銀の森の罪 — シルヴァニア・古都イシュラ —
シルヴァニアの国境は、看板も門もない。
ただ、ある一本の木を過ぎた瞬間から、空気が変わる。風の音が変わる。光の色が変わる。グラウン連邦の赤みがかった土の道が消え、足元に柔らかな苔が広がり、頭上に銀灰色の葉をつけた巨木が連なった。エルフの国に入ったのだと、言葉より先に体が知った。
エル・シーナは、国境を越えた瞬間から歩みが変わった。遅くなったのではない——一歩一歩が、土地に触れるような歩き方になった。まるで長い旅から帰ってきた者の足取りだ、とリンは思った。
「久しぶりか」リンが聞いた。
「三十年ぶりです」エルは前を向いたまま答えた。
三十年。人間なら一世代が過ぎる時間だ。エルフにとってはどれほどの長さなのか、リンには測れなかった。
◆ ◆ ◆
古都イシュラは、木の上にあった。
直径十メートルを超える巨木の幹と枝の間に、橋と通路と建物が組み込まれ、地上からは全貌が見えない。ヴェルクの喧騒とは別世界の、静かで満ちた場所だった。ただし、その静けさは穏やかさではなく、緊張の静けさだとリンはすぐに気づいた。
迎えに出たエルフの衛兵が、エルを見た瞬間に表情を変えた。驚き、それから何か複雑な感情——怒りとも悲しみともつかないもの——が顔を過ぎった。
「……イシュラへの帰還を」衛兵は言いかけて、止まった。「シーナ長老の孫娘が、なぜ今ここに」
「長老に会いに来た。パーティーの者たちを通してほしい」
「長老は——」衛兵はまた言葉を切った。「長老は、三年前から病の床にあります」
エルの足が、一瞬だけ止まった。
リンはそれを見た。シアも見た。どちらも何も言わなかった。
◆ ◆ ◆
長老の部屋は、最も高い枝の上にあった。
案内されたパーティーを、長老の側近が廊下で止めた。
「シーナ様お一人でお願いします。長老はお体が優れない」
エルはパーティーを振り返った。その瞳に、リンは初めてエルの迷いを見た。いつも静かで読めないエルフが、今は僅かに揺れていた。
「リン」エルが言った。「一緒に来てもらえますか」
リンは少し考え、頷いた。
◆ ◆ ◆
長老は、小さかった。
白銀の髪が寝台に広がり、顔の皺は深く、それでも眼だけが若い——エルフの老い方は人間と違う。眼が最後まで生きている。その眼が、扉を開けたエルを映した瞬間、長い息を吐いた。
「……イルナ」
エルは動かなかった。リンも動かなかった。
イルナ——それがエル・シーナの、本当の名前だ、とリンは直感した。
「お祖母様」エルはゆっくり寝台に近づき、長老の手を取った。「遅くなりました」
「三十年だよ、イルナ。三十年、待っていた」長老の声は弱いが、責めていなかった。ただ、事実として言っていた。「あの夜のことを、話せるか」
沈黙。
エルは目を閉じ、それから静かに話し始めた。
◆ ◆ ◆
三十年前、イルナ——エル・シーナはシルヴァニアの外交使節としてヴァルネスに派遣された。当時、魔王ヴァルドレスはまだ即位したばかりで、五大陸との和平交渉を求めていた。少なくとも、表向きは。
使節団の中に、裏切り者がいた。ヴァルネスに買収されたシルヴァニアの貴族が、〈闇の法典〉の封印の場所をヴァルドレスに伝えた。そしてその情報を持ち出すために使われたのが——イルナ自身が持ち出した「古地図」だった。
イルナは騙されたのか、それとも知っていたのか——長老はその問いを三十年間、胸に抱え続けていた。
「騙されていた」エルは言った。「でも、止められた。気づいたとき、地図はすでに渡っていた。だから私は使節団を離れ、一人で生きることを選んだ。償いのつもりで——でも何も償えていない」
長老はしばらく黙った。それからエルの手を、両手で包んだ。
「イルナ。お前が持ち出した地図が封印の危機を招いたかもしれない。だがお前が今ここにいることが、その答えだ。封印を修復しに行くのだろう」
「はい」
「ならばお前の三十年は、始まりだったことになる。終わりではなく」
エルは長老の手を額に当て、目を閉じた。長老も目を閉じた。
リンは扉のそばで、その場を見ていた。見てはいけない場面かもしれないと思いながら、目を逸らせなかった。
三十年分の罪と、三十年分の待ちわびた赦し——それがこれほど静かな形をしているとは、流れ者には知る機会がなかった。
◆ ◆ ◆
廊下に出ると、エルが言った。
「聞かせてしまいました。すみません」
「いい」
「……リンは、どう思いましたか。三十年前の私の判断を」
リンは少し考えた。正直に答えることにした。
「騙された者が罪を背負い続けるのは、理不尽だと思う。だがあなたがそれを選んだなら、それもあなたの道だ。他人が正しいとも間違いとも言えない」
「……あなたも何か、背負っているのですか」
リンは答えなかった。代わりに左手の環に目を落とした。
「誰でも一つや二つはある」
エルは小さく、本当に小さく笑った。リンがエルの笑顔を見たのは初めてだった。
◆ ◆ ◆
その夜、シルヴァニアの長老から一つの情報がパーティーにもたらされた。
側近が持ってきた古い羊皮紙——長老が三十年間保管していたものだ。そこには、〈闇の法典〉第七封印、最後の封印の正確な場所が記されていた。ヴァルネス深部、かつて帝国の首都があった廃都〈灰の玉座〉。
そしてもう一つ。封印を修復するためには、光と闇の属性だけでなく、使い手の「自らの意志による選択」が必要だという記述があった。術式の構造上、強制や命令では発動しない。封印に触れる者が、自らの意志で闇あるいは光を選ばなければならない。
「つまり」シアが羊皮紙を見ながら言った。「リンが自分の意志で闇を選ぶ必要がある」
「それが問題か」アレンが聞く。
「闇を選ぶことが何を意味するか、わからない。もしかしたら——」シアはリンを見た。「代償があるかもしれない」
全員の視線がリンに集まった。
リンは羊皮紙を見た。次にゴルドの嵌めた環を見た。次に、パーティーの顔を一人ずつ見た——アレン、シア、エル、ゴルド、テオ。
五日前には存在すら知らなかった者たちだ。
「行けばわかる」リンは言った。「それだけだ」
シアが何か言いかけた。やめた。アレンが頷いた。ゴルドが鼻を鳴らした。エルが静かに目を閉じた。テオが「はい」と小さく言った。
それで十分だった。
次の朝、パーティーはシルヴァニアを発つ。目的地は、五大陸の果て——〈灰の玉座〉。




