一年後の傭兵都市 — グラウン連邦・傭兵都市ガルダ —
一年経つと、酒場の主人ですら世界の変化に気づき始める。
リンがガルダに戻って数週間、客の話題が変わったことに気づいた。以前は「どこの傭兵団がどこを潰した」という話が酒場の標準的な雑談だった。今は違う。
「聞いたか、ヴェルクで集会があったらしい」
「集会?傭兵団のか」
「いや、市民のだ。傭兵団じゃない連中が、自分たちの代表を選ぼうとしてるとか」
「馬鹿言え。代表なんて誰が認める」
「それが——アルダ王国の勇者が認めたって話だぞ」
リンはカウンターの端で水を飲みながら、聞くでもなく聞いていた。一年前まで、こんな話は酒場で交わされなかった。
◆ ◆ ◆
その日の午後、リンは仕事を一つ終えて宿に戻る途中だった。
小さな仕事だった。商隊の護衛、三日間。報酬は悪くなかった。流れ者としては、悪くない一年だった。各地を回りながら、時折アレンやエルからの手紙を受け取った。カイからの手紙は約束通り長くなっていた——時々長すぎて、半分は術式の説明だった。
宿の前に、人が立っていた。
若い女だった。二十代前半、武器は持っていない。質素だが清潔な服。手には何か書類の束を抱えている。リンを見つけると、すぐに駆け寄ってきた。
「リン・クロウさんですか」
「誰だ」
「ミラ・ヴォルクと申します。少し、お話を聞いていただけませんか」
リンは三秒、女を値踏みした。戦闘能力はゼロ。だが目に、迷いがない。何かに駆られている人間の目だ。
「手短に」
◆ ◆ ◆
宿の食堂の隅で、ミラは書類を広げた。
「ご存知かもしれませんが——五大陸会議という計画が進んでいます。封印修復に関わった方々が中心となって、各大陸の代表者が集まり、新しい均衡について話し合う場です」
「知っている。アレンから聞いた」
「では、代表者の選出方法についても?」
「いや」
ミラは少し前のめりになった。
「各大陸とも、今のところ『代表者』は王や領主、頭目といった、これまで権力を持っていた人々が想定されています。グラウン連邦も同じです——おそらく赤牙団と鉄仮面団の頭目が代表として出る」
「それが普通だろう」
「普通です。でも——」ミラは書類を一枚、リンの前に置いた。それは署名の集まった請願書だった。「この一年で、グラウン連邦の十七都市から、こういう声が上がっています。『代表は頭目じゃなく、市民から選ばれるべきだ』」
リンは署名の数を見た。数千。一つの都市の話ではない。
「お前が集めたのか」
「私と、各都市の協力者です。私はガルダの——」ミラは少し言葉を選んだ。「元は赤牙団の雑用係でした。十年、傭兵団の下働きをしていました。剣も魔法も使えません。ただ、見てきました。傭兵団同士の抗争で、何度も街が割れるのを」
リンは何かを思い出した。一年前、ヴェルクの広場。赤牙団と鉄仮面団が衝突しかけた日。逃げ遅れた子供と、扉を閉める老婆。
「ヴェルクの広場にいたのか」
「……はい」ミラは少し驚いた顔をした。「あの日、あなたが両陣営を止めた。剣を抜いたのに、誰も傷つけなかった。あれを見て、思ったんです——力がある人間が、力を使わない選択をできるなら、力のない人間にも、選ぶ権利があるはずだと」
◆ ◆ ◆
リンは少し黙った。
「私に何を頼みたい」
「五大陸会議に、民衆代表として参加させてほしい。それを後押しできるのは——封印修復に関わった方々の発言力だけです。アレン様には既に手紙を送りました。お返事はまだですが」
「私が後押ししたら、どうなる」
「グラウン連邦の頭目たちは、あなたの名前に弱い。〈闇斬り〉の発言は、傭兵団にとって重い」
「私の名前を使うのか」
ミラは一瞬たじろいだ。それでも、目をそらさなかった。
「……はい。それが、今の私にできる唯一の手段だからです」
正直な答えだった。リンは正直さを評価する人間だ。
◆ ◆ ◆
リンは署名の束をもう一度見た。
数千の名前。それぞれが、ガルダやヴェルクのような場所で、酒場の主人や雑貨屋の老婆のような人々が、自分の意志で書いたものだ。リンには、その一つ一つの名前の重さがわからない。だが、ヴェルクの広場で見た光景——逃げ遅れた人々の存在は、知っている。
「一つ聞く」リンは言った。「お前は、この件で何を得る」
「……何も。報酬はありません。むしろ、傭兵団からは目をつけられています」
「危険だ、ということか」
「はい」
「それでもやるのか」
「やらなかったら、何も変わらないままです。それは——」ミラは少し言葉を選んだ。「あなたが弟さんを探して、一人で北に向かったのと、似ているかもしれません」
リンは目を上げた。
「……その話、どこで聞いた」
「五大陸会議の準備で、第一部の出来事は記録され、各国の議会で共有されています。あなたの話も含めて」
リンは少し息を吐いた。流れ者の過去が、いつの間にか公的な記録になっている——その事実に、まだ慣れない。
◆ ◆ ◆
リンは署名の束を、ミラに返した。
「私の名前は重い、と言ったな」
「はい」
「それなら、使え。ただし——」
リンは立ち上がった。
「私の名前だけじゃ足りない。赤牙団と鉄仮面団、両方の頭目に会う。お前も同席しろ」
「……今からですか」
「善は急げ、と聞く」
ミラは一瞬呆然としたあと、慌てて書類をまとめて立ち上がった。
「あ、ありがとうございます……!」
「礼はまだ早い。会ってから話す」
リンは宿を出た。一年前、同じ街で傭兵団の抗争を止めたときのように、迷いのない足取りだった。ただ今回は、剣のためではなかった。
ミラが小走りで隣に並んだ。
「あの……なぜ、引き受けてくれたんですか」
「お前が正直だったからだ」リンは少し考えて、続けた。「それと——一年前、あの広場で『子供が逃げ遅れていた、それだけだ』と言った。今回も同じだ。それだけだ」
ミラは少し笑った。
「やっぱり、似てますね」
「何が」
「弟さんと話してるみたいです、今」
リンは何も言わなかった。だが、口元が、少しだけ動いた。
傭兵都市ガルダの午後の陽射しの中、リンとミラは赤牙団の詰め所へ向かって歩いていった。
五大陸会議への、最初の一歩だった。




