三年分の言葉 — ヴァルネス・魔王城、研究塔 —
研究塔の扉は、重かった。
魔将が無言で扉を開け、一歩引いた。リンは中を見た。
羊皮紙の山。積み上げられた書物。三本の空のインク瓶。窓から差し込む薄い光。その中心に、机から立ち上がった少年がいた。
少年——ではない。十九になっている。背が伸びた。肩が広くなった。だが顔は変わっていない。丸みのある目と、何かを見つけたときだけ輝く瞳。
カイ・クロウは、姉を見た瞬間、声が出なかった。
◆ ◆ ◆
最初に口を開いたのは、カイだった。
「……姉さん」
たった二文字だった。だがその二文字に、三年分の何かが詰まっていた。
リンは部屋に入った。パーティーは廊下で待っている。魔将も扉の外に退いた。二人きりになった。
リンはカイの前に立ち、頭のてっぺんから足の先まで見た。傷はない。顔色は悪くない。目が生きている。
それだけ確認して、リンはカイの頭を一度、強く叩いた。
「痛っ」
「心配しないで、じゃない」
「……ごめんなさい」
「三年だ」
「……ごめんなさい」
カイはもう一度言った。今度は少し、声が揺れた。
リンは何も言わなかった。叩いた手を、そのままカイの頭に置いた。押しつけるのでも撫でるのでもなく、ただ乗せた。
カイが小さく息を吐いた。三年分の何かが、その吐息に混じっていた。
◆ ◆ ◆
しばらくして、二人は床に座って話した。椅子は書類で埋まっていたから。
「闇魔法、宿ってるんだね」カイが言った。「左手の傷跡、見えてる」
「魔将にやられた」
「……わかってた。ごめん」
「謝るな。使えるようになった」
「ゴルドさんの環、すごい精度だ。誰が——ああ、ドワーフの工匠魔法士か。なるほど」
カイはリンの左手をじっと見た。研究者の目だ。三年前からそういう目をするようになっていたが、今はさらに深くなっている。
「封印修復の術式、俺が設計してる」カイは言った。「もう少しで完成する。だけど起動には——」
「光と闇の使い手が必要だ。シルヴァニアで読んだ」
「うん。それに加えて、俺の術式には『二人の使い手が互いの力を認めた上で選択する』という条件がある。強制では起動しない」
「アレンと私が、互いに認めて選ぶ、ということか」
「そう。光の勇者と、闇の使い手が——対等な立場で。どちらかが上でも下でもなく」
リンは少し考えた。
「アレンは……たぶん、できる」
「姉さんは?」
「私は」リンは左手を見た。「まだわからない」
「わからない、って言えるようになったんだね」
「……何が言いたい」
「昔の姉さんは、わからないって言わなかった。いつも『できる』か『しない』かだったから」
リンは返す言葉を探し、見つからなかった。カイは少し笑った。三年前と同じ笑顔だった。
◆ ◆ ◆
廊下に出ると、パーティーが待っていた。
カイはリンの隣に立ち、全員を見回した。緊張しているのが顔に出ている——昔から、カイは感情が顔に出る。リンとは正反対だ。
「えっと……リン姉さんのパーティーの皆さん、ですよね。カイ・クロウです。お世話になってます、というか、姉がお世話になってます」
テオが「は、はい」と敬礼した。ゴルドが「環をよく使ってくれてる」と言った。エルが静かに頷いた。アレンが一歩前に出た。
「アレン・ソレイユ。勇者パーティーの……と言うべきか、今は一個人として聞く。あなたが三年間ここでやってきたことを、話してもらえますか」
カイはアレンをしばらく見た。それから頷いた。
「全部話します。魔王陛下のことも含めて。その上で、判断してほしい」
◆ ◆ ◆
カイが話し終えたとき、廊下は静かだった。
魔王の真の目的——封印の解体と作り直し。腐食した術式の自壊まで十年以内。五大陸全ての意志による新しい均衡。
アレンは腕を組んだまま、長い沈黙の後に口を開いた。
「……信じたい、とは思う。だが」
「信じられない部分がある、と言ってください」カイが言った。「そっちの方が正直だ」
「……グラウン連邦での工作員は何だ。傭兵団を潰し合わせようとした。魔王の意図と矛盾する」
カイは少し黙った。
「それは陛下の指示ではないと思います。城の中に、陛下の方針に反対する派閥がいる。封印を作り直すことに賛成しない、旧来の征服路線を望む者たちが。工作員は彼らが動かした可能性が高い」
「魔王の城の中に、魔王に従わない者がいる、ということか」アレンが言った。
「はい。それが今、最も危険な問題です」カイは羊皮紙の束を持ち直した。「封印を作り直す前に、その派閥が動けば——術式を破壊される可能性がある」
全員が顔を見合わせた。
シアが言った。
「つまり、敵は二重構造になっている。魔王と戦うのではなく、魔王の内部の反乱派と戦いながら、封印を修復する——そういうことか」
「……そうなります」
「ますます面倒になった」シアは息を吐いた。「でも——」少し間を置いた。「あなたの話は、筋が通っている」
カイは少し目を丸くした。シアの声のトーンが予想より柔らかかったのだろう。
◆ ◆ ◆
その夜、魔王城の一角に部屋が用意された。
パーティーが各自の部屋に引いたあと、リンは廊下に残った。カイも残っていた。
二人で並んで、窓の外を見た。ヴァルネスの夜は暗い。だが星は出ている。
「怖くなかったか」リンは聞いた。「三年間、一人で」
「怖かった。最初の半年は毎晩怖かった」カイは正直に言った。「でも、術式を解いてると忘れる。あと——魔王陛下と話してると、不思議と怖くなかった」
「あの男のどこが怖くないんだ」
「孤独な人だから」
リンは少し黙った。
「……孤独?」
「何百年も生きて、何かを失って、それでもまだ諦めてない人の目をしてる。俺にはそう見えた」カイは星を見上げた。「姉さんと、少し似てると思った」
「私と魔王が似ているとは思いたくない」
「でも姉さんも、孤独で、何かを失って、諦めてないでしょ」
リンは答えなかった。
カイはそれ以上言わなかった。二人でしばらく、星を見た。
ガルダの路地で、二人でよく夜空を見上げた。あのころカイはいつも「星の数を数えると眠くなる」と言って先に寝た。今も数えているのかもしれない、と思ったら、リンの胸の奥が少し緩んだ。
「明日、魔王に会う」リンは言った。
「うん」
「その前に一つ聞く。カイ、お前はこの三年間——後悔しているか」
カイは少し考えた。本当に考えていた。
「姉さんに黙って来たことは、後悔してる。でも——来たこと自体は、後悔してない」カイは静かに言った。「ここで作ってるものが、本当に五大陸を変えられるなら。それだけの三年だったと思う」
リンはカイを見た。
十六で一人で魔王に会いに行って、三年間術式を作り続けて、それでも後悔していないと言う弟。馬鹿だとは思う。だが——その馬鹿さが、何かを動かしてきたのもわかる。
「お前は昔から、正しいことをしようとしすぎる」
「姉さんは昔から、正しいことをしてるくせに認めなさすぎる」
リンは少し、口元が動いた。笑ったわけではない。だが動いた。
カイはそれを見て、満足そうに目を細めた。
「おやすみ、姉さん。明日、一緒に魔王に会おう」
「……ああ」
カイが部屋に戻った。廊下に一人残ったリンは、もう一度窓の外を見た。
星が、少し多く見えた。気のせいかもしれない。だがヴァルネスの空が、今夜だけ少し軽い気がした。
左手の傷跡は疼かなかった。




