第四章 実業家――信用
四人目は、六本木の高層ビルの最上階にいた。
エレベーターが開くと、ガラス張りのオフィスが広がっていた。夜景が眼下に沈んでいる。受付の女性が二人を止めようとしたが、鬼塚が名刺も出さずに「柏木に会いに来た」とだけ言うと、奥から本人が飛び出してきた。
柏木隆一は、五十代半ばだろう。仕立てのいいスーツ、日に焼けた肌、髪には一分の乱れもない。傍目には成功者そのものだった。だが真壁は、その目の奥に、坂本や響子と同じ種類の暗さがあることに気づいた。
「よく、ここに顔を出せたな」柏木の声は低かった。怒鳴りはしない。それが、かえって不気味だった。「警備を呼んでもいいんだぞ」
「呼べばいい」鬼塚は淡々と言った。「五分でいい」
柏木は舌打ちして、応接室に二人を通した。ドアを閉めると、彼の表情から、経営者の仮面が剥がれ落ちた。
「三十年前、俺の会社を潰したのは、お前だったな」
「ああ」
「今更、何をしに来た。詫びか?いらねえよ、そんなもん」柏木はソファに深く座り、脚を組んだ。「知ってるか。俺はいま、あの頃潰された会社の三倍の規模の会社を持ってる。お前に感謝しろとでも言うつもりか」
「そうは思わない」
柏木は鼻で笑った。「三十年前、俺は建材メーカーをやってた。親父から継いだばかりの、堅実な会社だった。従業員は八十人。それを、お前ら裏社会の連中が、地上げの邪魔だって理由だけで、潰しにかかった」
真壁は黙って聞いていた。柏木の話は、これまでの三人とは違う種類の恨みを含んでいた。坂本や響子や千鶴子の恨みには、深い喪失の悲しみがあった。柏木の恨みには、それとは違う、屈辱の匂いがあった。
「取引先には根も葉もない噂を流された。銀行の融資は止められた。挙句、俺の会社の帳簿には、身に覚えのない裏金の記録が仕込まれてた。脱税容疑で家宅捜索を受けた。会社は倒産。従業員は全員、路頭に迷った」
「知っている」
「知ってる、じゃねえよ!」柏木が初めて声を荒げた。「お前がやったんだろうが!全部お前が仕組んだことだろうが!」
鬼塚はうなずいた。「その通りだ」
真壁は、その即答に違和感を覚えた。これまでの三人には、鬼塚は「認める」にしても、どこかに沈黙や、間があった。だが今回は、一切の躊躇がない。まるで、確認するまでもない事実として、すんなりと受け入れている。
柏木は、その反応の速さに、逆に苛立ったようだった。
「なんで、あんな真似をした。俺が何をした。誰かの邪魔になるようなことを、俺はしていない」
「地上げの対象になった土地に、お前の工場があった。それだけだ」鬼塚は淡々と言った。「理由らしい理由はない。組織にとって、都合が悪かった。それだけの話だ」
坂本の章、響子の章、千鶴子の章と違い、鬼塚はここでは一切の弁明も、隠された事情も語らなかった。ただ、事実だけを、簡潔に述べた。
真壁の中で、違和感が膨らんでいく。
「その後、お前の会社――正確には、地上げで奪われた土地は」鬼塚が続けた。「五年後、区画整理の名目で、遺族に払い下げられている。知っているか」
柏木の顔色が変わった。「……何の話だ」
「お前の元従業員の一人が、その土地を買い戻した。安値で、な。名義上は不動産業者を通した取引になっているが、実際には、当時の裏金の一部が、その買い戻し資金に充てられている」
「デタラメ言うな」
「調べればいい」鬼塚は静かに言った。「登記簿を見ろ。名義人の名前に、見覚えがあるはずだ」
柏木は立ち上がり、内線電話を取った。秘書に何かを指示している声が聞こえた。数分後、タブレットを持った秘書が入ってきて、柏木に手渡した。柏木は画面をスクロールしながら、みるみる顔色を失っていった。
「……これは」
「お前の元経理担当、田辺という男が、その土地を買い戻している。今は、そこに小さな部品工場を建てて、お前の元従業員を何人か雇っている」
柏木はタブレットを持ったまま、ソファに崩れ落ちるように座った。
「なぜ、そんなことを知ってる」
鬼塚は答えなかった。ただ、窓の外の夜景に目をやった。真壁は、その沈黙が、坂本のときと同じ種類のものだと気づいた。
――俺は、壊した人生のその後を、ずっと追ってきた。
柏木は、しばらく何も言わずにいた。やがて、絞り出すように言った。
「感謝はしない。俺の人生の三十年は、返ってこない」
「その通りだ」
「だが」柏木はタブレットを膝の上に置いた。「これを、なぜ今、俺に見せた」
「知っておいてほしかった。それだけだ」
柏木は長く息を吐いた。怒りとも、諦めともつかない、複雑な表情だった。
「出ていってくれ」
それが、面会の終わりだった。エレベーターに乗り込みながら、真壁は聞いた。
「さっきの話は、本当か」
「本当だ」
「なら、聞きたい。あんたはさっき、柏木の質問に、一切の言い訳もせず『その通りだ』と即答した。坂本や、田中さんのときとは、様子が違った」
鬼塚はエレベーターの壁にもたれかかった。あばらの痛みからか、その姿勢すら辛そうだった。
「柏木の件は、正真正銘、俺がやった仕事だ。組織の指示で、迷いなくやった。同情の余地はない」
「なら、坂本や田中さんの件は?」
鬼塚は答えなかった。エレベーターが一階に着くまで、彼は無言だった。
真壁は、その沈黙の中に、七人それぞれの事件が、実は同じ重さではないという事実を、初めてはっきりと感じ取った。
すべてが、鬼塚の悪事ではない。
だが、すべてが、鬼塚の善意でもない。
その境界線は、どこにあるのか。真壁には、まだ見えなかった。




