プロローグ
死の匂いというものがあるとすれば、それは消毒液の下に隠れている。
真壁悠人はそう思っている。個室のドアを開けた瞬間、アルコールの匂いの奥に、もっと湿った、もっと生々しい何かが澱んでいる。それが死の匂いだ。
鬼塚誠司は骨になりかけていた。
点滴の管が三本、萎びた左腕に刺さっている。皮膚の下で血管が青黒く這い、指先は土気色に変わっている。三十年前、名前を出すだけで組長クラスの男たちが背筋を伸ばしたという「調整屋」の成れの果てが、これだった。ベッドの柵を握る力すらない。
「余命は、もって半年です」
そう告げられたとき、鬼塚は笑ったらしい。看護師がそう漏らした。恐怖ではない。諦めでもない。長年待たされていた迎えの車が、ようやく来たとでもいうような、薄気味悪いほど静かな笑いだったという。
真壁が呼び出されたのは、その三日後だ。
「お前の親父を殺した男が、会いたいと言っている」
電話をよこした組関係の弁護士は、それだけ言って切った。用件も、金額も、後だ。真壁に迷いはなかった。迷う理由がない。三十年前、十七で失った父親の背中を、真壁はいまでも覚えている。最後の当直に出る朝、玄関で靴紐を結び直していた、あの丸まった背中を。
病室のドアを開けると、鬼塚は窓の外を見ていた。北向きの、何も映らない窓だ。
「来たか」
振り返った顔は、写真で知る三十年前の面影を、かろうじて留めている程度だった。頬は削げ落ち、目だけが場違いに鋭い光を放っている。獣の目だ、と真壁は思った。死にかけた獣の目。
「用件を言え」座らず、ドアの前に立ったまま言った。「詫びなら聞かない。俺はあんたを許しに来たんじゃない」
「知ってる」鬼塚は静かに言った。「謝りに来いとは言ってない」
「じゃあ何だ」
鬼塚は天井を睨んだ。長い沈黙のあと、掠れた声が出た。
「死ぬ前に、七人に会わせてくれ」
「は?」
「俺のせいで人生を潰された連中が、七人いる。順に会いに行く。案内しろ」
真壁は鼻で笑った。「調査員を何だと思ってる。ジジイの懺悔ツアーに付き合う趣味はねえよ」
「七人回りきったら」鬼塚は目を逸らさなかった。「お前の親父が死んだ事件の、本当のことを話す」
空気が変わった。喉元に刃を突きつけられたような感覚があった。
三十年間、喉から手が出るほど欲しかった言葉が、いま、死にかけた男の口からこぼれ落ちようとしている。
「……本当のこと、だと?」
「ああ」鬼塚の目は微動だにしなかった。「調書に書いてあることとは違う」
窓の外で風が何かを叩く音がした。真壁には、それが自分の中で何かが軋む音に聞こえた。
「七人でいいんだな」
「七人だ。多くも少なくもない。ちょうどその数だけ、俺は取り返しのつかないことをやった」
真壁は舌打ちして、椅子を引いた。座る。
「一人目は」
鬼塚の口の端が、初めてわずかに歪んだ。笑いとも呼べない、ただの歪みだった。
「元刑事だ。坂本清一」




