三百年の重さ — ヴァルネス・魔王城、最上階の間 —
ヴァルドレスは夜明け前に目を覚ます。
眠れないのではない。眠る必要が薄いのだ。三百年以上生きると、体が休息を要求する時間が短くなる。その分、思考する時間が長くなる。それが恩寵なのか罰なのかは、今もわからない。
最上階の窓から、ヴァルネスの夜明けを見る。光が薄い。いつもそうだ。闇属性の魔力が大気に溶け込んでいる限り、この国の夜明けは他の大陸より遅れてやってくる。ヴァルドレスはそれを三百年、見てきた。
昨夜、リン・クロウとカイ・クロウが再会した。魔将からの報告で知っている。廊下で二人が星を見ていたことも。カイが笑ったことも。リンの口元が動いたことも。
ヴァルドレスは報告を聞きながら、ただ窓の外を見ていた。
◆ ◆ ◆
— 三百二十年前、帝国末期 —
ヴァルドレスが初めて〈闇の法典〉に触れたのは、帝国がまだ一つだったころだ。
当時のヴァルドレスは、帝国の魔法研究院に属する一人の術師だった。魔王でも何でもない。ただ術式を愛し、法典の構造に魅せられた若い男だった。年齢は、見た目で言えば今と変わらない三十代。だが実際には当時すでに百年近く生きていた——生まれつき、時の流れが遅い体質だった。
研究院に、一人の女がいた。
名をセラという。光属性の術師で、法典の光の部分を専門に研究していた。ヴァルドレスが闇を読み、セラが光を読む。二人の研究は互いを補完し、法典の全体像を初めて解明できた。
それだけの関係が、いつから変わったのか——ヴァルドレスは今も正確には言えない。気がついたら、セラのいない部屋が空虚に感じられるようになっていた。
「ヴァルドレス、あなたは闇の中に光を探している。気づいてる?」
セラはよくそう言った。ヴァルドレスにはその意味がよくわからなかった。闇の術式を読むことと、光を探すことは違う——そう思っていた。今ならわかる。セラが言っていたのは術式の話ではなかった。
◆ ◆ ◆
— 三百年前、帝国崩壊の年 —
帝国は内側から崩れた。
皇帝の後継争いが各地の貴族を巻き込み、魔法使いたちが陣営に分かれ、五年間の内戦の末に帝国は五つに割れた。〈闇の法典〉の封印はその混乱の中で急造された——五大陸の均衡を保つための、不完全な応急処置として。
セラはその封印を作った一人だ。光と闇の均衡を保つ術式の中核を、セラが設計した。そしてその起動のために、セラは自分の魔力の全てを注いだ。
一度きりの、消耗しきった魔力の放出。
術師がそれをすれば、どうなるか——ヴァルドレスは知っていた。止めようとした。間に合わなかった。
「封印が完成すれば、五大陸は争わなくなる。それで十分よ」
セラは最後にそう言った。笑っていた。光属性の使い手が全力を使い果たすとき、体が光に変わる——研究院でそう学んだ。だから最後は痛くないとも、セラは言った。
ヴァルドレスは、それを確かめる気になれなかった。
封印が完成したあと、セラはいなかった。光だけが残った。それもすぐに消えた。
◆ ◆ ◆
— 現在 —
夜明けが来た。
ヴァルドレスは窓から離れ、机に向かった。カイの術式の最新草稿が置いてある。毎朝、これを読む。三年間、毎朝。
カイが設計した新しい封印の核心は、セラが作った旧封印の理念を継承しながら、一点だけ変えていた。旧封印は「一人の術師の犠牲」によって起動した。新しい封印は「複数の意志の合一」によって起動する。誰も消えない設計だ。
十六歳の少年が、三百年前の過ちを直そうとしている。
ヴァルドレスがカイを城に招いた理由は、それだ。術式の才能だけではない。カイには、犠牲を前提にしない発想があった。
「陛下」
魔将が扉の外から声をかけた。
「リン・クロウが謁見を求めています。カイ・クロウと、勇者アレン・ソレイユも同席で」
「通せ」
「……城内の反乱派が昨夜から動いています。術式保管室への接触を試みた痕跡があります」
ヴァルドレスは少し目を細めた。
「想定の範囲内だ。カイの草稿の複製は別の場所に移してある」
「対処は」
「今日の謁見が終わってから。今は客を通すことが先だ」
魔将が一礼して下がった。
ヴァルドレスは草稿を机に置き、玉座に向かった。歩きながら、今日初めて会うリン・クロウのことを考えた。
三年前、魔将に命じた。「傷をつけて帰せ。殺すな」と。闇魔法を宿らせるための傷——それはセラの設計した旧封印の構造から逆算した判断だった。光の使い手は既にいる。闇の使い手を作るには、ヴァルネスの魔力に深く触れさせる必要があった。
だが、それだけではなかった。
廃村カルサの夜、魔将からの報告を聞いたとき——「傷を受けながら、カイを連れ戻すと言った」という言葉を聞いたとき——ヴァルドレスは何か、久しく感じていなかったものを感じた。
諦めない者の気配だ。
セラも、そういう人間だった。
◆ ◆ ◆
謁見の間に、三人が入ってきた。
リン・クロウ——大剣を背に、左手に金属の環。目が鋭い。恐れていない。ただ、測っている。カイが「姉さんはいつも相手を三秒で値踏みする」と言っていた。今まさにそうしているのだろう。
カイ・クロウ——羊皮紙の束を抱えている。緊張しているが隠せていない。三年間ともに過ごした顔だ。ヴァルドレスには、カイが今何を考えているか大体わかる。
アレン・ソレイユ——光の聖剣を腰に。若い。だが目に迷いがない。勇者とはこういう顔をするのか、とヴァルドレスは思った。三百年前にも勇者と呼ばれた者たちがいた。みな違う顔をしていた。
三人が玉座の前に立った。
ヴァルドレスは、最初にリンを見た。
「リン・クロウ。三年ぶりだ」
「あなたとは初めてだ。三年前に会ったのは魔将だ」
「そうだな。だがお前のことは三年前から知っている」
「知っていて、あの夜のことをさせた」
「そうだ」
リンは一拍置いた。
「謝罪を求めに来たわけではない。ただ聞く——闇を宿らせたのは封印のためだけか」
「封印のため、という答えは正しい。だがそれだけではない」
「残りを言え」
ヴァルドレスは少し間を置いた。三百年間、自分の内側を言葉にする習慣がなかった。だがカイが三年間、問い続けた。その訓練が、今少し役に立った。
「諦めない者に、諦めない力を渡したかった」
謁見の間が静かになった。
リンはヴァルドレスを見た。測っている。三秒より少し長く。
「……カイが言っていた。あなたは何かを失った目をしていると」
「子供はよく見る」
「失ったのは何だ」
ヴァルドレスは答えなかった。答えるつもりはなかった。
だが——カイが隣で小さく息を吸うのが聞こえた。カイはこの答えを、三年間ずっと聞けずにいた。ヴァルドレスは知っている。
リンが聞いたから、今日初めて聞けた。
ヴァルドレスは窓の外を見た。夜明けの光が、今日は少し早い。
「三百年前に、封印を作った者がいた。光の術師だ。封印の起動のために、自分の全てを使った。……私は止められなかった」
沈黙。
「だから作り直す」ヴァルドレスは続けた。「誰も消えない封印を。セラが望んだ均衡を、今度は誰も失わずに実現する——それだけだ」
アレンが口を開いた。声が、静かだった。
「……三百年間、そのために生きてきたんですか」
「生きてきた、というより——それ以外に生き続ける理由がなかった」
カイがぎゅっと羊皮紙の束を抱き直した。
リンは何も言わなかった。だが左手の環に、そっと右手を重ねた——三年前の廃村の夜、傷跡に手を重ねたように。
ヴァルドレスはそれを見た。
見て、初めて少し、玉座の背もたれに体重を預けた。三百年間、ずっと前のめりに座っていた玉座で。
◆ ◆ ◆
謁見が終わったあと、ヴァルドレスは一人で最上階に戻った。
机の上の草稿を見た。カイの三年分の術式。セラの旧封印の理念を継ぎながら、誰も消えない設計で作られた新しい均衡。
あとは〈灰の玉座〉で起動させるだけだ。
だが城内の反乱派が動いている。術式を守りながら、玉座まで辿り着く必要がある。一筋縄ではいかない。
ヴァルドレスは窓の外を見た。今日の空は、三百年の中でも珍しいくらい明るかった。
——セラ。もう少しだ。
声には出さなかった。三百年間、一度も声に出したことはない。
だが今日だけは、その言葉が胸の奥から浮かんだ。抑えなかった。
窓の外で、ヴァルネスの朝が、いつもより少し明るく広がっていた。




