表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
3/16

国境の霧 — アルダ王国北街道〜グラウン連邦国境・霧峠 —

出発は夜明け前だった。


テオが地図を広げ、北への経路を説明した。アルダ王国の北街道を抜け、グラウン連邦との国境にある霧峠を越えれば、そこからヴァルネスまでは一本道だ。問題は、霧峠がここ数週間、通行不能になっていることだった。


「不能の理由は」とリンは言った。


「魔物の異常発生です。種類はまだ特定できていない。ただ——現地の報告によれば、霧の中から現れるとのことで」テオは少し声を落とした。「闇魔法の気配があると」


シアがリンを見た。リンは地図を見たまま答えなかった。


◆ ◆ ◆


街道を三日歩いたころ、霧が出始めた。


最初は朝露のような薄い霞だった。それが午後には視界を五十歩まで縮め、夕刻には二十歩先も見えなくなった。白ではなく、わずかに青みがかった霧——リンの左手の傷跡が、ずっと前からじくじくと痛んでいた。


「魔法的な霧だ」エルが静かに言った。「風属性で払おうとしたが、払えない。根が深い」


「土の感覚がおかしい」ゴルドが足元を踏みしめながら眉を寄せた。「地脈が歪んでいる。誰かが意図的に術式を組んだ痕だ」


「魔王の手の者が先回りした、ということか」アレンは剣の柄に手をかけた。


答える者はいなかった。霧の中で、何かが動く気配がした。


リンは大剣を抜いた。音もなく、静かに。


◆ ◆ ◆


最初の一体が霧の中から現れたのは、その直後だった。


形は人に似ているが、肌が深い紫に変色し、目の部分だけが白く光っている。闇魔法で肉体を改造された人間——いや、元人間だ。リンはそれを一目で判断した。ヴァルネス国境で何度か見た。魔王の実験体。


「距離を取れ」リンはパーティーに向けて低く言い、同時に大剣を振り上げた。


実験体は速い。人間の動体視力では追いにくい動きで間合いを詰めてくる。アレンが光魔法で牽制の光弾を放つが、霧の中で拡散して威力が落ちる。シアの火球も同様だ——霧が熱を吸収している。


リンは考えながら動く。大剣で一体の腕を弾き、ゴルドが土魔法で足元を固めた瞬間に頭部を斬り落とす。次の一体はエルの矢が首に刺さり、リンが踏み込んで仕留める。動きに無駄がない。三体目、四体目——


気がついたとき、リンの左手から黒い靄が漏れていた。


意図していなかった。だが傷跡が熱を持ち、闇魔法が溢れ出す感覚——それは戦闘の昂りに引き寄せられるように、大剣の刀身に沿って広がった。黒い刃が霧を斬ると、霧そのものが裂け、術式が乱れる。


実験体が一斉に動きを止めた。まるで命令を失ったかのように、ただ立ち尽くす。次の瞬間、霧が薄れ、夕陽の橙が差し込んできた。


静寂。


リンは大剣を下ろし、左手を見た。黒い靄はもう消えている。傷跡だけが赤く残っている。


◆ ◆ ◆


誰も、すぐには口を開かなかった。


アレンは剣を握ったまま立っていた。シアは両手に火魔法を構えたまま、リンを見ていた。ゴルドは腕を組み、難しい顔で地面を見ていた。エルだけが、静かに弓を降ろした。


「……今のは」アレンが口を開いた。「あなたの意志でやったのか」


「違う。制御できていなかった」


正直に言った。誤魔化す気にはなれなかった。


「だが結果として霧を払い、敵を止めた」エルが言う。「闇が闇の術式を乱した。理屈は通る」


「通らない」シアが低い声で言った。「制御できない力は武器じゃない、爆弾だ。次は味方を巻き込むかもしれない」


「その通りだ」


リンが言うと、シアは一瞬黙った。反論を用意していたのだろう、それを使う機会を失った顔をした。


「制御する方法を探す。それまでは戦闘中に近づくな。距離を取ってくれれば巻き込まない」


「……方法の見当はあるのか」


「ない。だから探す」


またしばらく沈黙があった。ゴルドがふうと息を吐いた。


「ドワーフの工匠魔法には、魔力の流路を整える術式がある。根本解決にはならんが、溢れを抑える補助くらいはできるかもしれん。試してみるか」


「……頼む」


それがこの夜の、リンがパーティーに向けて言った最も長い言葉だった。


◆ ◆ ◆


焚き火の前でゴルドがリンの左手を調べている間、アレンが隣に腰を下ろした。


「一つ聞いていいか」


「内容による」


「三年前、ヴァルネスの国境で魔将と戦った理由は何だ。一人で、あの国境に何をしに行った」


リンは火を見た。炎の揺れ方を数えるように、少し間を置く。


「探し物をしていた」


「見つかったか」


「見つからなかった。代わりに闇が宿った」


アレンはそれ以上聞かなかった。聞かないのが正解だと判断できる男だ、とリンは思った。


焚き火が一際大きく燃え、夜風に煙が流れた。北の空は相変わらず霞んでいる。霧峠の向こう、ヴァルネスまではまだ遠い。


ゴルドが左手に細い金属の環を嵌めながら言った。


「これで多少はましになる。完全じゃないが、溢れる前に感覚でわかるようになるはずだ」


「ありがとう」


「礼はいらん。チームの道具が暴発したら困るだけだ」


道具、という言葉に引っかかりを覚えながら、しかしリンはそれを顔に出さなかった。道具で構わない。仕事が終われば去るのだから。


——そのはずだったのに、ゴルドの不器用な親切が、じんわりと左手の傷跡を温めた気がした。気のせいだ、と目を閉じる。


霧峠は明日、越える。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ