傭兵連邦の嵐 — グラウン連邦・交易都市ヴェルク —
霧峠を越えると、空気が変わった。
アルダ王国の大気は清潔で、光魔法の残滓がうっすらと漂っている。だがグラウン連邦に入った途端、火と鉄と汗の匂いが混じった濃い空気が鼻を突いた。リンにとっては、こちらの方が慣れた匂いだった。
傭兵の国グラウン連邦——正確には、一つの国ではない。十七の都市国家が緩やかな盟約で結びついた連合体で、その実態は各都市を仕切る傭兵団の勢力争いだ。法律より剣が優先され、金さえ払えば何でも買える。リンはこの国で三年間を過ごした。
「この先の交易都市ヴェルクで補給をします」とテオが地図を指しながら言った。「ただ——現在、ヴェルクでは傭兵団同士の抗争が起きています。通過には注意が必要です」
「どの団だ」リンは聞いた。
「〈赤牙団〉と〈鉄仮面団〉です。ご存知ですか」
リンは少し黙った。
「知っている」
◆ ◆ ◆
ヴェルクの城門は開いていたが、門番が二人、槍を交差させてパーティーを止めた。
「よそ者か。今は物騒だ、素性を言え」
テオが口を開こうとした瞬間、リンが一歩前に出た。
「流れ者のリン・クロウだ。北へ抜けるだけだ」
門番の一人が目を細めた。もう一人が槍を引いた。
「……〈闇斬り〉のリン・クロウか。通れ。ただし、団の抗争には首を突っ込むな」
城門をくぐりながら、シアがリンの隣に並んだ。
「〈闇斬り〉という名が通用するのか、この国では」
「三年いた。それだけだ」
「……それだけでああいう顔をされるの?」
リンは答えなかった。シアは追及しなかった。それが今のふたりの距離感だった。
◆ ◆ ◆
ヴェルクの中心街は、半分が封鎖されていた。
赤牙団の旗を掲げた建物と、鉄仮面団の旗を掲げた建物が、広場を挟んで睨み合っている。住民は窓の鎧戸を閉め、表通りから人が消えていた。
補給のために立ち寄った雑貨屋の主人は、白髪の老婆で、パーティーを見るなりため息をついた。
「旅人か。運が悪い。抗争はもう五日続いてる。始まりは赤牙団の頭目が殺されたことだよ——昨夜、何者かに」
「犯人は」とアレンが聞く。
「わからない。だから両団が互いに疑って、街が割れた。このままじゃ全面衝突だ。子供も老人も逃げられない人間が何百人も取り残されてる」
老婆が言い終わる前に、外で怒声が上がった。続けて金属音、そして悲鳴。
リンは扉を開けた。広場に人影が溢れ始めていた。赤牙団の傭兵が十数人、鉄仮面団の詰め所に向かって突進している。全面衝突の始まりだ。
「介入するか」テオが言った。
「任務外だ」リンは言った。
「でも民間人が——」アレンが言いかけた。
「わかっている」
リンはすでに大剣を抜いていた。
◆ ◆ ◆
広場に飛び込んで最初にしたのは、斬ることではなかった。
リンは赤牙団の先頭を走る男の剣を大剣の平で弾き、その勢いで男を転倒させた。続けて鉄仮面団側の先頭にも同じことをする。両陣営が一瞬、足を止めた。
「止まれ」
声は大きくなかった。それでも広場に響いた。何かを持つ者の声だ——怒りでも権威でもなく、ただ「止まる理由」を持っている者の声。
アレンが光魔法で広場全体を照らし、シアが両陣営の後方に火柱を二本立てた。退路を塞ぐ形だ。エルが高所から矢を一本放ち、広場の中心の石畳に突き立てる。誰も傷つけない、しかし確実に「次は当てる」という意思表示。ゴルドが地面を震わせ、双方の足元に亀裂を走らせた。
傭兵たちが動きを止めた。
「赤牙団の頭目を殺したのは、鉄仮面団ではない」
リンが言うと、両陣営がざわめいた。
「根拠は」赤牙団の副頭目らしき男が怒鳴った。
「昨夜の殺しの手口だ。傷口は一太刀、深さが一定で迷いがない。傭兵の刃じゃない——訓練された暗殺者の仕事だ。しかも刃に闇魔法の残滓がある。これは第三勢力の仕業だ」
広場が静まり返った。リンは続ける。
「あなたたちを潰し合わせたい者がいる。誰が得をするか考えろ。このまま衝突すれば、両団とも弱体化する。漁夫の利を得るのは誰だ」
赤牙団の男が鉄仮面団の男を見た。鉄仮面団の男が赤牙団の男を見た。どちらも、怒りよりも困惑の色が勝ってきていた。
「……どうやって確かめる」鉄仮面団の幹部が言った。
「頭目の遺体を見せろ。一時間で答えを出す」
◆ ◆ ◆
遺体の傷を確認したのはリンとゴルドだった。ゴルドが工匠魔法で傷口の金属痕を解析し、リンが闇魔法の残滓の性質を読んだ。
「ヴァルネスの刃だ」ゴルドが低く言った。「金属組成が違う。北の合金だ」
「魔将の手の者か」リンは傷口に指を近づけた。闇の気配が左手の環に触れ、微かに共鳴した。「……いや、違う。これは魔将よりも純度が低い。手下だ。偵察か工作要員か」
アレンが腕を組んで考えた。
「ヴァルネスがグラウン連邦の内部抗争を仕掛けた。封印修復に向かう我々の通路を塞ぐために」
「または、傭兵連邦そのものを弱体化させることが目的かもしれない」エルが言った。「五大陸の中で最も大きな軍事力を持つのはグラウンだ。魔王にとって最大の障害」
リンは遺体から離れ、窓の外を見た。広場ではまだ両団の傭兵が向き合っている。
——これが「革命」の種だ、と思った。外から火をつけ、内側から崩す。五大陸を統一する力がないなら、割り続ければいい。それが魔王の戦略なら、封印よりも先にこの構造そのものが問題だ。
◆ ◆ ◆
一時間後、リンは両陣営の前に立った。
証拠を示した。ゴルドが金属分析の結果を、リンが闇魔法の残滓の性質を説明した。テオがアルダ王国騎士団の紋章を出し、証言に権威を添えた。
赤牙団の副頭目は長い沈黙の後、剣を鞘に収めた。鉄仮面団の幹部もそれに続いた。
「……わかった。信じよう」赤牙団の男が言った。「だが、黒幕をどうする」
「追う。北へ向かう我々が引き受ける」リンは言った。「その代わり、ヴェルクの通行と補給の便宜を頼む」
男は少し考え、頷いた。
◆ ◆ ◆
夜、ヴェルクの宿に落ち着いてから、アレンがリンに言った。
「あの広場での判断——任務外でも動いたのは、民間人のためか」
「子供が逃げ遅れていた。老婆が扉を閉めていた。それだけだ」
「それだけ、か」
アレンは少し笑った。初めてリンの前で見せる笑顔だった。
「あなたは自分が思っているよりも、ずっと多くのものを守ろうとしている。そう見える」
リンは答えなかった。否定もしなかった。
窓の外で夜風が吹き、宿の看板が揺れた。北の空に、また薄い霞が出ていた。
次の目的地は決まった——ヴァルネスへの中継地点、シルヴァニア。エルフの国だ。




