声で言った。
三十年前、山城は都内の小さな教会の神父だった。信徒に慕われ、地域の子供たちのための無料の学習支援も行っていた。ある夜、鬼塚がその教会を訪ねてきた。
「一人、匿ってほしい人間がいる」
鬼塚はそれだけを告げた。理由は聞くなと。詳細は聞くなと。ただ、数日の間だけ、教会の裏の小部屋に、一人の若い女を匿ってほしいと頼んだ。
「私は、断らなかった」山城は言った。「神の家に、行き場のない人間を迎え入れないという選択肢は、私にはなかった」
女は三日間、教会の裏部屋に身を潜めていた。山城は誰にも気づかれないよう、食事を運び、声をかけた。女は多くを語らなかったが、怯えていることだけは分かった。
四日目の朝、鬼塚が再び現れた。
「その女を、俺に引き渡せ」
山城は拒んだ。「あなたが誰かも分からない人間に、匿った人を引き渡すことはできない」
「引き渡せ」鬼塚は繰り返した。「でなければ、あなたも、この女も、命はない」
山城は、その言葉を脅しだと思った。だが、鬼塚の目には、脅しとは違う何かがあった。切迫した、追い詰められた光が。
「私は、迷った」山城は目を閉じた。「神に祈った。答えは出なかった。だから私は……女を、あんたに引き渡した」
その後、女がどうなったのか、山城は知らない。ただ、その夜を境に、教会の周辺で妙な噂が流れ始めた。組織の人間が女を探して嗅ぎ回っていた、という噂。その女は、二度と姿を現さなかった。
「私は、あの子を売ったんだ」山城の声が震えた。「聖職者として、行き場のない人間を守る誓いを立てていながら、私はあの子を、正体も分からない男に引き渡した」
「その後、どうした」真壁が聞いた。
「教会を辞めた」山城は答えた。「祈っても、何も返ってこなくなった。神は、私があの子を引き渡す瞬間に、何も言わなかった。だから私は、神を信じるのをやめた」
真壁は、鬼塚の横顔を見た。表情は動かなかった。だが、握りしめた拳が、白くなっていた。
「その女の名前を、知っているか」鬼塚が、初めて口を開いた。
「知らない。聞かなかった。聞けなかった」
「一つだけ、言わせてくれ」鬼塚の声には、これまでの誰との会話にもなかった、微かな震えがあった。「あの女は、生きている」
山城の目が、大きく見開かれた。
「……本当か」
「本当だ。あんたが匿ってくれた三日間がなければ、彼女は死んでいた。あんたは、彼女を売ったんじゃない。あんたは、彼女の命を繋いだんだ」
山城の体が、小さく震え始めた。乾ききっていたはずの目に、涙が浮かんだ。
「なぜ、それを、今まで――」
「言えなかった」鬼塚は静かに言った。「あの頃、彼女の存在を知っている人間が一人でも増えれば、彼女は危険に晒された。あんたが知らずにいることが、彼女を守ることだった」
山城は、両手で顔を覆った。三十年分の罪の意識が、その体から崩れ落ちていくようだった。
「なら私は……人を、殺してはいなかったのか」
「殺していない」鬼塚は言った。「あんたは、救った側の人間だ」
真壁は、その場に立ち尽くしていた。頭の中で、これまでの六人の話が、一つの線に繋がりかけていた。坂本の事件。響子の事件。田中航の事件。柏木の事件は違う色だったが、川島の事件、そして今の山城の事件――そのすべての奥に、「誰かを守るために鬼塚が悪人を演じてきた」という構図が、輪郭を強めていく。
そして、その「誰か」の中心に、一人の女がいる。
三十年前に姿を消した、一人の女。
「その女は」真壁は、抑えきれずに聞いた。「今、どこにいる」
鬼塚は、山城の家を出るまで、答えなかった。庭を抜け、車に向かう道すがら、ようやく彼は口を開いた。
「最後に会わせる」
「最後の七人目が、その女なのか」
鬼塚は足を止めた。夕暮れの光が、痩せた背中に長い影を落としていた。
「ああ」
「なら、その女と、俺の親父の事件は、繋がっているのか」
鬼塚は振り返らなかった。ただ、掠れた声で言った。
「すべて、繋がっている」
真壁は、その一言の重さに、しばらく動けなかった。




