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笑っている理由 — ヴァルネス・魔王城、研究塔 —

カイ・クロウは今日も、魔王城の研究塔で羊皮紙に向かっていた。


机の上には術式の草稿が山積みになっている。インク瓶が三本空になっている。窓から差し込む光は薄い——ヴァルネスの昼間はいつもそうだ——が、それにも三年で慣れた。慣れたくはなかったが、体というのは正直だ。


十九歳になった。誰も祝わなかった。自分でも忘れていた。


ふと、羊皮紙から目を上げると、窓の外の空がいつもより少し明るい気がした。


——姉さん。


根拠はない。ただ、胸の奥が少し騒いだ。


◆ ◆ ◆


— 三年前 —


カイがヴァルネスへ向かったのは、衝動ではなかった。


計算だった。十六歳の、青くて甘い計算だったが、それでも計算だった。


魔法師のもとで学びながら、カイは〈闇の法典〉の封印構造を独自に研究していた。きっかけは師匠の古い蔵書に混じっていた一枚の写本だ。そこには封印の術式が断片的に記されており、カイはそれを三年かけて読み解いた。


わかったのは、封印が「防衛装置」ではないということだった。


〈闇の法典〉の封印は、もともと帝国時代に作られた「停戦協定の魔法的担保」だ。光と闇が均衡を保つことで五大陸の均衡が保たれる——その理念を術式に変換したもの。魔王がそれを解こうとしているのは、征服のためではなく、均衡そのものを「自分の手で作り直したい」からではないかとカイは考えた。


確かめたかった。


だから会いに行った。一人で。姉には手紙一本だけ残して。


「姉さん、少し調べたいことがある。心配しないで」


今思えば、最低の手紙だ。


◆ ◆ ◆


— 三年前、ヴァルネス・謁見の間 —


魔王ヴァルドレスは、カイが想像していたよりずっと若い顔をしていた。


三十代に見える。目は黒く、深く、表情がほとんどない。玉座に座ったまま、少年一人が謁見の間に入ってきたことを、驚いた様子もなく見ていた。


「カイ・クロウ。よく来た」


「……知っていたんですか、私が来ることを」


「お前が法典の写本を読んでいることは、三年前から知っていた」


カイは立ち止まった。三年前——カイが写本を見つけた時期と一致する。


「盗ませたんですか、その写本を」


「誘導した。読める者に読ませる必要があった」


「……なぜ私に」


「お前には光と闇の双方を読む目がある。魔法属性は水と風だが、術式の読解力は光闇どちらにも偏らない。稀な資質だ」


カイは魔王を見た。恐怖はあった。だが好奇心の方が少し上回っていた——昔から、それが問題だと姉に言われてきた。


「一つ聞いていいですか」カイは言った。「封印を解くのは、五大陸を征服するためですか」


魔王は少し間を置いた。


「違う」


「では——」


「三百年前の封印は、帝国が作った。帝国の均衡のために。だがその帝国はもうない。均衡も崩れている。古い契約の上に五大陸が立ち続けることは、やがて全ての崩壊を招く。私は作り直したい——五大陸全ての意志が込められた、新しい均衡を」


カイは魔王の目を見た。嘘ではない、と感じた。だが全部でもない。


「それが本当なら、なぜ封印を解くんですか。作り直すなら、今の封印を維持しながら新しいものを——」


「今の封印は、もう限界だ。三百年の経年で術式が腐食している。今すぐ手を打たなければ、十年以内に自壊する。自壊すれば、五大陸は制御不能の闇魔法に飲まれる。封印を修復する前に、まず腐食した部分を解体する必要がある」


カイは息を吐いた。


それが本当なら——勇者パーティーが「魔王が封印を解いている」と恐れているのは、半分だけ正しい。解いているのではなく、解体してから作り直そうとしている。そして「作り直す」には、カイのような術式読解者と、光と闇の双方を扱える使い手が必要だ。


「……取引をしたい」カイは言った。「術式の設計を手伝います。その代わり、新しい封印が完成したあと、五大陸の代表者全員が合意できる形にしてほしい。魔王一人の意志ではなく、全大陸の選択として封印を結び直してほしい」


魔王はカイをしばらく見た。それから、初めて表情が動いた。微かに、ほんの少し——目の奥が、動いた。


「……面白い子供だ」


「子供って言わないでください。十六です」


「十六は子供だ」


取引は、成立した。


◆ ◆ ◆


— 現在 —


三年が経った。


カイは術式の設計を続けた。魔王は約束を守り、カイを拘束しなかった。城の中は自由に動けた。ただし城の外には出られない——魔将が常に気配を張っている。


魔王との会話は、週に一度ほどあった。術式の進捗報告という名目だが、次第に議論になっていった。五大陸の歴史、封印の構造、魔法の本質——魔王はカイの問いに、ほとんど全て答えた。答えないのは「自分の過去」だけだった。


ある夜、カイは聞いた。


「陛下はなぜ、帝国分裂のあとに魔王になったんですか。何百年も生きているんでしょう。その間ずっと、五大陸の均衡が崩れるのを見ていたんですか」


魔王は珍しく、少し間を置いてから答えた。


「見ていた。介入する力を持ちながら、見ていた。それが正しいと思っていたから」


「今は違うんですか」


「今は、手を動かす時だと思っている」


「何が変わったんですか」


魔王は答えなかった。だがカイは、魔王の目が一瞬だけ遠くを見たのを見た。


何かを、失ったことがある人の目だ——と、十九歳のカイは思った。


◆ ◆ ◆


術式の設計は、もう少しで完成する。


あとは「光と闇の双方を扱える使い手」が必要だ。カイが設計した新しい封印は、二人の意志の合一によって起動する。一人では不可能だ。


その使い手が誰かを、カイはずっと考えていた。魔将に聞いても教えてもらえなかった。魔王は「来る」とだけ言っていた。


今朝から、城の気配が少し変わっている。魔将が珍しく城の外に出た。衛兵の動きが変わった。


そして——窓の外の空が、心なしか明るい。


カイは羊皮紙を置いた。立ち上がり、窓に近づく。ヴァルネスの重い空気の向こう、南の方角を見た。


——姉さん、来てるんじゃないかな。


根拠はない。ただ、三年間の勘だ。


リンは必ず来る、とカイはずっと思っていた。心配しないでと書いたくせに、来ると思っていた。来てほしかった。それが正直なところだ。


もし姉が闇魔法を持っていたなら——魔将があの夜、姉を殺さずに傷だけつけて帰したなら——それは偶然ではないかもしれない。


カイはそこまで考えて、少し笑った。


魔王が自分を三年間生かして研究させ、姉に闇を宿らせ、勇者パーティーを動かして——全部が一つの線の上にあるとしたら。


それはひどく長い、ひどく遠回りな話だ。


でも、三百年かけて均衡が崩れたなら、それを直すのにも、同じくらいの手間がかかるのかもしれない。


「カイ・クロウ」


扉の外から魔将の声がした。


「客が来た。会うか」


カイは振り返った。胸が、三年で初めて、早く打った。


「……はい」


声が、少し上ずった。十九歳にもなって、と思いながら、それでもカイは扉に向かって歩いた。


羊皮紙の山が、窓から差し込む光の中に残った。三年分の術式が、静かに積まれていた。

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