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第八話 江戸帰りの男

第八話です。

今回は、江戸帰りの男・清次が登場します。


平吉にとって江戸は、まだ見ぬ憧れの町でした。

けれど、実際に江戸を知る清次の口から語られるのは、華やかさだけではありません。


人の多さ、商いの速さ、帳面の怖さ、そして信用を失う痛み。


平吉の「江戸へ行きたい」という気持ちが、ただの憧れから、少しずつ覚悟へ変わっていく回です。

村に、江戸帰りの男が来た。


その噂は、朝の井戸端から広がった。


「清次が帰ってきたらしいよ」


「清次?」


「ほら、十年前に江戸へ奉公に出た、弥兵衛さんとこの次男坊」


「ああ、あのひょろっとした子かい」


「それがね、今じゃ羽織なんか着て、江戸言葉を使うんだとさ」


女たちの声は、いつもより少し弾んでいた。


村では、外から来るものは何でも噂になる。


行商人。

旅の僧。

役人。

病。

飢饉の知らせ。

そして、江戸帰り。


江戸へ行った者が帰ってくる。


それだけで、村の空気が少し変わる。


平吉は水桶を担いだまま、井戸端で足を止めた。


江戸帰り。


その言葉だけで、胸の奥がざわついた。


「何だい、平吉」


近所の女が笑った。


「お前も江戸に行きたいんだって?」


平吉は水桶の縄を握り直した。


「……別に」


「別に、って顔じゃないよ」


別の女が言った。


「清次に聞いてみたらどうだい。江戸はそんなに甘くないって、きっと言うよ」


笑いが起きた。


平吉は何も言わずに井戸を離れた。


背中に声が残る。


江戸は甘くない。


そんなことは、もう何度も聞いている。


村の年寄りも言う。

母も言う。

兄も言う。

江戸は人を食う町だ、と。


だが、平吉はまだ江戸を知らない。


知らないから、怖い。

知らないから、見たい。



清次は、昼過ぎに村道を歩いてきた。


平吉は田の端にいた。


太助とともに畦を直していると、遠くから人影が見えた。


村の者ではない歩き方だった。


いや、正確には村の者だったはずなのに、村の者ではなくなったような歩き方だった。


背筋が少し伸びている。

足の運びが軽い。

周りを見ているようで、見ていない。


着物は上等というほどではない。

けれど、村の男たちが着るくたびれたものとは違った。


腰には小さな巾着。

羽織は少し古いが、手入れされている。

髪もきちんと結われていた。


清次は、田のそばで足を止めた。


「太助か」


太助は顔を上げた。


「清次兄さん」


平吉は驚いた。


兄が、兄さんと呼んだ。


清次は太助より年上なのだろう。

二十代半ばほどに見えた。


清次は笑った。


「でかくなったな。昔は鼻垂らしてたのに」


太助は顔をしかめた。


「昔のことはいいです」


「相変わらず真面目そうだ」


清次は次に、平吉を見た。


「そっちが平吉か」


平吉は泥のついた手を慌てて拭いた。


「はい」


「お前の話は聞いた」


「何をですか」


「江戸へ行きたがってるって」


平吉は太助を見た。


太助は知らん顔をしている。


清次は笑った。


「村は狭い。言わなくても広がる」


平吉は顔が熱くなった。


清次は畦に腰を下ろした。


「江戸の話、聞きたいか」


平吉はすぐに答えそうになった。


聞きたい。


だが、太助が横にいる。


母や父が聞いたら何と言うかも考えた。


それでも、口は勝手に動いた。


「聞きたいです」


清次はにやりと笑った。


「いい目だ」


太助が低く言った。


「仕事中です」


「お前は本当に変わらないな」


「変わらない方がいいこともあります」


清次は少しだけ目を細めた。


「そうだな」


その声には、笑いだけではないものが混じっていた。


「じゃあ、仕事が終わったら来い。弥兵衛の家にいる」


清次は立ち上がった。


「江戸の話をしてやる」


平吉の胸が鳴った。


江戸の話。


本物の江戸を見た男の話。


清次は去っていった。


太助はしばらく黙って畦を直していた。


やがて言った。


「浮かれるなよ」


「浮かれてない」


「顔が浮かれてる」


平吉は黙った。


太助は鍬を泥に入れた。


「江戸帰りの話は、半分に聞け」


「何で」


「帰ってきた奴は、良いことを大きく言う」


平吉は兄を見た。


「悪いことは?」


太助は少し間を置いた。


「悪いことは、もっと大きく黙る」


その言葉が、妙に胸に残った。



夕方、平吉は仕事を終えると、弥兵衛の家へ向かった。


本当は母に止められると思っていた。


だが、母は平吉が清次のところへ行くと知ると、少し嫌な顔をしただけだった。


「飯までには戻りな」


「うん」


「江戸話を聞いたくらいで、自分も行けると思うんじゃないよ」


「わかってる」


「わかってない顔だよ」


母は針を動かしながら言った。


「人の土産話は、食えない飯みたいなもんだ。匂いだけはいい」


平吉は何も返せなかった。


弥兵衛の家に着くと、すでに何人かの村人が集まっていた。


清次は囲炉裏のそばに座り、酒を少し飲んでいた。


周りには男たちがいる。

年寄りもいる。

子どもたちも戸口から覗いている。


平吉は入口の端に座った。


清次は話していた。


江戸の日本橋のこと。

朝から晩まで人が途切れない大通り。

魚河岸の匂い。

大店の暖簾。

屋台のそば。

火消しの掛け声。

祭りの日の人波。


村人たちは、時々声を上げた。


「そんなに人がいるのか」


「祭りでもないのに?」


「魚が山みたいに?」


清次は笑いながら答える。


「村の祭りが毎日続いてるようなもんだ」


平吉は息を呑んだ。


毎日が祭り。


それは、想像もつかない。


清次は続けた。


「朝になると、店が一斉に開く。小僧が水を撒き、番頭が帳場に座り、手代が得意先を回る。大八車が通り、魚売りが叫び、駕籠かきが怒鳴る。ぼんやり道に立ってたら、三度は突き飛ばされる」


村人が笑った。


平吉は笑えなかった。


目の前に、まだ見ぬ江戸が浮かんだ。


人。

声。

品物。

銭。

帳面。


すべてが動いている。


清次の声は、少し誇らしげだった。


だが、太助の言葉も思い出す。


帰ってきた奴は、良いことを大きく言う。

悪いことは、もっと大きく黙る。


平吉は清次の顔をじっと見た。


笑っている。


だが、目の下に少し影がある。


村の者は気づいていないようだった。



話がひと段落すると、村人たちは少しずつ帰っていった。


酒を飲んだ者は、まだ江戸の話を聞きたがったが、清次はうまく笑ってかわしていた。


やがて家の中には、清次と弥兵衛夫婦、そして平吉だけが残った。


平吉も帰るべきだった。


母に飯までには戻れと言われている。


だが、どうしても聞きたいことがあった。


清次が平吉を見た。


「まだいたのか」


「はい」


「江戸話はもう終わりだぞ」


平吉は膝に手を置いた。


「本当の話を聞きたいです」


清次の顔から笑みが少し消えた。


「今のも本当だ」


「でも、全部じゃない」


弥兵衛の妻が少し驚いた顔をした。


平吉は続けた。


「兄が言いました。帰ってきた人は、良いことを大きく言う。悪いことは、もっと大きく黙るって」


清次は少し黙った。


そして、低く笑った。


「あの真面目坊主、いいこと言うじゃねえか」


清次は酒の椀を置いた。


「本当の江戸が聞きたいか」


「はい」


「聞いたら、行く気がなくなるかもしれないぞ」


平吉は少し迷った。


でも、頷いた。


「それでも聞きたいです」


清次は囲炉裏の火を見た。


さっきまでの声とは違う、少し低い声で話し始めた。


「江戸は、人が多い」


「はい」


「人が多いってのは、仕事が多いってことだ。買う奴も多い。売る奴も多い。銭も動く」


平吉は聞き入った。


「でもな、人が多いってことは、代わりも多いってことだ」


「代わり」


「お前が倒れても、次の日には別の小僧が水を撒く。お前が逃げても、別の手代が帳面を持つ。お前が腹を空かせても、道端で誰かが必ず助けてくれるわけじゃない」


清次の声は淡々としていた。


「江戸は、人が多いから寂しくないと思うだろ」


平吉は小さく頷いた。


「逆だ」


清次は言った。


「人が多いほど、自分が誰でもないことがよくわかる」


平吉の胸に、冷たいものが落ちた。


誰でもない。


清次は続けた。


「奉公に入れば、最初は人間扱いされない。小僧は小僧だ。朝は暗いうちから起きる。水を撒く。掃く。走る。怒鳴られる。飯は早く食う。寝るのは遅い。字が読めなきゃ笑われる。銭を落とせば疑われる。客の顔を覚えられなきゃ殴られることもある」


平吉は思わず手を握った。


「殴られるんですか」


「店による」


清次は少し笑った。


「良い店もある。悪い店もある。だが、どの店でも、使えない奴は置いてもらえない」


「逃げた人は」


「いる」


「どうなるんですか」


「戻れる家があれば戻る。なければ、そのへんをうろつく。日雇いになる者もいる。盗みに手を出す者もいる」


清次の目が囲炉裏の火を映していた。


「江戸は、夢の町じゃない。銭がない奴に、江戸は冷たい」


母の声が重なる。


夢は腹をふくらませない。


平吉は唾を飲んだ。


「清次さんは、どうして続けられたんですか」


清次は少し笑った。


「俺は続けられなかった」


平吉は顔を上げた。


「え」


清次は椀の底を見た。


「江戸で奉公した。小間物屋だった。最初の三年は小僧。水撒き、掃除、使い走り。飯と寝床だけ。何度も逃げようと思った」


「でも、羽織を着て帰ってきた」


「羽織くらい、借りれば着られる」


清次は軽く言った。


その言葉に、平吉は息を止めた。


借り物。


さっきまで村人たちが羨ましそうに見ていた羽織が、急に違って見えた。


清次は続けた。


「手代にはなった。少しは帳面も触った。得意先にも行った。だが、大きなしくじりをした」


「しくじり?」


清次は囲炉裏の火を見たまま言った。


「掛け売りの回収を間違えた」


平吉は体を前に出した。


掛け売り。

回収。

まだ詳しくはわからないが、商いの匂いがする言葉だった。


清次は説明した。


「店は、得意先に品を渡して、月末に銭を受け取ることがある。先に品を渡す。後で払ってもらう」


「借りみたいなものですか」


「そうだ。品の借りだな」


平吉は頷いた。


「俺は、ある得意先の支払いを受け取った。だが、帳面への付け替えを間違えた」


「付け替え」


「誰がいくら払ったか。どの借りに充てるか。それを書き間違えた」


平吉の胸がざわつく。


帳面。


清次は苦く笑った。


「悪気はなかった。だが、悪気がなくても帳面はずれる。帳面がずれれば、店は困る。得意先も困る」


「直せなかったんですか」


「直した。だが、その得意先に迷惑をかけた。番頭に信用されなくなった」


信用。


平吉は、その言葉に反応した。


「それで帰ってきたんですか」


清次は少し黙った。


「それだけじゃない」


「他にも」


「江戸で生きるには、目が足りなかった」


平吉は首を傾げた。


「目?」


「品を見る目。人を見る目。銭を見る目。自分を見る目」


清次は平吉を見た。


「お前は、江戸へ行けば何かになれると思ってるだろう」


平吉は言葉に詰まった。


思っている。


何かになれる。

何かがある。


そう思っている。


清次はそれを見抜いたように言った。


「江戸は、何かにしてくれる町じゃない。何かになろうとする奴を、試す町だ」


平吉は黙った。


「試されて、折れる奴もいる」


清次は自分の胸を軽く叩いた。


「俺みたいにな」


弥兵衛の妻が小さく咳払いした。


「清次、そんな言い方しなくても」


清次は笑った。


「いいんだ。平吉は聞きたがってる」


平吉は清次を見つめた。


さっき村人の前で話していた清次とは、まるで違う。


羽織を着た江戸帰りではない。


江戸で何かを失って帰ってきた男だ。


平吉は、少し怖くなった。


江戸は、夢の町ではない。


それは今までにも聞いた。


だが今、初めてその意味が少しわかった気がした。



「それでも」


平吉は、気づけば口を開いていた。


清次が目を上げる。


「それでも、江戸に行ったことを後悔していますか」


清次はすぐには答えなかった。


囲炉裏の火が小さく爆ぜる。


長い沈黙のあと、清次は言った。


「してない」


平吉の胸が動いた。


清次は続けた。


「江戸に行かなきゃ、自分がどれだけ小さいかもわからなかった。帳面を間違える怖さも知らなかった。信用がどれだけ脆いかも知らなかった」


「脆い」


「十年かけて積んでも、一度のしくじりで欠ける」


平吉は佐兵衛の畑を思い出した。


帳面の一行が、暮らしを動かす。


清次は言った。


「でもな、江戸で覚えたこともある」


「何ですか」


「商いは、声の大きい奴が勝つわけじゃない」


平吉は黙って聞いた。


「器用な奴が勝つわけでもない。嘘がうまい奴は、最初は儲かるが長くはもたない」


清次は指を一本立てた。


「最後に残るのは、ちゃんと返す奴だ」


「返す」


「借りた銭を返す。預かった品を返す。受けた恩を返す。迷惑をかけたら詫びる。帳面を直す。約束を守る」


平吉は息を呑んだ。


「それができる奴は、しくじっても誰かが拾ってくれることがある」


清次は苦笑した。


「俺は、拾われる前に帰ってきちまったけどな」


「また江戸へ行くんですか」


清次は少し遠くを見た。


「わからん」


それは、逃げるような言葉ではなかった。


本当にまだ決められないのだろう。


「怖いですか」


平吉が聞くと、清次は笑った。


「怖いさ」


「江戸が」


「江戸も怖い。だが、それより怖いのは、自分がまたしくじることだ」


平吉は胸が痛くなった。


失敗して帰ってくる。


半端に帰ってくる。


太助の言葉が蘇る。


半端に行って、半端に帰ってきたら、俺はお前を許さねえ。


清次は、まさにその痛みを持っている男なのかもしれない。


だが平吉には、清次が情けない男には見えなかった。


むしろ、江戸の本当の怖さを知っている分、村の誰よりも江戸に近い人間に見えた。



清次は懐から、小さな紙包みを取り出した。


「お前、字を習い始めたんだってな」


「はい」


「どれくらい読める」


「いろはを少しと、数字を少しです」


「なら、まだこれも読めねえな」


清次は紙を開いた。


中には、小さな紙片が数枚あった。


そこには細かな字と数字が書かれている。


平吉には、ほとんど読めない。


だが、いくつかの数字は見えた。


一。

二。

十。

百。


胸が高鳴った。


「これは何ですか」


「俺が江戸で使っていた控えの写しだ」


「控え」


「得意先の名、渡した品、受け取った銭、残りの借り。店の帳面とは別に、自分で写していた」


平吉は紙を見つめた。


自分で写す。


店の帳面とは別に。


「なぜですか」


「間違えたからだ」


清次の声は静かだった。


「一度しくじってから、俺は自分の控えを持つようにした。店の帳面だけじゃなく、自分の目で確かめるために」


平吉は佐兵衛の家を思い出した。


帳面が証。


では、自分の控えがあれば。


それも証になるのか。


清次は紙片を平吉に差し出した。


「やる」


平吉は驚いた。


「いいんですか」


「もう俺にはいらん」


「でも、大事なものじゃ」


「だからやる」


清次は平吉の目を見た。


「帳面ってのはな、店のものだけじゃない。自分の中にも持つ。自分の手元にも持つ」


平吉は言葉を失った。


和尚も言っていた。


自分の中の帳面。


清次は、実際に手元の控えを持っていた。


「ただし」


清次の声が少し鋭くなった。


「写すなら、正しく写せ」


平吉は背筋を伸ばした。


「はい」


「自分に都合よく書くな。相手を貶めるために書くな。忘れたことを思い出したふりで書くな」


平吉は頷いた。


「はい」


「帳面は、便利だ。だが、人は帳面に頼ると、自分の嘘まで本当だと思い込むことがある」


その言葉は、重かった。


平吉は紙片を両手で受け取った。


細かな字が並んでいる。


今は読めない。


だが、いつか読みたい。


そこには、江戸の商いの跡がある。


品が動き、銭が動き、信用が欠け、誰かがしくじった跡がある。


平吉は、紙片を胸に抱いた。


「ありがとうございます」


清次は少し照れたように笑った。


「礼を言うほどのものじゃない。読めなきゃただの紙だ」


「読めるようになります」


平吉が言うと、清次は平吉をしばらく見た。


そして、静かに言った。


「なら、江戸に来い」


平吉の胸が跳ねた。


「江戸に」


「来たいんだろ」


「はい」


「でも、何も持たずに来るな」


平吉は紙片を握った。


「何を持っていけばいいですか」


清次は指を折りながら言った。


「まず、体。倒れない体。次に、耳。客の言葉を聞ける耳。次に、目。品と人を見る目」


平吉は聞き入った。


「それから、字。少なくとも自分の名と数くらいは書けるようにしろ」


「はい」


「最後に、帰らない気持ち」


平吉は息を呑んだ。


清次は笑わなかった。


「帰る場所があると思ってる奴は、きつい時に足が村へ向く」


太助の言葉が重なる。


半端に帰ってくるな。


清次は言った。


「江戸へ行くなら、村を嫌って行くな。憧れだけで行くな。何を取りに行くのか、決めて行け」


「何を取りに」


「銭か。字か。商いか。信用か。何でもいい」


清次は平吉の胸元の紙片を見た。


「決めて行け。決めてない奴は、江戸の人波に流される」


平吉は頷いた。


「はい」



家に戻ると、母が不機嫌な顔で待っていた。


「遅い」


「ごめんなさい」


「江戸の匂いでも嗅いできたかい」


平吉は黙っていた。


母は手元の針仕事を置き、平吉を見た。


「何をもらった」


平吉は驚いた。


「何で」


「懐を大事そうに押さえてる」


平吉は清次からもらった紙片を出した。


母の顔が曇った。


「また紙かい」


「江戸の商いの控えだって」


「読めるのかい」


「まだ」


「読めない紙をもらって、何が嬉しいんだか」


母は吐き捨てるように言った。


平吉は何も言わなかった。


以前なら、胸が冷めただろう。


だが今日は違った。


読めない紙。


確かにそうだ。


今の自分には、ただの紙だ。


だからこそ、読めるようになる意味がある。


母はため息をついた。


「江戸帰りの男なんて、いいことばかり言うだろう」


「悪いことも聞いた」


母の手が止まった。


「何を」


「江戸は、人が多いけど、代わりも多いって。小僧は人間扱いされないって。失敗したら信用が欠けるって」


母は少し意外そうな顔をした。


「それを聞いて、まだ行きたいのかい」


平吉は少し黙った。


清次の目。

江戸の人波。

帳面の間違い。

借り物の羽織。

帰ってきた男の痛み。


全部が頭の中にあった。


それでも、胸の火は消えていなかった。


むしろ、形がはっきりしていた。


「行きたい」


母の顔が険しくなった。


平吉は続けた。


「でも、今すぐじゃない」


母は黙った。


「字を覚える。数を覚える。田もちゃんとやる。兄ちゃんにも教える」


「それで?」


「何を取りに行くのか、決めてから行く」


母はじっと平吉を見た。


その目には怒りも、不安も、諦めも混じっていた。


「偉そうなことを言うようになったね」


「ごめんなさい」


「謝るなら言うんじゃないよ」


母は針仕事に戻った。


「まあいい。明日の朝も水汲みはお前だよ」


「うん」


「江戸の紙じゃ、水は汲めないからね」


「うん」


母の言葉はきつかった。


だが、平吉はそれを嫌だとは思わなかった。


母は夢を叩く。

だが、それは平吉を家の仕事につなぎ止める縄でもある。


足元を見ろ。


父も、兄も、母も、違う言葉で同じことを言っているのかもしれない。



その夜、平吉は土間で紙片を並べた。


弥七にもらった紙。

寺でもらった板。

清次にもらった江戸の控え。


三つを並べると、不思議だった。


一つ目は、商いへの火。

二つ目は、文字への扉。

三つ目は、江戸の重さ。


まだどれも、平吉のものになりきってはいない。


弥七の言葉は、覚えているだけ。

いろはは、歪んでいるだけ。

江戸の控えは、読めないまま。


それでも、平吉は少しずつ何かを集めている気がした。


銭ではない。

品でもない。


いつか江戸へ持っていくもの。


平吉は清次の紙を見た。


そこには、細かな字と数字が並んでいる。


得意先。

品。

銭。

残り。

おそらく、そういうものが書いてある。


今は読めない。


だが、いつか読む。


そして、自分も書く。


平吉は炭を取り、板の端に字を書いた。


い。

ろ。

は。


その横に、数字を書く。


一。

二。

三。

十。

百。


まだ歪んでいる。


だが、前より少しましだった。


最後に、平吉は清次の言葉を思い出した。


何を取りに行くのか、決めて行け。


平吉は、しばらく考えた。


銭。

字。

商い。

信用。


全部欲しい。


だが、その中で一番大事なものは何か。


平吉は佐兵衛の畑を思い出した。


父の鍬を思い出した。

三蔵の帳面を思い出した。

弥七の箱を思い出した。

魚を売った十文を思い出した。

母の「夢は腹をふくらませない」という声を思い出した。

太助の「行くなら何かになれ」という背中を思い出した。


平吉は小さく呟いた。


「信用」


まだ、その字は書けない。


だから板には書けなかった。


代わりに、一本の線を引いた。


まっすぐに。


それは道のつもりだった。


村から江戸へ続く道。


逃げる道ではない。

何かを取りに行く道。


平吉は、線の先に小さな丸を描いた。


江戸のつもりだった。


そして、その手前に、小さな点を描いた。


自分のつもりだった。


まだ遠い。


遠すぎる。


だが、道は一本、確かに引かれた。


平吉は紙と板を胸に抱いた。


江戸は夢の町ではない。


江戸は、人を試す町だ。


ならば、試されに行く。


いつか。


半端ではなく。


何を取りに行くのかを決めて。


平吉は囲炉裏の残り火を見つめた。


火は小さい。


だが、消えてはいなかった。


第八話 了

ここまで読んでいただきありがとうございます。


第八話では、江戸帰りの清次を通じて、平吉が江戸の光と影を知りました。


江戸は、人が多く、品も銭も動く場所。

けれど同時に、代わりはいくらでもいて、ひとつの失敗で信用が欠ける場所でもあります。


清次は成功者として帰ってきたわけではありません。

けれど、江戸でしくじったからこそ、平吉に伝えられる言葉がありました。


「何を取りに行くのか、決めて行け」


この言葉は、平吉が江戸へ向かう上で大きな芯になっていきます。


次回は、平吉がついに家族へ「江戸へ行きたい」という思いをはっきり告げる話になります。


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