第三章 母親――息子
墓地は、山の斜面に段々に広がっていた。
真壁が車を停めたのは、霊園の入り口から一番遠い駐車スペースだった。鬼塚の足では、そこから先が長かった。あばらの痛みを堪えながら、彼は杖もつかず、一段ずつ石段を上がっていく。真壁は手を貸そうとして、途中でやめた。この男は、支えられることを望んでいない。
三人目に会う相手は、坂本や響子のように、玄関先で怒鳴りつけてくる相手ではなかった。
墓の前に、すでに人が座っていた。小柄な老女だった。白髪を後ろで一つに結び、色褪せたグレーのカーディガンを着ている。線香の煙が、風もないのに斜めに流れていた。
「田中さん」鬼塚が声をかけると、老女はゆっくりと振り向いた。
その顔には、驚きも、怒りもなかった。ただ、深い疲労だけがあった。三十年分、積もりに積もった疲労だ。
「来ると思ってた」田中千鶴子は静かに言った。「新聞で読んだよ。あんたが余命宣告されたって」
「よく分かりましたね」
「この歳になると、裏社会の噂も、案外耳に入ってくるものよ」
千鶴子は、墓石を手で撫でた。刻まれた名前は「田中航」。享年二十二。
真壁は少し離れた場所に立ち、二人のやり取りを見ていた。鬼塚は墓の前に膝をつき、深く頭を垂れた。あばらの痛みで、その姿勢を保つのがやっとのはずだった。それでも彼は動かなかった。
「航は」千鶴子はぽつりと言った。「いい子だったのよ」
「知っています」
「大学に落ちて、浪人が決まった年だった。息子は少し荒れてた。友達の紹介で、アルバイトを始めた。運送の仕事だって聞いてた」
真壁は、その先の展開を予想した。予想は、正しかった。
「実際は、運び屋だったのね。あんたたちの、荷物の運び屋。息子は知らなかった。ただのアルバイトだと思ってた」
千鶴子の声は、涙も、怒りもなく、ただ淡々としていた。
「摘発されたとき、警察は息子を主犯格として扱った。荷物の中身を知らなかったなんて、誰も信じなかった。本当の指示役は、姿を消してた。息子だけが、罪を全部かぶった」
「六年、入りました」鬼塚が言った。「出所して、半年後に事故で亡くなった」
「事故じゃない」千鶴子は初めて、声に刃を含ませた。「あの子は、出所してから人が変わってた。誰も雇ってくれない。友達も離れていく。私にすら、目を合わせなくなった。そして、ある雨の夜、高速道路の防音壁に、バイクごと突っ込んだ」
沈黙が落ちた。線香の煙だけが、風もないのに揺れていた。
「事故報告書には、そう書いてある」千鶴子は続けた。「でも、私は母親よ。あの子が、事故を装って死んだことくらい、分かる」
真壁は、拳を握った。この話は、坂本や響子の話とは、質が違う。壊された人生の先に、死がある。それも、まだ二十代の若者の死だ。
「なぜ、その子を使った」千鶴子は初めて、鬼塚の目をまっすぐ見た。「使い捨てにするなら、なぜ、うちの子だった」
鬼塚は答えなかった。頭を下げたまま、動かなかった。
「答えなさいよ」千鶴子の声が、初めて震えた。「あんたが、うちの子の人生を、選んだんでしょう。なぜ」
長い沈黙のあと、鬼塚はようやく口を開いた。
「本当の指示役は、別にいました」
「知ってる。あんたでしょう」
「違います」鬼塚は首を振った。「俺は、実行の手配をしただけです。指示を出したのは、組織の上の人間だった」
「同じことよ」
「同じじゃない」鬼塚の声に、初めて感情らしきものが滲んだ。「俺が――俺が、航くんを選んだんじゃない。俺は、彼を摘発から逃がそうとした。だが間に合わなかった」
千鶴子の表情が、わずかに動いた。「どういうこと」
「摘発の情報は、事前に俺の耳に入っていた。俺は航くんに、その日だけ運送の仕事を休ませようとした。だが、その日に限って、彼の携帯には連絡がつかなかった」
真壁は、鬼塚の声の震えに気づいた。三十年裏社会を生きてきた男の声が、初めて揺れていた。
「彼は、恋人に会いに行っていた。携帯の電源を切って。俺の連絡は、届かなかった」
千鶴子は、長い間、何も言わなかった。墓石を見つめたまま、指先だけが小刻みに動いていた。
「……それを、今まで黙ってたの」
「言っても、何も変わらない」鬼塚は静かに言った。「あなたの息子が死んだ事実は、変わらない。俺があの日、もっと早く手を打っていれば――それだけの話です」
千鶴子は目を閉じた。長い、長い沈黙のあと、彼女は言った。
「許さない」
「分かっています」
「でも」千鶴子は目を開けた。「今日、来てくれたことは、覚えておく」
それだけだった。許しではない。だが、拒絶でもなかった。真壁には、その境界線が、これまでのどの反応よりも重く感じられた。
墓地を出る道すがら、真壁は聞いた。
「本当の話か。彼女の息子を、逃がそうとしたっていうのは」
「本当だ」
「なら、なぜ間に合わなかったなんて、言い訳をした。さっきの話し方は――」真壁は言葉を選んだ。「まるで、自分の責任を軽くしようとしているみたいだった」
鬼塚は足を止めた。石段の途中で、彼は振り返った。
「軽くなんてしていない。俺が、彼を守りきれなかった。それだけの話だ」
「守ろうとしていたのなら、なぜ最初から、彼をその仕事に近づけなかった」
鬼塚は答えなかった。ただ、痛むあばらを押さえながら、再び石段を下り始めた。
真壁はその背中を見つめながら、響子の言葉を思い出していた。
――自分を悪者にすることでしか、誰かを守れない人なのよ。
だが、今日の話は違う。今日の話には、鬼塚が「守ろうとして、守れなかった」という筋が、初めて出てきた。それは、これまでの二人の話とは、明らかに違う色をしていた。
坂本の事件では、鬼塚は加害の全責任を背負った。 響子の事件では、鬼塚は「守った」ことを否定した。 そして今、田中航の事件では、鬼塚は「守ろうとして失敗した」と語った。
三つの話は、少しずつ、鬼塚という男の輪郭を歪ませていく。
真壁の中で、初めて、はっきりとした疑問が形になった。
――この男は、本当に、加害者なのか。




