第十話 村を出る朝
第十話です。
第一章の締めくくりになります。
平吉は、江戸へ行くという思いを、母に、兄に、そして家族に向けて言葉にします。
この回で平吉は、村を出る覚悟と、家から預かるものの重さを知ります。
平吉が何を背負って江戸へ向かうのかを描く回です。
朝になる前の家は、まだ暗かった。
囲炉裏の火は細く、土間には冷えが残っている。
外では鶏も鳴いていない。
平吉は、ほとんど眠れなかった。
胸元には、父から受け取った布包みがある。
三十二文。
昨夜、兄に言われて数えた銭。
たった三十二文。
けれど平吉には、それが家一軒分ほど重く思えた。
その銭は、魚を売って得た銭とは違う。
自分の工夫で得た十文ではない。
家から預かった銭だった。
米になったかもしれない銭。
いとの飯になったかもしれない銭。
母の針になったかもしれない銭。
太助の草履になったかもしれない銭。
それを持っていく。
軽く使うな。
父の言葉が、まだ耳の奥に残っている。
平吉は起き上がった。
土間へ降りる。
そこには、すでに太助がいた。
腕を組み、壁にもたれて座っている。
昨夜と同じような顔だった。
「起きたか」
「うん」
「母ちゃんも、もうすぐ起きる」
「うん」
太助は平吉を見た。
「言えるか」
「言う」
「泣くなよ」
「泣かない」
「たぶん泣くぞ」
「兄ちゃんが?」
太助の眉が動いた。
「殴るぞ」
平吉は少し笑いそうになった。
だが、笑えなかった。
太助も、すぐに目を逸らした。
家の中は静かだった。
父はまだ奥にいる。
母も、いとも寝ている。
この静けさの中で、平吉はこれから言わなければならない。
江戸へ行きたい。
それを母に。
兄に。
父には言った。
だが、父に言うより難しいと父は言った。
その通りだった。
母は、現実で刺す。
銭はあるのか。
飯はどうする。
奉公先は。
病になったら。
盗まれたら。
追い返されたら。
どれも正しい。
平吉は、正しさに負けそうになる。
だが、言わなければならない。
村を出るということは、道を歩き出すことではない。
まず、家族の前に立つことなのだ。
⸻
しばらくして、母のおたねが起きてきた。
髪を簡単にまとめ、囲炉裏の灰をならす。
いつもの朝と同じ手つきだった。
だが、平吉の胸には、いつもの朝ではなかった。
母は土間にいる平吉と太助を見た。
「何だい、二人して」
太助は黙っている。
平吉は母の前に座った。
「母ちゃん」
母の手が止まる。
「何だい」
平吉は頭を下げた。
「江戸へ行きたいです」
母はすぐには何も言わなかった。
囲炉裏の火が、小さく赤く光っている。
やがて母は、深く息を吐いた。
「昨日も聞いたよ」
「今日は、ちゃんと言う」
「何をちゃんとするんだい」
母の声は低い。
「銭はない。奉公先もない。紹介状もない。道中の支度もない。字もまだろくに書けない。そんな子どもが、何をちゃんと言うんだい」
平吉は、膝の上で拳を握った。
「銭は、父ちゃんから三十二文もらった」
母の顔が変わった。
「三十二文?」
父の方を見る。
奥から、源蔵が出てきていた。
いつから聞いていたのか、静かに座る。
母の目が父に向く。
「あなた」
父は何も言わない。
それだけで、母は意味を悟ったのだろう。
顔に怒りが浮かんだ。
「家がこんな時に」
その声は、平吉に向けられたものではなかった。
父に向けたものだった。
「米だって足りない。鍬だって質に入れた。いとの椀だって浅くしてる。それなのに」
父は黙っていた。
母は唇を噛んだ。
怒鳴らなかった。
怒鳴らない分、その怒りは濃かった。
平吉は頭を下げたまま言った。
「この銭は、軽く使わない」
「当たり前だよ」
母の声が鋭い。
「軽く使われたら困る」
「うん」
「だけどね、平吉。軽く使わないと言うだけなら誰でもできる」
「うん」
「道中で腹が減ったらどうする。宿に入れなかったらどうする。草履が切れたらどうする。熱を出したら。悪い奴に騙されたら。銭を落としたら」
一つ一つ、母の言葉が平吉に刺さる。
昨日も聞いた問いだ。
だが今日は、逃げない。
「わからない」
平吉は言った。
母の目がさらに厳しくなった。
「わからない?」
「全部はわからない」
「だったら行くな」
「でも、わからないから、考える」
平吉は顔を上げた。
「清次さんに聞いた。江戸は、人が多いけど代わりも多いって。銭がない奴には冷たいって。奉公に入っても、最初は人間扱いされないって」
母は黙っている。
「だから、すぐには行かない。字をもっと覚える。数も覚える。父ちゃんにもらった銭は数えて、何に使うか覚える。太助兄ちゃんにも教える」
太助の目が少し動いた。
平吉は続けた。
「奉公先も探す。清次さんにも、和尚様にも、聞けることは聞く。村を出る日は、決めてから出る」
母は眉をひそめた。
「じゃあ、今すぐ出るわけじゃないのかい」
「今すぐじゃない」
母の顔に、一瞬だけ安堵のようなものが浮かんだ。
だが、すぐ消えた。
「なら、何で今言う」
「黙って準備したくない」
平吉はまっすぐ母を見た。
「母ちゃんに、反対されるのはわかってる。でも、黙って出たくない」
母は平吉を睨んだ。
「反対されるのがわかってるなら、やめればいい」
「やめられない」
「親の言うことより、自分の夢かい」
その言葉は痛かった。
夢。
母はいつも、その言葉を軽いもののように言う。
夢は腹をふくらませない。
それも、本当だ。
だが、平吉の中のそれは、もうただの夢ではなかった。
「夢だけじゃない」
平吉は言った。
「佐兵衛さんの畑を見た。父ちゃんの鍬も見た。母ちゃんが飯を減らしてるのも見た。兄ちゃんが田を背負おうとしてるのも見た」
母の顔が少し変わった。
「俺は、ここにいても田を見きれない。兄ちゃんみたいにはなれない。だから、外で何かを覚えたい」
「何を覚えるんだい」
「字。数。帳面。商い。信用」
「そんなものが、飯になるのかい」
「すぐにはならない」
「ならないなら」
「でも、読めない帳面で家が縛られるのは嫌だ」
母は口を閉じた。
平吉は続けた。
「銭がどう動くのかを知らないまま、借りだけが増えるのも嫌だ。困ってる人が、帳面を読めなくて小さくされるのも嫌だ」
声が少し震えた。
「俺は、帳面を汚さない商人になりたい」
家の中が静まった。
母は、じっと平吉を見ていた。
その目には怒りがある。
不安もある。
それから、何か別のものもあった。
「商人なんて」
母は小さく言った。
「うまいことを言って、人をその気にさせる者だよ」
「うん」
「ありがたい時もある。怖い時もある」
「うん」
「お前は、その怖いものになりたいのかい」
平吉は少しの間、考えた。
弥七は品を運んで人を喜ばせた。
三蔵は帳面で人を縛った。
清次は帳面を間違えて信用を失った。
商いには光も影もある。
それでも。
「なる」
平吉は言った。
「怖いから、知りたい。知って、怖くない商人になりたい」
母は何も言わなかった。
やがて、針箱を引き寄せた。
「勝手にしな」
その言葉は、許しではなかった。
突き放す言葉だった。
だが、完全な拒絶でもなかった。
平吉は頭を下げた。
「ありがとう」
「礼を言うんじゃないよ」
母の声が少し荒くなった。
「私は許したわけじゃない」
「うん」
「江戸へ行けとも言ってない」
「うん」
「ただ、止めても行く顔をしてるから、今ここで無駄に怒鳴らないだけだ」
母は針箱から太い糸を取り出した。
「着物、見せな」
平吉は顔を上げた。
「え」
「ほつれたまま江戸へ行くつもりかい。みっともない」
平吉は胸が詰まった。
母は怒った顔のままだった。
だが、手は平吉の着物の袖を取っている。
「母ちゃん」
「黙って脱ぎな」
「うん」
平吉は着物を脱いで渡した。
母は膝の上で、ほつれを見た。
「まったく。田もろくに見ないくせに、袖ばかり破く」
いつもの小言だった。
だが、その針の動きは、いつもより丁寧だった。
平吉は、母の手を見た。
荒れた指。
針を持つ手。
家の飯を守る手。
夢を叩く手。
そして今、自分の袖を直す手。
平吉は何も言えなくなった。
⸻
朝の仕事は、いつも通りだった。
水を汲む。
薪を運ぶ。
いとの顔を洗わせる。
母に言われた通り、米びつの横を掃く。
江戸の話をした後でも、家の仕事は消えない。
むしろ、ひとつひとつが重くなった。
水桶を持つ手に、父の銭の重みが乗る。
薪を運ぶ背に、太助の背中が乗る。
米びつの底を見る目に、母の言葉が乗る。
平吉は思った。
江戸へ行くとは、家の仕事から逃げることではない。
家の仕事の重さを知ったまま、外へ行くことだ。
昼前、田に出ると、太助が待っていた。
父は別の田へ行っている。
太助は鍬を持っている。
「来たか」
「うん」
「遅い」
「母ちゃんに袖を直されてた」
太助は少しだけ目を伏せた。
「そうか」
それだけだった。
しばらく二人は黙って作業した。
畦を直し、水の通りを見る。
冬の田は静かだ。
だが、春の準備はもう始まっている。
水口の土を確かめ、崩れそうなところに泥を足す。
父が言っていた。
帳面は、水口だ。
平吉は水口を見ながら、その言葉を思い出した。
太助が言った。
「昨日の続きだ」
平吉は顔を上げた。
「昨日?」
「俺にも、ちゃんと言えと言っただろ」
平吉は息を吸った。
そうだ。
母には言った。
次は兄だ。
平吉は鍬を置き、太助に向き直った。
「兄ちゃん」
「うん」
「俺は、江戸へ行きたい」
太助は黙っている。
「今すぐじゃない。字を覚えて、数を覚えて、奉公先のあてを探して、それから行く」
「うん」
「兄ちゃんには、田を背負わせることになる」
太助の顔は変わらない。
「父ちゃんが動けなくなったら、兄ちゃんがやる。母ちゃんも、いとも、家も、兄ちゃんが見ることになる」
「今さらだ」
その言葉は、少し痛かった。
太助はもう、ずっとそれを背負っている。
平吉が言う前から。
平吉は頭を下げた。
「ごめん」
太助はすぐに言った。
「謝るな」
平吉は顔を上げた。
「謝られると、俺が置いていかれるみたいで腹が立つ」
平吉は黙った。
太助は水口に泥を足しながら言った。
「お前が江戸へ行こうが行くまいが、俺はこの田をやる。長男だからな」
その声は、硬かった。
「でも、それをかわいそうみたいに言うな」
「そんなつもりじゃ」
「ある」
太助ははっきり言った。
「お前はたまに、俺が田に縛られてるみたいな顔をする」
平吉は何も言えなかった。
思っていないつもりだった。
だが、そう見えていたのなら、それは平吉の中にあったのかもしれない。
太助は続けた。
「俺は、田を見る。父ちゃんの背中を見てきた。母ちゃんの椀も見てきた。いとの腹も見てきた。だから、俺は田をやる」
太助は平吉を見た。
「それは、負けじゃねえ」
平吉は胸を突かれた。
「うん」
「お前が外を見るのも、勝ちじゃねえ」
「うん」
「それぞれ、やることが違うだけだ」
平吉は深く頷いた。
兄は、いつも平吉より先に答えを持っている。
田のことだけではない。
家のことも、自分のことも。
「だから」
太助は鍬を強く握った。
「江戸に行くなら、田を下に見るな」
「見ない」
「百姓を下に見るな」
「見ない」
「田を知らねえ商人が偉そうにしてたら、俺はそいつが嫌いだ」
「うん」
「お前がそうなったら、弟と思わねえ」
その言葉は重かった。
殴るより重い。
平吉はまっすぐ兄を見た。
「ならない」
太助はしばらく黙っていた。
やがて、懐から何かを出した。
細い縄だった。
いや、草履の鼻緒だ。
「これ」
平吉は受け取った。
「草履の緒?」
「切れたら使え」
「兄ちゃんの?」
「余りだ」
嘘だと思った。
太助の草履も古い。
余りなどあるわけがない。
平吉は握った。
「ありがとう」
「礼はいい」
「でも」
「使わずに帰ってきたら、殴る」
平吉は少し笑った。
「使ったら?」
「切れるような歩き方をするなって殴る」
「どっちでも殴るじゃん」
太助はそっぽを向いた。
「うるさい」
平吉は草履の緒を胸にしまった。
父の三十二文。
母の直した袖。
兄の鼻緒。
どれも、応援ではないと言われた。
だが、平吉にはわかった。
これは全部、行くなという手ではない。
転ぶなという手だ。
⸻
その夜、平吉は初めて、自分の持ち物を並べた。
多くはない。
弥七にもらった紙片。
寺でもらった手習い板。
清次にもらった江戸の控え。
父からもらった三十二文。
兄からもらった草履の緒。
母が直した着物。
それから、いとが描いた小さな絵。
いとが昼間、平吉に渡してきたものだった。
「兄ちゃん、これ持ってって」
「何これ」
「兄ちゃん」
紙の端に、棒のような人が描いてある。
髪も顔も変だった。
平吉は笑った。
「俺、こんな顔か」
「そう」
「ひどいな」
「忘れないように」
いとは真面目に言った。
その言葉に、平吉は笑えなくなった。
忘れないように。
平吉がずっとしてきたことと同じだ。
字が書けないから印を描いた。
見たことを忘れないために、紙に残した。
いとも、同じことをしている。
平吉はその絵を、弥七の紙片の隣に置いた。
⸻
数日が過ぎた。
平吉は、すぐに村を出たわけではなかった。
父の言う通り、準備をした。
寺で字を習った。
いろはを何度も書いた。
数字を何度も書いた。
一、二、三、十、百。
清次の控えは、まだほとんど読めなかったが、数字だけは少し拾えるようになった。
和尚は、平吉に自分の名を教えた。
平。
吉。
初めてその二つを書いた時、平吉はしばらく板から目を離せなかった。
自分の名前が、線になってそこにある。
ただ呼ばれるものだった名が、自分の手で残せるものになった。
平吉は、何度も書いた。
平吉。
平吉。
平吉。
字は歪んでいた。
それでも、自分だった。
太助にも見せた。
太助はじっと見たあと、言った。
「俺のも書け」
「まだ太助の字、習ってない」
「習え」
「うん」
太助は少しだけ嬉しそうだった。
母は見て、こう言った。
「名前が書けても飯にはならないよ」
だが、その板を捨てろとは言わなかった。
父は黙って見ていた。
そして一言だけ言った。
「名を汚すな」
平吉は頷いた。
⸻
奉公先のあては、すぐには見つからなかった。
清次に相談すると、江戸の小間物屋や木綿問屋の名をいくつか教えてくれた。
「紹介状とまではいかねえが、俺がいた店の名前は出してもいい。ただし、俺の名を出したところで大した力はないぞ」
「それでもありがたいです」
「門前払いも覚悟しろ」
「はい」
弥七は、まだ村へ来なかった。
平吉はそれが少し心残りだった。
もう一度会って、江戸へ行くと言いたかった。
だが、商人の予定は風と懐次第だと弥七は言っていた。
待っていては、いつまでも出られない。
和尚は、出発の前に平吉へ小さな木札を渡した。
そこには、和尚の手で「平吉」と書かれている。
「道中、名を聞かれたら見せなさい」
「いいんですか」
「お前が自分で書けるようになるまでの杖だ」
「杖」
「杖に頼りすぎるな。だが、最初は杖があってもよい」
平吉は深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
和尚は言った。
「江戸へ行っても、字を続けなさい」
「はい」
「帳面を読むなら、字だけでなく人も読みなさい」
「はい」
「ただし、人を読み切ったつもりになるな」
平吉は顔を上げた。
和尚は静かに言った。
「人は、帳面より難しい」
その言葉も、平吉は胸にしまった。
⸻
そして、村を出る朝が来た。
空はまだ白み始めたばかりだった。
春にはまだ遠いが、冬の一番硬い冷えは少し緩んでいる。
平吉は、母が直した着物を着た。
腰には小さな布包み。
中には、父から預かった三十二文。
魚を売って残した六文。
弥七の紙片。
清次の控え。
いとの絵。
和尚の木札。
兄の草履の緒。
手習い板は持っていけない。
重いし、かさばる。
だから前の晩、平吉は板に書かれた自分の名を何度も見て、頭に入れた。
平吉。
忘れない。
自分の名を。
自分がどこから来たのかを。
何をしに行くのかを。
家の前には、家族がいた。
父。
母。
太助。
いと。
母は、握り飯を二つ包んでいた。
平吉に差し出す。
「食べすぎるんじゃないよ」
「うん」
「でも、食べなさすぎても歩けない」
「うん」
「水は惜しむな」
「うん」
「知らない人のうまい話は、まず疑いな」
「うん」
「銭は人前で数えるな」
「うん」
「寝る時は、懐に入れな」
「うん」
「道に迷ったら、早めに聞きな。わかったふりが一番危ない」
「うん」
母の言葉は、どれも夢とは遠かった。
江戸の話でも、商いの話でもない。
ただ、生きて歩くための言葉だった。
母は最後に言った。
「それと」
「うん」
「腹が減りすぎたら、夢なんか捨てて飯を探しな」
平吉は少し笑った。
「わかった」
「笑うところじゃない」
「うん」
母は平吉を睨んだ。
だが、その目は少し赤かった。
平吉は頭を下げた。
「母ちゃん。ありがとう」
「礼は、帰ってきてから言いな」
平吉は顔を上げた。
母はすぐに顔を背けた。
⸻
太助は、何も持っていなかった。
ただ、平吉の草履を見た。
「緒は」
「持った」
「銭は」
「三十二文」
「数えたか」
「数えた」
「途中で使ったら」
「何に使ったか覚える」
「字は」
「続ける」
「田は」
平吉は少し黙った。
太助が見ている。
平吉は答えた。
「忘れない」
太助は頷いた。
「それでいい」
平吉は兄に頭を下げた。
「行ってきます」
太助は顔をしかめた。
「旅にでも出るみたいに言うな」
「じゃあ、何て言えばいい」
太助は少し考えた。
「……行け」
たった一言だった。
だが、太助らしい言葉だった。
平吉は頷いた。
「行く」
太助は少しだけ目を伏せた。
そして、平吉の肩を強く叩いた。
痛かった。
「半端に帰ってくるな」
「うん」
「でも」
太助は言葉を切った。
平吉は待った。
太助は顔を背けたまま言った。
「死ぬくらいなら、帰ってこい」
平吉の胸が詰まった。
「うん」
「勘違いするな。死なれたら後味が悪いだけだ」
「うん」
「泣くな」
「泣いてない」
「もう泣きそうだ」
「兄ちゃんも」
「殴るぞ」
平吉は笑った。
少しだけ、涙が出そうになった。
⸻
いとは、平吉の袖を掴んでいた。
「兄ちゃん、本当に行くの」
「うん」
「いつ帰るの」
平吉は答えられなかった。
いつ。
清次は帰ってきた。
でも、平吉は帰るつもりで出るわけではない。
かといって、帰らないとは言えなかった。
「わからない」
正直に言った。
いとの目に涙が溜まった。
「わからないの、嫌だ」
「ごめん」
「江戸って遠い?」
「遠い」
「歩くの?」
「歩く」
「疲れるよ」
「うん」
「じゃあ、やめれば」
平吉は言葉に詰まった。
いとの言葉は単純だった。
だから、一番刺さった。
やめれば。
たしかに、やめればいい。
やめれば、いとは泣かない。
母も怒らない。
兄も背を向けない。
父も銭を渡さなくて済んだ。
平吉はしゃがみ、いとの目線に合わせた。
「いと」
「うん」
「兄ちゃんは、江戸へ行ってくる」
「なんで」
「いとに、ちゃんと言えるほど、まだうまく言えない」
いとは涙をこぼした。
平吉は続けた。
「でも、忘れない」
「何を」
「いとのこと。家のこと。田のこと。母ちゃんの握り飯。兄ちゃんの怖い顔。父ちゃんの言葉」
いとは泣きながら言った。
「私の絵も?」
「持った」
平吉は布包みを叩いた。
「忘れないように」
いとは少しだけ頷いた。
そして、平吉の袖を離した。
「兄ちゃん」
「うん」
「江戸で飴買ってきて」
平吉は笑った。
涙が出そうになった。
「わかった」
「二つ」
「二つ?」
「一つは私。もう一つは兄ちゃん」
「うん」
「忘れたら怒る」
「忘れない」
いとは、泣きながら笑った。
⸻
最後に、父の前に立った。
源蔵は、いつも通り無口だった。
平吉は頭を下げた。
「行ってきます」
父はしばらく何も言わなかった。
それから、懐から小さなものを出した。
古い木の札だった。
表面は削れている。
何かの印が薄く残っている。
「これは」
「祖父が使っていた荷札だ」
平吉は受け取った。
「荷札」
「昔、米を出す時につけていたものだ。もう字は読めん」
たしかに、字は擦れてほとんど見えない。
だが、長く使われたものの重みがあった。
「持っていけ」
平吉は木札を見た。
「いいんですか」
父は頷いた。
「何も書かれていないように見えるだろう」
「はい」
「だが、家から米を出す時、これをつけた。誰の米かを示すものだった」
父は平吉を見た。
「お前も、どこへ行っても、誰の子かを忘れるな」
平吉は胸が熱くなった。
誰の子か。
源蔵の子。
おたねの子。
太助の弟。
いとの兄。
武蔵の小さな村の、貧しい農家の次男坊。
それを恥じるなということだ。
父は続けた。
「百姓の子であることを、隠すな」
「はい」
「土を知らない商人になるな」
「はい」
父は、古い荷札を平吉の手に置いた。
「帳面を」
少し間を置いた。
「汚すな」
平吉は、深く頭を下げた。
「はい」
父の手が、平吉の頭に触れた。
一瞬だった。
すぐに離れた。
だが、平吉はその重さを一生忘れないと思った。
⸻
歩き出す時、空は少し明るくなっていた。
村道の先が、白く霞んでいる。
平吉は一歩を踏み出した。
草履が土を踏む。
もう一歩。
家が後ろにある。
もう一歩。
母のすすり泣くような音が聞こえた気がした。
振り返りたくなった。
だが、すぐには振り返らなかった。
太助に言われた気がした。
半端に行くな。
父に言われた気がした。
足元を見ろ。
母に言われた気がした。
夢は腹をふくらませない。
いとに言われた気がした。
飴、忘れないで。
平吉は歩いた。
村の境まで来たところで、ようやく振り返った。
家は小さかった。
本当に小さかった。
田も狭い。
屋根も古い。
煙は細い。
その前に、家族が立っている。
父はまっすぐ立っている。
母は顔を袖で押さえている。
太助は腕を組んでいる。
いとは大きく手を振っている。
平吉は深く頭を下げた。
そして、顔を上げる。
泣きそうだった。
だが、泣かなかった。
まだ泣く時ではない。
泣くなら、江戸に着いてから泣け。
弥七の言葉を思い出す。
平吉は前を向いた。
道は続いている。
この道の先に、江戸がある。
そこに何があるのか、まだわからない。
冷たい人波か。
奉公先の門前払いか。
腹の減る夜か。
怒鳴る番頭か。
読めない帳面か。
それとも、まだ見ぬ商いか。
信用か。
自分の席か。
わからない。
でも、平吉はもう歩き出していた。
懐には、父から預かった三十二文。
魚を売って残した六文。
父の荷札。
母の握り飯。
兄の草履の緒。
妹の絵。
弥七の紙片。
清次の控え。
和尚の木札
そして、家の言葉。
品は、欲しがるところで値がつく。
銭にも、道がある。
行くなら、何かになれ。
嘘の帳面を憎むなら、自分の中の帳面にも嘘を書くな。
何を取りに行くのか、決めて行け。
信用は、置いてくるものだ。
帳面を汚すな。
それらを胸に、平吉は歩いた。
十四の春。
農家の次男坊は、村を出た。
まだ商人ではない。
まだ字も拙い。
銭も少ない。
奉公先も決まっていない。
だが、胸の中には一本の線があった。
村から江戸へ続く線。
そしていつか、自分の手で帳面に引く線。
それは、曲げてはならない線だった。
第一章 了
ここまで読んでいただきありがとうございます。
第十話で、第一章は終わりとなります。
平吉は、父から預かった三十二文、自分で魚を売って残した六文、母の握り飯、兄の草履の緒、妹の絵、そしてこれまで出会った人々から受け取った言葉を胸に、村を出ました。
家族は誰も、手放しで平吉を応援しているわけではありません。
それでも、それぞれが平吉に何かを渡しました。
父は掟を。
母は生き延びる知恵を。
兄は覚悟を。
妹は帰る理由を。
まだ平吉は商人ではありません。
字も拙く、銭も少なく、奉公先も決まっていません。
それでも、村から江戸へ続く一本の線を、平吉は歩き出しました。
次回からは第二章。
江戸へ向かう道中、そして平吉が初めて本当の江戸に触れていく話になります。
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