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第七話 嘘の帳面

第七話です。

今回は、平吉が「帳面の怖さ」に触れる話です。


帳面は、正しく使えば人を守るもの。

けれど、そこに誤りや嘘があれば、人の暮らしを縛るものにもなる。


まだ字も数字も十分には読めない平吉が、読めないからこその悔しさと、帳面に向き合う覚悟を知る回になります。

平吉が字を習い始めてから、村の景色は少し変わった。


田は田のままだった。

畦も、井戸も、寺の門も、家の囲炉裏も、何も変わってはいない。


けれど、平吉の目だけが少し変わった。


寺の札に書かれた黒い線。

庄屋の門に貼られた紙。

荷物につけられた木札。

三蔵が持ち歩く帳面。


それらが、ただの黒い模様ではなくなった。


まだ読める字は少ない。


い、ろ、は、に、ほ、へ、と。

それから和尚に教わった、いくつかの数字。

一、二、三、十。


それだけだった。


それだけでも、平吉には世界が少し違って見えた。


黒い線の向こう側に、意味がある。


その意味を知る者と、知らない者がいる。


そして、知らない者は、知る者の前で小さくなる。


平吉は、それがたまらなく嫌だった。



寺での手習いは、楽ではなかった。


田仕事が終わる。

水を汲む。

薪を運ぶ。

いとの面倒を見る。

それから寺へ行き、境内を掃く。


掃き終える頃には、腕も足も重い。


それでも、縁側に座って手習い板を前にすると、眠気は少し遠のいた。


和尚は厳しかった。


「線が逃げている」


「はい」


「力が入りすぎだ」


「はい」


「字は押さえつけるものではない。通すものだ」


「通す……」


「筆がないから炭で書いているだけだ。だが、炭でも心は出る」


平吉には、まだその意味はよくわからない。


だが、炭を握る指に力が入りすぎると、たしかに線は潰れる。


弱すぎると、かすれる。


田に苗を植える時と同じだった。


深すぎれば弱る。

浅すぎれば流される。


字も田も、力の入れどころを間違えると、ちゃんと立たない。


その日、和尚は数字を教えた。


一。

二。

三。

十。


平吉は板に何度も書いた。


一は一本の線。

二は二本。

三は三本。


十は、交わる線。


初めて「十」を書いた時、平吉は魚を売った日のことを思い出した。


十文。


あの時、自分の手に落ちた十枚の銭。


それは、ただ嬉しいだけの数字だった。


だが今は違う。


十は、十で終わらない。


十が十個集まれば百になる。


百文。


庄屋から借りた銭。


父が鍬を質に入れて受け取った銭。


平吉は、板の上に「十」を何度も書いた。


一つ。

二つ。

三つ。


十を十回書けば百になるのか。


紙の上では簡単だ。


だが、魚を売って十文を得ることの大変さを、平吉は知っている。


百文という数字は、紙の上では小さくても、暮らしの中では重かった。


和尚は平吉の手元を見ていた。


「数字は好きか」


平吉は少し考えた。


「怖いです」


和尚は眉を上げた。


「なぜ」


「増えるからです」


「増える?」


「借りた銭は、待ってもらうと増えると父が言いました」


和尚は黙った。


平吉は続けた。


「十文は、俺が魚を売ってやっと得た銭でした。でも百文は、その十倍です。そこに利がつくなら、もっと増えます」


板の上の十の字が、黒く重なっている。


「数字は、見えると怖いです。でも見えない方が、もっと怖いです」


和尚はしばらく平吉を見ていた。


やがて、静かに言った。


「なら、目をそらすな」


平吉は頷いた。


「はい」



それから数日後、事件は起きた。


朝から、村の空気が妙にざわついていた。


井戸端で女たちが小声で話している。

男たちは田へ出る前に、庄屋の方を気にしている。


平吉が水桶を運んでいると、母のおたねが近所の女と話している声が聞こえた。


「佐兵衛さんのところ、また呼ばれたらしいよ」


「この前、米を返したって言ってなかったかい」


「言ってたよ。私も聞いた」


「じゃあ、何で」


「帳面には残ってるんだとさ」


平吉は足を止めた。


帳面には残っている。


その言葉が、耳に引っかかった。


佐兵衛は、村の外れに住む百姓だった。


歳は父より少し上。

腰が悪く、田仕事も昔ほどできない。

息子は奉公に出ていて、家には妻と幼い孫がいる。


平吉も何度か、佐兵衛の家へ薪を運んだことがある。


痩せた人だが、よく笑う人だった。


その佐兵衛が、庄屋に呼ばれている。


帳面に残っている借り。


平吉は水桶を置くと、母に聞いた。


「佐兵衛さん、何かあったの」


母は顔をしかめた。


「子どもが首を突っ込むことじゃないよ」


「帳面って聞こえた」


「聞こえても、忘れな」


「何で」


「忘れた方がいいこともある」


母はそれだけ言って、水桶を持っていった。


忘れた方がいい。


平吉は、その言葉が嫌いだった。


忘れれば楽かもしれない。

だが、忘れたところで帳面から文字は消えない。


忘れて困るのは、いつも読めない側だ。



その日の夕方、平吉は寺へ行く前に、佐兵衛の家の前を通った。


わざとではない。


と、自分に言い訳した。


本当は気になっていた。


佐兵衛の家は、いつもより静かだった。


戸口に、佐兵衛の妻が座り込んでいる。


顔色が悪い。


中から、佐兵衛の声が聞こえた。


「返したはずだ」


別の声。


三蔵だった。


「一部でございます」


「一部じゃない。米三升、たしかに納めた」


「こちらの帳面では、一升とございます」


「そんなはずはない」


「帳面にございますので」


平吉の胸がざわついた。


まただ。


帳面にございます。


三蔵の声は、いつも同じだ。


やわらかい。

乱暴ではない。

だが、その一言で人を追い詰める。


佐兵衛が咳き込んだ。


「女房も見ていた」


「では、こちらの控えと食い違いがございますね」


「だから、そちらが間違っているんだ」


三蔵は少し黙った。


それから、少し低い声で言った。


「佐兵衛さん。庄屋様の帳面が間違っていると?」


家の中の空気が変わった。


平吉は戸の影で息を止めた。


その言い方は、ずるいと思った。


佐兵衛が「帳面が間違っている」と言えば、それは庄屋に逆らうことになる。


だが、間違っているのが事実なら、言わなければならない。


佐兵衛の声が弱くなった。


「そうは言わんが……でも、三升は返した」


「証はございますか」


「証?」


「受け取りの証です」


沈黙。


平吉は唇を噛んだ。


受け取りの証。


そんなものがなければ、返したことにはならないのか。


実際に米を渡しても。

妻が見ていても。

本人が覚えていても。


帳面と証がなければ、返していないことになるのか。


三蔵が続けた。


「こちらには、一升と記しております」


紙をめくる音がした。


「残り二升。利を含めて、来月までに」


「待ってくれ」


佐兵衛の声が震えた。


「孫が熱を出している。米もない。来月までになど」


「では、畑の一部を預ける形でも」


「畑を?」


佐兵衛の妻が声を上げた。


「それだけは」


三蔵の声は変わらなかった。


「帳面を整えるためです」


帳面を整える。


平吉は、その言葉を聞いた瞬間、頭の奥が熱くなった。


何を整えるのか。


暮らしを壊して、畑を取って、それで帳面だけ整えばいいのか。


平吉は無意識に戸の隙間へ近づいた。


中が少し見えた。


三蔵が帳面を開いている。


佐兵衛は膝をついている。

佐兵衛の妻は顔を覆っている。


平吉には帳面の字はほとんど読めない。


だが、数字だけが少し見えた。


一。


そして、その横に、何か線がある。


三かもしれない。

二かもしれない。

平吉にははっきりわからない。


けれど、何かがおかしい気がした。


なぜなら、三蔵が読み上げた「一升」という声のあと、すぐに帳面を閉じようとしたからだ。


見せたくないように見えた。


平吉は、もう少し近づこうとした。


その時、足元の枝を踏んだ。


ぱきり。


小さな音だった。


だが、家の中には大きく響いた。


三蔵が振り向いた。


「誰だ」


平吉は逃げようとした。


しかし、佐兵衛の家の戸が開き、三蔵が出てきた。


「また君か」


薄い笑み。


「源蔵さんのところの平吉」


平吉は黙って頭を下げた。


「こんなところで何をしている」


「通りかかっただけです」


「通りかかっただけで、人の家の戸を覗くのかい」


平吉は拳を握った。


言い返したい。


けれど、言葉を間違えれば、父や母に迷惑がかかる。


三蔵は、平吉の顔を覗き込んだ。


「字の勉強を始めたそうだね」


平吉は驚いた。


「知ってるんですか」


「村のことは、だいたい帳面に入ってくる」


嫌な言い方だった。


三蔵は笑った。


「それで、何か読めたかい」


平吉は答えなかった。


読めない。


ほとんど読めない。


それが悔しい。


三蔵は少し声を潜めた。


「少し字を習ったくらいで、大人の帳面に口を出すものじゃない」


平吉は三蔵を見た。


「佐兵衛さんは、三升返したと言ってました」


「本人はそう思っているのでしょう」


「帳面は一升だと」


「そうです」


「帳面が間違っていることは、ないんですか」


三蔵の笑みが、ほんの少し消えた。


「平吉」


声が低くなった。


「帳面を疑うなら、証を出しなさい」


「証がなかったら」


「帳面が証です」


平吉は言葉を失った。


帳面が証。


書いた者が証を持ち、読めない者は証を持てない。


そんなのは、あまりにも不公平ではないか。


三蔵は、またいつもの薄い笑みに戻った。


「字を習うのは良いことだ。だが、字は人を賢くもするし、勘違いもさせる」


平吉は黙った。


「君はまだ、どちらでもない」


それだけ言うと、三蔵は家の中へ戻った。


平吉はその場に立ち尽くした。


悔しかった。


何もできなかった。


佐兵衛の「返したはずだ」という声が、まだ耳に残っている。


だが平吉には読めない。

確かめられない。

証もない。


怒りだけがある。


けれど、怒りだけでは帳面は変わらない。



寺へ着いた時、平吉は境内を掃く手に力が入りすぎていた。


箒の先が土を削る。


和尚が見ていた。


「箒は敵ではない」


平吉は手を止めた。


「……はい」


「何があった」


平吉は黙った。


言うべきか迷った。


だが、黙っていると胸の中が黒くなりそうだった。


平吉は、佐兵衛の家で聞いたことを話した。


三升返したと言う佐兵衛。

帳面には一升とあると言う三蔵。

証がないこと。

畑を預けるかもしれないこと。

帳面が証だと言われたこと。


和尚は最後まで聞いた。


そして、すぐには何も言わなかった。


平吉は耐えきれずに言った。


「和尚様。帳面は、間違わないんですか」


和尚は静かに答えた。


「間違う」


平吉は息を呑んだ。


「人が書くものだからな」


「じゃあ」


「ただし、間違ったと示すには、別の証がいる」


平吉は唇を噛んだ。


「読めない者は、どうすればいいんですか」


「読める者に頼る」


「その読める者が、嘘を書いたら?」


和尚は目を伏せた。


「それが、帳面の怖さだ」


平吉の胸に、重いものが落ちた。


和尚は続けた。


「帳面は、人を守ることもある。忘れたことを残し、貸したもの、返したものを明らかにする。正しく書かれた帳面は、弱い者の味方にもなる」


平吉は黙って聞いた。


「だが、嘘を書けば、人を縛る縄にもなる」


和尚の声は低かった。


「文字は、刃物と同じだ。使い方を誤れば、人を傷つける」


平吉は、佐兵衛の妻の顔を思い出した。


「三蔵は、嘘を書いたんでしょうか」


和尚はすぐには答えなかった。


「わしにはわからん」


「でも」


「見ていないことを、決めつけてはならん」


平吉はうつむいた。


和尚は厳しい。


だが、その厳しさは三蔵とは違った。


人を小さくするためではなく、平吉が間違えないための厳しさだった。


「平吉」


「はい」


「怒るのはよい。だが、怒りを帳面にしてはならん」


平吉は顔を上げた。


「どういう意味ですか」


「自分が正しいと思いたいがために、見ていないものを見たことにするな。聞いていないものを聞いたことにするな」


和尚は平吉の目を見た。


「嘘の帳面を憎むなら、自分の中の帳面にも嘘を書くな」


平吉は言葉を失った。


自分の中の帳面。


そんなものがあるのか。


見たこと。

聞いたこと。

覚えたこと。

感じたこと。


それを頭の中で勝手に変えてしまえば、それも嘘の帳面になる。


平吉は拳を緩めた。


悔しい。


佐兵衛を助けたい。


三蔵が憎い。


けれど、自分は帳面を読めていない。

三升返したところを見てもいない。

三蔵が嘘を書いたところを見てもいない。


今あるのは、佐兵衛の言葉と、三蔵の帳面だけだ。


そして自分には、それを確かめる力がない。


それが、何より悔しかった。



その日の手習いは、数字だった。


一。

二。

三。

十。

百。


百という字は、平吉には難しかった。


形がうまく取れない。


何度も書き直す。


和尚は言った。


「百は、ただ十が十あるだけではない」


平吉は手を止めた。


「どういうことですか」


「暮らしの中では、十と百は違う」


平吉は頷いた。


それは知っている。


十文は、魚を売って得られた。

百文は、鍬を出して借りた。


「数は、紙の上では静かだ。だが、人の暮らしに入ると重くなる」


和尚は板の上に、丁寧に百と書いた。


「だから、数を書く時は、軽く書くな」


平吉はその字を見た。


百。


小さな字なのに、家の鍬より重く見えた。


「帳面には、数が並ぶ」


和尚は言った。


「米一升、二升。銭十文、百文。借りた日、返した日。人の暮らしが、そこに小さく書かれる」


平吉は炭を握り直した。


「間違えたら」


「暮らしが変わる」


和尚は答えた。


「だから、帳面を書く者は、恐れを持たねばならん」


恐れ。


平吉は、その言葉を胸に入れた。


帳面を書くことは、ただ字を書くことではない。


人の米を書く。

人の銭を書く。

人の約束を書く。

人の暮らしを書く。


それを間違えることは、人の暮らしを間違えることだ。


それを嘘にすることは、人の暮らしに嘘をつくことだ。


平吉は、百の字を書いた。


歪んだ。


もう一度書いた。


また歪んだ。


三度目。


少しだけ、形になった。


だが、まだ頼りない。


平吉は思った。


今の自分が帳面を書けば、人を傷つける。


だから、もっと覚えなければならない。


もっと読めるようにならなければならない。


怒るだけではだめだ。

悔しがるだけではだめだ。


読めなければ、戦えない。


書けなければ、守れない。



数日後、佐兵衛の畑の一部に、杭が立った。


村人は皆、見て見ぬふりをした。


佐兵衛は何も言わなかった。


妻も、孫を抱いて家の中にいた。


三蔵は、杭の位置を確かめながら帳面に何かを書いた。


平吉は少し離れたところから見ていた。


拳を握っていた。


太助が横に来た。


「見るな」


「見たい」


「見ても変わらねえ」


「でも、見ないと忘れる」


太助は平吉を見た。


平吉は杭を見つめたまま言った。


「忘れたら、なかったことになる」


太助は何も言わなかった。


しばらくして、低く言った。


「お前、あいつが嫌いか」


「あいつ?」


「三蔵」


平吉は答えようとして、やめた。


嫌いだ。


そう言いたかった。


だが和尚の言葉が浮かんだ。


見ていないものを、見たことにするな。


平吉はゆっくり言った。


「怖い」


太助は少し驚いた顔をした。


「嫌いじゃなくてか」


「嫌いかもしれない。でも、それより怖い」


「何が」


「帳面を持ってること」


平吉は三蔵を見た。


「三蔵が強いのか、帳面が強いのか、わからない」


太助は黙った。


平吉は続けた。


「でも、どっちにしても、読めない俺たちは弱い」


太助は顔をしかめた。


「俺たち?」


「うん」


平吉は兄を見た。


「俺も、兄ちゃんも」


太助は何か言い返そうとした。


だが、言わなかった。


二人は黙って、佐兵衛の畑に立った杭を見ていた。


冬の土に刺さった杭。


それはただの木だった。


だが平吉には、帳面から伸びてきた黒い線のように見えた。


紙の上に書かれたものが、土の上に刺さっている。


字は、土を動かす。


銭を動かす。

米を動かす。

人の暮らしを動かす。


平吉はその日、それを知った。



その夜、平吉は家の土間で、弥七にもらった紙片と、寺でもらった板を並べた。


紙片には、箱、銭、魚、苗の印。

板には、いろはと、数字。


平吉は炭を取った。


新しい紙などない。


だから、紙片の端に小さく杭のような線を描いた。


その横に、丸をいくつか描く。


米のつもり。

銭のつもり。

畑のつもり。


だが、描けば描くほど、よくわからなくなった。


佐兵衛が返したという三升。

帳面にあるという一升。

残ったという二升。

利。

畑。


どれも、平吉の手元ではぐちゃぐちゃになった。


まだ書けない。


まだ読めない。


まだ、何も守れない。


平吉は炭を置いた。


悔しかった。


その時、父が近くに座った。


「佐兵衛のところを見たのか」


平吉は驚いて顔を上げた。


「はい」


父は囲炉裏の火を見ていた。


「忘れろ」


平吉は息を呑んだ。


まただ。


忘れろ。


母も言った。

父も言う。


だが平吉は、今回は首を振った。


「忘れたくありません」


父の目が平吉を向いた。


「忘れないで、どうする」


平吉は答えられなかった。


どうする。


佐兵衛を助けられるわけではない。

三蔵に勝てるわけでもない。

帳面を読めるわけでもない。


でも。


「忘れたら、同じことがまた起きても気づけません」


父は黙った。


平吉は続けた。


「俺は、まだ読めません。佐兵衛さんの帳面が本当に違っていたのかも、わかりません。三蔵が嘘をついたのかも、わかりません」


言いながら、悔しさが込み上げた。


「でも、わからないままなのが嫌です」


父はしばらく平吉を見ていた。


そして、低く言った。


「わかるようになったら、苦しいぞ」


平吉は父を見た。


「知らなければ、ただ怖いだけで済む。知れば、何が足りないかも、何を失うかも見える」


父の声は静かだった。


「帳面が読めるようになれば、家の借りも見える。米の足りなさも見える。返せないかもしれないことも見える」


平吉は黙った。


父は続けた。


「それでも読むか」


平吉は、少しも迷わなかった。


「読みます」


父は目を伏せた。


そして、小さく息を吐いた。


「そうか」


それだけだった。


だが、平吉にはわかった。


父は止めていない。


母のように夢を叩くのではなく、兄のように半端を許さないのでもない。


父はただ、重さを見せている。


読むということの重さ。


知るということの重さ。


その上で、平吉が選ぶかどうかを見ている。


父は立ち上がった。


そして去り際に、ぽつりと言った。


「帳面に嘘を書く者には、なるな」


平吉は顔を上げた。


父はもう背を向けていた。


「たとえ、自分が困ってもだ」


それだけ言うと、父は奥へ行った。


平吉は、しばらく動けなかった。


帳面に嘘を書く者には、なるな。


その言葉は、和尚の言葉と重なった。


嘘の帳面を憎むなら、自分の中の帳面にも嘘を書くな。


平吉は紙片を見た。


歪んだ箱。

丸。

魚。

苗。

杭。


どれも下手だった。


だが、それは平吉が見たものだった。


見たまま、聞いたまま、忘れないために残したものだった。


平吉は炭を握った。


まだ字は足りない。


でも、今夜だけは、どうしても何かを書きたかった。


和尚に教わった字の中で、今の自分に書けるものを探す。


い。

ろ。

は。

に。

ほ。

へ。

と。

一。

二。

三。

十。

百。


まだ「嘘」という字は書けない。


「帳面」も書けない。


だから平吉は、板の端に、大きく「一」と書いた。


一本の線。


歪んでいたが、まっすぐ書こうとした線。


その横に、もう一度「一」と書いた。


同じように。


同じ数を、同じように。


見たものを、違う形にしないために。


平吉は小さく呟いた。


「一は、一」


誰にも聞こえない声だった。


「三を、一にしない」


胸の中に熱が灯る。


怒りではない。


悔しさでもない。


もっと静かで、重いもの。


平吉は、その火を抱えたまま、板を胸に押し当てた。


いつか、帳面を書けるようになりたい。


ただ銭を数えるためではない。

ただ商人になるためでもない。


嘘を書かないために。


誰かの暮らしを、勝手に小さくしないために。


帳面を、汚さないために。


第七話 了

ここまで読んでいただきありがとうございます。


第七話では、佐兵衛の家の出来事を通じて、平吉が「帳面に書かれたものが人の暮らしを動かす」ことを知りました。


まだ平吉には、帳面の中身を正しく読み解く力はありません。

だからこそ、怒りだけで決めつけてはいけないことも知ります。


けれど同時に、読めないままでは何も守れない。

その悔しさが、平吉の中に「帳面を汚さない」という思いを生みました。


次回は、いよいよ平吉の中で「江戸へ行きたい」という気持ちが、ただの憧れから具体的な覚悟へ変わっていく話になります。


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