第一章 元刑事――正義
団地の階段は小便臭かった。
三階まで上がる間に、真壁は二度、踏み場を選んだ。手すりの錆が掌に移りそうだった。坂本清一の部屋の前に立つと、ドア一枚の向こうから、テレビの音が漏れていた。競馬中継だ。
インターホンは壊れているのか、応答がなかった。三度目のノックで、ようやくチェーンの音がした。細く開いたドアの隙間から覗いた目が、真壁の背後に立つ鬼塚を捉えた瞬間、変わった。
獲物を見つけた目だ。
「……お前」
声が掠れている。六十そこそこのはずが、十は老けて見えた。無精髭、黄ばんだランニング、腹の出た体。台所からは饐えた匂いと、生ゴミの匂いが混じって流れてくる。かつて所轄一の切れ者と呼ばれた男の、いまがこれだった。
チェーンが外れる。次の瞬間には、坂本の右手が鬼塚の胸倉を摑んでいた。骨ばった指に、意外なほどの力がこもっていた。
「入れとは言ってねえ」
「殴りたいなら殴れよ」鬼塚は動かなかった。抵抗する素振りすら見せない。「そのために来た」
坂本の拳が飛んだ。鈍い音がした。骨と肉がぶつかる、湿った、重い音だ。鬼塚の首がねじれ、唇の端が裂けた。血が飛んで、廊下のコンクリートに黒い染みを作った。
真壁は動けなかった。止めようとした手が、途中で止まった。鬼塚がこちらを見ずに、ただ肩の角度で制していた。
――手を出すな。これは俺の仕事だ。
二発目は脇腹に入った。鈍く、深い音がした。鬼塚の体がくの字に折れかけたが、それでも膝はつかなかった。三発目、顔に。鬼塚は膝を折らなかった。ただ立ち、殴られる場所を差し出すように、顎を上げていた。近隣のドアが薄く開き、また音もなく閉じていく。誰も出てこない。誰も警察は呼ばない。ここでは、人が殴られる音は、生活音の一部だ。
「お前のせいで」坂本は四発目の前で、荒い息のまま言った。「俺は正義ってやつを、便所に流したんだよ」
鬼塚は口の端から血を垂らしながら、何も言わなかった。言い訳の一つも出なかった。
坂本は結局、二人を部屋に上げた。鬼塚には座布団も出さず、床に直に座らせた。真壁にだけ、ぬるい麦茶を出した。台所の小さなテーブルを挟んで、坂本はぽつぽつと話し始めた。
三十二年前。坂本が所轄の刑事だった頃、強盗殺人の帳場が立った。浮上した被疑者は、地場の暴力団の下部組織にいた若い男だった。物証は薄かった。だが坂本には自信があった。落としの腕には、誰にも負けないという自負が。
「あの自白、あんたが取らせたんじゃない」坂本は鬼塚を睨めつけた。「あんたが仕込んだ人形に、噓の自白を吐かせただけだろう。違うか」
鬼塚は答えなかった。沈黙が、答えのすべてだった。
「あいつは無実だった。十四年食らって、出てきてすぐ首を括った。俺が――俺があいつを殺したようなもんだ」
坂本の声が震えていた。「冤罪だと分かったのは、真犯人が別件で挙がって、余罪をぺらぺら吐いたときだ。俺は懲戒免職。女房子供にも逃げられた。それから三十年、俺は生きたまま腐ってる」
真壁は麦茶のグラスを握りしめたまま、鬼塚の背中を見ていた。血の滲んだ唇が、ようやく開いた。
「一つだけ言わせろ」
「聞きたかねえよ」
「言い訳はしない。お前の人生を潰したのは俺だ。それは動かない」鬼塚は畳に額をこすりつけた。「だが一つだけ、知っておけ」
坂本は答えなかった。だが追い出しもしなかった。
「その事件で真犯人を庇っていた組織の人間は、後に挙げられている。表には出ていないが、お前が拾った現場の聞き込みメモ――当時、無駄だと突き返されたあれが、十年後に別の立件の決め手になった」
坂本の目が、初めて揺れた。
「噓をつくな」
「噓じゃない。調べればいい。平成十八年、広域窃盗団の摘発。お前の名前はどこにも出てこない。だが、お前が現場で拾った靴跡のデータは、報告書の隅に生きてる」
坂本は何も言わなかった。テーブルの傷だらけの木目を、ただ睨みつけていた。
部屋を出るとき、坂本は玄関先で、鬼塚の背に投げつけるように言った。
「許したわけじゃねえからな」
「分かってる」鬼塚は振り返らずに答えた。
団地の外階段を下りながら、真壁は聞いた。
「いまの話、本当か」
「本当だ」
「なんで知ってる。三十年前の話だぞ」
鬼塚は口元の血を手の甲で拭った。血はもう乾きかけていた。彼は初めて、階段の途中で真壁の目を見た。
「俺は、壊した人生のその後を、ずっと追ってきた。誰にも言わずにな」
その言葉の重さを、真壁はまだ量りきれなかった。ただ、帰りの車のハンドルを握りながら、一つのことだけが頭の隅にこびりついていた。
殴られる間、鬼塚は一言も、自分を庇わなかった。




