表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
9/45

第九話 父の沈黙

第九話です。

今回は、平吉が初めて家族に「江戸へ行きたい」と告げる話です。


ただの憧れだった江戸が、平吉の中で少しずつ形を持ち始めました。

けれど、江戸へ行くということは、村を出るだけではありません。

家族の前に立ち、家の重さを背負うことでもあります。


今回は、父・源蔵の沈黙と、その奥にある言葉を描きます。

江戸へ行きたい。


その言葉は、平吉の胸の中で何度も形を変えていた。


最初は、ただの憧れだった。


村の外に何かがある気がした。

道の向こうに、自分の席がある気がした。

田の中に立っていても、目はいつも遠くを見ていた。


それだけだった。


だが、弥七に出会い、魚を売り、字を習い、佐兵衛の畑に杭が立つのを見て、清次の話を聞いてから、その言葉は少しずつ重くなった。


江戸へ行きたい。


それは、逃げたいという意味ではなくなった。


銭がどう動くのかを知りたい。

帳面を読めるようになりたい。

嘘を書かない商人になりたい。

信用というものを、自分の手で掴みたい。


けれど、その思いを家の中で口にするのは、田に火を放つようなものだった。


母は反対する。

兄は怒る。

父は黙る。


それがわかっていたから、平吉は言えずにいた。


だが、言わなければ何も始まらないことも、もうわかっていた。



その日の夕飯は、いつもより静かだった。


粟の多い飯。

薄い汁。

大根の葉。


父の源蔵は黙って食べている。

兄の太助も黙っている。

母のおたねは、いとの椀を見ながら少しずつ飯をよそっていた。


いとは眠そうに飯を食べている。


囲炉裏の火が、ぱちりと鳴った。


平吉は箸を置いた。


心臓が、嫌なほど強く打っていた。


「父ちゃん」


源蔵は顔を上げない。


「何だ」


母の手が止まった。

太助の目が、平吉の方へ動いた。


平吉は膝の上で拳を握った。


「俺、江戸へ行きたい」


言った。


言ってしまった。


家の中の空気が、一瞬で硬くなった。


いとだけが、意味がわからない顔で平吉を見ている。


母が最初に口を開いた。


「また、その話かい」


声は低かった。


怒鳴るより怖い声だった。


「またじゃない」


平吉は言った。


「ちゃんと言ってなかったから、言った」


「ちゃんと?」


母は笑った。

笑ったが、目は笑っていなかった。


「何をちゃんとするんだい。江戸に行くって、銭はあるのかい。奉公先はあるのかい。紹介状はあるのかい」


平吉は答えられなかった。


ない。


銭もない。

奉公先もない。

紹介状もない。


あるのは、弥七の紙片と、寺の板と、清次の控え。

それから、胸の中の火だけだ。


母は畳みかけた。


「道中の飯は。宿は。草履は。病になったらどうする。盗まれたらどうする。追い返されたらどうする」


一つ言われるたび、平吉の胸は少しずつ沈んだ。


どれも、考えなければならないことだった。


「江戸に行けばどうにかなると思ってるなら、やめな」


母の声が刺さる。


「江戸は、腹を空かせた子どもに飯を出す町じゃないよ」


清次も言っていた。


銭がない奴に、江戸は冷たい。


平吉は唇を噛んだ。


太助は何も言わなかった。


いつものように怒ると思った。

「田を見ろ」と言うと思った。


だが兄は、黙っていた。


ただ、平吉の横顔を見ている。


父は、飯を食べ終えた。


箸を置く。


その音が、やけに大きく聞こえた。


平吉は父を見た。


源蔵はしばらく黙っていた。


そして、いつもの低い声で言った。


「いつだ」


母が顔を上げた。


「あなた」


平吉も驚いた。


反対されると思っていた。

怒られると思っていた。


だが父は、ただ「いつだ」と聞いた。


平吉は喉を鳴らした。


「まだ、決めてない」


「なら、何を言っている」


父の声は静かだった。


平吉は胸を突かれた。


「でも、言わないと」


「言うだけなら、誰でもできる」


父は平吉を見た。


「江戸に行きたい。その先は」


その先。


平吉は清次の言葉を思い出した。


何を取りに行くのか、決めて行け。


「信用を」


平吉は言った。


母が眉をひそめる。


太助がわずかに目を細める。


父は動かない。


平吉は続けた。


「銭も、字も、商いも覚えたい。でも、一番は、信用を取りに行きたい」


言葉にすると、少し頼りなかった。


信用。


まだ字も書けない。

形もない。

手で掴めるものでもない。


だが、平吉の中では、それが一番重かった。


「佐兵衛さんの畑を見た。父ちゃんの鍬も見た。清次さんの話も聞いた。帳面を間違えたら、人の信用が欠けるって。商いは、品や銭だけじゃないって」


平吉は父をまっすぐ見た。


「俺は、帳面を汚さない商人になりたい」


母が小さく息を呑んだ。


太助は何も言わない。


父の顔は変わらなかった。


長い沈黙が落ちた。


囲炉裏の火が、また小さく爆ぜる。


やがて父は言った。


「今日はもう寝ろ」


それだけだった。


「父ちゃん」


「寝ろ」


声は荒くなかった。


だが、それ以上何も言わせない声だった。


平吉は口を閉じた。


母は何か言いたげだったが、父の顔を見て黙った。


太助は、飯の椀を置いた。


いとは小さな声で言った。


「兄ちゃん、江戸行くの?」


誰も答えなかった。



その夜、平吉は眠れなかった。


父は何も言わなかった。


反対も、賛成も、怒りも、許しもなかった。


ただ、寝ろ。


それだけ。


その沈黙が、平吉の胸に重く乗っていた。


母に怒られた方が楽だったかもしれない。

兄に殴られた方がわかりやすかったかもしれない。


父の沈黙は、何も見えない帳面のようだった。


何が書かれているのか、読めない。


平吉は布団の中で、清次にもらった控えを思い出した。


まだ読めない細かな字。

そこに並ぶ品と銭と残り。


父の沈黙にも、何かが並んでいるのかもしれない。


不安。

怒り。

寂しさ。

諦め。

それとも、許し。


平吉には読めなかった。


夜が深くなった頃、戸が小さく鳴った。


平吉は目を開けた。


土間に父が立っていた。


「平吉」


低い声。


「はい」


「起きろ」


平吉は飛び起きた。


母も兄も、いとも寝ている。


父は手に小さな提灯を持っていた。


「外へ出る」


「今から?」


「来い」


それだけ言うと、父は戸を開けた。


平吉は慌てて着物を整え、外へ出た。


夜の空気は冷たかった。


月は細く、田は黒い。

風が畦を撫で、枯れ草が小さく鳴る。


父は何も言わずに歩いた。


平吉はその後ろをついていく。


行き先は、田だった。


春には苗を植え、夏には青くなり、秋には稲穂が垂れる田。


今は、ただ黒い土が広がっている。


父は畦に立ち、提灯を低く掲げた。


「見ろ」


平吉は田を見た。


暗い。


何もない。


「何を」


「田だ」


父は言った。


「春になれば、ここに水を入れる。苗を植える。夏に草を抜く。秋に刈る。冬に休ませる」


平吉は黙って聞いた。


「米は、急にできない」


父の声は、夜の田に低く広がった。


「今日腹が減ったからといって、明日米が実るわけではない。手を抜けば、秋に返ってくる。水を見誤れば、秋に返ってくる。土を粗末にすれば、秋に返ってくる」


平吉は、父の横顔を見た。


提灯の火が、父の頬を薄く照らしている。


「百姓は、土に嘘をつけない」


父は言った。


「嘘をついても、土は黙っている。怒鳴り返しもしない。だが、秋に必ず返してくる」


平吉は息を呑んだ。


父は田を見たまま続けた。


「お前は商人になりたいと言った」


「はい」


「商人は、人に嘘をつけない」


平吉の胸が強く打った。


「人は土より騙しやすい」


父の声は変わらない。


「うまいことを言えば、その場では信じる。帳面に書けば、相手は印を押す。困っている時に品を出せば、相手は頭を下げる」


佐兵衛の家が浮かんだ。

三蔵の帳面が浮かんだ。


「人は土より騙しやすい。だが、騙したものは必ず返ってくる」


父は平吉を見た。


「土は秋に返す。人は、いつ返すかわからん」


平吉は言葉を失った。


父は続けた。


「明日かもしれない。十年後かもしれない。自分に返るかもしれない。子に返るかもしれない。店に返るかもしれない。暖簾に返るかもしれない」


暖簾。


その言葉は、父の口から出るには少し意外だった。


「父ちゃん、商人のこと」


「知らん」


父は短く言った。


「知らんが、人のことはわかる」


平吉は黙った。


父は田に目を戻した。


「信用を取りに行くと言ったな」


「はい」


「信用は、取りに行くものではない」


平吉は顔を上げた。


父は言った。


「置いてくるものだ」


「置いてくる?」


「今日、約束を守る。明日も守る。借りたものを返す。預かったものをなくさない。見たものを曲げない。できないことをできると言わない」


父の声は、ゆっくりだった。


「それを一つずつ、人のところに置いてくる。すると、いつか人がそれを信用と呼ぶ」


平吉は、その言葉を胸に刻んだ。


信用は、取りに行くものではない。

置いてくるもの。


弥七の言葉。

和尚の言葉。

清次の言葉。

そして、父の言葉。


全部が少しずつ重なっていく。


「では、俺は」


平吉は小さく言った。


「何をしに江戸へ行けばいいんですか」


父はすぐには答えなかった。


風が吹いた。


提灯の火が揺れる。


「お前が江戸へ行くなら」


父は言った。


「自分を置いてこい」


平吉は意味がわからなかった。


「自分を?」


「この小僧は逃げない。この小僧は盗まない。この小僧は嘘をつかない。この小僧は忘れない」


父は平吉を見た。


「そう思われるように、自分を毎日置いてこい」


平吉は弥七の言葉を思い出した。


商人になりたきゃ、最初に売るものは品じゃない。

自分だ。


父の言葉と、弥七の言葉は同じところへ向かっていた。


「それができなければ、江戸へ行くな」


父の声は厳しかった。


「江戸は、お前を待っていない。お前が一人いなくても、何も困らない」


清次も同じことを言っていた。


代わりはいくらでもいる。


「そこで残るには、お前を覚えてもらうしかない」


父は言った。


「ただし、悪いことで覚えられるな」


平吉は深く頷いた。


「はい」



父は畦を歩き出した。


平吉もついていく。


田の端に、古い水口がある。


父はそこにしゃがみ、土を触った。


「この水口は、祖父の代から直しながら使っている」


平吉もしゃがんだ。


暗くてよく見えないが、土が固められ、石が置かれている。


「水はここから入る。ここが崩れれば、田が荒れる」


父は土を撫でた。


「目立たない。祭りにもならない。誰も褒めない。だが、ここがあるから田に水が入る」


平吉は黙って見た。


「商いにも、そういうところがあるはずだ」


父は言った。


「客の前で声を張るだけではない。帳面を正しくつける。荷を濡らさない。約束の日を忘れない。人が見ないところを崩さない」


平吉は、清次の控えを思い出した。


得意先。

品。

銭。

残り。


あの細かな字は、水口なのかもしれない。


人が見ないところで、商いを支えるもの。


「お前は派手なものに目を奪われる」


父が言った。


平吉は返せなかった。


その通りだった。


行商人の箱。

江戸の話。

銭が動く瞬間。


全部、胸を躍らせた。


「だが、派手なものだけを見ていると、足元が抜ける」


父は平吉を見た。


「帳面は、水口だ」


平吉の胸が震えた。


帳面は、水口。


表からは見えにくい。

だがそこが崩れれば、すべてが荒れる。


「だから汚すな」


父は言った。


「数字を汚すな。約束を汚すな。人から預かったものを汚すな。自分の目で見たものを汚すな」


平吉は膝の上で拳を握った。


父は、初めてはっきり言った。


帳面を汚すな。


それは、和尚から学んだ言葉とも、清次からもらった控えとも、佐兵衛の畑とも、すべてにつながっていた。


平吉は頭を下げた。


「はい」



しばらく、二人は田の畦に座っていた。


夜の空には、細い月があった。


遠くで犬が吠える。

風が冷たい。


父は懐から、何かを取り出した。


小さな布包みだった。


平吉の前に置く。


「何ですか」


「開けろ」


平吉は布を開いた。


中には、銭が入っていた。


多くはない。


十文。

二十文。

いや、三十文ほどか。


平吉は驚いた。


「これは」


「持っていけ」


胸が跳ねた。


「いいんですか」


「まだ行くと決まったわけではない」


父は言った。


「だが、いつか行くなら、丸腰では行かせん」


平吉は銭を見た。


魚を売って得た十文の三倍ほど。


だが、それが父から出てきたことが重かった。


家には余裕がない。

鍬を質に入れた。

米も足りない。


その中で、この銭を出す意味。


平吉はすぐには受け取れなかった。


「家で使ってください」


父は首を振った。


「これは、お前のために取っておいた」


平吉は父を見た。


「いつから」


父は答えなかった。


その沈黙で、平吉にはわかった。


父は、ずっと見ていたのだ。


平吉が遠くを見ていることを。

江戸を考えていることを。

いつか出ていくかもしれないことを。


そして、言葉にはしないまま、少しずつ銭を残していた。


母にも言っていないのかもしれない。


平吉の喉が詰まった。


「父ちゃん」


「勘違いするな」


父の声はいつも通りだった。


「応援しているわけではない」


太助と同じことを言う。


平吉は少しだけ笑いそうになった。


だが、笑えなかった。


「これは、帰ってくるための銭ではない」


父は言った。


「行って、生きるための銭だ」


平吉は銭を見た。


急に、手を出すのが怖くなった。


受け取れば、道が近くなる。


村を出る日が、絵空事ではなくなる。


父は続けた。


「受け取るなら、覚えておけ」


「はい」


「この銭は、米になったかもしれない銭だ。いとの飯になったかもしれない銭だ。母の針になったかもしれない銭だ。太助の草履になったかもしれない銭だ」


平吉の胸が締めつけられた。


「それを持っていく」


父は平吉を見た。


「軽く使うな」


平吉は両手で布包みを受け取った。


重かった。


三十文ほどの銭が、米俵のように重く感じた。


「はい」


声が震えた。



「父ちゃんは」


平吉は銭を胸に抱えたまま聞いた。


「俺に、行ってほしいんですか」


父はしばらく黙っていた。


それから、田の方を見た。


「行ってほしくはない」


平吉は息を止めた。


父は続けた。


「だが、ここにいろとも言えん」


その声は、少しだけ疲れていた。


「お前の目は、道の向こうを見ている。止めれば、田を見るふりをするだろう。だが、ふりで田はできん」


平吉は何も言えなかった。


父は言った。


「太助は田を見る。お前は道を見る。それだけのことだ」


「それだけでは」


「ないな」


父は小さく息を吐いた。


「親としては、どちらも苦しい」


その言葉に、平吉は胸が痛んだ。


父は続けた。


「太助には、家を背負わせる。お前には、外へ出る苦しさを背負わせる。どちらも楽ではない」


父は平吉を見た。


「だから、楽だと思って行くなら許さん」


「思っていません」


「憧れだけで行くなら許さん」


「はい」


「家が嫌で逃げるなら許さん」


平吉は首を振った。


「逃げたいわけじゃありません」


父はじっと見た。


「なら、何だ」


平吉は布包みを握った。


「取りに行きたいんです」


「何を」


「信用を。字を。商いを。あと……この家にない道を」


父は黙った。


平吉は続けた。


「俺が行けば、兄ちゃんに田を押しつけることになる。母ちゃんにも心配をかける。いとも寂しがるかもしれない」


言いながら、胸が痛んだ。


「でも、ここにいても、俺はたぶん役に立ちきれない。田を見ているつもりでも、道を見てしまう」


父は何も言わない。


「だったら、外へ行って、この家にないものを覚えたい。銭の道も、帳面も、信用も。いつか、持って帰れるものにしたい」


夜の田に、平吉の声だけが落ちる。


「できるかは、わかりません」


正直に言った。


「でも、やりたい」


父は長く黙っていた。


そして言った。


「それを、母に言え」


平吉は体が固まった。


「母ちゃんに」


「俺に言うより難しい」


その通りだった。


母の言葉は鋭い。

夢を刺す。

腹を刺す。

現実を刺す。


だが、避けて通ることはできない。


「太助にも言え」


「兄ちゃんにも」


「太助は、この家に残る。お前が出れば、太助の荷は増える。黙って出るな」


平吉は深く頷いた。


「はい」


父は立ち上がった。


「帰るぞ」


平吉も立ち上がった。


田の黒い水面に、月が細く揺れている。


平吉はその田を見た。


今まで、田は自分を縛る場所だと思っていた。


だが、少し違った。


田は、父と兄が守る場所だった。

母が飯を作り、いとが育つ場所だった。

自分が出ていくなら、捨てる場所ではない。


背負っていく場所だ。


平吉は布包みを握った。


三十文。


少ない。


江戸まで行くには、きっと足りない。

奉公先を探すには、心もとない。


だが、その中には家の飯が入っている。

父の沈黙が入っている。

母の不安が入っている。

太助の背中が入っている。

いとの顔が入っている。


これは、ただの銭ではない。


家から預かった信用だ。


平吉はそう思った。



家に戻ると、太助が起きていた。


土間に座り、腕を組んでいる。


「遅い」


平吉は少し驚いた。


「起きてたの」


「寝られるか」


太助は父を見た。


父は何も言わず、奥へ入っていった。


太助は平吉の手元を見た。


「何をもらった」


平吉は布包みを隠さなかった。


「父ちゃんから」


太助はすぐにわかったようだった。


顔が少し険しくなる。


「銭か」


「うん」


太助はしばらく黙っていた。


怒るかと思った。


ずるいと言うかもしれない。

家が苦しいのに、と言うかもしれない。


だが太助は、低い声で聞いた。


「いくら」


「三十文くらい」


「くらいじゃなくて、数えろ」


平吉ははっとした。


太助は続けた。


「銭を持つなら、くらいで済ますな」


その言葉は、兄らしかった。


平吉は布を開き、銭を数えた。


一枚ずつ。


一、二、三。


まだ数を覚えたばかりで、時間がかかる。


太助は黙って待っていた。


「三十二文」


平吉は言った。


「三十二文」


太助は頷いた。


「覚えとけ」


「うん」


「使ったら、何に使ったか覚えとけ」


「うん」


「なくしたら、俺が殴る」


「うん」


太助は少し間を置いた。


「父ちゃんがくれたなら、俺は何も言わねえ」


平吉は兄を見た。


「でも」


太助の声が低くなる。


「その銭は、家の銭だ」


「うん」


「お前の銭じゃない」


平吉は頷いた。


「わかってる」


「わかってない」


太助は言った。


「わかるのは、使う時だ」


平吉は何も言えなかった。


太助は立ち上がった。


「明日、母ちゃんに言え」


「うん」


「俺にも、ちゃんと言え」


「今じゃだめなの」


太助は背を向けた。


「今言われたら、殴るかもしれねえ」


平吉は黙った。


太助の背中は震えていなかった。


だが、その声には何かが詰まっていた。


「明日、聞く」


それだけ言って、太助は寝床へ戻った。


平吉は土間に座ったまま、布包みを見た。


三十二文。


父から渡された銭。

兄に数えろと言われた銭。


その一枚一枚が、今までのどの銭よりも重かった。



平吉はその夜、ほとんど眠れなかった。


朝になれば、母に言わなければならない。

兄にも言わなければならない。


江戸へ行きたい。


ただそれだけでは足りない。


何を取りに行くのか。

何を置いていくのか。

何を背負っていくのか。


言わなければならない。


布包みを胸に置き、平吉は目を閉じた。


父の言葉が残っている。


信用は、取りに行くものではない。

置いてくるものだ。


帳面は、水口だ。

汚すな。


人は土より騙しやすい。

だが、騙したものは必ず返ってくる。


平吉は、胸の中で何度も繰り返した。


忘れないために。


まだ書けない言葉が多すぎる。

まだ読めない帳面が多すぎる。


だが、今夜聞いた父の言葉だけは、文字がなくても消してはならないと思った。


平吉は布包みを握った。


江戸へ行く日は、近づいている。


だがその前に、越えなければならないものがある。


母の目。

兄の沈黙。

家の囲炉裏。


村を出るということは、道を歩き出すことではない。


まず、家族の前に立つことなのだ。


第九話 了

ここまで読んでいただきありがとうございます。


第九話では、平吉が父に「江戸へ行きたい」と告げました。

父・源蔵は、平吉を手放しで応援するわけではありません。

けれど、ただ止めるのでもなく、百姓として見てきた「嘘をつけないもの」の重さを平吉に伝えました。


「信用は、取りに行くものではない。置いてくるものだ」

「帳面は、水口だ。だから汚すな」


この父の言葉は、平吉がこの先、商人として生きていくうえで大きな芯になっていきます。


次回は、第一章の締めくくりです。

平吉が母と兄に向き合い、ついに村を出る朝を迎えます。


続きが気になりましたら、ブックマーク・評価で応援していただけると嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ