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死ぬ前に一度だけ  作者: キロヒカ.オツマ―


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第二章 元歌手――夢

スナックの看板は、半分だけ灯りが点いていた。


「Bar 結愛」――結愛の「結」の字のネオン管が切れかけていて、点いたり消えたりを繰り返している。新宿三丁目の裏路地、雑居ビルの二階。階段は油と埃の匂いがした。


鬼塚は坂本の一件から三日、まともに歩けなかった。あばらにヒビが入っていたと、真壁は後で聞いた。それでも鬼塚は病院を抜け出し、点滴の針の痕を絆創膏で隠して、この階段を自分の足で上がった。


「ここの女将だ」鬼塚は階段の途中で足を止め、息を整えながら言った。「三十年前は、深田響子という名前で歌ってた」


真壁は名前に覚えがなかった。無理もない。デビュー直前に消えた歌手の名前など、いまの四十七歳が知るはずもない。


店のドアを開けると、カウンターの向こうにいた女が、鬼塚を見て手を止めた。グラスを拭いていた布巾が、そのまま宙で止まった。


六十前後だろう。染めた黒髪、厚めの化粧の下に、若い頃の面影が確かに残っている。目元の作りは、昭和の歌謡番組でよく見た顔立ちだった。


「……あんた」


声が硬くなった。客は他に二人いたが、女将は構わず、カウンターを回って出てきた。


「出てって」


「五分でいい」鬼塚は頭を下げた。「話をさせてくれ」


「五分もいらない」響子はカウンターの内側からグラスを一つ取り、床に叩きつけた。破片が飛び散った。客の一人が舌打ちして席を立ち、勘定も払わずに出ていった。もう一人は、我関せずとばかりに酒を舐めている。


「あんたのせいで、私の人生は終わったのよ」


響子の声は、震えていなかった。三十年分、乾ききった声だった。


「知ってる」鬼塚はガラスの破片を避けもせず、その場に立っていた。


三十年前、深田響子は大手レコード会社からデビューを控えていた。地方の勝ち抜き歌唱コンテストで頭角を現し、業界筋の評価も高かった。ところがデビューの一月前、写真週刊誌に「暴力団幹部との不倫愛」というスクープが掲載された。写真もあった。響子が組の幹部と名乗る男と、ホテルの裏口から出てくる写真。


「あの写真、合成だったんでしょう」響子は言った。「今更調べなくても分かってる。当時から噂はあった。でも証拠がなかった。誰も本気で調べようとしなかった」


鬼塚は答えなかった。


「私はデビュー前に消えた。事務所は契約解除。レコード会社は違約金を請求してきた。実家は田舎で肩身が狭くなって、母親は近所付き合いをやめた。父親は三年後に心臓発作で死んだ。あの人が最後まで新聞を読むのを嫌がってたこと、あんた知ってる?娘の名前が週刊誌に載った家だって、近所中に知られてたから」


真壁はカウンターの隅に立ち尽くしていた。口を挟める空気ではなかった。


「なんで、あんな真似をした」響子はグラスの破片を踏みつけながら、鬼塚に詰め寄った。「私が何をした。あんたに、あんたの組に、何かした?」


「していない」鬼塚は静かに言った。「お前は何もしていない」


「じゃあなんで」


鬼塚は答えなかった。その沈黙が、真壁には奇妙に思えた。坂本の部屋では、鬼塚は「言い訳はしない」と言いながらも、事実の断片は語った。だがここでは、何も語らない。ただ罪を認め、頭を下げるだけだ。


響子は肩で息をしながら、しばらく鬼塚を睨みつけていた。やがて、荒れた息が少しずつ落ち着いていく。彼女はカウンターに戻り、震える手で新しいグラスを出した。氷を入れる。ウイスキーを注ぐ。手つきは、長年この仕事をしてきた人間のものだった。


「飲む?」


鬼塚は無言でうなずいた。真壁には出されなかった。


グラスを鬼塚の前に置きながら、響子はぽつりと言った。


「本当は、感謝してるのよ」


真壁は耳を疑った。鬼塚も、初めてわずかに眉を動かした。


「あの記事のあと、私は田舎に戻って、地味な暮らしをした。歌手になっていたら、私はきっと、あの世界で潰されてた。当時、私に近づいていた別のプロデューサーがいた。あの人、後で分かったけど、女の子を何人も食い物にしてた男だった。契約を切ったせいで、私はそいつの手の届かないところに逃げられた」


響子はグラスを一つ、自分のためにも作った。


「あなた、本当は私を守ったんでしょう?」


店の空気が止まった。


鬼塚はグラスに口をつけただけで、何も答えなかった。真壁は、その沈黙の質が、坂本の部屋でのものとは違うことに気づいた。あれは「認める沈黙」だった。これは――違う。これは「否定するための沈黙」だ。


「違う」ようやく、鬼塚が口を開いた。「そんな理由じゃない。俺はただ、お前の芽を潰しただけだ。理由なんてない。仕事だった」


「噓」響子は笑った。乾いた、しかしどこか優しい笑い方だった。「あんた、噓をつくとき、右の眉が動く癖、昔から変わってないのね」


鬼塚は何も返さなかった。グラスの中で、氷が小さな音を立てて崩れた。


店を出るとき、響子は真壁にだけ声をかけた。


「あの人をどこまで連れて行くつもり?」


「七人、会わせろと言われている。あんたで二人目だ」


響子はカウンターの奥で、看板のネオン管のように、ちらちらと表情を揺らした。


「最後まで付き合ってあげて。あの人、噓のつき方が、昔から一つしかないから」


「どういう意味だ」


「自分を悪者にすることでしか、誰かを守れない人なのよ」


真壁はその言葉の意味を、階段を下りる間、ずっと反芻していた。隣を歩く鬼塚は、あばらの痛みに顔をしかめながらも、何も語らなかった。


車に乗り込んでから、真壁はハンドルを握ったまま聞いた。


「彼女の言ったこと、本当か。あんたが、彼女を守ったっていう話」


「噓だ」鬼塚は窓の外を見たまま言った。「調整屋に、そんな甘い理由はない」


だが、その声には、坂本に対して言った「本当だ」という一言にあった強さが、なかった。


真壁はエンジンをかけながら、初めて思った。


この男は、噓をつくとき、何かを守っている。

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