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三年前の夜 — ヴァルネス国境・廃村カルサ、冬 —

雪が降っていた。


ヴァルネス国境の冬は、他の大陸とは種類が違う。冷たいのではなく、重い。闇属性の魔力が大気に溶け込んでいるせいで、雪の一粒一粒が光を吸うように降る。白いのに、明るくない雪だ。


リンは廃村カルサの外れで、崩れかけた石壁に背を預けていた。十四歳のときから剣を持って生きてきたが、あの夜ほど足が重かったことはなかった。理由は、探し物のためだ。


探し物の名前は——カイ。


リンの、唯一の弟だった。


◆ ◆ ◆


カイはリンより五つ年下で、生まれつき水と風の魔法を持っていた。穏やかで、笑い顔が多く、リンとは正反対の性質だった。ふたりは親を早くに失い、傭兵都市ガルダの路地で育った。リンが剣で食い扶持を稼ぎ、カイは魔法の才を買われて各地の魔法師に師事した。


三年前の秋、カイからの便りが途絶えた。最後の手紙はヴァルネスの国境近くから出されていた。内容は短く、ただ——


「姉さん、少し調べたいことがある。心配しないで」


心配しないで、という言葉を書く人間は、だいたい心配させることをしている。リンはすぐに動いた。ガルダの仕事を全て断り、カイの足跡を追って北へ向かった。二ヶ月かけてたどり着いたのが、廃村カルサだった。


村人はいない。建物は半壊している。だが地面に残る痕跡が、複数の人間が最近ここを使っていたことを示していた。その中に、カイが師事していた魔法師の印章を持つ荷物の残骸があった。


カイはここにいた。そして今はいない。


◆ ◆ ◆


夜半、気配を感じてリンは剣を抜いた。


雪の中から現れたのは、一人の男だった。黒い鎧、顔の半分を覆う仮面——ヴァルネスの魔将だ。リンはそれを一目で判断した。魔王直属の将、五大陸でも最上位の戦闘力を持つ者たちだ。


男は剣を抜かなかった。ただ立って、リンを見た。


「リン・クロウ。カイ・クロウの姉か」


名を知っている。リンは剣先を向けたまま、足に力を入れた。


「カイはどこだ」


「魔王陛下の元にいる」


「連れてこい」


「それはできない。カイ・クロウは自らの意志でヴァルネスに来た。陛下の招聘に応じて」


リンの手が止まった。自らの意志で——その言葉が、雪よりも重くのしかかった。


「嘘をつくな」


「嘘はついていない。あの子は聡い。〈闇の法典〉の封印が解かれていることに気づいた。そして封印の真の構造——光と闇の双方が必要だという事実も。陛下に会いに来たのは、取引のためだ」


「取引」


「カイ・クロウは陛下に提案した。封印修復の術式を完成させる代わりに、五大陸の戦争を止めてほしいと。子供らしい理想論だが——陛下は興味を持った」


リンは黙った。カイならやりかねない、と思った。いつも正しいことをしようとする弟だ。戦争を止めたいと、子供のころから言っていた。


「カイに会わせろ」


「それは許可できない。だが——」魔将は少し間を置いた。「あなたには選択肢を提示する。ヴァルネスに来るな。カイは生きている。取引が成立すれば、いずれ解放する。それを信じて待て」


「信じられるか」


「信じられないなら、力尽くで来い。ただし、あなた一人では国境を越えられない」


リンは剣を握り直した。魔将の実力は、自分より上だとわかる。それでも——


動いた。


◆ ◆ ◆


戦いは、長くなかった。


リンの剣技は本物だった。傭兵都市で鍛え、流浪の中で磨いた刃は、魔将の防御を何度も削った。だが魔将の闇魔法は桁が違った。空間を歪め、影を刃に変え、リンの動きを先読みする。


十分の戦いで、リンは左手を斬られた。深い傷ではない。だが魔将の刃には濃密な闇魔法が宿っていた——その魔力がそのまま傷口から流れ込んできた。体が燃えるような感覚と、同時に凍えるような冷たさ。相反するものが同時に体の中を走った。


リンは膝をついた。


「……強い。人間でここまでやれる者は久しぶりだ」魔将は剣を下げた。「殺さない。だが今夜はここまでだ」


リンは立ち上がろうとした。足が言うことを聞かない。左手の傷から黒い靄が漏れ、雪の上に広がった。自分の体から出てきたものとは思えなかった。


「その闇は、もうあなたの一部だ」魔将が言った。「消えない。扱い方を覚えなければ、いずれ体を食う」


「……カイを」リンは言った。声がかすれた。「必ず連れ戻す」


「待て。それだけは伝える」魔将は踵を返す前に振り返った。「カイ・クロウは今、笑っている。それだけは本当のことだ」


雪の中に、魔将の姿が消えた。


リンは一人、廃村の石壁に倒れたまま、夜明けまでそこにいた。左手が痛んだ。体が熱かった。だが一番重かったのは——カイが自分の意志でいなくなったという事実だった。


さらわれたのではない。行ったのだ。戦争を止めるために、一人で魔王に会いに。


馬鹿な弟だ、とリンは思った。涙は出なかった。そういう造りの人間だから。だが左手を胸に当てて、石壁に額を押しつけた。


必ず迎えに行く。だから生きていろ、カイ。


◆ ◆ ◆


——現在。シルヴァニアの宿の夜。


リンは暗闇の中で目を開けた。左手の環が、微かに熱を持っていた。回想の中で感じた痛みが、まだ掌に残っている気がした。


傍らで仲間たちが眠っている。アレンは寝相が悪い。シアは毛布を頭まで被っている。ゴルドのいびきが低く響く。エルは木の枝の上で眠ると言って、外に出ていった。テオは当番で外を見回っている。


リンは天井を見た。


〈灰の玉座〉に向かえば、カイに近づく。封印の修復にカイが関わっているなら、ヴァルネスの奥深くに必ずいる。任務と、探し物が、同じ場所に収束しようとしている。


それが偶然なのか、誰かの意図なのかは、まだわからない。


ただ——パーティーにカイのことを話していないことを、リンは初めて少し、後ろめたく思った。仕事だから話す必要はない。流れ者には秘密がある。それは当たり前のことだ。


それでも。


アレンが「あなたは自分が思っているよりも、ずっと多くのものを守ろうとしている」と言った声が、耳の奥に残っていた。


リンは目を閉じた。答えは出なかった。だが左手の傷跡に、もう一方の手を重ねた。三年間、ずっとそうしてきたように。


——カイ、笑っているか。

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