第五章 元組員――仲間
五人目は、横浜の外れにある小さな居酒屋の店主だった。
店の名は「田原」。カウンターだけの、七席ほどの小さな店だ。暖簾をくぐると、白髪頭の男が一人、仕込みをしていた。振り向いた瞬間、包丁を握る手が止まった。
「兄貴……」
その一言で、真壁はこの男が、坂本や柏木とは違う関係にあったことを悟った。恨みの声ではなかった。困惑と、懐かしさと、そして深い痛みが入り混じった声だった。
「久しぶりだな、川島」鬼塚は暖簾の下で立ち止まったまま言った。
川島修二は、包丁を布巾で拭い、まな板の上に静かに置いた。手が震えていた。
「よく、面と向かって来れたな」
「来た」
川島は無言で暖簾を裏返した。準備中の札を出す。カウンターの中から回り込んで、鬼塚の前に立った。真壁は身構えたが、川島は殴らなかった。
ただ、深く、頭を下げた。
「兄貴……すみません」
真壁は面食らった。これまでの四人は皆、鬼塚を責める側だった。だが、この男は違う。
「なぜお前が謝る」鬼塚が聞いた。
川島は顔を上げた。目に涙が滲んでいた。六十近い、強面の元組員の目に。
「三十年前、俺は……兄貴が組の金を持ち逃げしたって噂を、信じちまった」
真壁はカウンター席に座り、二人のやり取りを見守った。川島は、震える声で語り始めた。
三十数年前、川島と鬼塚は同じ組の若い衆だった。川島にとって鬼塚は、兄貴分であり、恩人だった。喧嘩っ早くて組を追い出されかけていた川島を、鬼塚が何度も庇い、育ててきた。
ところがある日、組の裏金――五千万円が消えた。組内では、鬼塚が持ち逃げしたという噂が流れた。当時、鬼塚は組の経理を任されていた立場だった。
「俺は、兄貴を庇うべきだった」川島は拳を握りしめた。「だが俺は、噂を信じた。兄貴が俺たちを裏切ったんだと思った。だから俺は――」
言葉が詰まった。鬼塚が静かに続きを引き取った。
「川島は、俺のことをリンチにかけた側についた」
真壁は息を呑んだ。
「殺されかけた」鬼塚は淡々と言った。「組の若い衆五人がかりで、俺は半殺しにされた。川島も、その中にいた」
「兄貴を殴った手が、今でも忘れられねえ」川島の声は掠れていた。「あの夜以来、俺は一度も、まともに眠れちゃいねえ」
真壁は、鬼塚の顔を見た。感情の読めない、いつもの無表情だった。だが、川島の告白を聞く目には、微かな揺れがあった。
「後になって分かった」川島は続けた。「金を持ち逃げしたのは、別の兄貴分だった。兄貴は、その男を庇ってたんだ。庇って、自分が疑われるままにしていた」
真壁の頭の中で、何かが引っかかった。「なぜ庇う必要があった」
川島が答えた。「その兄貴分には、まだ小さい娘がいた。金を持ち逃げしたのがバレれば、その男は間違いなく殺されてた。娘も、無事じゃ済まなかったかもしれねえ」
店の中に、重い沈黙が落ちた。
「兄貴は、それを、何も言わずに受け入れた」川島の目から、涙がこぼれた。「俺たちにボコボコにされながら、一言も、庇った理由を言わなかった」
鬼塚が初めて、静かに口を開いた。
「言えば、あの男の娘の人生が壊れる。それだけの話だ」
真壁は、腹の底から、何かがせり上がってくるのを感じた。坂本の話、響子の話、千鶴子の話――それぞれに垣間見えた「守るための悪」の輪郭が、この瞬間、初めて具体的な形を取った。
「兄貴、お前だけは裏切ったと思ってた」川島は嗚咽混じりに言った。「俺は、お前を殴りながら、お前が俺たちを裏切ったんだと、本気で信じてた」
鬼塚は、静かに川島の肩に手を置いた。
「そう思わせるしかなかった」
その一言で、川島は崩れ落ちるように、カウンターに手をついた。
真壁は、その光景をただ見ていることしかできなかった。三十年以上、川島は自分が兄貴分を殴った罪の意識を抱えて生きてきた。そして今、その罪の理由が、実は鬼塚の意図的な沈黙によって作られたものだったと知った。
救われたのか、それとも、より深い罪を知らされたのか。真壁には判断がつかなかった。
店を出るとき、川島は鬼塚の背に向かって、何度も頭を下げていた。声にならない声で、何かを詫び続けていた。
車の中で、真壁は長い間、口を開けなかった。ハンドルを握る手に、自然と力がこもっていた。
「聞きたいことがある」ようやく、真壁は言った。
「言え」
「あんたは今日、初めて、自分から理由を語った。庇った理由を。これまでの四人には、そこまで話さなかった」
鬼塚は窓の外を見つめていた。夜の首都高、対向車のライトが、彼の横顔を断続的に照らしていた。
「川島は、今も俺を兄貴と呼んだ」鬼塚は静かに言った。「あいつだけは、まだ、俺を人間として見てくれている」
「それが理由か」
「それだけだ」
真壁は、その答えに、まだ何かが隠されている気がした。だが、それ以上は聞けなかった。
信号待ちで、鬼塚がぽつりと呟いた。
「お前は、いつか気づく」
「何にだ」
「俺が誰かを守るために悪人になったのだとしたら」鬼塚は前を見たまま言った。「守れなかった一人だけが、いる」
真壁は、ハンドルを強く握った。
「俺の親父のことか」
鬼塚は答えなかった。信号が青に変わり、車が動き出した。




